お客様の笑顔とスタッフの笑顔があふれる楽しい蔵造り

株式会社外池酒造店

日本酒の文化・益子の伝統を発信するための感動体験を創造

経営理念

経営理念

私たちは、すべてに感謝し感動・歓喜を誠心誠意創造し、自他共々の物心両面の幸福の実現を目指します。

行動規範

・スタッフやその家族、生産者や消費者をはじめとした事業に関わる全ての方々へ日々の感謝の気持ちを大切にする。
・日本酒の文化・益子の伝統を発信するための感動体験を創造する。

創業系譜

近江商人系で1829年以創業した栃木県宇都宮市の造り酒屋、外池荘五郎商店の5男に生まれた外池逸五郎は、独自の酒造りを行いたいとの思いから、益子町で1937年に外池酒造店を創業しました。昭和32年に法人化、2代目外池茂雄が焼酎の製造、観光酒蔵の展開を始め、平成10年から現社長外池茂樹が就任し、酒コスメなど新製品開発や海外輸出の新分野への挑戦を進めています。会社の目指すところは、酒を中心とした日本の食文化を創造する企業、お客様の笑顔とスタッフの笑顔があふれる楽しい蔵、そのための一所懸命、誠心誠意、真剣勝負。事業内容は清酒「燦爛(さんらん)」・「望(ボー)」、本格焼酎「益子の炎」、のほか梅・ゆず・苺・トマトのリキュール、どぶろく、果実酒の製造販売.化粧水・美容液、ハンドクリーム等の酒コスメの企画開発.観光酒蔵の運営。全酒類の卸小売販売。

社長メッセージ

酒蔵の歴史と環境の変化について

直感的な発想でいえば、不安しかないです。事業のライフサイクルを考えると酒造業が室町時代に始まってまだ続いているのは異常なことかもしれません。

江戸時代では酒蔵といっても味噌醤油も一緒に作っていました。蔵があることで、金貸しであったり米屋も営んでいたり元々各所でも色々と事業をしていました。明治の日清・日露戦争の時などは国税収入の1/3は酒税だったりとか当時は酒造ならびに酒造販売は少し華やかだったりもしました。

世界中どこでもたばこと酒は政府の管轄で、国民の健康のためというよりは財政面での活用が大きいもので、今となっては不思議に思われるかもしれませんが公定価格が存在し、一升瓶1本500円、二級酒が500円、一級酒700円、特級酒1,000円という時代が半世紀前にありました。1989年(平成元年)に消費税法が導入され徐々に酒税に頼ることもなくなり、行政改革が進み、規制緩和などソフトランディング(安定的、穏便な政策)によって新たな免許区分の設定、酒類卸売業免許の改訂に伴い業界も再編が進み、スーパーやコンビニエンスストアが免許を取得して街の酒屋が次々に姿を消していきました。1970年(昭和45年)までは清酒の需要が市場で大きかったのですがビールや洋酒、発泡酒にも押され今日までに日本酒需要は急減しています。ちょうど酒のディスカウントストアやコンビニも販売も進もうとしていた時に私は家業へ戻ってきたこともあり、直ぐに観光酒蔵を立ち上げ、益子の共販センターへ来る観光バスの立ち寄りルートとして始めたのが酒蔵見学ツアーになっています。

外池社長のもう一つの顔:益子町観光協会の会長

2018年の「産業観光まちづくり大賞」で、栃木県の益子町観光協会が観光庁長官賞を受賞し、陶器「益子焼」を生かした地域振興が評価されました。
益子町では1966年から実施している「益子陶器市」が2017年に第100回を迎えるなど、益子焼を中心とした観光振興や地域おこしを行ってきた。陶器市には春と秋を合わせて年間60万人前後が訪れています。

