栃木・真岡市
栃木 ・ 真岡市
屋根・外壁・樋の外部工事全般に
株式会社京乃匠家
栃木県真岡市の建築業。お客様に寄り添う住宅造りを目指します
経営理念
お客様に「安心」
工事には「安全」を届けます。
|屋根工事・外壁工事・樋工事|
住まいの顔である外部工事全般を施工しております。
レベルの高い技術は、住まいの耐久性も向上させます。
京乃匠家は安全・安心施工を提供する会社です。
私たちはプロ集団として、本物の技術を提供させていただきます。
匠の技術で暮らしを守ります。
住まいは家族が憩い、安らぎ、成長していける場所でなくてはなりません。
京乃匠家は10年後、20年後、さらにその先までお客様に寄り添える住宅造りを目指しています。
そのためには何より強くて長持ちする家であること。
高温多湿で、自然災害も多い日本の環境に耐えうる建材、工法がそれに応えます。
お客様の大切な財産である建物を風雨から守ります。
地震や高齢化に対する対策など、住宅事情は刻一刻と変化していきます。
確かな技術と、変化を恐れない姿勢を貫き、伝統的な工法から最新の建材利用まで、幅広いニーズにお応えし、住まいに対する想いを第一に考える施工店でありたいと思っております。
代表者メッセージ
事業運営や経営者になろうと思ったきっかけは?
自営業の家に生まれ育ったのですが、親からは公務員になりなさいという教育を受けて来ました。私もそのつもりで将来を考えていました。 転機となったのは義兄が自営業を営んでいたことです。私が中学校2年生の時、義兄から食事に誘ってもらいました。たまたま売上の集金をした帰りでもあり、ケースの中に入ったお金を見せてもらい商売をやったらこんな感じで儲かる(お金がいただける)と思ったことが、自分で商売をしてみたいと少しだけ芽生えた瞬間だったと思います。この時のやり取りは、今でも覚えているのでそれだけ衝撃的だったのだと思います。
いつ頃から会社経営を始めたのですか
学生時代は悠々自適に過ごしていました。就職氷河期でもありましたが、ITバブルでライブドアや楽天株式会社など六本木界隈で言われていたヒルズ族の時代でもあり、若い経営者がスタートアップをするような時に大学時代を送っていました。サークル活動は、何百人と集まって騒ぎ盛り上がる、イベント主催のサークルに所属していました。テレビでも流れるような旬な学生の遊びを当時は謳歌していました。多くの人が集まっていたので、素人ながらに「これは商売になる。」と考え、参加者に対して物販やサービスを展開したりして、見よう見まねでビジネスをしていました。立ち上げ時は、3人の有志でみんな親に頼み込んで100万円ずつ出資してもらって、資本金300万円の有限会社を設立しました。事業内容は、今から20年前になりますが「高齢者も増え、介護の時代が来る」とメンバー内で盛り上がり、介護事業に乗り出したのが会社経営の始まりです。
最初のビジネスは苦労よりも勉強代を得た大きな学びだった
ビジネスを立ち上げた当時は、世の中のこと社会通念を知らないままで苦労することよりビジネスを楽しみながら運営していました。介護に関しても、世話をしたり様々なケアをしたりは熟練した人や若い私達では度合いが分かっていなかったこともあり色々と出来ることを絞り込んでいくうちに「福祉用具のレンタル会社」と形態は変わっていました。杖や車いす、ベッドのレンタルを事業の根幹として、2日間の講習で事業をおこなうことに必要な免許も取得できました。ただ販促や宣伝活動というものも分からず、市場ニーズがあるからお客さんに届けば勝手に売上が伸びていく業界と思い込んでいました。結果は、若者が立ち上げたばかりの会社に信用性もないため全く契約に繋がりませんでした。真摯な姿勢と思ってスーツを着用したり、お客さんのプライバシーを守るために商談スペースにはパーテーション設置したり、電話が繋がらないことを防ぐために電話機を3台(1人1台)ほど用意したり、当初の資本金は準備1か月半で全て使い果たしました。無頓着の無計画だったことは、よく覚えています。
学生3人で起業したので無給でも良いと考えており、結果1人抜けて創業メンバーは2人になりました。福祉用具のレンタル事業はその後も全く売上が伸びずに、初年度の年商86万円でした。
父親が自営業をしていたこともあり、事業の相談をしたところ、真っ先に言われたことが「今の仕事は好きなのか」「やりたいことをやっていないのか」ということで、強く叱責されました。成功確率の高い市場に金儲けのためにやっていたことをすぐに見透かされ、「お金は追いかけると逃げられる。成果に対価はついてくる(お金は後からついてくる)」と言われ、当時はしっくり来ませんでしたが今ではよく理解できる言葉です。再度、父親から「自分が好きなものは何だ」と聞かれ、「車が好き」と答えると、「自分の好きなもので商売をしなさい」とチャンスを与えてもらい、業態を変えてカービジネスを始めました。
