
島根・松江市
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東京 ・ 品川区
引継ぎ実績あり
島根の人と
株式会社さんびる
「人を大切にする経営」と事業承継に最善を尽くす地域への恩返し
経営理念
私たちさんびるグループは、お客様の笑顔と喜びを求めて
地域社会の発展と雇用に貢献し社員の幸せと成長を願い
パートナー・社員と運命共同体を作り
一、お客様サポートに徹し
二、グループ全ての成長に全力をそそぎ
三、心・技・体の三位一体で
常に変化成長し続ける企業として広く社会に貢献する
社訓
礼節 言葉づかいと態度に注意し品性の向上につとめる
信用 言ったことは事の大小によらず誠実に実行する
責任 身近な事から些細な事まで最善をつくす
経営指針
- お客様に信頼される社員として、礼儀、挨拶、身だしなみ等
好感をもたれる社員教育と明るい職場づくりにつとめる。 - 会社の永遠の発展は規律の遵守、健全経営と社員によって確立される。
常に新しい創造の心と自己反省につとめる。 - お互いに和と信頼の労使関係をつくり、社風を重んじ相互協調により、
心の豊かさと生活の向上につとめる。
代表者メッセージ

弊社の仕事は全て人によって演出されています。
すなわち人づくりが弊社の最大の目的であり、最高のステージだと思っています。
人が人を育てあいそして支えあい共に豊かな未来を作り出す、そんな道徳心豊かな人づくりを、今もそして更なる未来も人づくりをテーマに成長していきたいと思っています。
経営者である私は人づくりの先頭に立ち、命がけで社員の幸せと生命を守り抜く覚悟をしております。世の中に必要とされる会社を目指し、社員がさんびるで働いて良かったと言っていただける会社を作り続けます。
代表取締役 田中 正彦

私たちのこだわり
清掃業からスタートし分社化や社長交代の多難を経て立て直しへ
弊社の創業者である竹田俊美は1963年に備中屋建物美装に入社し清掃業に従事していました。この年が、弊社のビルメンテナンス業のルーツとされています。
さらにその後、備中屋建物美装は山陰ビル管理という会社に変わり、竹田は支店長に就任しました。しかし、1975年前後には資金繰りが悪くなって経営が傾き、給料が遅延したことで社員の不安を招くこととなりました。松江支店の社員たちは、リスク分散や経営の最適化のため、1977年に別法人として株式会社山陰ビルサービスを設立し、新たなスタートを切りました。社名に「山陰」という地域名が入れられたのは、「地域や社員に愛される企業として立て直したい」という思いが込められていたのだと思います。
また私としては、この山陰ビルサービスとして分社化されたタイミングが弊社の起点だと考えています。社員により別会社が設立されてからは、山陰ビル管理松江支店のほとんどのお客様も山陰ビルサービスへと移り、業績改善に注力していきました。
清掃業で家計を支えながら夢に向かって歩み続けた学生時代
現在2代目にあたる私は、両親・祖母・兄弟の家庭で育ちました。
父親は木挽きが本業で、他に漁業や山を転売する仕事もしていましたが、経済的に厳しく母は家計を支えるために山陰ビル管理松江支店で働いていました。私自身も、小学生の頃から母と掃除の仕事をしていたため、当時から創業者の竹田のことは知っていました。
学生時代の私は、電気屋の社長になり家族で幸せに暮らす夢を叶えるために、土日も休まず掃除のアルバイトに勤しみ、高校時代は毎日の学校帰りに17キロもの距離を自転車で移動して、ビルのテナントでゴミ回収や掃除などをしていました。
貧しく大変な暮らしではありましたが、勉強は手を抜かず、高校生では取得が難しいとされていた第三種電気主任技術者免状などの資格を在学中にいくつか取得することができました。そして就職活動の時期には、先生たちや父から「難しい」と反対されていた新日本製鐵株式会社(現:日本製鉄株式会社)の主務職への採用が決まり、大卒レベルの採用枠だったため高校内でちょっとした話題となったのは、今でも忘れられない思い出となっています。
私には弟や妹もいたため、就職が決まった後も高校卒業までは清掃を続けました。私の困難を乗り越える辛抱強さや精神的な基盤は、この学生時代に育まれたのかもしれません。
続く苦難の中で受けとった、人を思いやるあたたかさと感謝の心
高校卒業後の1976年4月には、兵庫県姫路市内の新日鐵広畑製鉄所に配属され、地元を離れて寮生活をすることになりました。自分が仕事を頑張ることで、家族と貧しい生活から抜け出したいという思いで必死に仕事に励んでいました。
しかし、私が寮生活をしている間に家庭が荒れてしまい、入社2年目のお盆に帰省したところ、祖母から「戻ってきて」と懇願されました。父とは5年経ってから戻るという約束をしていましたが、育ての親である祖母が苦しんでいるのを見て見ぬふりはできず、また自らつかみ取った職と仕事を投げ出したくないという気持ちもあり悩みました。
悩み抜いた末に、目をかけてくれていた上司に相談したところ、退職帰郷を後押ししてくださった上、失業期間中に私や家族が生活に困らないようにと気を配っていただきました。
そして1978年には実家に戻り、松江市内の樋野電機工業(現:樋野電機工業有限会社)に入社しました。私が戻ったからとはいえ、すぐに家庭環境が良くなることはなく、前の会社で働き続けたかったという未練や、期待してくれていた方々に申し訳ないという気持ちを抱えながら、辛い日々を過ごしていました。
そのような中で、前職の新日鐵からは1000万円もの制御盤の注文をいただいたり、新日鐵時代の上司・同僚が家に来て励ましてくれたりしたことで、支えられ救われた気持ちになりました。人を思いやる心のあたたかさに触れ、私自身も人とのご縁を大切に、感謝の気持ちを忘れないことを何よりも大切にしたいと思えるようになりました。この経験と思いは、のちに経営者となってからの社員や地域に手を差し伸べたいという思いにもつながっています。
学生時代に働いていた山陰ビルサービスから声がかかり入社