地域貢献と観光産業との結びつきについて、発想の原点はなんですか

1987年(昭和62年)私が28歳の時に観光酒蔵を始めました。まだ結婚する前年でですね。

益子焼の歴史が好きなところと観光は結びついています。焼物業界が低迷していた時に、塚本さんが峠の釜めし(おぎのや)を受注し、益子町で作ったんです。たくさんの下請け業者が引き受けてやる中で、24時間稼働できるトンネル型の窯設備を導入しました。作業効率が格段によくなった反面、下請け業者は行き場を無くし、自身の作品を共同で販売しようと立ち上がったのが今の共販センターです。1人の実業家が結果的に地場産業を発展させたという話で私の事業発想の原点かもしれません。共販センターの話には続きがありまして、販路もなくどうやって売ろうかと考えてできたのが今の製造直売になっています。益子町では50年以上続く年2回の陶器市が開かれています。今となっては知名度も高まり非常にたくさんの人が益子町に訪れますが、そうなるためには様々な苦労がありました。当時は栃木県に遊びに来る目的は、鬼怒川、日光、那須、塩原が多く、東北自動車道や東北新幹線を利用した県北エリアの温泉地です。その人たちにどうにか益子町に来てもらえないかと考え益子町のドライブイン構想に繋がります。常磐道ルートを提案し、寄り道先としてお昼に益子町のドライブインとして、共販センターで7~800席、益子焼つかもとでも500席、他にも大型バスの駐車スペースや客席を完備したドライブインが益子町の各所にできました。お食事処だけでは、集客ができないので近所の神社仏閣の見学や「紅葉と益子焼」などの企画やイベントもいろいろ考え実行しました。売上を作ることよりも人をたくさん呼ぶことに一生懸命でした。話がだいぶ脱線しましたが、その企画の中に観光酒蔵も盛り込みました。益子町のイチゴ団地、真岡市の大崎神社、水戸の偕楽園など本当にいろいろなルートを作って東京都内の事業者や観光組合などに営業へ行き1日200台近いバスが来ていました。酒蔵見学ツアーも過去最大で1日65台を記録しました。

喜んでくれるお客様を考えていると本業よりもついつい力が入ってしまう点はたまにきずです。

私たちのこだわり

外池酒造店の歴史

1937年(昭和12年)に宇都宮の酒蔵の五男坊 の祖父が跡継ぎがいないこの場所を譲り受けたのが始まりです。そして1957 年(昭和32年)に私の父が婿養子に入り法人化しました。私の父親は、当時では珍しかったかもしれませんが大学へ進学し経済学を勉強していました。メーカー機能だけでなく販売を強くし、事業の柱を持つこと、経済合理性を学んで家業に就いたそうです。大学も仕送りをもらわずに、建てたアパートを進駐軍に貸して、ウィスキーとチョコレートで家賃をもらっていたという漫画に出てくるような話です。大学へ行かせてくれている親に迷惑はかけられないと考えていたようです。

酒蔵にきて、真岡市にあった酒蔵がアサヒビールの特約店、卸を始めました。洋風化に合わせて1960年ころ(昭和40年代くらい)、清酒しかなかったときにビールが出て売れるようになってきました。食事も洋風化が一般的になり始めたころです。1967年(昭和42年)に多角化として酒の卸売りを始めました。

先代が事業承継したときに、酒問屋に売るのを全部やめ小売り店へ直売スタイルをとりました。小さい酒蔵は、粗利を得るためには手売りしていました。デメリットは当然のことですが、酒販店(問屋)からはよく思われないことと、メーカーと流通事業の両機能をリソース負担も大きかったのですが、これが今の外池酒造店の礎になって自社の特徴であり競合との差別化の一因でもあります。自社で完結する事業モデルといえば聞こえはいいですが、ブランディングや商品PRも自社でおこないながら販売する自由な発想の中だからこそ今があるのかと思っています。

多角化の中でも異色なコスメティックス事業の変遷

製造とメーカー機能、卸事業もおこなう酒蔵、そして見学ツアーの観光もおこない、益子町に団体のバスがきていましたが、ここ10年で客層が様変わりしてきました。日帰りバスツアーなど個人のお客さまが増えてきたことです。観光産業は個人客には「モノからコトへ」お土産をただ売るのではなく実体験という付加価値をもとめられるようになってきたのは強く感じています。