お客様に寄り添ったカービジネスを起業
カービジネスは、資金が無かったため在庫を持たない商売をしようと考えました。新車の場合、車種選びからカラーやシートアレンジなどオプションを細かく選択して注文し、完成品を納車するという流れになります。それに対して私がビジネスを始めた当時(20年くらい前)も、中古車は現物を見て購入の意思決定をしていました。白い色の車が欲しいがストックが黒しか無ければ黒を買う、走行距離や年式などで程度が良いモノを条件に近いところで一部妥協をしながら買うというのが中古車市場でした。そんな中、今では主流になっているお客様の欲しい車種や色など条件にあったものを中古車オークションから探し出して購入するというスタイルを当時まだ周りもやっていない時からおこなっていたので、お客さんのニーズも得ていて好評でした。資金もない中で好きな商売を実現するために考えたことが結果的に奏功しました。
中古車オークションは、毎週の出品される台数が5~6千台が登録されそれが全てFAXで流れてきます。純粋に紙代が勿体なく、印刷を待つ時間も勿体ないと感じ、当時はインターネットで見られるものは限られていましたが、この大量の出品データをインターネット上で見ることができたら効率が良く探しやすいのではないかと思い仕組み作りを考え始めました。この仕組みに対して一緒に企画開発で手をあげてくれたのが中古自動車販売大手の株式会社ガリバーインターナショナル(現:株式会社IDOM)でした。検索システムを共同で作りましたが、完成してから権利を売却しました。手放したことで、一つの区切りと達成感もあり一時的に目標もなくなり次に進めない時期が長く続きました。好きなこと、やりたいことをやる労力とパッションを今一度起こすことは簡単なものではなく、年齢も20代前半だったので少し勿体ない時間を過ごしてしまったと思い返します。投資家をやってみて一時期は商売になっていた事案もありましたが、結果としては出資先はほとんど失敗し、この繰り返しが10年くらい続いていました。
父親の事業承継する気持ちはなかったか
事業承継する気持ちはありませんでした。決まっているレールの上に乗せられるのが嫌だったこともあり、父も公務員にでもなれ、と言われていたので起業さえしなかったら公務員を目指していたかもしれません。しかし、自営業を営む義兄の存在や学生時代に自然と引き込まれていったビジネスの世界を踏み込んだことで自己実現の欲求が生まれたのかもしれません。100社近くに出資もしていますが、残った企業や業態は7つのみでした。最初の数年(2~30社)の投資は完全に私自身の知識が足りなくて失敗がほとんどでした。
私たちのこだわり
京乃匠家を起業したきっかけは偶然の出会い
私が遊び疲れて寝ていた雀荘で、自身の会社に投資して欲しいという人物と出会いました。突然起こされて印鑑証明と実印と免許証のコピーを提示され、その方の事業(工務店)を説明され500万円を出資して欲しい、と言われました。生年月日が兄と一緒で親近感を感じ、直感で出資を決めました。その会社はいろいろあって事業を畳むことになりましたが、その時の対応を見て信頼できる人だと感じていました。これが深い縁となります。それから4年が経過した時に、2社目として起業したいと言われたのが現在の京乃匠家でした。その人のことは信頼していたため即答しましたが、なぜかその際、私に社長をやって欲しいと言われ、2011年に京乃匠家がスタートしました。
現場を第一に考えた事業方針
事業は順調に成長し3、4年目あたりに大きくなってくると、共同創業者と事業方針に意見の対立が出てきました。営業と現場の対立でした。私は事業を進めるにも現場主義だったので、現場の技術を取りました。対立した共同創業者は会社を辞めていきました。商売の根本が違ってくると溝が深まると思ったので、現場を守るための意思決定をしました。値段は高くてもいいからそのぶん高い付加価値をつけて商品を売ってほしいという考え方と、お客様のために値引きや要望も聞き入れて顧客を増やしていく考え方の間にズレがありました。営業は個に依存していた部分があり、辞めてしまったことでたくさんのお客様が離れていきました。経営的に苦しくなる心配もありましたが、施工会社は技術のあるところが必ず生き残る、と信じて逆境にも前を向くことにしました。
事業への取組み方、マインド(意識)の切り替わるタイミングは?
