茨城・常陸太田市
引継ぎ実績あり
民事再生から
金砂郷食品株式会社
すべては地元の特産品と産業を守るために。使命感で駆け抜けた13年
経営理念
ミッション(使命感)
法令を遵守し、誠実な製品作りを通して、食卓の幸せを創造し、社会に貢献する
ビジョン(将来感)
地域に根ざした企業活動を基盤にし、世界に通用する大豆食品を提供する
バリュー(価値観)
日々「感謝」の気持ちを忘れず、「感謝」の気持ちを全ての製品、自らの行動に反映させる
代表者メッセージ
弊社は、「くめ納豆」ブランドを手掛けていた、くめ・クオリティ・プロダクツ株式会社の民事再生計画の経緯の中で生まれた会社です。2009年に金砂郷食品株式会社という名の納豆メーカーとして新たにスタートいたしました。
前身企業が今から60余年前、当時としては珍しい極小粒大豆を使用した納豆を手掛け、独自の長時間発酵及び熟成と、よりよい大豆の選定による「おいしい納豆」作りを受け継いでおります。
社員も、本当においしい納豆を作りたいという強い気持ちで挑戦しております。
皆様にご愛顧いただける製品づくりを通して、「単に納豆を食べる」ことから「納豆を食べる、より良い時間をお届けする」ことに主眼を置き、大豆や、納豆本来のおいしさを追求しております。
代表取締役社長 永田 由紀夫
私たちのこだわり
老舗納豆メーカーの立て直しのために創業
弊社は「くめ納豆」ブランドを展開する納豆業界大手、くめ・クオリティ・プロダクツ株式会社(以下 前身企業)が、2009年に民事再生の適用を東京地裁に申請したことを契機に誕生した会社です。私が株主となり、その不良債権を引き継ぎ、精算するための会社として創業しました。
前身企業が経営不振に陥った大きな原因が、1999年9月30日に東海村にあるJCOの原子力燃料精製工場で起こった臨界事故になります。事故現場から半径10km圏内が立ち入り禁止となり、その圏内にあった製造工場も休業を余儀なくされました。臨界事故が起きる前年は年商がおよそ114億円、従業員数330人という全国3位の納豆メーカーでした。しかし、臨界事故の発生した年は年商が約30億円も下がり、非常に厳しい経営状況に立たされました。その結果、330人いた社員のうち80人を解雇し、倒産だけは免れます。そこから10年間、人件費や変動費を削りながら、年商85~90億円を必死で守り続けたものの、2009年には資金繰りに行き詰まり、民事再生を行いました。事故が起きた1999年は中期計画をスタートさせた年で思い切った設備投資を行っていました。拡大を見込んだ設備投資が結果として仇になった形です。
業界大手メーカーの手厚い援助で見えてきた再建への道筋
民事再生を申請したものの、スムーズに再建フェーズに入れたわけではなく、課題は山積していました。その中でも特に深刻な問題が粉飾決算と100億円を超える負債額です。特に粉飾決算の問題は経営再建にとって大きなネックになりました。
当初、前身企業の再建には業界大手メーカーの2社が手を挙げたものの、粉飾決算が発覚したことでそのうちの1社は撤退します。残った1社は、当時85億円の年商があった「くめ納豆」の営業権と商標権に対して資金を出すというスキームを持っていたため、支援企業となり、再生計画をスタートさせました。
再建計画は、前身企業の承継会社の設立から始まり、当初私を含め、3人が事業承継会社の経営者候補者に上がりました。支援企業はその3人と個別に面接を行い、その結果私が事業承継会社の経営者に選ばれ、弊社・金砂郷食品株式会社を設立しました。ところが事業承継会社の経営者に選ばれなかった2人が、反金砂郷食品の立場をとり、会社設立と同時に従業員組合を立ち上げ、再建スキームに抵抗する動きをし始めます。そのため再建スキームは一度そこで頓挫してしまいました。
その窮地を救ってくれたのが、再建スキームを提案してくれた支援企業の先代社長でした。先代が私のために緊急役員会を開き、その場で私が懇願したことで最終的に私の願いを聞き入れてもらい、再生計画は再始動しました。とは言え、会社内のゴタゴタが収まったわけではありません。私が出資者で株主であったにも関わらず、過去に80人もの解雇を行ったことで社内の人気がなかったため、初代社長は前身企業の2代目社長のいとこを代表権のない社長に据え、私は代表取締役副社長に就きました。私としては支援企業との5年の再生計画が終了した後に退職しようと考えていたのですが、株主でもない、前身企業の創業家の親族が「私たちの会社だ」と乗り込んできたのです。そこで私は前身会社の親族でもあった当時の社長に多額の退職金を払い、会社設立4年目にして代表取締役社長に就任し、現在に至っています。