私が樋野電機に入社した年には、松江駅前に「住友生命松江ビル」という、当時の松江市内で一番高い9階建てのビルが建設中でした。この住友生命松江ビルのメンテナンスは、私が高校生までアルバイトをしていた山陰ビルサービスに委託されており、山陰ビルサービスの全社員が熱心に営業した結果、総合ビル管理と電気の保守点検込みで業務を受託できる運びとなったようでした。しかし、当時の山陰ビルサービスの事業は清掃業のみで、ビル管理や保守点検の資格者が社内にいませんでした。そこで、すべて必要な資格を取得している私に白羽の矢が立ったのです。
母を経由し山陰ビルサービスへの入社を打診されましたが、入社したばかりの樋野電機工業に迷惑をかけたくないという思いと、何よりも電気関係の道に進みたいと考えていたため、1度断りました。ところが後日、専務や社長がわざわざ自宅まで入社を頼みに訪れました。長年お世話になった会社の方々に何度も足を運ばれては、断るに断り切れず、自分の資格や特技が必要とされているなら貢献したいと思うようになり、山陰ビルサービスへの入社を決めました。
入社から間もなく退職することとなってしまい、樋野電気工業には申し訳なく思いましたが、事情を理解して快く送り出してくださったことを、今もありがたく思っています。
電気の保守点検から営業への異動が転機に
そして1979年には現場社員として山陰ビルサービスに入社し、住友生命松江ビルの図面起こしを行いました。ビルの完成後は、保安規定を作成して通商産業省(現:経済産業省)に提出するなどの実務で経験を活かせたため、とてもやりがいがありました。
ビルは無事にオープンし一息つくことができましたが、オープン後はビルの電気設備が集約されている監視盤室にほとんど座りきりで、1日に3~4回巡回する程度であり「20代の若者がこんなことしていていいのか」と葛藤するようになりました。
半年が経つ頃には自分の居場所ではないという思いが募り、辞表を提出して元の樋野電機に戻ろうとしたところ、家に専務が来て「営業にならないか」と打診されました。営業はこれまで携わったことも考えたこともない仕事だったので無理だと思い、高校時代からの親友3人に相談すると「お前は人付き合いも上手だし対話力もあるから、電気より営業のほうがいいかもしれない」と思いのほか前向きなアドバイスをもらい、初めて「自分の特技は電気とは別のところにもあるかもしれない」と考えるようになりました。親友たちの勧めを機に挑戦してみようと思えるようになり、1980年には思い切って営業部への異動を決めました。このことが私にとって大きな転機となりました。
1982年に開設した米子営業所と鳥取支店は、いずれも小さな営業所でしたが、私にはこれまで経営や営業の経験がなかったため、日々勉強しながら取り組みました。支店・営業所の開設に伴って会社は拡大し、それに伴い社員数も増員されていきました。現場経験を積む中で、私にも愛社精神が芽生え、もっと会社を良くしたいという考えから、改善を続けていきました。
バブル崩壊により偏った社内体制と社員の意欲低下が顕在化
1990年には、本社ビルを新築し移転することとなりましたが、バブル崩壊により会社の経営も傾きかけました。力を合わせて乗り切るべき時期でしたが、内部の諸事情から社員のモチベーション低下が目につくようになりました。
社員の反発は深刻であり、終業時刻の前に社員1人だけを残してほかの社員は帰り、残る1人が全員分のタイムカードを打刻したり、作業服の社名の刺繍をカッターで削りとったりと、会社への不満が態度や行動となってあらわれるようになりました。
そして決定的だったのが、病院の掃除を担当していた社員が、保育園への勤務先の申告として、弊社ではなく派遣先の病院を記していたことが判明したときでした。おそらく弊社で働いていることを周りに知られたくない、恥ずかしいという思いから出た行動であり「どうしたら社員に誇りを持って働いてもらえるのか、いい会社とは何か」を、同じ会社の社員として本気で考えるようになりました。全社員が前向きな気持ちで頑張り、夢を描けるような会社にしていくことが経営側の義務だと思うようになり、鳥取支店長になった頃からは「会社を変えよう」と決意し、本格的に動き出しました。
その後、役付け第三位の取締役営業部長となり、目をかけてくれていた専務の後任として私が専務に昇格しました。その後、2001年に私が山陰ビルサービスを任され、代表権を引き継ぐこととなりました。
「社員が誇りを持って働ける会社づくり」に注力
代表権を得た2001年からは、組織や社風を変えるための体制づくりとして若手社員を集め、いい会社にするためにはどうしたらいいか、必要なことは何かを話し合えるようにしていきました。役員は同席せず、社員に自由に発言してもらえるようにすることで、より良い方へ変わっていきたいという社員の思いを引き出し、当事者意識をもって新しい文化を生み出せるような場をつくり上げていきました。
また、当時の弊社は経営理念がなく、同じグループの中でも経営者の方針が異なっていたので「グループ全体の根幹となる大切なものが必要なのでは」と考えるようになり、2002年頃からは大手経営コンサルティング会社のセミナーに参加し、経営計画について勉強を始めました。経営理念の存在価値や必要性、組織づくりについて学ぶうちに、人間力や道徳力を高めるモラロジーの思想に辿りつき、会社としてのあるべき姿を「三方良し」の考え方で具現化できるように、理念を策定しました。
そして理念を浸透させるために、社員には「経営方針書」という手帳を配布し、全現場・全事務所の朝礼で1日1回必ず集まって、朝集まれなければ昼礼や終礼などで理念を唱和してもらうようにしました。20余年前から現在まで、すべての現場で毎日唱和を続けることができています。ほかにも、年に1回各地区で行われる経営方針発表会や、その後行われるアセスメントにて会社としての価値観の共有をしています。
また、弊社ではアセスメント循環と呼ぶ1年間の流れをつくり、研修の中で価値観についての教育を行っています。職分別研修内や技術教育などの1年間のサイクルを定めて、取り組みを継続することで定着を図っています。
