埼玉・さいたま市西区
埼玉 ・ さいたま市
堅実な
株式会社吉田工務店
「利他の心」と大工の技術を引き継ぐ100年企業の建物づくり
経営理念
利他の心を以って、当社に関わる全ての人を幸せにする
行動指針
成長― 新しい感覚を持ち続けます
信頼― 堅実な施工を行います
感動― 相手本位で行動します
品質方針
地域に密着した工務店として、「安心・安全」を基本とし「新しい感覚と堅実な施工」をモットーに、快適な建築物を「迅速」に提供することによって顧客の満足を得て、地域の発展に寄与し社会に貢献することを我が社の品質方針とする。
代表者メッセージ
弊社は、昭和5年の創業以来90年余りにわたり、総合建設業者として信頼される企業を目指し、地域の皆様と共に歩んでまいりました。「新しい感覚と堅実な施工」をモットーに、まちづくり・すまいづくりを進め安全安心で快適な建築物を提供することによって、お客様にご満足をいただくことが私どもの使命と考えております。
「企業は人なり」と申しますが、弊社では人材の育成を重要視しており、常日頃より技術の向上に努めるとともに、工事に対する責任感を養っております。
新しいまちづくりとその活性化の一翼を担うとともに、地域社会への貢献と開発・発展に鋭意努力してまいりたいと存じます。今後とも格別のご愛顧とご鞭撻をお願い申し上げます。
代表取締役社長 吉田 浩士
私たちのこだわり
約100年前に大工の棟梁となった祖父が創業
創業95年目に差しかかり、間もなく100周年の節目を迎える弊社は、私の祖父が創業しました。第二次世界大戦前の当時は、家を建てたい時には大工に注文するのが当たり前の時代であり、弊社の事務所がある三橋というエリアには、30人ほどの大工の棟梁がいたそうです。祖父は仕事を探していたところ、知り合いの大工に弟子入りをさせてもらえることとなり、手に職をつけられる大工の道を選びました。人口が多く、住宅のニーズも多かった三橋での住宅建築業は活況であり、祖父も大工仕事なら生業として続けていけると思ったのかもしれません。
祖父は1930年から棟梁として腕を振るうようになり、父が3歳となった1943年には太平洋戦争への出征が決まったため、やむを得ず休業することとなりました。そして祖父は出征から約7年後に戦争から帰還し、小学4年生となっていた父は「この人がお父さんなんだ」と不思議な気持ちで出迎えたのを覚えているそうです。
その後、祖父は大工業を再開し、父は他社で勤めた後に弊社に入り、家業を手伝い始めました。しばらくは個人事業として続けていましたが、父の勧めもあって1968年には有限会社に組織変更し、祖父が社長に就任しました。
初代の築き上げた信用を、2代目が柔軟な発想で拡大
祖父は大工の棟梁であり、創業時から木造の個人住宅づくりにのみ携わっていましたが、1970年代にはプレハブ住宅と呼ばれる工業化住宅の需要が拡大しつつありました。ちょうどその頃、実家では積水化学の無臭便槽を設置することとなり、父はその設置業者から「これからはプレハブ住宅の時代がくるから、おたくも大手の仕事を請けてみては」との誘いを受けました。家業の承継を意識し始めていた父は、木造住宅建築のニーズはつなぎつつ新たな事業枠により安定化を図るために、1973年に積水ハウス株式会社の指定工事店として取引を開始することを決め、1975年に2代目社長として家業を承継しました。
祖父は以前から、事業継続のために信用力を高めたいとの思いが強く、他社から金融機関のカレンダーを譲ってもらい、事務所の目につくところに掲示していたという逸話があります。当時は、取引先のカレンダーを掲げるのがステータスのような時代であり、今となっては笑い話ですが、祖父はお客様に「個人事業なのに銀行との取引があるんだ」と安心してもらいたかったのだろうと思います。