再建の道を歩み出した直後の東日本大震災による被災
金砂郷食品として新たな歴史を歩み始めた2009年の大きな仕事は、支援企業のOEMでくめ納豆を製造して供給することでした。当時100人の社員を抱えて、年商が20億円ほど5年計画での再建スキームは順調な滑り出しを見せていました。
ところが3年目の2011年、東日本大震災が起こり2つの工場が被災し、再建計画は頓挫してしまいます。さらに当時のメインバンクとの行き違いも重なり、再建計画の見通しは立たなくなってしまいました。最終的に支援企業に債権放棄をしていただき、何とか危機を乗り越えられましたが、今度はその債権放棄により経常利益が大幅に拡大したことから翌年の納税額が跳ね上がり、資金繰りが逼迫する事態にも見舞われました。
この一連の危機を何とか乗り越えられたのは、震災直後に支援企業から受けたご厚意があってこそでした。工場が被災して4か月間操業できなかった間、支援企業は弊社の従業員約60名を、住居費も含めて丸抱えで出向を受け入れてくれたからです。また震災直後の食料品が手に入らなかった頃、水や食料品も調達してくれました。お陰で震災後1か月間、弊社従業員は飢えることなく助かりました。
ここまでの良好な関係を支援企業と結ぶことのできた要因は2つあります。ひとつは、支援企業が「くめ納豆」という強力なブランドの営業権と商標権で投資効果が見込める事、そしてもう一つは「永田社長なら大丈夫」と私を信頼してくれていたことです。私は前身企業で営業の執行役員をしていた時があり、支援企業も含め、他の納豆大手企業の役員たちと定期的に会合を開き、いろいろな問題を協議していました。その時の仕事ぶりを覚えてくれていた人たちが私を信頼してくれたのです。そうした支援のおかげで、苦しい時期を乗り越え、現在では赤字から脱却して、年商10億から11億円くらいまで戻すことができました。
次の一歩を踏み出すために始めた新ブランド
弊社は当初、支援企業が商標権と営業権を持っていた「くめ納豆」の製造を請け負っていたため、自社ブランドはゼロでしたが商品開発は続けていました。その時の商品開発のコンセプトは「大手他社ができないものを作る」でした。例えば今でも製造販売している麦入りの納豆や国産の極小粒納豆、大手の商品供給量からすると少なすぎて手を出せない種類の大豆を使った納豆などです。そこには「くめ納豆」本来の製法を引き継いだ金砂郷食品の工場だからこそできるというプライドがありました。また価格にしても、価値のある商品ならば、お客さまに選んでいただけるという確信のもと、200円や300円、高いものでは500円を超える高級路線に踏み出しました。一方で、製造技術の向上による波及効果で、安くても旨い納豆を作れるようにもなりました。それらは後に展開するプライベートブランド(PB)を手掛ける際に他社との差別化に活きています。
そうした積み重ねにより、今や弊社は、前身企業が年商100億円を計上していた頃でも取引できなかった高級スーパー・成城石井や紀ノ国屋と取引ができるようになりました。成城石井ではPBで大粒納豆を、紀ノ国屋でも同じくPBの小粒納豆をそれぞれ製造・供給しています。また首都圏を中心に展開する大手スーパー「ライフ」にカップ納豆を納品するようになりました。
取引につながったきっかけは、いずれも弊社の商品を食べた方からの推薦になります。成城石井の場合は社長、ライフの場合は当時の商品部長のご家族からの推薦でした。弊社が守り続けてきた「味」が営業マンとなり、好結果に繋がっているのは、これまでの苦労が報われた思いです。同時にこの味を守り続けていくことへの責任を改めて実感する機会になりました。
あらゆる情報を開示する報告会で社員の当事者意識を醸成
弊社では毎月第3水曜日の午前11時から12時まで、派遣社員を除いた社員全員と全アルバイトを集めて社員報告会を実施しています。その報告会では前月の月次報告、生産の稼働率や生産時の事故の有無、クレームの有無、そして詳細な収支報告、事業計画の共有を行います。報告会開始時には全員で社是・社訓の唱和を行い、経営理念とか社是を作った意味などを理解してもらっています。