そして2004年からは、日本ビルメン経営品質協議会による「経営品質向上プログラム」を学び始めました。学びながら4年連続で「経営品質賞」にエントリーし、実践を繰り返していったことで、敢闘賞や優秀賞を受賞することができました。
社員と向き合い交流する工夫
そして2005年には「株式会社さんびる」へと社名を変更し、2006年には創業者から一任され、さんびるの代表取締役社長に就任しました。
社内の体制が整いはじめてからは「地域に愛され、社員が誇れる会社」になることが会社として目指すべき姿だと感じるようになり、まずは明るく元気で、何でも話せる風土づくりを目指しました。
役職関係なくファーストネームに「さん」づけで呼び合うことにしたところ、私が現場に行くたびに「正彦さん!」と社員がハイタッチで歓迎してくれるようになったのです。心の距離がぐっと縮まる効果がありました。
また、チーム活動、各種表彰制度、社員交流会、ビルクリーニング社内競技大会、創業祭、経営方針発表会、年間研修体制の整備や実施など、社員同志の絆を深める社内イベントを行うようにしました。イベントが充実し交流が盛んになったことで、社員のモチベーションが向上したと感じています。
現在の社員数は約1200人となりましたが、社員1人1人に誠実にいたいという思いはこれからも変わらずもち続けたいと思い、私と社員でやり取りできる仕組みを日々の中に構築しています。その代表的なものとして以下の2つがあります。
1つ目は、社員の誕生日祝いです。弊社では、お祝いの品と一緒に、社員が書き込むためのハガキの近況報告書を、全社員の誕生日当日に届けています。社員たちの近況報告に、私が返信する仕組みです。社員数が増えたため、社員1人1人と顔を合わせることは難しいのですが、文通によってそれぞれの顔を思い浮かべながらコミュニケーションをすることができています。
2つ目は、従業員満足度調査であるESアンケートに同封する、社長宛ての封書です。誕生日祝いのハガキとは異なり、封書なので個人的な悩みなどを書くことができます。今年は社員から300通ほどの手紙が届きました。300通のうち全体の5パーセントは、その社員を取り巻く業務環境について改善をもとめる意見です。全社員1200人から見ると少なく感じられるかもしれませんが、社員からの意見としてしっかり受けとめるよう心がけています。
また、職場だけでなく、家庭内での問題などプライベートな悩みについての相談もあります。社長なら聞いてくれると信頼してもらえているからこその相談であり、雇用関係を超え、一人の人間として認めてもらえていることを嬉しく思っています。
ハガキや手紙は1ヵ月以内に返信することを目指していて、1日に30通書くこともあります。家で返事を書くこともあるため、妻からは小言を言われることがありますが、私にとっては社員との関係性が財産だと思っています。
手紙で伝わらない場合は、1度お会いしコーヒーなどを飲みながら直接話をすることで、社員の思いに向き合えるように努めています。
地域貢献としては、障がいをもつ方を法定雇用率よりも多く雇用しています。農業教室、小学生ドッジボール大会、少年野球大会など、地域との交流を深め活性化する行事も積極的に行い、地域の方々と交流することで「いい会社ですね」と言っていただける機会が増え、社員も会社に誇りを持てるようになったのではと思っています。
代表に就任してから20年以上活動を継続したことで、社風が明るく変わり、社員満足度や顧客満足度も90%以上となりました。
2013年には、人を大切にする経営学会主催の「日本でいちばん大切にしたい会社」大賞審査委員会特別賞を受賞したことで、地域からあたたかな声をいただく機会がさらに増えたように感じます。
地域を思いシナジーを生み出す事業承継を目指す
弊社のある山陰地方では、後継者不在で引き継ぎ先が見つからないという企業の倒産が深刻になってきています。雇用の受け皿がなくなってしまえば、困るのは働く社員や地域の方々であり、弊社では2015年の株式会社福岡ビル開発の引き継ぎ以降、M&Aにより引き継いだ企業をグループへと迎え入れる機会が増えてきています。
最初に引き継いだ福岡ビル開発は、約10年来の付き合いで、創業者の西依社長は以前から「後継者がいない」という悩みを話していました。西依社長は商工会議所に相談し、引き継ぎ候補が2名来たもののうまくいかなかったようで、私に「福岡ビル開発を引き継いでほしい」と声がかかりました。人助けの気持ちで引き継いだ当初は赤字でしたが、信頼できる部下に経営改善を任せたところ、業績の回復に至り、現在は弊社から2人目の部下を送り、引き続き改善にあたっているところです。
また、グループ企業の食品スーパーは、島根の健康福祉事業を通じて過疎地域で買い物難民が増えている現状を見聞きし、引き継ぎを決めました。地方は人口が少ないため、スーパーもコンビニも撤退してしまいます。しかし地方では少子高齢が進んでおり、遠方まで買い物に行くのは大変です。地域の方が引き続き安心して買い物ができるように、また雇用を維持してほしいという思いでお話を受けました。
この10年ほどでM&Aは世の中に浸透し、弊社は事業承継の実績ができたことで、続々と相談が来るようになってきています。現在は地域貢献の一環として事業承継を進めており、グループには同業のビルメンテナンスだけでなく、空調設備工事、消防設備・防火対象物定期点検、健康経営コンサル、業務用ケミカル製品販売、食品スーパー、農業など、多様な業種がありますが、弊社では今のところ「市場か中身か」で承継を決めています。
島根・鳥取という山陰エリアでは「さんびる」の名前や社風、業種などは、ありがたいことに知られており、弊社との協業や承継を希望される企業の方々も、ある程度シナジーや相性を見込んだ上で声をかけてくれます。そのため、異業種であっても互いの長所を伸ばしていけば、シナジーは生み出せるだろうと思っています。一方で、弊社が認知されている島根・鳥取エリアや市場の外の企業とは接点があまりないため、互いの強みが生かせる、同業に近い業種のみに絞っています。