コスメ商品も販売し始めてから20年が経ちます。お客様を観察していると、4合瓶のお酒を2本持った方がレジに並ぶ前に重たいと1本を減らしたのを見て、お土産は軽くしないといけないという発想から始まりました。コスメも化粧品製造先に聞きながら、栃木県産有機栽培米「コメ発酵液」をはじめ5種類もの米由来の美肌成分を配合し、石鹸を作りました。これが、酒石鹸です。80g1,000円で売れ、酒蔵で購入するコスメというモノ珍しさと、お土産に良いサイズ感と軽さが決め手です。大量生産すると在庫のヤマになりますが、売店で捌く量と引き合い先に合わせて製造しているので今までつづいていると思っています。あくまで個人客に酒蔵で買える石鹸という珍しさに気づいてもらえればと思っています。

後継者は冒険したがらない、お客様ファーストでトライをしてみる

先代の父も同じように多角化していたので当たり前と思っていた感と、ずっと厳しい経営状況でもあったので何かしらの種を撒く、結果的に散らかしていますが今も楽しく経営はしています。

直ぐに色んなものに手を出しているような誤解を与えないためにも、お酒を直売する時は温泉地であったり、長野県の蓼科や箱根にある強羅温泉まで配達していました。ビールは値引きをしなくても売れる時代だったから喜んで配達していました。

一番嬉しいのは、地元の酒屋で年末に一升瓶で300本まとめて買ってくれたり、農家が10本入りの木箱の酒を納屋に1~2ケース置いていくような人情がありました。スーパーやコンビニエンスストア、ディスカウントストアが出来たことで、昔ながらの付き合いも細々となっていったのは時代の流れで抗うことはできないことだと思います。それでも県内にこだわって販売していき、ここ10年で県外にも販路を拡げていき、酒屋でも特約店だけに卸している「望;bou」というブランドを2012年に立ち上げて全国展開を進めていきました。 

事業承継するまでのご自身の経緯は

大学を卒業し大学院に進学してから2年ぐらい腰掛で東京の酒問屋に丁稚奉公へ行っていました。

戻ってから直ぐに先代の父から小山市内に土地を買ってマンションを分譲するからと宅地建物取引士の免許も取得しました。私は今でもそうですが、資格取得や事業計画、企画書など覚えたり、書き物は得意としていることもあり必要なものであれば直ぐに対応します。

高校生くらいの時だったかと思いますが「今度、車買おうと思うがどうするか?」「いいんじゃないの」と返答すると「買っておいてやるからな」と回答がありました。長男である私のためにということで、少しでも良い状態で継がせたいと思いは物心ついたときから感じてはいました。

ただ自分で継ぐ意思を思い始めたのは25~6歳くらいのころに、家業を継ぐのではなく自分の行動と自分の選択で意思決定をしようとある時に吹っ切れたことからです。家督相続だろうと辞める自由もある、それでも辞めないでいるのは自分の選択と決めました。家族経営だから背負っていこうと考える自分もいて、地域の観光協会の仕事やコスメの販売をすることも自分の選択だから迷いなく進められています。

結果、家族が作ってくれた土壌があって、やらせてもらえることが幸せだと感じています。

社長になったのは39歳の時です。父が他界し、親父の通夜の晩に番頭でもあった方に先代にはお世話になりました、私も上がらせてもらいますと言われ、何年か後には先代の傍にいた人は退職してしまいました。事業承継の難しさよりも当時は必死で45歳くらいにやっと周りが見えるようになってきました。ただ後で知ったのですが、先代は私が丁稚奉公から戻ってきて1年目くらいの時に大病を患いましたが、あまり番頭に頼り、まかせてしまっては、息子の上に番頭がいるという構造になり厄介だろうと考えていたようです。自分が大変でも、事業承継の時に息子の邪魔にならないようにと考えてくれていました。

経営理念は事務所に掲げ

経営理念は事務所に掲げてあり毎朝唱和しています。行動規範は作らす個々の自主性に任せていますというか、私より妻の方が従業員のお母さんのような立場で見ています。
新しいことにチャレンジしたり、観光協会の仕事、コロナ下で奥間を改装したりと社長の私が自分の行動と判断で進んでいる中で従業員は少し振り回してしまっていると思います。
ただ、みんな長く働いていくれていること、居心地が良いような環境作りはこれでも考えています。それと、製造業であり重い荷物や材料もあって重労働な部分と、怪我をしないこと、これは会社への行きも帰りもそうだがちゃんと会社に来てくれて、労働人口の一助となるように子供を一人前にして一つの家族のようにいてもらえること、一緒に働いていてくれることに感謝しています。ありがたいです。