このような報告会を行う理由は、前の会社が粉飾決算で倒産したためです。「もしあの時、社員が会社の今の状況を知っていたなら、最悪の事態は免れることができたのではないか」、その思いから社員報告会を始めました。今の会社の状況を把握すれば、自分の働きが会社の利益のどこにつながっているのかが見えてきます。見えないゆえに他人事になっていたのが、見えることで我が事のように感じてもらえると考えているからです。
社員教育ではパートナー制度を導入しています。新入社員ひとりに対して、先輩社員がパートナーとして1年間、仕事の仕方や向き合い方を伝えたり、悩み相談に乗る役割を担う制度です。パートナーは入社3、4年目社員が担っています。歳の近い先輩に教えられることで新入社員が頼りやすいというメリットがある他、教える側の社員にとっては、自分の仕事の知識やノウハウを言語化し、責任と自覚を持つきっかけになっており、その点こそが最大の教育効果といえる部分です。
前身企業の頃は、クレームに対する認識が非常に甘く、月に100件ものクレームが寄せられたこともありました。弊社を立ち上げる時に「クレームゼロを目指そう」と社員に伝えたところ、当時約100人の社員は全員口を開けて唖然としていたのをよく覚えています。当時はクレームに対する問題意識が低く、さらにクレームが寄せられることが当たり前だととらえる雰囲気があったからです。そこから地道に教育を行い、ヒューマンエラーが起きやすい部分には設備投資で機械化していくことで事故防止を行い、2年半後にはクレームがゼロになる月も出てくるようになりました。今では年間で約6,000万食製造していますが、クレーム数は年間で20件以下に止まっています。このクレームに対して向き合う姿勢は、弊社が誇る企業カルチャーといえます。
会社は自分のものではなく地域に残すためのもの
「くめ納豆」の「くめ」は、前身企業の創業の地である「久米村」に由来したものです。また弊社の「金砂郷」も今は合併により消滅した地名ですが、地元の「金砂郷町」から取っています。現在、金砂郷という地名を使っているのは弊社と地元の小学校など数か所程度です。私はこの会社を自分のものではなく、地域に残すための会社だと考えておりましたので、現在の社名を選択しました。私は、常陸太田市の特産品である納豆を製造する会社がこの地にあることは大切なことだと思っていますし、そういう価値観を大切にしてくれるメンバーをこの地域に残したいと思っています。なぜならそれが地域への誇りや愛着を生み、地域全体の活性化に繋がっていくと考えているからです。
今後の事業については、コロナ禍で少し滞っていた海外輸出を再び本格化させたいと考えています。納豆を海外の人たちの食生活に取り込めるような常温化した製品や、ペースト化したものなど、納豆加工品の商品開発を続けております。売り上げとしてはまだまだ少ないですが、年商数千万円の規模にまで育ってきました。将来的には海外の売上と国内の売上が半々ぐらいになるような状態を目指しています。弊社だけで海外展開に関わるすべてのことを行うとは思っていません。シナジー効果のある企業とはM&Aや業務提携も含め、事業を一緒に進めていきたいと考えております。
老舗納豆メーカーの立て直しのために創業
弊社は「くめ納豆」ブランドを展開する納豆業界大手、くめ・クオリティ・プロダクツ株式会社(以下 前身企業)が、2009年に民事再生の適用を東京地裁に申請したことを契機に誕生した会社です。私が株主となり、その不良債権を引き継ぎ、精算するための会社として創業しました。
前身企業が経営不振に陥った大きな原因が、1999年9月30日に東海村にあるJCOの原子力燃料精製工場で起こった臨界事故になります。事故現場から半径10km圏内が立ち入り禁止となり、その圏内にあった製造工場も休業を余儀なくされました。臨界事故が起きる前年は年商がおよそ114億円、従業員数330人という全国3位の納豆メーカーでした。しかし、臨界事故の発生した年は年商が約30億円も下がり、非常に厳しい経営状況に立たされました。その結果、330人いた社員のうち80人を解雇し、倒産だけは免れます。そこから10年間、人件費や変動費を削りながら、年商85~90億円を必死で守り続けたものの、2009年には資金繰りに行き詰まり、民事再生を行いました。事故が起きた1999年は中期計画をスタートさせた年で思い切った設備投資を行っていました。拡大を見込んだ設備投資が結果として仇になった形です。