行政、企業との協業によりすべての地域の方が暮らしやすい街づくりへ
事業承継M&Aからご縁が広がり、近年は、行政からも地域づくり関連のご相談をいただいています。運用や維持管理などのビルメンテナンスだけでなく、施工前から携わらせていただき、弊社のバックボーンの健康福祉、学童の事業のノウハウを活かしながら、弊社が中心となり動いているところです。
また、近年は再生案件が増えており、今後10年は自治体と組んで、再生案件の支援に取り組んでいきたいと考えています。直近では、スポンサーとして高齢者介護サービス事業者の再生に携わり、最期まで安心して暮らせる地域のために尽力しています。
弊社では「人づくり」に力を注いできたので、その経験を活かし、より暮らしやすい環境づくりのために地域の皆さん、JA、郵便局などとタッグを組み、すべての人が明日に希望を持ち、歩んでいける地域になれば最高だと思っています。
地域の皆さんと声を掛け合って形にしていくことが、弊社としての地域へ恩返しになると考えています。
清掃業からスタートし分社化や社長交代の多難を経て立て直しへ
弊社の創業者である竹田俊美は1963年に備中屋建物美装に入社し清掃業に従事していました。この年が、弊社のビルメンテナンス業のルーツとされています。
さらにその後、備中屋建物美装は山陰ビル管理という会社に変わり、竹田は支店長に就任しました。しかし、1975年前後には資金繰りが悪くなって経営が傾き、給料が遅延したことで社員の不安を招くこととなりました。松江支店の社員たちは、リスク分散や経営の最適化のため、1977年に別法人として株式会社山陰ビルサービスを設立し、新たなスタートを切りました。社名に「山陰」という地域名が入れられたのは、「地域や社員に愛される企業として立て直したい」という思いが込められていたのだと思います。
また私としては、この山陰ビルサービスとして分社化されたタイミングが弊社の起点だと考えています。社員により別会社が設立されてからは、山陰ビル管理松江支店のほとんどのお客様も山陰ビルサービスへと移り、業績改善に注力していきました。
清掃業で家計を支えながら夢に向かって歩み続けた学生時代
現在2代目にあたる私は、両親・祖母・兄弟の家庭で育ちました。
父親は木挽きが本業で、他に漁業や山を転売する仕事もしていましたが、経済的に厳しく母は家計を支えるために山陰ビル管理松江支店で働いていました。私自身も、小学生の頃から母と掃除の仕事をしていたため、当時から創業者の竹田のことは知っていました。
学生時代の私は、電気屋の社長になり家族で幸せに暮らす夢を叶えるために、土日も休まず掃除のアルバイトに勤しみ、高校時代は毎日の学校帰りに17キロもの距離を自転車で移動して、ビルのテナントでゴミ回収や掃除などをしていました。
貧しく大変な暮らしではありましたが、勉強は手を抜かず、高校生では取得が難しいとされていた第三種電気主任技術者免状などの資格を在学中にいくつか取得することができました。そして就職活動の時期には、先生たちや父から「難しい」と反対されていた新日本製鐵株式会社(現:日本製鉄株式会社)の主務職への採用が決まり、大卒レベルの採用枠だったため高校内でちょっとした話題となったのは、今でも忘れられない思い出となっています。
私には弟や妹もいたため、就職が決まった後も高校卒業までは清掃を続けました。私の困難を乗り越える辛抱強さや精神的な基盤は、この学生時代に育まれたのかもしれません。
続く苦難の中で受けとった、人を思いやるあたたかさと感謝の心
高校卒業後の1976年4月には、兵庫県姫路市内の新日鐵広畑製鉄所に配属され、地元を離れて寮生活をすることになりました。自分が仕事を頑張ることで、家族と貧しい生活から抜け出したいという思いで必死に仕事に励んでいました。
しかし、私が寮生活をしている間に家庭が荒れてしまい、入社2年目のお盆に帰省したところ、祖母から「戻ってきて」と懇願されました。父とは5年経ってから戻るという約束をしていましたが、育ての親である祖母が苦しんでいるのを見て見ぬふりはできず、また自らつかみ取った職と仕事を投げ出したくないという気持ちもあり悩みました。
悩み抜いた末に、目をかけてくれていた上司に相談したところ、退職帰郷を後押ししてくださった上、失業期間中に私や家族が生活に困らないようにと気を配っていただきました。
そして1978年には実家に戻り、松江市内の樋野電機工業(現:樋野電機工業有限会社)に入社しました。私が戻ったからとはいえ、すぐに家庭環境が良くなることはなく、前の会社で働き続けたかったという未練や、期待してくれていた方々に申し訳ないという気持ちを抱えながら、辛い日々を過ごしていました。
そのような中で、前職の新日鐵からは1000万円もの制御盤の注文をいただいたり、新日鐵時代の上司・同僚が家に来て励ましてくれたりしたことで、支えられ救われた気持ちになりました。人を思いやる心のあたたかさに触れ、私自身も人とのご縁を大切に、感謝の気持ちを忘れないことを何よりも大切にしたいと思えるようになりました。この経験と思いは、のちに経営者となってからの社員や地域に手を差し伸べたいという思いにもつながっています。
学生時代に働いていた山陰ビルサービスから声がかかり入社
私が樋野電機に入社した年には、松江駅前に「住友生命松江ビル」という、当時の松江市内で一番高い9階建てのビルが建設中でした。この住友生命松江ビルのメンテナンスは、私が高校生までアルバイトをしていた山陰ビルサービスに委託されており、山陰ビルサービスの全社員が熱心に営業した結果、総合ビル管理と電気の保守点検込みで業務を受託できる運びとなったようでした。しかし、当時の山陰ビルサービスの事業は清掃業のみで、ビル管理や保守点検の資格者が社内にいませんでした。そこで、すべて必要な資格を取得している私に白羽の矢が立ったのです。