ミーハーな部分はありますが、ITバブル期のヒルズ族など東京への想いとあこがれが強く、都内で勝負をしたいと常日頃から思うところもあり創業後に移住をしました。言葉よりも行動を重視し、栃木県に軸足を移した際にも「一緒にやろう」と声をかけてもらい行動を起こしたことが今につながっています。
今の仕事もゼロから分からない中で、気持ちが揺れ動く衝動もありこのビジネスで一番を目指すという強い決心と覚悟の中で建設業と業界の風習や慣習から学んでいきました。業界によっては異業種から来た方が変革や新しいものを取り入れるチャンスはあると思っています。それと、一番は業界にいたスタッフが私のやり方に理解を示し一喜一憂できること、私一人ではどうにもならないので傍にいてくれる仲間がいるからであり、社員が喜んでくれる、目標をクリアして自立していく姿を一番求めているのかもしれません。それが私のやりがいに繋がっています。
事業を進めていく上で情報の収集や取引先との付き合い方について
仕事をする上で重要視しているのは、対面で会うことです。仕事の仲間、取引先、利害関係はなくても双方で興味があったり、会いたいという衝動が起きたときには直ぐに面会を申込みます。地域性もあるかもしれませんが、関西圏の方は終わり際に「参考になった、ありがとう。」という言葉であったり雰囲気的にそう感じることが多いです。関東圏の人は、警戒心が強く、主旨を説明しないと面会中もずっと手探り状態になってしまうことがあります。ただ、その警戒や会話の探りを気にせず何も目的も脈絡もなく話を聞いていると意外に聞き出せることが多いのです。〇〇についてお話し聞かせてくださいと主旨や目的があって話をすると、先方もその意識になってしまい会話が続かなかったり他の情報が聞き出せなくなります。初対面であったり、会いたいと思った人にはキャップをはめず、フランクに人柄や情報を引き出すようにしています。
私は人生の半分の20年くらいは「社長業」をしています。ただ、崇高な経営者や目指すべき姿という明確な形はなく一番最初は「代表取締役」という肩書をもって、色々な人に会って話を聞きたいという名刺に記載の内容で満足していました。失敗も色々と繰り返す中で、従業員も増え組織ができてくると責任と覚悟が芽生えてきて、会社の代表であり従業員の生活すべて私の一挙手一投足に掛かっていると自覚してからは身なりも行動にも芯が入ったというのが社長としての変化です。それもあって20年も社長業をしていますがまだまだ進化し続けるのだと思います。そうでなければ会社は存続していないと思うからです。
それと、現場主義で今までプレイヤーとして現場と一緒になって仕事をしていましたが、ある程度の規模に達すると業務の幅も増えプレイヤーとして出来る範囲に限界が生まれてきます。会社の成長を加速させるにも、コスト(固定費)をコントロールし従業員に満足できる環境を提供し人件費を少しでも上げるためにと経理や財務、事業や経営の計画を作って常に先へ未来を考えるようにもなりました。私だけでは考えも情報も足りなければ、経営や財務に明るい方に会って話を聞き、ヒントをもらって経営や現場に反映したりと社長ではなく経営者としての時間を費やすことに今は重要性を感じています。
お客さんから一番求められていることは現場との一体感とコミュニケーションで解決できる
「整理」、「整頓」、「清掃」、「清潔」、「躾」の基本を捉えて、「きれいな現場をつくること」です。いい仕事をしたらお客さんだけでなく、関わった人たちも喜んでもらえます。現場では私たちだけではなく、様々な業者が関わっているため車の停車位置や資材の置き方など些細なことからもトラブルが起こります。現場を取り仕切ることと、きれいな現場を作っておくことで対処の際にも迅速に収まることが多いです。少しの取組みから大きな信用に繋がってくると思っています。
それと、様々な業者の方々とのコミュニケーションしっかりと取っていくことも重要です。一緒に仕事をする人たちとの結束や一体性も重要ですが、他の現場のことなど色々な情報を聞く機会でもあり現場作業は本当に気づきと学びの場だと思っています。