後継経営者への承継は考えていますか

息子には私を反面教師にして欲しい部分で、自分の右腕をしっかりと育てていった欲しいと思っています。親として用意周到してしまうと、私の言うことしか聞かなくなってしまう。ただ、少し虚像を植えつけすぎた気はしています。

それと事業の柱は何本かあることで、一本くらい折れても大丈夫という準備はして承継は考えてやりたいと思っています。選択肢なのか可能性なのか次世代を担う子たちには、私も先代が残してくれた遺産みたいなものがあってチャレンジが出来たからです。あと、重要なことは同じ事業や同じビジネスをやらないようにすることかもしれません。時代の変化に合わせて、上手に真似させてもらって少し軌道に乗ってきたら自社のエッセンスを加えていく、そして一人ではうまくいかない時は会社や地元の仲間と一緒におこなう、地域経営の良さを活用することはしっかりと継承したいと思っています。

社長の学生時代について

これだけ色々なことにチャレンジしていたのは、学生時代の部活動にも少し反映しているのかもしれません。中学時代はブラスバンド部に所属していました。当初は柔道部へ入ったのですが、勉強に集中できないからと半強制的に辞めさせられ、音楽の先生からの進言で入部してトランペットを吹いていました。

高校時代はアマチュア無線のクラブに所属し、大学では国際友好クラブという今でいうサークル活動をおこなっており、外国の方を招いてパーティを開いたり国際交友を楽しんでいました。それと町道場が近くにあったので、大学3年生から空手もやっていました。防具をつけてですが、殴ってもいい本格的な空手を計4年間ほどやりました。大学院の時は、ラグビーで名門の明治大学の大学院だったこともありラグビークラブがあったので躊躇なく入部し、ウィングのポジションをやっていました。地元に帰省してからも益子ラグビークラブでラグビーは続けていました。振り返ると文化部から運動部まで、その時の直感なのかよく色々なことをしていたと思います。ただ、運動部かつ団体競技に所属していましたが、当時では珍しく上下関係を経験していませんでした。

株式会社外池酒造店_私たちのこだわり_画像

外池酒造店の歴史

1937年(昭和12年)に宇都宮の酒蔵の五男坊 の祖父が跡継ぎがいないこの場所を譲り受けたのが始まりです。そして1957 年(昭和32年)に私の父が婿養子に入り法人化しました。私の父親は、当時では珍しかったかもしれませんが大学へ進学し経済学を勉強していました。メーカー機能だけでなく販売を強くし、事業の柱を持つこと、経済合理性を学んで家業に就いたそうです。大学も仕送りをもらわずに、建てたアパートを進駐軍に貸して、ウィスキーとチョコレートで家賃をもらっていたという漫画に出てくるような話です。大学へ行かせてくれている親に迷惑はかけられないと考えていたようです。

酒蔵にきて、真岡市にあった酒蔵がアサヒビールの特約店、卸を始めました。洋風化に合わせて1960年ころ(昭和40年代くらい)、清酒しかなかったときにビールが出て売れるようになってきました。食事も洋風化が一般的になり始めたころです。1967年(昭和42年)に多角化として酒の卸売りを始めました。

先代が事業承継したときに、酒問屋に売るのを全部やめ小売り店へ直売スタイルをとりました。小さい酒蔵は、粗利を得るためには手売りしていました。デメリットは当然のことですが、酒販店(問屋)からはよく思われないことと、メーカーと流通事業の両機能をリソース負担も大きかったのですが、これが今の外池酒造店の礎になって自社の特徴であり競合との差別化の一因でもあります。自社で完結する事業モデルといえば聞こえはいいですが、ブランディングや商品PRも自社でおこないながら販売する自由な発想の中だからこそ今があるのかと思っています。

多角化の中でも異色なコスメティックス事業の変遷

製造とメーカー機能、卸事業もおこなう酒蔵、そして見学ツアーの観光もおこない、益子町に団体のバスがきていましたが、ここ10年で客層が様変わりしてきました。日帰りバスツアーなど個人のお客さまが増えてきたことです。観光産業は個人客には「モノからコトへ」お土産をただ売るのではなく実体験という付加価値をもとめられるようになってきたのは強く感じています。