1983年に現在の場所に事務所を移転したのも、父の判断です。当時は実家の目の前に小さな事務所を構えていましたが、父は「人の目に入る場所に事務所を構えなければ、いい従業員は入ってこないし、会社としても発展できない」と祖父を説得しました。祖父は職人気質だったので「いい仕事をすれば場所なんて関係ない」と反発し意見が衝突しましたが、父は「地域により根づき、信頼される企業になっていくには、お客様が立ち寄りやすく声をかけやすい場所に事務所を置く必要がある」と祖父を説き伏せ、国道16号(現県道2号)沿いのこの土地への移転を実行しました。祖父と父は考え方こそ違っていましたが、いずれも常にお客様を第一に考え行動していたのだろうと思っています。
祖父の姿をみて育ち、父の期待に反発しながらも建築の道へ
私がものづくりに興味をもったのは、祖父や父の影響が大きかったと思います。一番心に残っていることは、職人であった祖父との思い出です。祖父は、家のなかで使う踏み台などさまざまなものを自作し、まだ幼かった私は、祖父の物作りを近くで眺めたり、祖父が使っている金づちを取り上げて遊んだりしていました。祖父は、覇気がありとても怖い人でしたが、孫である私には怒らず「しょうがないな」と言って、わざわざまた別の道具を取りに行き、私がいたずらをしているのをそっと見守ってくれていました。
中学校進学前には、父から「いずれはうちを継ぐのだから、建築系の学校に進めるようにしなさい」と言われ、建築学科のある明治大学の付属中学校を受験しました。時代背景的にも、私が中学生の頃にはちょうどバブルに差しかかっていました。建築の需要も高い時代だったので、父からもずっと「継げ」と言われ続けていたのを覚えています。
しかし、高校3年の頃にはバブルが崩壊し、それまで家業を継げと言い続けてきた父からは「場合によっては継がなくてもいい」と言われました。私自身は、中学受験の段階で既に、第一志望であった薬学部への進学を諦めていたいきさつがあったので強い反発心をもちましたが、これまで頑張ってきた自分のために、建築学科一本に絞り進学する覚悟を決めました。建築学科の推薦枠は希望者が多く、成績順に推薦者が決まるため、高校時代はほとんど遊んだ記憶がありません。級友と競い合いながら勉学に励み、無事に大学に進学することができました。
大学卒業後は、弊社の取引先であった積水ハウスに就職し、5年間勤めました。設計担当として採用され、地元にある積水ハウスの子会社に1年間研修生として預けられました。基礎工事の職人と一緒に基礎の型枠を組み、重い部材を運び、掃除をするなど、現場の手伝いを一通りしました。その後は設計部署に戻り、1年間設計担当として携わり、最後の1年半は現場監督を経験しました。その後、弊社に入社し、2009年に社長に就任しました。
経営者としての経験を積むため、早期に3代目社長に就任
私が社長に就任したのは32歳の時でした。私は父が37歳のときに生まれた子どもだったので、父の経営者仲間の子どもたちと比べると、跡継ぎとしては若い方です。そのため父は「年齢は追い越せないから、お前にはその分早く社長業を譲り、経験を積ませる」と常々私に話していました。
私は2009年に会社を継ぎましたが、思っていたよりもプレッシャーは感じませんでした。幼少期から家業を継ぐことを意識づけられ、企業規模が比較的小さかったこともありますが、何より会長となった父がいてくれたことが心強かったのだと思います。
お客様のニーズを満たす技術とノウハウ
弊社の強みは、創業の礎である木造住宅部門に加え、積水ハウスの工業化住宅部門、公共工事も含めた非木造の建物にも幅広く対応できる点です。3代にわたるノウハウの蓄積により、建築の困りごとやご要望には全て応えられる体制となっています。
toCの住宅とtoBのビルでは、建物の構造もエンドユーザーへのアプローチの方法も違いますが、長年にわたり木造住宅を手がけてきた一般のお客様へのサービスと、大手の指定工事店として得たtoBへのノウハウがあり、いずれも社内で共有できることが弊社の最大の強みとなっています。