母を経由し山陰ビルサービスへの入社を打診されましたが、入社したばかりの樋野電機工業に迷惑をかけたくないという思いと、何よりも電気関係の道に進みたいと考えていたため、1度断りました。ところが後日、専務や社長がわざわざ自宅まで入社を頼みに訪れました。長年お世話になった会社の方々に何度も足を運ばれては、断るに断り切れず、自分の資格や特技が必要とされているなら貢献したいと思うようになり、山陰ビルサービスへの入社を決めました。
入社から間もなく退職することとなってしまい、樋野電気工業には申し訳なく思いましたが、事情を理解して快く送り出してくださったことを、今もありがたく思っています。
電気の保守点検から営業への異動が転機に
そして1979年には現場社員として山陰ビルサービスに入社し、住友生命松江ビルの図面起こしを行いました。ビルの完成後は、保安規定を作成して通商産業省(現:経済産業省)に提出するなどの実務で経験を活かせたため、とてもやりがいがありました。
ビルは無事にオープンし一息つくことができましたが、オープン後はビルの電気設備が集約されている監視盤室にほとんど座りきりで、1日に3~4回巡回する程度であり「20代の若者がこんなことしていていいのか」と葛藤するようになりました。
半年が経つ頃には自分の居場所ではないという思いが募り、辞表を提出して元の樋野電機に戻ろうとしたところ、家に専務が来て「営業にならないか」と打診されました。営業はこれまで携わったことも考えたこともない仕事だったので無理だと思い、高校時代からの親友3人に相談すると「お前は人付き合いも上手だし対話力もあるから、電気より営業のほうがいいかもしれない」と思いのほか前向きなアドバイスをもらい、初めて「自分の特技は電気とは別のところにもあるかもしれない」と考えるようになりました。親友たちの勧めを機に挑戦してみようと思えるようになり、1980年には思い切って営業部への異動を決めました。このことが私にとって大きな転機となりました。
1982年に開設した米子営業所と鳥取支店は、いずれも小さな営業所でしたが、私にはこれまで経営や営業の経験がなかったため、日々勉強しながら取り組みました。支店・営業所の開設に伴って会社は拡大し、それに伴い社員数も増員されていきました。現場経験を積む中で、私にも愛社精神が芽生え、もっと会社を良くしたいという考えから、改善を続けていきました。
バブル崩壊により偏った社内体制と社員の意欲低下が顕在化
1990年には、本社ビルを新築し移転することとなりましたが、バブル崩壊により会社の経営も傾きかけました。力を合わせて乗り切るべき時期でしたが、内部の諸事情から社員のモチベーション低下が目につくようになりました。
社員の反発は深刻であり、終業時刻の前に社員1人だけを残してほかの社員は帰り、残る1人が全員分のタイムカードを打刻したり、作業服の社名の刺繍をカッターで削りとったりと、会社への不満が態度や行動となってあらわれるようになりました。
そして決定的だったのが、病院の掃除を担当していた社員が、保育園への勤務先の申告として、弊社ではなく派遣先の病院を記していたことが判明したときでした。おそらく弊社で働いていることを周りに知られたくない、恥ずかしいという思いから出た行動であり「どうしたら社員に誇りを持って働いてもらえるのか、いい会社とは何か」を、同じ会社の社員として本気で考えるようになりました。全社員が前向きな気持ちで頑張り、夢を描けるような会社にしていくことが経営側の義務だと思うようになり、鳥取支店長になった頃からは「会社を変えよう」と決意し、本格的に動き出しました。
その後、役付け第三位の取締役営業部長となり、目をかけてくれていた専務の後任として私が専務に昇格しました。その後、2001年に私が山陰ビルサービスを任され、代表権を引き継ぐこととなりました。
「社員が誇りを持って働ける会社づくり」に注力
代表権を得た2001年からは、組織や社風を変えるための体制づくりとして若手社員を集め、いい会社にするためにはどうしたらいいか、必要なことは何かを話し合えるようにしていきました。役員は同席せず、社員に自由に発言してもらえるようにすることで、より良い方へ変わっていきたいという社員の思いを引き出し、当事者意識をもって新しい文化を生み出せるような場をつくり上げていきました。
また、当時の弊社は経営理念がなく、同じグループの中でも経営者の方針が異なっていたので「グループ全体の根幹となる大切なものが必要なのでは」と考えるようになり、2002年頃からは大手経営コンサルティング会社のセミナーに参加し、経営計画について勉強を始めました。経営理念の存在価値や必要性、組織づくりについて学ぶうちに、人間力や道徳力を高めるモラロジーの思想に辿りつき、会社としてのあるべき姿を「三方良し」の考え方で具現化できるように、理念を策定しました。
そして理念を浸透させるために、社員には「経営方針書」という手帳を配布し、全現場・全事務所の朝礼で1日1回必ず集まって、朝集まれなければ昼礼や終礼などで理念を唱和してもらうようにしました。20余年前から現在まで、すべての現場で毎日唱和を続けることができています。ほかにも、年に1回各地区で行われる経営方針発表会や、その後行われるアセスメントにて会社としての価値観の共有をしています。
また、弊社ではアセスメント循環と呼ぶ1年間の流れをつくり、研修の中で価値観についての教育を行っています。職分別研修内や技術教育などの1年間のサイクルを定めて、取り組みを継続することで定着を図っています。
そして2004年からは、日本ビルメン経営品質協議会による「経営品質向上プログラム」を学び始めました。学びながら4年連続で「経営品質賞」にエントリーし、実践を繰り返していったことで、敢闘賞や優秀賞を受賞することができました。
社員と向き合い交流する工夫
そして2005年には「株式会社さんびる」へと社名を変更し、2006年には創業者から一任され、さんびるの代表取締役社長に就任しました。
社内の体制が整いはじめてからは「地域に愛され、社員が誇れる会社」になることが会社として目指すべき姿だと感じるようになり、まずは明るく元気で、何でも話せる風土づくりを目指しました。
