栃木・宇都宮市
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引継ぎ実績あり
地域に愛される店へ
有限会社存じやす
とちぎの「洋食」の歴史 = 存じやすの歴史
経営理念
とちぎの「洋食」の歴史= 存じやすの歴史
「あの」ステーキのたれは、存じやすが元祖です。
1932年、釜川のほとりで誕生したフレンチ存じやす。
宇都宮における「洋食」・「ステーキ」、そしてこの地域に根付いた「ステーキのたれ」という文化は、ここ存じやすを起点としてはじまり、広がっていきました。
ステーキのたれの系譜
今から20年以上も前になりますが、今も大曽にあった「ステーキ桂」の先代や、今は引退してしまった「グリル富士」の主人などが兄弟弟子として店に入ってきました。
また、初代は他の店で食事に行くと職人の技でもあった「たれ」を至極あっさりと作り方を教えていました。門外不出や企業秘密という言葉もなく、純粋に美味しものとして広めていったのかと思います。ただ、兄弟弟子が独立するときやレシピを教えた他のお店も存じやすのたれとそっくりなもので提供するのではなく、自分のアレンジを加えて提供しとちぎの「洋食」の歴史が存じやすの歴史と自負しています。
現在、ステーキのたれが栃木県宇都宮のみならず全国規模の知名度を得るに至ったのは先代からのレシピ伝授があったからと思っています。
代表者メッセージ
存じやすがそのまま私の人生
私は、中学生の頃からお店の手伝いをしていました。どこにも修行へは行かず専門学校を卒業してからすぐに入社をして、味を学びました。初代の考えで、自分が作り上げてきた味が修行をしてきた先で学んできたことで混ざり合ってしまうことをあまり望んでいませんでした。この味を忠実に伝承していくことで孫の代まで続いていくと確信していたようです。実際に、創業より80余年オリジナルの味を受け継いでここまで来ています。
19歳だった1985年に入社してから事業を承継する間に経営が傾き、お店を畳むかどうかという話も何度かありました。ファミリー企業として課題としてあったのが、肝心なことを何も決められない、それもあって誰もやりたいと思えるような会社ではありませんでした。職人として経営と向き合ってこなかったこと、計画性が欠如しているのは今でもまだ強く感じています。先祖代々から職人としてのスキルがある程度できてから社長になるという承継のやり方は、所有(オーナーシップ)と経営(ビジネス・マネジメント)は分けていかなければいけないと感じています。
次世代に引き継ぐ存じやすのカタチ
代々、味というものを忠実に伝承し極めてきたことでマネジメントは疎かにしてきました。
今の私が、やりたいことをやっていたら会社は潰れていたと思います。ただ、若いからチャレンジできることもあり、活力と意欲をもって次の後継者には引き継いでいきたいと思っています。今の存じやすは変えてはいけない味の伝承と、不確実要素の大きな経済環境下では大胆に時には柔軟な発想でビジネスを執行していく必要があります。社長業をしながら職人を極めていくことは私には難しい面はありました。個人的には、あと5年(52歳まで)以内には世代交代したいと思っています。まだまだ職人として極めていきたいという本心と今のままではダメだと思っているからです。
たくさんの人に支えられながら地域に愛されるお店でありたい
事業を承継する上では、責任と役割は分担しなければいけません。今でも存じやすの店舗は、それぞれが特色を持った形態で店舗運営しています。今後は、店舗毎に総責任者を設けて職人と経営を少しずつ融合させて、自分の店としての責任をもって欲しいと思っています。5年以内にその仕組みは構築して次世代に引き継ぎたいです。
これは、周りのファミリー企業からの教訓でもあります。長く経営者が居座って交代がうまくいかないと、徐々に社長のみならずファミリー企業の創業家が絶対的な力を誇示したがります。時間の経過とともに独裁的な経営をしてしまいます。愛着と執着は本当に紙一重でもあり、後継者にはニュートラルに私が作り上げた仕組みに課題意識をもって引き継いでいってほしいと思います。解決策は後継者と一緒に伴走しても構いませんし、もっと存じやすを良くしたいという気持ちがあれば十分です。あと、これだけ地域企業様からのご支援もあってたくさん相談できる方々にも恵まれ、外部にも相談できるところもあり経営者として足りていない判断基準や価値基準は助けてもらいました。昔ながらのやり方で聞き入れないのではなく、教えを乞う姿勢は経営者としては重要です。私は根っからの職人でもあり、技術の拘りと経営・運営の拘りを両立していたら直ぐに存じやすは潰れていただろうと思います。