コスメ商品も販売し始めてから20年が経ちます。お客様を観察していると、4合瓶のお酒を2本持った方がレジに並ぶ前に重たいと1本を減らしたのを見て、お土産は軽くしないといけないという発想から始まりました。コスメも化粧品製造先に聞きながら、栃木県産有機栽培米「コメ発酵液」をはじめ5種類もの米由来の美肌成分を配合し、石鹸を作りました。これが、酒石鹸です。80g1,000円で売れ、酒蔵で購入するコスメというモノ珍しさと、お土産に良いサイズ感と軽さが決め手です。大量生産すると在庫のヤマになりますが、売店で捌く量と引き合い先に合わせて製造しているので今までつづいていると思っています。あくまで個人客に酒蔵で買える石鹸という珍しさに気づいてもらえればと思っています。

後継者は冒険したがらない、お客様ファーストでトライをしてみる

先代の父も同じように多角化していたので当たり前と思っていた感と、ずっと厳しい経営状況でもあったので何かしらの種を撒く、結果的に散らかしていますが今も楽しく経営はしています。

直ぐに色んなものに手を出しているような誤解を与えないためにも、お酒を直売する時は温泉地であったり、長野県の蓼科や箱根にある強羅温泉まで配達していました。ビールは値引きをしなくても売れる時代だったから喜んで配達していました。

一番嬉しいのは、地元の酒屋で年末に一升瓶で300本まとめて買ってくれたり、農家が10本入りの木箱の酒を納屋に1~2ケース置いていくような人情がありました。スーパーやコンビニエンスストア、ディスカウントストアが出来たことで、昔ながらの付き合いも細々となっていったのは時代の流れで抗うことはできないことだと思います。それでも県内にこだわって販売していき、ここ10年で県外にも販路を拡げていき、酒屋でも特約店だけに卸している「望;bou」というブランドを2012年に立ち上げて全国展開を進めていきました。 

事業承継するまでのご自身の経緯は

大学を卒業し大学院に進学してから2年ぐらい腰掛で東京の酒問屋に丁稚奉公へ行っていました。

戻ってから直ぐに先代の父から小山市内に土地を買ってマンションを分譲するからと宅地建物取引士の免許も取得しました。私は今でもそうですが、資格取得や事業計画、企画書など覚えたり、書き物は得意としていることもあり必要なものであれば直ぐに対応します。

高校生くらいの時だったかと思いますが「今度、車買おうと思うがどうするか?」「いいんじゃないの」と返答すると「買っておいてやるからな」と回答がありました。長男である私のためにということで、少しでも良い状態で継がせたいと思いは物心ついたときから感じてはいました。

ただ自分で継ぐ意思を思い始めたのは25~6歳くらいのころに、家業を継ぐのではなく自分の行動と自分の選択で意思決定をしようとある時に吹っ切れたことからです。家督相続だろうと辞める自由もある、それでも辞めないでいるのは自分の選択と決めました。家族経営だから背負っていこうと考える自分もいて、地域の観光協会の仕事やコスメの販売をすることも自分の選択だから迷いなく進められています。

結果、家族が作ってくれた土壌があって、やらせてもらえることが幸せだと感じています。

社長になったのは39歳の時です。父が他界し、親父の通夜の晩に番頭でもあった方に先代にはお世話になりました、私も上がらせてもらいますと言われ、何年か後には先代の傍にいた人は退職してしまいました。事業承継の難しさよりも当時は必死で45歳くらいにやっと周りが見えるようになってきました。ただ後で知ったのですが、先代は私が丁稚奉公から戻ってきて1年目くらいの時に大病を患いましたが、あまり番頭に頼り、まかせてしまっては、息子の上に番頭がいるという構造になり厄介だろうと考えていたようです。自分が大変でも、事業承継の時に息子の邪魔にならないようにと考えてくれていました。