役職関係なくファーストネームに「さん」づけで呼び合うことにしたところ、私が現場に行くたびに「正彦さん!」と社員がハイタッチで歓迎してくれるようになったのです。心の距離がぐっと縮まる効果がありました。
また、チーム活動、各種表彰制度、社員交流会、ビルクリーニング社内競技大会、創業祭、経営方針発表会、年間研修体制の整備や実施など、社員同志の絆を深める社内イベントを行うようにしました。イベントが充実し交流が盛んになったことで、社員のモチベーションが向上したと感じています。
現在の社員数は約1200人となりましたが、社員1人1人に誠実にいたいという思いはこれからも変わらずもち続けたいと思い、私と社員でやり取りできる仕組みを日々の中に構築しています。その代表的なものとして以下の2つがあります。
1つ目は、社員の誕生日祝いです。弊社では、お祝いの品と一緒に、社員が書き込むためのハガキの近況報告書を、全社員の誕生日当日に届けています。社員たちの近況報告に、私が返信する仕組みです。社員数が増えたため、社員1人1人と顔を合わせることは難しいのですが、文通によってそれぞれの顔を思い浮かべながらコミュニケーションをすることができています。
2つ目は、従業員満足度調査であるESアンケートに同封する、社長宛ての封書です。誕生日祝いのハガキとは異なり、封書なので個人的な悩みなどを書くことができます。今年は社員から300通ほどの手紙が届きました。300通のうち全体の5パーセントは、その社員を取り巻く業務環境について改善をもとめる意見です。全社員1200人から見ると少なく感じられるかもしれませんが、社員からの意見としてしっかり受けとめるよう心がけています。
また、職場だけでなく、家庭内での問題などプライベートな悩みについての相談もあります。社長なら聞いてくれると信頼してもらえているからこその相談であり、雇用関係を超え、一人の人間として認めてもらえていることを嬉しく思っています。
ハガキや手紙は1ヵ月以内に返信することを目指していて、1日に30通書くこともあります。家で返事を書くこともあるため、妻からは小言を言われることがありますが、私にとっては社員との関係性が財産だと思っています。
手紙で伝わらない場合は、1度お会いしコーヒーなどを飲みながら直接話をすることで、社員の思いに向き合えるように努めています。
地域貢献としては、障がいをもつ方を法定雇用率よりも多く雇用しています。農業教室、小学生ドッジボール大会、少年野球大会など、地域との交流を深め活性化する行事も積極的に行い、地域の方々と交流することで「いい会社ですね」と言っていただける機会が増え、社員も会社に誇りを持てるようになったのではと思っています。
代表に就任してから20年以上活動を継続したことで、社風が明るく変わり、社員満足度や顧客満足度も90%以上となりました。
2013年には、人を大切にする経営学会主催の「日本でいちばん大切にしたい会社」大賞審査委員会特別賞を受賞したことで、地域からあたたかな声をいただく機会がさらに増えたように感じます。
地域を思いシナジーを生み出す事業承継を目指す
弊社のある山陰地方では、後継者不在で引き継ぎ先が見つからないという企業の倒産が深刻になってきています。雇用の受け皿がなくなってしまえば、困るのは働く社員や地域の方々であり、弊社では2015年の株式会社福岡ビル開発の引き継ぎ以降、M&Aにより引き継いだ企業をグループへと迎え入れる機会が増えてきています。
最初に引き継いだ福岡ビル開発は、約10年来の付き合いで、創業者の西依社長は以前から「後継者がいない」という悩みを話していました。西依社長は商工会議所に相談し、引き継ぎ候補が2名来たもののうまくいかなかったようで、私に「福岡ビル開発を引き継いでほしい」と声がかかりました。人助けの気持ちで引き継いだ当初は赤字でしたが、信頼できる部下に経営改善を任せたところ、業績の回復に至り、現在は弊社から2人目の部下を送り、引き続き改善にあたっているところです。
また、グループ企業の食品スーパーは、島根の健康福祉事業を通じて過疎地域で買い物難民が増えている現状を見聞きし、引き継ぎを決めました。地方は人口が少ないため、スーパーもコンビニも撤退してしまいます。しかし地方では少子高齢が進んでおり、遠方まで買い物に行くのは大変です。地域の方が引き続き安心して買い物ができるように、また雇用を維持してほしいという思いでお話を受けました。
この10年ほどでM&Aは世の中に浸透し、弊社は事業承継の実績ができたことで、続々と相談が来るようになってきています。現在は地域貢献の一環として事業承継を進めており、グループには同業のビルメンテナンスだけでなく、空調設備工事、消防設備・防火対象物定期点検、健康経営コンサル、業務用ケミカル製品販売、食品スーパー、農業など、多様な業種がありますが、弊社では今のところ「市場か中身か」で承継を決めています。
島根・鳥取という山陰エリアでは「さんびる」の名前や社風、業種などは、ありがたいことに知られており、弊社との協業や承継を希望される企業の方々も、ある程度シナジーや相性を見込んだ上で声をかけてくれます。そのため、異業種であっても互いの長所を伸ばしていけば、シナジーは生み出せるだろうと思っています。一方で、弊社が認知されている島根・鳥取エリアや市場の外の企業とは接点があまりないため、互いの強みが生かせる、同業に近い業種のみに絞っています。
行政、企業との協業によりすべての地域の方が暮らしやすい街づくりへ
事業承継M&Aからご縁が広がり、近年は、行政からも地域づくり関連のご相談をいただいています。運用や維持管理などのビルメンテナンスだけでなく、施工前から携わらせていただき、弊社のバックボーンの健康福祉、学童の事業のノウハウを活かしながら、弊社が中心となり動いているところです。
また、近年は再生案件が増えており、今後10年は自治体と組んで、再生案件の支援に取り組んでいきたいと考えています。直近では、スポンサーとして高齢者介護サービス事業者の再生に携わり、最期まで安心して暮らせる地域のために尽力しています。