丁寧なもてなしが人気を呼んだ、「ありがとう存じやすの店」というポリシー
お店と会社が一体にはなっていない、ここは今なおの課題です。お客様あってのお店の考え方は、不変的でもありお客様ファーストで常に良いものを届けていて、改装にしてもメニューの改編にしても仕入れルートにしてもお客様からの声や期待に応えるために常日頃から対話を重視して、聞いた担当が率先して実行していることで店舗は今でも愛され続けていると自負しています。裏を返せば儲けへの意識が薄くなってしまうこともあり、顧客優先の度が超えて会社の経営や財務が火の車になっていることは、職人経営者は分かっていても見て見ぬふりをしていました。
ただ、このお客様ファーストの姿勢は、職人の技術を上げるだけでなく取引先との良好な関係と様々な仕入れを可能にする営業力も自社の強みと言えます。
さすがに今は、良い商品を適正な価格で提供して、しっかりと利益を出すことに経営危機を何度も乗り越えてきた経験から皆で考えるようになり徐々に改善しています。
私が経営に携わるようになり、雇用を維持することは絶対条件として美味しいものは調達、調理、接客とすべて人が紡いでくれています。今いる社員には本当に感謝するとともに一生涯をかけても守っていきたいと思える仲間です。
私たちのこだわり
栃木県民のソウルフード「存じやすのたれ」誕生秘話
小林敏彦(存じやす2代目・現会長)より
宇都宮市民のみならず、栃木県民なら誰でもその味を知っているであろうステーキのたれ。あの独特の、癖になる味はどうやって生まれたのか、初代から直接薫陶を受けた2代目であり現会長である小林敏彦が語ります。
ユニークな初代が考え出した「存じやすのたれ」
存じやすを創業した初代は、息子の私から見ても、当時としてはとても先進的な感性を持った人でした。様々な職業を経て料理人になった初代ですが、英語を話すこともでき一時は教員をしていたほどで、戦時中にも関わらずジャズを聴いて、芸事の素養もあったりと多彩な人でした。
初代の実家は宇都宮市内にある蕎麦屋でした。次男坊でもあった初代は蕎麦屋を継承することはできなかったのですが、先見の明があった両親から「これからは洋食の時代」と考え、東京から呼んだ料理人から洋食の手ほどき技術を学び、和食、洋食とそれぞれの分野で料理人としての素養を磨いたそうです。
お礼の言葉がいつの間にか店名に
今の存じやすは1932年(昭和7年)に、「いち朗寿司」として寿司と洋食のお店を開いたことが始まりです。今の店名になったのは、開店直後からお客様を送り出す時に発していた「ありがとう存じやす」というお礼の言葉からになります。
当時から味の評判も良かったと聞いていますが、その丁寧なもてなしが人気を呼び「ありがとう存じやすの店」として有名になったことから、開店してから1年も経たずして店名を「存じやす」に変更し人気店となっていきました。
今でも覚えているのが、当時は洋食と言えばオムライスが有名でしたが、存じやすのメニューには「VEAL CUTLET(仔牛のカツレツ)」など、他の店では見たことも聞いたこともないメニューがありました。日本人には受け入れられない洋風名も戦後まもなくの時期に、現在の足利銀行本店のあたりにGHQの建物があり、初代が英語も堪能だったこともあり、駐在しているアメリカ人将校が数多く訪れるようになりました。当時は、お客様の8割が進駐軍の方々で店の中に溢れていたことを覚えています。そのことがきっかけとなり、アメリカ文化を好む日本人も徐々にお店へ来てくれるようになりました。
存じやすのたれが生まれた瞬間
存じやすのたれが生まれたのは1957年(昭和32年)まで遡ります。
ステーキ(当時はビフテキと呼ばれていました)はレモンバターで食べるのが一般的でしたが、初代は「日本人なんだからビフテキはたれで食べた方が美味い」と言って、働いているスタッフへ賄いで作ってくれたのが存じやすの「たれ」の原型となるものでした。
初めて作ってくれた「たれ」は、現在の味と遜色ないものでした。初代は和洋それぞれの料理の素養があり、常々「素材を見て塩加減がわかるようでなければ料理人として失格だ」と言い、レシピはほとんど残すこともなく常に感覚で料理をしていました。半ば思い付きで生まれたものでもありました。
私たちが賄いで食べているのを目にした常連のお客様から次々とこのオリジナルのたれで食べるビフテキの注文が増えていき、一般のお客様にも広がったことで翌年から、たれで食べるビフテキを中心としたステーキ専門店として60年以上前に業態転換しました。今の存じやすの形はこの頃できあががったといえます。