弊社のつくる建物は、一般的な建売住宅などと比べると高価格になりますが、これはお客様が長く住み続けるために必要な設備をご提案しているからです。特に、断熱性能・耐震性などの住んだ後では変えることが難しい基本性能は、最良のものを選定しているため、結果的に安くはない価格帯となっています。しかし限られた予算枠にとらわれてしまう家づくりは、お客様にとっても最良であるとは考えておらず、まずはお客様の理想やご要望を教えていただき、本当に必要な機能や設備を取捨選択しながら、できる限りお客様の理想を実現するために努めています。
技術維持のため埼玉県南エリアを中心に公共工事も手がける
幅広い建築物を手がけられる一方で、他社と差別化できるような突出した部分がないため、一時期は新領域の開拓として、ダメージ加工を施した木材や古材を使おうとしていたこともありました。しかし、セグメントによって限られたターゲットのためにエリアを拡大しても、施工やメンテナンスで訪問する社員に負担がかかってしまうだけなので、現状では取り扱う建築物の種類は絞り込まなくてもいいだろうと考えているところです。
現在の商圏としては、埼玉県内の1時間でいける範囲としています。埼玉県南エリアは、人口が多いことから民間の新築の需要があるため、弊社では今後も民間建築物の新築をメイン事業としていきたいと考えています。しかし万が一、toCの仕事が減ってしまった時のための軸足として、また現場監督など技術習得やノウハウの維持のために、年間1本程度の公共工事の受注は続けたいと考えています。公共工事は比較的に売上額が大きいので、売上比率のうち30%を公共工事が占めている年もあり、一昨年の2022年には、県北の同業社と協力関係を構築し、JVとして工事を受注しています。地域に残り続ける公共財をつくることで、社員のモチベーションを向上させつつ地域の方々が「住み続けたい」と言われる街づくりに役立てたらと考えています。
「利他の心」で丁寧な建物づくりを続ける信念
手前味噌ですが祖父の代からの実直な仕事により、地元のお客様からの信頼が厚いことが弊社の自慢です。弊社は知名度こそありませんが、お客様からの紹介やリピーターの方がほとんどであり、私は3代目として、祖父と父が築き上げてきた地元での信頼度の高さを実感しています。祖父が常々話していた「一生懸命に仕事をしていれば、必ず誰かが見ていてくれて、必ず何かしらを返してくれる」という信念と、代々受け継がれてきた企業文化を示した当社の企業理念「利他の心を以って、当社に関わる全ての人を幸せにする」が、時代は変わる中でも伝わっているからだと思っています。
祖父の「利他」の考え方は、火事に遭ったお客様の家に火事見舞いに行った際の逸話にあらわれています。その火事に遭ったお客様は、焼け残った中で建て直しに再利用できそうな木を選別していましたが、祖父はその姿をみて「そのような材料を使っても長持ちするいい家は建たない」「困ってるんだから余計なことはせずこっちに任せておけ」と言い、最低限の資金で建て直しをしたそうです。一時の損得を優先するのではなく、目の前に困っている人がいたら、心を尽くして力になり、その結果として、お金や信用が得られ、人が成長するという考え方です。
祖父が建てた建物は、所有者の都合などにより数が少なくなってきましたが、まだ何軒かは現存しており、信念をもち建物づくりをしてきた祖父や職人の技術力の高さを感じることができます。祖父の建てた建物は、木造ながら、今でも木材の反りやねじれによる隙間やくるいはほとんど起こっていません。時間と手間をかけ、お客様のために丁寧な仕事を続けてきたからこそ、実績が積み重なり、信用を得て仕事がいただけているのだと感じます。
共通言語の醸成のため研修や読み合わせを実施
弊社の従業員は現在40人強で、そのうちの半数ほどが大工、10人ほどが現場監督です。祖父の代からの経営理念を浸透させるために、社員には日頃から「自分の建物をつくる感覚で取り組め」「人がいる場所ではもちろんのこと、人が見ていないときこそ頑張れ」「自分がしてもらって嬉しいことを相手にしなさい」と話し、採用者にも必ず伝えるようにしています。祖父の代から在籍し昔を知る社員が、自らの経験と実感を交えながら、会社の在り方をほかの社員に伝えてくれることもあり、とてもありがたく思っています。