弊社では「人づくり」に力を注いできたので、その経験を活かし、より暮らしやすい環境づくりのために地域の皆さん、JA、郵便局などとタッグを組み、すべての人が明日に希望を持ち、歩んでいける地域になれば最高だと思っています。
地域の皆さんと声を掛け合って形にしていくことが、弊社としての地域へ恩返しになると考えています。
会社概要
社名 | 株式会社さんびる |
創立年 | 1977年 |
代表者名 | 代表取締役 田中 正彦 |
資本金 | 7,200万円 |
URL |
https://www.sanbg.com/
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本社住所 |
〒690-0045 |
事業内容 | ビルメンテナンス 指定管理 健康福祉 さんびるアカデミー |
事業エリア |
鳥取支店 〒680-0911 |
米子営業所 〒683-0805 |
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松江営業所 〒690-0884 |
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出雲営業所 〒693-0023 |
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浜田営業所 〒697-0023 |
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岡山営業所 〒700-0907 |
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倉敷営業所 〒710-0038 |
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広島営業所 〒730-0051 |
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山口営業所 〒754-0002 |
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安来営業所 〒692-0011 |
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健康福祉部 鳥取事業所 〒680-0044 |
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東京営業所・広域本部 〒140-0001 |
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エンジニア事業部 〒699-0108 |
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京都営業所 〒604-8006 |
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不動産事業部 管理サービス課 〒690-0887 |
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但馬営業所 〒667-0022 |
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九州地区本部 〒812-0013 |
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江津事務所 〒695-0011 |
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境港事務所 〒684-0033 |
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関連会社 |

会社沿革
1963年 | 竹田俊美、備中屋建物美装入社、清掃業務に従事 |
1970年 | 備中屋建物美装松江支店長就任 |
1975年 | 竹田俊美、島根ビルメンテナンス協会長に専任される |
1977年 | 株式会社山陰ビルサービスを設立(松江市岡本町1548) |
1978年 | 出雲営業所開設(出雲市大津町本朝844) 厚生省空気環境測定・貯水槽清掃業の指定を受ける (株)山陰合同銀行頭取より表彰 |
1979年 | 全国ビルメンテナンス協会、島根ビルメンテナンス協会、島根ビルメンテナンス共同組合入会 |
1980年 | (社)日本ペストコントロール協会・(社)島根県ペストコントロール協会加入 |
1981年 | 本社社屋竣工移転(松江市東本町1丁目) 出雲営業所移転(出雲市今町町) |
1982年 | 米子営業所開設(米子市長砂町199) 鳥取支店開設(鳥取市大杙五万田221-4) |
1986年 | 全国ビルメンテナンス協会長表彰を受賞 |
1987年 | 山陰ビルサービス創業25年、設立10周年を迎える |
1988年 | 浜田営業所開設(浜田市黒川町) 米子営業所移転(米子市米原171-8) (社)島根ビルメンテナンス協会長に就任 (社)日本ペストコントロール協会より感謝状 |
1989年 | 鳥取支店移転(鳥取市御弓町) |
1990年 | 本社社屋竣工移転(松江市南田町92-1) |
1991年 | 出雲営業所移転(出雲市塩冶有原町) 竹田俊美、厚生大臣表彰を受ける |
1992年 | 山陰ビルサービス創業30周年、設立15周年を迎える |
1994年 | 明るい挨拶運動開始 |
1996年 | イオペックと共同にてハックス事業部スタート |
1997年 | パソコン導入、トイレ部門地域No.1運動開始 山陰ビルサービス創業35周年、設立20周年を迎える |
1998年 | 玄関部門地域No.1運動開始 財団法人医療関連サービス振興会 院内清掃業務サービスマーク認定 |