経営理念は事務所に掲げ

経営理念は事務所に掲げてあり毎朝唱和しています。行動規範は作らす個々の自主性に任せていますというか、私より妻の方が従業員のお母さんのような立場で見ています。
新しいことにチャレンジしたり、観光協会の仕事、コロナ下で奥間を改装したりと社長の私が自分の行動と判断で進んでいる中で従業員は少し振り回してしまっていると思います。
ただ、みんな長く働いていくれていること、居心地が良いような環境作りはこれでも考えています。それと、製造業であり重い荷物や材料もあって重労働な部分と、怪我をしないこと、これは会社への行きも帰りもそうだがちゃんと会社に来てくれて、労働人口の一助となるように子供を一人前にして一つの家族のようにいてもらえること、一緒に働いていてくれることに感謝しています。ありがたいです。

後継経営者への承継は考えていますか

息子には私を反面教師にして欲しい部分で、自分の右腕をしっかりと育てていった欲しいと思っています。親として用意周到してしまうと、私の言うことしか聞かなくなってしまう。ただ、少し虚像を植えつけすぎた気はしています。

それと事業の柱は何本かあることで、一本くらい折れても大丈夫という準備はして承継は考えてやりたいと思っています。選択肢なのか可能性なのか次世代を担う子たちには、私も先代が残してくれた遺産みたいなものがあってチャレンジが出来たからです。あと、重要なことは同じ事業や同じビジネスをやらないようにすることかもしれません。時代の変化に合わせて、上手に真似させてもらって少し軌道に乗ってきたら自社のエッセンスを加えていく、そして一人ではうまくいかない時は会社や地元の仲間と一緒におこなう、地域経営の良さを活用することはしっかりと継承したいと思っています。

社長の学生時代について

これだけ色々なことにチャレンジしていたのは、学生時代の部活動にも少し反映しているのかもしれません。中学時代はブラスバンド部に所属していました。当初は柔道部へ入ったのですが、勉強に集中できないからと半強制的に辞めさせられ、音楽の先生からの進言で入部してトランペットを吹いていました。

高校時代はアマチュア無線のクラブに所属し、大学では国際友好クラブという今でいうサークル活動をおこなっており、外国の方を招いてパーティを開いたり国際交友を楽しんでいました。それと町道場が近くにあったので、大学3年生から空手もやっていました。防具をつけてですが、殴ってもいい本格的な空手を計4年間ほどやりました。大学院の時は、ラグビーで名門の明治大学の大学院だったこともありラグビークラブがあったので躊躇なく入部し、ウィングのポジションをやっていました。地元に帰省してからも益子ラグビークラブでラグビーは続けていました。振り返ると文化部から運動部まで、その時の直感なのかよく色々なことをしていたと思います。ただ、運動部かつ団体競技に所属していましたが、当時では珍しく上下関係を経験していませんでした。

株式会社外池酒造店_私たちのこだわり_画像

サービスの特徴 | 外池酒造店が醸す3つのブランド

-サービスの特徴-

外池酒造店が醸す3つのブランド

外池酒造店が醸す3つのブランド

外池酒造店の酒造りは、下野杜氏と南部杜氏の両方の資格を持つ小野誠を中心に、伝統を重んじながらも新しいことに挑戦しつづけ、ひとつひとつ丁寧に手造りで醸しています。

「燦爛(さんらん)」「外池(とのいけ)」「望(ぼう)」

外池酒造店 杜氏 小野誠(南部杜氏 及び 下野杜氏 資格保持)

story of sanran 燦爛

燦爛とは”光り輝く”という意味で、「燦爛」(さんらん)ブランドの商品をご愛顧頂くお客様ひとりひとりが豊かで生き生きと光り輝いて頂きたいとの願いを込めて「燦爛」と名づけました。蔵元の情熱、杜氏の技、関わるすべての人々の思いをこの酒蔵で融合し生み出される「燦爛」。 私達はこの酒蔵を愛し、大切にすることで素晴らしいお酒が作り出せると考えております。

story of tonoike 外池

外池酒造店の最高位ブランド「外池 AUTHENTIC」(とのいけ オーセンティック)。醪を袋吊りし、自然にしたたり落ちるお酒のみを集めた究極のこのお酒は、香りも味わいも芸術品。身体の芯まで感じる華やかな香り、口の中に広がる深い味わいは至福のひとときを演出します。長年培った技術を生かし、真剣に酒造りに向き合い、本物(AUTHENTIC)を追求し、日本酒の新しい価値観や未来を見据えて醸したお酒です。益子という土地全体からエネルギーをもらい、それを最大限に活かし、磨ぎあげた技術を詰め込みました。最高の感動をお届けします。