また月1回の会議後には、私が読んだ書籍などからの学びや気づいたことをピックアップして共有し、読み合わせをするようにしています。読み合わせには、松下幸之助をはじめ、渋沢栄一や論語、会合などで耳にして手帳に書き留めた言葉など、カテゴリは問わずに使い、合わせて自分の考えを話すようにしています。
この読み合わせの習慣は、父の代から始まりました。10年ほど前は、父や私を含む全社員が中途入社の者であり、それぞれ育ってきた環境が異なることから、価値基準や判断基準を伝えるための共通言語が必要でした。開始当初は私も仕方なく取り組んでいた部分もありましたが、現在になり社内に定着してきているのを感じています。
加えて、近年は外部研修も導入しました。私が伝えるよりも、他者に語ってもらったほうが効果的なこともあるため、半年に1回は全員参加の研修を実施し、あわせて階層職種別の研修も行っています。
中小企業だからこそ長期、継続的な信頼獲得を目指す
祖父は「得手に帆を揚げる」という言葉も好んで使い、得意なことやチャンスをものにして力を発揮する方が、無理なく着実に事が運ぶという考え方で、大工としての腕を磨いてきました。父も私も祖父の考えには賛同しているので、建物づくりを中核とするビジネスモデルは今後も変えないつもりです。
そのため今後も、事業範囲を拡大するよりは、さらに主事業に注力し、筋肉質な組織にしたいと思っています。頑健な組織にしていくには、各部門の強化と内部拡充が必要であり、安定したサービス提供のために成長させたいと考えています。
また長期的には、弊社が事業を続けることで、業界のイメージを払拭したいと思っています。かつてこの三橋にあった大工業30社は、現在は弊社を入れてわずか数社ほどとなってしまいました。大工の息子は家業を継がなくなり、大工である親自身も、息子には大工を継がせたくないと考えているのが現状です。建設業が不人気なのは、3Kや低賃金のイメージが未だに強く残っているからです。また、信頼できる建設業者が少なくなってきていることも要因だと考えています。
ここ最近は、週1回のペースでお客様からの「飛び込みで来た業者が、屋根瓦が割れているから今すぐ直した方がいいと言うが、ちょっと見に来てほしい」という依頼が寄せられています。お客様のご自宅を見に行ってみても瓦は割れていないので、悪質な点検商法だと思われます。そういった悪質な業者から、地域の人を守る意味合いでも、昔ながらの工務店の機能をしっかり維持しなければならないのではないと考えています。
日頃からお客様の建物を気にかけ、必要な分だけ手を加えながら、長く住めるように維持管理ができるのは、同じ地域に住み、事務所を構える地元の中小企業ならではだと思っています。「あの会社に任せれば安心できるよね」と信頼される会社であり続けるために、自分本位ではなく相手本位で物事を考え、建築を通して人に尽くしていけば、必ず会社は生き残り、人も集まってくるだろうと思います。
社内の内製化と増強によりプラスアルファの提案を目指す
今後は技術者を中心に人員の拡充を図り、設計を内製化させながら、他社には真似できないような、プラスアルファの提案をできるようにしたいと思っています。新規のお客様も気軽に、継続的にご相談いただけるように、不動産部門の紹介から建築の受注につなげる流れをつくり、社内でシナジーを生み出していきたい考えです。
建築は、お客様から感謝される、とてもやりがいのある仕事です。お客様に安心していただけるように、会社や従業員の育成に今後も力を注いでいきます。
約100年前に大工の棟梁となった祖父が創業
創業95年目に差しかかり、間もなく100周年の節目を迎える弊社は、私の祖父が創業しました。第二次世界大戦前の当時は、家を建てたい時には大工に注文するのが当たり前の時代であり、弊社の事務所がある三橋というエリアには、30人ほどの大工の棟梁がいたそうです。祖父は仕事を探していたところ、知り合いの大工に弟子入りをさせてもらえることとなり、手に職をつけられる大工の道を選びました。人口が多く、住宅のニーズも多かった三橋での住宅建築業は活況であり、祖父も大工仕事なら生業として続けていけると思ったのかもしれません。