1999年 | 第一次社内LAN構築 第6回全国ビルクリーニング競技大会へ選手輩出 |
2000年 | 障がい者雇用促進大会労働大臣表彰受賞 |
2001年 | 創業祭スタート 障害者雇用優良事業所として労働大臣表彰受賞 しまね産業振興財団支援によるIT活用ビルメンテナンスパッケージソフト開発スタート 床コーティング(ウィナップ)、素材復元(リバル)技術導入し営業展開スタート |
2002年 | ISO9001取得プロジェクトスタート 第二次社内LAN構築 サンビルサポートセンターを開設し人材派遣業へ本格参入 IS09001認証本審査を受ける 島根県から産業廃棄物収集運搬業許可を受ける IS09001認証取得 ITビルメンテナンス支援ソフト名が「びるめん管太2002」に決定 島根県から特別管理産業廃棄物の許可を受ける |
2003年 | ボイスメールを導入する。 ITビルメンテナンス支援ソフト「びるめん管太2002」販売開始 |
2004年 | 浜田営業所移転(浜田市竹迫町) エンジニア事業部開設 |
2005年 | 『2004年度中国地方経営品質賞チャレンジ部門』敢闘賞受賞 「株式会社さんびる」に社名変更 社会保険庁長官表彰受賞 株式会社SKSS設立 |
2006年 | 竹田俊美会長、田中正彦社長就任 『2005年度中国地方経営品質賞エクセレンス部門』奨励賞受賞 |
2007年 | 倉敷営業所開設(倉敷市老松町) 山口営業所開設(山口市小郡下郷) 『2006年度中国地方経営品質賞エクセレンス部門』奨励賞受賞 株式会社さんびる設立30周年を迎える 広島営業所開設(広島市西区三篠町) ISO14001認証取得 |
2008年 | 安来事業所開設(安来市飯島町) 『2007年度中国地方経営品質賞エクセレンス部門』優秀賞受賞 米子営業所移転(米子市旗ヶ崎) |
2009年 | ISO27001認証取得 スカット事業部開設(広島市安佐南区八木) SKプラザ(旧しまね社会保険センター)オープン 広島営業所移転(広島市安佐南区八木) eco25事業部開設(本社・松江) |
2010年 | しまね子育て応援企業(こっころカンパニー)認定 岡山営業所開設(岡山市南区福成) 島根県から一般建設業の許可を受ける 浜田営業所新築移転(浜田市長沢町) |
2011年 | 株式会社さんびるリフォーム設立 |
2013年 | 第3回「日本でいちばん大切にしたい会社」大賞審査委員会特別賞受賞 しまね子育て応援企業(こっころカンパニー)再認定 健康福祉部鳥取事業所開設(鳥取市御弓町) さんさんビルオープン イタリアンレストラン「パストグラッツェ」オープン(さんさんビル内) |
2014年 | 本社社屋竣工移転(松江市乃白町) さんびるアカデミー卓球塾・学童塾・健康塾オープン(さんさんビル内) 株式会社福岡ビル開発(本社:福岡市博多区)を吸収し、さんびるグループ企業に入る 広域本部・山陽地区本部開設(広島市中区袋町) 株式会社SRE本社移転(広島市中区袋町) |
2015年 | 東京事務所開設(港区虎ノ門) 米子営業所移転(米子市西福原) |
2016年 | 県民いきいき活動奨励賞受賞(島根県) 株式会社さんびる設立40周年記念地区ボウリング大会開始 東京事務所移転(港区浜松町) 株式会社さんちゃんマート設立 |
2017年 | さんびるホールディングス株式会社設立 株式会社さんちゃんファーム設立 品質管理部新設(島根県松江市) 株式会社さんびる設立40周年を迎える 株式会社ビル環境衛生管理(本社:高知市桟橋通)を吸収し、さんびるグループ企業に入る |
2018年 | 東京事務所移転し、東京営業所開設(品川区北品川) 安来事業所を安来営業所に名称変更 さんびるアカデミー学童塾出雲キャンパス校オープン(出雲市塩冶町) 倉敷営業所移転(倉敷市新田) 地域未来牽引企業選定 |
2019年 | 株式会社ヨネザワ(本社:鳥取市千代水)を吸収し、さんびるグループ企業に入る 広島営業所移転(広島市中区) 関西支社京都営業所開設(京都市中京区) |
2020年 | 情報システム課新設(島根県松江市) 清掃技術部新設(島根県松江市) 営業推進部新設(島根県松江市) 有限会社橋北不動産(本社:松江市春日町)を吸収し、さんびるグループ企業に入る |
2021年 | 岡山営業所移転(岡山市北区) 不動産事業部 管理サービス課新設(島根県松江市) 但馬営業所開設(兵庫県養父市) 九州地区本部開設(福岡県福岡市) |
2022年 | えま空調有限会社(本社:倉吉市下余戸)を吸収し、さんびるグループ企業に入る 長谷川防災株式会社(本社:松江市矢田町)を吸収し、さんびるグループ企業に入る 有限会社橋北不動産を株式会社さんびる不動産に名称変更し、松江市南田町に移転 江津事務所開設(島根県江津市) 境港事務所開設(鳥取県境港市) エンジニア事業部移転(松江市東出雲町) 長谷川防災株式会社を株式会社さんびる防災社に名称変更 |
2023年 | えま空調有限会社を株式会社えま空調に名称変更 中国文教株式会社(本社:出雲市塩冶神前)を吸収し、さんびるグループ企業に入る 株式会社環境技術センター九州(本社:福岡市博多区)を吸収し、さんびるグループ企業に入る 株式会社ガット(本社:岡山県津山市)、株式会社ミカモサービス、おひさま株式会社、株式会社ガット・ウェルを吸収し、さんびるグループ企業に入る 株式会社総合防災工業(本社:雲南市木次町)を吸収し、さんびるグループ企業に入る |
2024年 | 松江市総合文化センタープラバホールのネーミングライツを獲得し、「さんびる文化センタープラバホール」としてリニューアルオープン 高松営業所開設(高松市郷東町3-6 河田ビル2階) |
公開日:2025/03/05
※本記事の内容および所属名称は2025年3月現在のものです。現在の情報とは異なる場合があります。
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