栃木県民のソウルフード「存じやすのたれ」誕生秘話
小林敏彦(存じやす2代目・現会長)より
宇都宮市民のみならず、栃木県民なら誰でもその味を知っているであろうステーキのたれ。あの独特の、癖になる味はどうやって生まれたのか、初代から直接薫陶を受けた2代目であり現会長である小林敏彦が語ります。
ユニークな初代が考え出した「存じやすのたれ」
存じやすを創業した初代は、息子の私から見ても、当時としてはとても先進的な感性を持った人でした。様々な職業を経て料理人になった初代ですが、英語を話すこともでき一時は教員をしていたほどで、戦時中にも関わらずジャズを聴いて、芸事の素養もあったりと多彩な人でした。
初代の実家は宇都宮市内にある蕎麦屋でした。次男坊でもあった初代は蕎麦屋を継承することはできなかったのですが、先見の明があった両親から「これからは洋食の時代」と考え、東京から呼んだ料理人から洋食の手ほどき技術を学び、和食、洋食とそれぞれの分野で料理人としての素養を磨いたそうです。
お礼の言葉がいつの間にか店名に
今の存じやすは1932年(昭和7年)に、「いち朗寿司」として寿司と洋食のお店を開いたことが始まりです。今の店名になったのは、開店直後からお客様を送り出す時に発していた「ありがとう存じやす」というお礼の言葉からになります。
当時から味の評判も良かったと聞いていますが、その丁寧なもてなしが人気を呼び「ありがとう存じやすの店」として有名になったことから、開店してから1年も経たずして店名を「存じやす」に変更し人気店となっていきました。
今でも覚えているのが、当時は洋食と言えばオムライスが有名でしたが、存じやすのメニューには「VEAL CUTLET(仔牛のカツレツ)」など、他の店では見たことも聞いたこともないメニューがありました。日本人には受け入れられない洋風名も戦後まもなくの時期に、現在の足利銀行本店のあたりにGHQの建物があり、初代が英語も堪能だったこともあり、駐在しているアメリカ人将校が数多く訪れるようになりました。当時は、お客様の8割が進駐軍の方々で店の中に溢れていたことを覚えています。そのことがきっかけとなり、アメリカ文化を好む日本人も徐々にお店へ来てくれるようになりました。
存じやすのたれが生まれた瞬間
存じやすのたれが生まれたのは1957年(昭和32年)まで遡ります。
ステーキ(当時はビフテキと呼ばれていました)はレモンバターで食べるのが一般的でしたが、初代は「日本人なんだからビフテキはたれで食べた方が美味い」と言って、働いているスタッフへ賄いで作ってくれたのが存じやすの「たれ」の原型となるものでした。
初めて作ってくれた「たれ」は、現在の味と遜色ないものでした。初代は和洋それぞれの料理の素養があり、常々「素材を見て塩加減がわかるようでなければ料理人として失格だ」と言い、レシピはほとんど残すこともなく常に感覚で料理をしていました。半ば思い付きで生まれたものでもありました。
私たちが賄いで食べているのを目にした常連のお客様から次々とこのオリジナルのたれで食べるビフテキの注文が増えていき、一般のお客様にも広がったことで翌年から、たれで食べるビフテキを中心としたステーキ専門店として60年以上前に業態転換しました。今の存じやすの形はこの頃できあががったといえます。
ツグナラ専門家による紹介
担当専門家:株式会社サクシード 株式会社サクシードの詳細
存じやす様は2022年で創業90周年の歴史を有している、サクシード創業期からのお客様です。現代表の就任前から当社とはご縁があり、定期的にいち顧客としても利用させていただいております。後継者がとちぎ経営人財塾で学んでおり、これまでの伝統を生かしたさらなる革新が期待できます。
会社概要
社名 | 有限会社 存じやす |
創立年 | 1932年 |
代表者名 | 代表取締役 小林 有一 |
資本金 | 300万円 |
URL |
https://zonjiyasu.com/
|
本社住所 |
〒320-0806 028-637-4129 |
事業内容 | ステーキ・日・週替り料理・洋食・デザートとワインやビールの美味しいお酒 軽いお食事からコース料理(予約制)までバラエティー豊かな食事の提供をしています |
有限会社 存じやすの経営資源引継ぎ募集情報
公開日:2021/07/09 (2023/01/25修正)
※本記事の内容および所属名称は2023年1月現在のものです。現在の情報とは異なる場合があります。
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