祖父は1930年から棟梁として腕を振るうようになり、父が3歳となった1943年には太平洋戦争への出征が決まったため、やむを得ず休業することとなりました。そして祖父は出征から約7年後に戦争から帰還し、小学4年生となっていた父は「この人がお父さんなんだ」と不思議な気持ちで出迎えたのを覚えているそうです。
その後、祖父は大工業を再開し、父は他社で勤めた後に弊社に入り、家業を手伝い始めました。しばらくは個人事業として続けていましたが、父の勧めもあって1968年には有限会社に組織変更し、祖父が社長に就任しました。
初代の築き上げた信用を、2代目が柔軟な発想で拡大
祖父は大工の棟梁であり、創業時から木造の個人住宅づくりにのみ携わっていましたが、1970年代にはプレハブ住宅と呼ばれる工業化住宅の需要が拡大しつつありました。ちょうどその頃、実家では積水化学の無臭便槽を設置することとなり、父はその設置業者から「これからはプレハブ住宅の時代がくるから、おたくも大手の仕事を請けてみては」との誘いを受けました。家業の承継を意識し始めていた父は、木造住宅建築のニーズはつなぎつつ新たな事業枠により安定化を図るために、1973年に積水ハウス株式会社の指定工事店として取引を開始することを決め、1975年に2代目社長として家業を承継しました。
祖父は以前から、事業継続のために信用力を高めたいとの思いが強く、他社から金融機関のカレンダーを譲ってもらい、事務所の目につくところに掲示していたという逸話があります。当時は、取引先のカレンダーを掲げるのがステータスのような時代であり、今となっては笑い話ですが、祖父はお客様に「個人事業なのに銀行との取引があるんだ」と安心してもらいたかったのだろうと思います。
1983年に現在の場所に事務所を移転したのも、父の判断です。当時は実家の目の前に小さな事務所を構えていましたが、父は「人の目に入る場所に事務所を構えなければ、いい従業員は入ってこないし、会社としても発展できない」と祖父を説得しました。祖父は職人気質だったので「いい仕事をすれば場所なんて関係ない」と反発し意見が衝突しましたが、父は「地域により根づき、信頼される企業になっていくには、お客様が立ち寄りやすく声をかけやすい場所に事務所を置く必要がある」と祖父を説き伏せ、国道16号(現県道2号)沿いのこの土地への移転を実行しました。祖父と父は考え方こそ違っていましたが、いずれも常にお客様を第一に考え行動していたのだろうと思っています。
祖父の姿をみて育ち、父の期待に反発しながらも建築の道へ
私がものづくりに興味をもったのは、祖父や父の影響が大きかったと思います。一番心に残っていることは、職人であった祖父との思い出です。祖父は、家のなかで使う踏み台などさまざまなものを自作し、まだ幼かった私は、祖父の物作りを近くで眺めたり、祖父が使っている金づちを取り上げて遊んだりしていました。祖父は、覇気がありとても怖い人でしたが、孫である私には怒らず「しょうがないな」と言って、わざわざまた別の道具を取りに行き、私がいたずらをしているのをそっと見守ってくれていました。
中学校進学前には、父から「いずれはうちを継ぐのだから、建築系の学校に進めるようにしなさい」と言われ、建築学科のある明治大学の付属中学校を受験しました。時代背景的にも、私が中学生の頃にはちょうどバブルに差しかかっていました。建築の需要も高い時代だったので、父からもずっと「継げ」と言われ続けていたのを覚えています。
しかし、高校3年の頃にはバブルが崩壊し、それまで家業を継げと言い続けてきた父からは「場合によっては継がなくてもいい」と言われました。私自身は、中学受験の段階で既に、第一志望であった薬学部への進学を諦めていたいきさつがあったので強い反発心をもちましたが、これまで頑張ってきた自分のために、建築学科一本に絞り進学する覚悟を決めました。建築学科の推薦枠は希望者が多く、成績順に推薦者が決まるため、高校時代はほとんど遊んだ記憶がありません。級友と競い合いながら勉学に励み、無事に大学に進学することができました。