story of bo:望 ※流通限定ブランド

「望」は、爪先立って遠くに目をやることで、嗜好品としての日本酒、文化としての日本酒など、明日の日本酒への挑戦として立ち上げた新ブランド。遥か遠くを見渡せるような、すがすがしい透明感と、芳醇なまあるい甘みがクセになる美味しさは、きっと誰もが気に入ってくれるはず。ルビの「bo:」(ぼう)は「buono(美味しい)」という意味にも。望シリーズはすべて無濾過でアルコール16度の原酒。そしてアルコール添加をしない純米酒。どれも食中酒にふさわしく、酸のキレがある味わいが特徴的。

外池酒造店が醸す3つのブランド

外池酒造店の酒造りは、下野杜氏と南部杜氏の両方の資格を持つ小野誠を中心に、伝統を重んじながらも新しいことに挑戦しつづけ、ひとつひとつ丁寧に手造りで醸しています。

「燦爛(さんらん)」「外池(とのいけ)」「望(ぼう)」

外池酒造店 杜氏 小野誠(南部杜氏 及び 下野杜氏 資格保持)

story of sanran 燦爛

燦爛とは”光り輝く”という意味で、「燦爛」(さんらん)ブランドの商品をご愛顧頂くお客様ひとりひとりが豊かで生き生きと光り輝いて頂きたいとの願いを込めて「燦爛」と名づけました。蔵元の情熱、杜氏の技、関わるすべての人々の思いをこの酒蔵で融合し生み出される「燦爛」。 私達はこの酒蔵を愛し、大切にすることで素晴らしいお酒が作り出せると考えております。

story of tonoike 外池

外池酒造店の最高位ブランド「外池 AUTHENTIC」(とのいけ オーセンティック)。醪を袋吊りし、自然にしたたり落ちるお酒のみを集めた究極のこのお酒は、香りも味わいも芸術品。身体の芯まで感じる華やかな香り、口の中に広がる深い味わいは至福のひとときを演出します。長年培った技術を生かし、真剣に酒造りに向き合い、本物(AUTHENTIC)を追求し、日本酒の新しい価値観や未来を見据えて醸したお酒です。益子という土地全体からエネルギーをもらい、それを最大限に活かし、磨ぎあげた技術を詰め込みました。最高の感動をお届けします。

story of bo:望 ※流通限定ブランド

「望」は、爪先立って遠くに目をやることで、嗜好品としての日本酒、文化としての日本酒など、明日の日本酒への挑戦として立ち上げた新ブランド。遥か遠くを見渡せるような、すがすがしい透明感と、芳醇なまあるい甘みがクセになる美味しさは、きっと誰もが気に入ってくれるはず。ルビの「bo:」(ぼう)は「buono(美味しい)」という意味にも。望シリーズはすべて無濾過でアルコール16度の原酒。そしてアルコール添加をしない純米酒。どれも食中酒にふさわしく、酸のキレがある味わいが特徴的。

サービスの特徴 | 外池酒造店のこだわり

-サービスの特徴-

外池酒造店のこだわり

「清潔さ」へのこだわり

昔ながらの造り酒屋の外池酒造店には、酒蔵を守るためのルールがあります。塵一つ落ちていないように清掃を徹底する。蔵の中の梁、小さな道具、玄関、トイレ、食堂、蔵人が寝る部屋まで徹底的に清掃しております。酒造りは目に見えない微生物を扱うため、旨い酒を醸す為には細菌を徹底的に排除することろから始まります。

「水」へのこだわり

酒造りは水も大事です。外池酒造店が酒造りの仕込みで使う水は敷地内の井戸より汲み上げております。日光連山からの伏流水が益子の地まで流れており、柔らかい水質で他にはないくらい酒造りに適した綺麗な水です。

「おもてなし」へのこだわり

長年にわたり酒造りを続けてこられているのも地元の皆様のおかげです。また、ご愛飲いただいる皆様も同じです。皆様に感謝する場として酒蔵見学や催し物を開催しております。ご来場いただいた皆様を従業員全員で迎え、おもてなしすることを目標としております。従業員と触れ合っていただき、品質の安心・安全を伝えることや酒蔵の歴史と伝統を体感していただくことで、日本の伝統文化でもある酒造りに興味を持っていただき、作り手としての責任を果たします。