弊社の社員は全て職人です。採用活動は紹介がほとんどです。私も計画的に採用してはいなかったのでいつのまにかこの人数まで増えていたという感覚です。会社の成長に合わせて人員計画も必要ではありますが、働きたくなる会社、紹介したくなる会社にしていきたいという思いはあります。紹介者もしっかりと私に託してくれますし、その関係性もあって入ってくる社員は仲間意識は強いです。そこに私の会社の風土を加えて一体になるように注視はしています。
新型コロナウィルスの感染拡大など経済の不安定さもありますが、売上は落ちることなく堅調です。職人は若い人が多く、平均年齢は32~3歳くらいで、職人歴10年位になる人たちが主力となっておりバランスの良い人員体制です。10代の新卒も数名います。育てる時間も必要になりますが、今の構成でうまくいっている点も含め、人材が弊社の強みだと思っています。
京乃匠家を起業したきっかけは偶然の出会い
私が遊び疲れて寝ていた雀荘で、自身の会社に投資して欲しいという人物と出会いました。突然起こされて印鑑証明と実印と免許証のコピーを提示され、その方の事業(工務店)を説明され500万円を出資して欲しい、と言われました。生年月日が兄と一緒で親近感を感じ、直感で出資を決めました。その会社はいろいろあって事業を畳むことになりましたが、その時の対応を見て信頼できる人だと感じていました。これが深い縁となります。それから4年が経過した時に、2社目として起業したいと言われたのが現在の京乃匠家でした。その人のことは信頼していたため即答しましたが、なぜかその際、私に社長をやって欲しいと言われ、2011年に京乃匠家がスタートしました。
現場を第一に考えた事業方針
事業は順調に成長し3、4年目あたりに大きくなってくると、共同創業者と事業方針に意見の対立が出てきました。営業と現場の対立でした。私は事業を進めるにも現場主義だったので、現場の技術を取りました。対立した共同創業者は会社を辞めていきました。商売の根本が違ってくると溝が深まると思ったので、現場を守るための意思決定をしました。値段は高くてもいいからそのぶん高い付加価値をつけて商品を売ってほしいという考え方と、お客様のために値引きや要望も聞き入れて顧客を増やしていく考え方の間にズレがありました。営業は個に依存していた部分があり、辞めてしまったことでたくさんのお客様が離れていきました。経営的に苦しくなる心配もありましたが、施工会社は技術のあるところが必ず生き残る、と信じて逆境にも前を向くことにしました。
事業への取組み方、マインド(意識)の切り替わるタイミングは?
ミーハーな部分はありますが、ITバブル期のヒルズ族など東京への想いとあこがれが強く、都内で勝負をしたいと常日頃から思うところもあり創業後に移住をしました。言葉よりも行動を重視し、栃木県に軸足を移した際にも「一緒にやろう」と声をかけてもらい行動を起こしたことが今につながっています。
今の仕事もゼロから分からない中で、気持ちが揺れ動く衝動もありこのビジネスで一番を目指すという強い決心と覚悟の中で建設業と業界の風習や慣習から学んでいきました。業界によっては異業種から来た方が変革や新しいものを取り入れるチャンスはあると思っています。それと、一番は業界にいたスタッフが私のやり方に理解を示し一喜一憂できること、私一人ではどうにもならないので傍にいてくれる仲間がいるからであり、社員が喜んでくれる、目標をクリアして自立していく姿を一番求めているのかもしれません。それが私のやりがいに繋がっています。
事業を進めていく上で情報の収集や取引先との付き合い方について
仕事をする上で重要視しているのは、対面で会うことです。仕事の仲間、取引先、利害関係はなくても双方で興味があったり、会いたいという衝動が起きたときには直ぐに面会を申込みます。地域性もあるかもしれませんが、関西圏の方は終わり際に「参考になった、ありがとう。」という言葉であったり雰囲気的にそう感じることが多いです。関東圏の人は、警戒心が強く、主旨を説明しないと面会中もずっと手探り状態になってしまうことがあります。ただ、その警戒や会話の探りを気にせず何も目的も脈絡もなく話を聞いていると意外に聞き出せることが多いのです。〇〇についてお話し聞かせてくださいと主旨や目的があって話をすると、先方もその意識になってしまい会話が続かなかったり他の情報が聞き出せなくなります。初対面であったり、会いたいと思った人にはキャップをはめず、フランクに人柄や情報を引き出すようにしています。