大学卒業後は、弊社の取引先であった積水ハウスに就職し、5年間勤めました。設計担当として採用され、地元にある積水ハウスの子会社に1年間研修生として預けられました。基礎工事の職人と一緒に基礎の型枠を組み、重い部材を運び、掃除をするなど、現場の手伝いを一通りしました。その後は設計部署に戻り、1年間設計担当として携わり、最後の1年半は現場監督を経験しました。その後、弊社に入社し、2009年に社長に就任しました。
経営者としての経験を積むため、早期に3代目社長に就任
私が社長に就任したのは32歳の時でした。私は父が37歳のときに生まれた子どもだったので、父の経営者仲間の子どもたちと比べると、跡継ぎとしては若い方です。そのため父は「年齢は追い越せないから、お前にはその分早く社長業を譲り、経験を積ませる」と常々私に話していました。
私は2009年に会社を継ぎましたが、思っていたよりもプレッシャーは感じませんでした。幼少期から家業を継ぐことを意識づけられ、企業規模が比較的小さかったこともありますが、何より会長となった父がいてくれたことが心強かったのだと思います。
お客様のニーズを満たす技術とノウハウ
弊社の強みは、創業の礎である木造住宅部門に加え、積水ハウスの工業化住宅部門、公共工事も含めた非木造の建物にも幅広く対応できる点です。3代にわたるノウハウの蓄積により、建築の困りごとやご要望には全て応えられる体制となっています。
toCの住宅とtoBのビルでは、建物の構造もエンドユーザーへのアプローチの方法も違いますが、長年にわたり木造住宅を手がけてきた一般のお客様へのサービスと、大手の指定工事店として得たtoBへのノウハウがあり、いずれも社内で共有できることが弊社の最大の強みとなっています。
弊社のつくる建物は、一般的な建売住宅などと比べると高価格になりますが、これはお客様が長く住み続けるために必要な設備をご提案しているからです。特に、断熱性能・耐震性などの住んだ後では変えることが難しい基本性能は、最良のものを選定しているため、結果的に安くはない価格帯となっています。しかし限られた予算枠にとらわれてしまう家づくりは、お客様にとっても最良であるとは考えておらず、まずはお客様の理想やご要望を教えていただき、本当に必要な機能や設備を取捨選択しながら、できる限りお客様の理想を実現するために努めています。
技術維持のため埼玉県南エリアを中心に公共工事も手がける
幅広い建築物を手がけられる一方で、他社と差別化できるような突出した部分がないため、一時期は新領域の開拓として、ダメージ加工を施した木材や古材を使おうとしていたこともありました。しかし、セグメントによって限られたターゲットのためにエリアを拡大しても、施工やメンテナンスで訪問する社員に負担がかかってしまうだけなので、現状では取り扱う建築物の種類は絞り込まなくてもいいだろうと考えているところです。
現在の商圏としては、埼玉県内の1時間でいける範囲としています。埼玉県南エリアは、人口が多いことから民間の新築の需要があるため、弊社では今後も民間建築物の新築をメイン事業としていきたいと考えています。しかし万が一、toCの仕事が減ってしまった時のための軸足として、また現場監督など技術習得やノウハウの維持のために、年間1本程度の公共工事の受注は続けたいと考えています。公共工事は比較的に売上額が大きいので、売上比率のうち30%を公共工事が占めている年もあり、一昨年の2022年には、県北の同業社と協力関係を構築し、JVとして工事を受注しています。地域に残り続ける公共財をつくることで、社員のモチベーションを向上させつつ地域の方々が「住み続けたい」と言われる街づくりに役立てたらと考えています。
「利他の心」で丁寧な建物づくりを続ける信念