「清潔さ」へのこだわり

昔ながらの造り酒屋の外池酒造店には、酒蔵を守るためのルールがあります。塵一つ落ちていないように清掃を徹底する。蔵の中の梁、小さな道具、玄関、トイレ、食堂、蔵人が寝る部屋まで徹底的に清掃しております。酒造りは目に見えない微生物を扱うため、旨い酒を醸す為には細菌を徹底的に排除することろから始まります。

「水」へのこだわり

酒造りは水も大事です。外池酒造店が酒造りの仕込みで使う水は敷地内の井戸より汲み上げております。日光連山からの伏流水が益子の地まで流れており、柔らかい水質で他にはないくらい酒造りに適した綺麗な水です。

「おもてなし」へのこだわり

長年にわたり酒造りを続けてこられているのも地元の皆様のおかげです。また、ご愛飲いただいる皆様も同じです。皆様に感謝する場として酒蔵見学や催し物を開催しております。ご来場いただいた皆様を従業員全員で迎え、おもてなしすることを目標としております。従業員と触れ合っていただき、品質の安心・安全を伝えることや酒蔵の歴史と伝統を体感していただくことで、日本の伝統文化でもある酒造りに興味を持っていただき、作り手としての責任を果たします。

サービスの特徴 | 年間約7万人が訪れる観光酒蔵

-サービスの特徴-

年間約7万人が訪れる観光酒蔵

外池酒造店では酒造りの道具や作業している写真などが展示してある蔵を改装した展示室を見学することが出来ます。

※従来、ご自由に見学コースをご覧頂いておりましたが、新型コロナ対策と致しまして、必ず事前予約が必要となります。

※衛生上、実際に作業をしている建物の中を見学することはご遠慮いただいております。

外池酒造店では酒造りの道具や作業している写真などが展示してある蔵を改装した展示室を見学することが出来ます。

※従来、ご自由に見学コースをご覧頂いておりましたが、新型コロナ対策と致しまして、必ず事前予約が必要となります。

※衛生上、実際に作業をしている建物の中を見学することはご遠慮いただいております。

ツグナラコンサルタント

ツグナラコンサルタントによる紹介

ツグナラコンサルタント

益子町で知らない人はいない観光協会会長も務め地域貢献にも熱心な社長です。実行力と行動力もあり斬新なアイディアでビジネスを創造するアントレプレヌールも持ち合わせています。

インタビュアーのコメント

伝統を継承しながら新しい酒蔵としての革新をおこなうバイタリティのある社長さまは半年後、1年後にはまた新しいことにチャレンジしているんだろうなと次回またお会いする時を楽しみに思いました。

会社概要

社名 株式会社外池酒造店
創立年 1957年
代表者名 代表取締役 外池 茂樹
従業員数 36名
事業エリア 栃木県(益子町)
本社住所 321-4216
栃木県芳賀郡益子町大字塙333番地1
0285-72-0001
事業内容 清酒・焼酎醸造
リキュール・スピリッツ及びどぶろく(その他醸造酒)製造
全酒類の卸・小売り販売
観光酒蔵の運営
化粧品、医薬部外品の企画、販売
URL
https://tonoike.jp/

会社沿革

1829年 近江商人である外池家が下野の国にて酒造業を開始
1937年 初代 外池逸五郎が益子町で酒造りを開始
【外池酒造店 創業】
1957年 株式会社 外池酒造店へ法人化
全酒類販売免許・清酒以外の酒類製造免許取得
1998年 現社長である外池茂樹が社長就任(3代目)
地元に根差したブランド再構築・原点回帰へ
2017年 はばたく中小企業300社(経済産業省)に選出
2013年 全国新酒鑑評会 金賞受賞(2021年時点で連続受賞)
2020年 世界酒蔵ランキング 4位選定

公開日:2021/07/21 (2021/07/26修正)

※本記事の内容および所属名称は2021年6月22日取材当時のものです。現在の情報とは異なる場合があります。