私は人生の半分の20年くらいは「社長業」をしています。ただ、崇高な経営者や目指すべき姿という明確な形はなく一番最初は「代表取締役」という肩書をもって、色々な人に会って話を聞きたいという名刺に記載の内容で満足していました。失敗も色々と繰り返す中で、従業員も増え組織ができてくると責任と覚悟が芽生えてきて、会社の代表であり従業員の生活すべて私の一挙手一投足に掛かっていると自覚してからは身なりも行動にも芯が入ったというのが社長としての変化です。それもあって20年も社長業をしていますがまだまだ進化し続けるのだと思います。そうでなければ会社は存続していないと思うからです。
それと、現場主義で今までプレイヤーとして現場と一緒になって仕事をしていましたが、ある程度の規模に達すると業務の幅も増えプレイヤーとして出来る範囲に限界が生まれてきます。会社の成長を加速させるにも、コスト(固定費)をコントロールし従業員に満足できる環境を提供し人件費を少しでも上げるためにと経理や財務、事業や経営の計画を作って常に先へ未来を考えるようにもなりました。私だけでは考えも情報も足りなければ、経営や財務に明るい方に会って話を聞き、ヒントをもらって経営や現場に反映したりと社長ではなく経営者としての時間を費やすことに今は重要性を感じています。
お客さんから一番求められていることは現場との一体感とコミュニケーションで解決できる
「整理」、「整頓」、「清掃」、「清潔」、「躾」の基本を捉えて、「きれいな現場をつくること」です。いい仕事をしたらお客さんだけでなく、関わった人たちも喜んでもらえます。現場では私たちだけではなく、様々な業者が関わっているため車の停車位置や資材の置き方など些細なことからもトラブルが起こります。現場を取り仕切ることと、きれいな現場を作っておくことで対処の際にも迅速に収まることが多いです。少しの取組みから大きな信用に繋がってくると思っています。
それと、様々な業者の方々とのコミュニケーションしっかりと取っていくことも重要です。一緒に仕事をする人たちとの結束や一体性も重要ですが、他の現場のことなど色々な情報を聞く機会でもあり現場作業は本当に気づきと学びの場だと思っています。
弊社の社員は全て職人です。採用活動は紹介がほとんどです。私も計画的に採用してはいなかったのでいつのまにかこの人数まで増えていたという感覚です。会社の成長に合わせて人員計画も必要ではありますが、働きたくなる会社、紹介したくなる会社にしていきたいという思いはあります。紹介者もしっかりと私に託してくれますし、その関係性もあって入ってくる社員は仲間意識は強いです。そこに私の会社の風土を加えて一体になるように注視はしています。
新型コロナウィルスの感染拡大など経済の不安定さもありますが、売上は落ちることなく堅調です。職人は若い人が多く、平均年齢は32~3歳くらいで、職人歴10年位になる人たちが主力となっておりバランスの良い人員体制です。10代の新卒も数名います。育てる時間も必要になりますが、今の構成でうまくいっている点も含め、人材が弊社の強みだと思っています。
ツグナラ専門家による紹介
担当専門家:株式会社サクシード 株式会社サクシードの詳細
谷口社長は様々な業種を見てきた経験を現在の事業運営にフル活用し、強い会社づくりと人を大切にする経営を実現されている経験豊富な経営者です。事業展開、組織づくり、若手採用、地域貢献と、参考となる点が数多くあります。
会社概要
社名 | 株式会社京乃匠家 |
創立年 | 2011年 |
代表者名 | 代表取締役 谷口 裕司 |
URL |
https://kyonotakumiya.com/
|
本社住所 |
〒321-4307 |
事業内容 | 1.建築業法に基づく土木一式工事、建築一式工事、大工工事、とび、土木、コンクリート工事、石工事、屋根工事、電気工事、管工事、タイル、れんが・ブロック工事、鋼構造物工事、舗装 2.建設業の請負業務 |
公開日:2021/10/12 (2023/05/22修正)
※本記事の内容および所属名称は2023年5月現在のものです。現在の情報とは異なる場合があります。
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