手前味噌ですが祖父の代からの実直な仕事により、地元のお客様からの信頼が厚いことが弊社の自慢です。弊社は知名度こそありませんが、お客様からの紹介やリピーターの方がほとんどであり、私は3代目として、祖父と父が築き上げてきた地元での信頼度の高さを実感しています。祖父が常々話していた「一生懸命に仕事をしていれば、必ず誰かが見ていてくれて、必ず何かしらを返してくれる」という信念と、代々受け継がれてきた企業文化を示した当社の企業理念「利他の心を以って、当社に関わる全ての人を幸せにする」が、時代は変わる中でも伝わっているからだと思っています。
祖父の「利他」の考え方は、火事に遭ったお客様の家に火事見舞いに行った際の逸話にあらわれています。その火事に遭ったお客様は、焼け残った中で建て直しに再利用できそうな木を選別していましたが、祖父はその姿をみて「そのような材料を使っても長持ちするいい家は建たない」「困ってるんだから余計なことはせずこっちに任せておけ」と言い、最低限の資金で建て直しをしたそうです。一時の損得を優先するのではなく、目の前に困っている人がいたら、心を尽くして力になり、その結果として、お金や信用が得られ、人が成長するという考え方です。
祖父が建てた建物は、所有者の都合などにより数が少なくなってきましたが、まだ何軒かは現存しており、信念をもち建物づくりをしてきた祖父や職人の技術力の高さを感じることができます。祖父の建てた建物は、木造ながら、今でも木材の反りやねじれによる隙間やくるいはほとんど起こっていません。時間と手間をかけ、お客様のために丁寧な仕事を続けてきたからこそ、実績が積み重なり、信用を得て仕事がいただけているのだと感じます。
共通言語の醸成のため研修や読み合わせを実施
弊社の従業員は現在40人強で、そのうちの半数ほどが大工、10人ほどが現場監督です。祖父の代からの経営理念を浸透させるために、社員には日頃から「自分の建物をつくる感覚で取り組め」「人がいる場所ではもちろんのこと、人が見ていないときこそ頑張れ」「自分がしてもらって嬉しいことを相手にしなさい」と話し、採用者にも必ず伝えるようにしています。祖父の代から在籍し昔を知る社員が、自らの経験と実感を交えながら、会社の在り方をほかの社員に伝えてくれることもあり、とてもありがたく思っています。
また月1回の会議後には、私が読んだ書籍などからの学びや気づいたことをピックアップして共有し、読み合わせをするようにしています。読み合わせには、松下幸之助をはじめ、渋沢栄一や論語、会合などで耳にして手帳に書き留めた言葉など、カテゴリは問わずに使い、合わせて自分の考えを話すようにしています。
この読み合わせの習慣は、父の代から始まりました。10年ほど前は、父や私を含む全社員が中途入社の者であり、それぞれ育ってきた環境が異なることから、価値基準や判断基準を伝えるための共通言語が必要でした。開始当初は私も仕方なく取り組んでいた部分もありましたが、現在になり社内に定着してきているのを感じています。
加えて、近年は外部研修も導入しました。私が伝えるよりも、他者に語ってもらったほうが効果的なこともあるため、半年に1回は全員参加の研修を実施し、あわせて階層職種別の研修も行っています。
中小企業だからこそ長期、継続的な信頼獲得を目指す
祖父は「得手に帆を揚げる」という言葉も好んで使い、得意なことやチャンスをものにして力を発揮する方が、無理なく着実に事が運ぶという考え方で、大工としての腕を磨いてきました。父も私も祖父の考えには賛同しているので、建物づくりを中核とするビジネスモデルは今後も変えないつもりです。
そのため今後も、事業範囲を拡大するよりは、さらに主事業に注力し、筋肉質な組織にしたいと思っています。頑健な組織にしていくには、各部門の強化と内部拡充が必要であり、安定したサービス提供のために成長させたいと考えています。
また長期的には、弊社が事業を続けることで、業界のイメージを払拭したいと思っています。かつてこの三橋にあった大工業30社は、現在は弊社を入れてわずか数社ほどとなってしまいました。大工の息子は家業を継がなくなり、大工である親自身も、息子には大工を継がせたくないと考えているのが現状です。建設業が不人気なのは、3Kや低賃金のイメージが未だに強く残っているからです。また、信頼できる建設業者が少なくなってきていることも要因だと考えています。
ここ最近は、週1回のペースでお客様からの「飛び込みで来た業者が、屋根瓦が割れているから今すぐ直した方がいいと言うが、ちょっと見に来てほしい」という依頼が寄せられています。お客様のご自宅を見に行ってみても瓦は割れていないので、悪質な点検商法だと思われます。そういった悪質な業者から、地域の人を守る意味合いでも、昔ながらの工務店の機能をしっかり維持しなければならないのではないと考えています。
日頃からお客様の建物を気にかけ、必要な分だけ手を加えながら、長く住めるように維持管理ができるのは、同じ地域に住み、事務所を構える地元の中小企業ならではだと思っています。「あの会社に任せれば安心できるよね」と信頼される会社であり続けるために、自分本位ではなく相手本位で物事を考え、建築を通して人に尽くしていけば、必ず会社は生き残り、人も集まってくるだろうと思います。
社内の内製化と増強によりプラスアルファの提案を目指す
今後は技術者を中心に人員の拡充を図り、設計を内製化させながら、他社には真似できないような、プラスアルファの提案をできるようにしたいと思っています。新規のお客様も気軽に、継続的にご相談いただけるように、不動産部門の紹介から建築の受注につなげる流れをつくり、社内でシナジーを生み出していきたい考えです。
建築は、お客様から感謝される、とてもやりがいのある仕事です。お客様に安心していただけるように、会社や従業員の育成に今後も力を注いでいきます。
会社概要
社名 | 株式会社吉田工務店 |
創立年 | 1930年 |
代表者名 | 代表取締役社長 吉田 浩士 |
資本金 | 3,000万円 |
URL |
https://www.yoshida-kohmuten.co.jp/
|
本社住所 |
〒331-0052 |
事業内容 | 建築一式工事の設計及び請負 土木一式工事の設計及び請負 舗装工事及び鳶土工工事の設計及び請負 造園工事の設計及び請負 管工事の設計及び請負 不動産の売買並びに仲介業務 産業廃棄物の収集、運搬業務 上記に附帯する一切の業務 |
事業エリア |
工場 〒331-0052 |
会社沿革
1930年 | 大宮市(現さいたま市)三橋にて吉田國光が建設業務を創業 |
1968年 | 有限会社吉田工務店を設立(資本金500万円) 代表取締役に吉田國光が就任 |
1973年 | 積水ハウス(株)と取引開始 指定工事店となる 株式会社吉田工務店に組織変更 |
1974年 | 大宮市(現さいたま市)三橋に鉄骨造2階建事務所、倉庫及び工場完成 |
1975年 | 吉田國光にかわり、吉田暎治が代表取締役に就任 |
1976年 | 大宮市建設業協会に入会 |
1977年 | (社)埼玉県建設業協会に入会 資本金を1,000万円に増資 |
1979年 | (社)宅地建物取引業協会に入会 宅地建物取引業務開始 |
1983年 | 大宮市(現さいたま市)三橋に新社屋完成 事務所移転 |
1985年 | 増改築専門部門として、むさし野リフォームセンター設立 |
1990年 | 第2工場完成 |
2001年 | トステム(株)スーパーウォール工法認定工事店となる |
2002年 | ISO9001認証取得(JQA-QM8510) 登録活動範囲:建築物の設計、施工及び定期点検 |
2006年 | 木造耐震診断及び木造耐震補強事業開始 |
2009年 | 吉田暎治にかわり、吉田浩士が代表取締役社長に就任 吉田暎治が代表取締役会長に就任 |
2017年 | 本社社屋増築工事完成 |
2022年 | 資本金を3,000万円に増資 |
株式会社吉田工務店の経営資源引継ぎ募集情報
人的資本引継ぎ
埼玉県
他者のために真心を込め、技術を磨き続ける建築技術者を募集
公開日:2024/06/20
※本記事の内容および所属名称は2024年6月現在のものです。現在の情報とは異なる場合があります。
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