業界大手メーカーの手厚い援助で見えてきた再建への道筋
民事再生を申請したものの、スムーズに再建フェーズに入れたわけではなく、課題は山積していました。その中でも特に深刻な問題が粉飾決算と100億円を超える負債額です。特に粉飾決算の問題は経営再建にとって大きなネックになりました。
当初、前身企業の再建には業界大手メーカーの2社が手を挙げたものの、粉飾決算が発覚したことでそのうちの1社は撤退します。残った1社は、当時85億円の年商があった「くめ納豆」の営業権と商標権に対して資金を出すというスキームを持っていたため、支援企業となり、再生計画をスタートさせました。
再建計画は、前身企業の承継会社の設立から始まり、当初私を含め、3人が事業承継会社の経営者候補者に上がりました。支援企業はその3人と個別に面接を行い、その結果私が事業承継会社の経営者に選ばれ、弊社・金砂郷食品株式会社を設立しました。ところが事業承継会社の経営者に選ばれなかった2人が、反金砂郷食品の立場をとり、会社設立と同時に従業員組合を立ち上げ、再建スキームに抵抗する動きをし始めます。そのため再建スキームは一度そこで頓挫してしまいました。
その窮地を救ってくれたのが、再建スキームを提案してくれた支援企業の先代社長でした。先代が私のために緊急役員会を開き、その場で私が懇願したことで最終的に私の願いを聞き入れてもらい、再生計画は再始動しました。とは言え、会社内のゴタゴタが収まったわけではありません。私が出資者で株主であったにも関わらず、過去に80人もの解雇を行ったことで社内の人気がなかったため、初代社長は前身企業の2代目社長のいとこを代表権のない社長に据え、私は代表取締役副社長に就きました。私としては支援企業との5年の再生計画が終了した後に退職しようと考えていたのですが、株主でもない、前身企業の創業家の親族が「私たちの会社だ」と乗り込んできたのです。そこで私は前身会社の親族でもあった当時の社長に多額の退職金を払い、会社設立4年目にして代表取締役社長に就任し、現在に至っています。
再建の道を歩み出した直後の東日本大震災による被災
金砂郷食品として新たな歴史を歩み始めた2009年の大きな仕事は、支援企業のOEMでくめ納豆を製造して供給することでした。当時100人の社員を抱えて、年商が20億円ほど5年計画での再建スキームは順調な滑り出しを見せていました。
ところが3年目の2011年、東日本大震災が起こり2つの工場が被災し、再建計画は頓挫してしまいます。さらに当時のメインバンクとの行き違いも重なり、再建計画の見通しは立たなくなってしまいました。最終的に支援企業に債権放棄をしていただき、何とか危機を乗り越えられましたが、今度はその債権放棄により経常利益が大幅に拡大したことから翌年の納税額が跳ね上がり、資金繰りが逼迫する事態にも見舞われました。
この一連の危機を何とか乗り越えられたのは、震災直後に支援企業から受けたご厚意があってこそでした。工場が被災して4か月間操業できなかった間、支援企業は弊社の従業員約60名を、住居費も含めて丸抱えで出向を受け入れてくれたからです。また震災直後の食料品が手に入らなかった頃、水や食料品も調達してくれました。お陰で震災後1か月間、弊社従業員は飢えることなく助かりました。
ここまでの良好な関係を支援企業と結ぶことのできた要因は2つあります。ひとつは、支援企業が「くめ納豆」という強力なブランドの営業権と商標権で投資効果が見込める事、そしてもう一つは「永田社長なら大丈夫」と私を信頼してくれていたことです。私は前身企業で営業の執行役員をしていた時があり、支援企業も含め、他の納豆大手企業の役員たちと定期的に会合を開き、いろいろな問題を協議していました。その時の仕事ぶりを覚えてくれていた人たちが私を信頼してくれたのです。そうした支援のおかげで、苦しい時期を乗り越え、現在では赤字から脱却して、年商10億から11億円くらいまで戻すことができました。
次の一歩を踏み出すために始めた新ブランド
弊社は当初、支援企業が商標権と営業権を持っていた「くめ納豆」の製造を請け負っていたため、自社ブランドはゼロでしたが商品開発は続けていました。その時の商品開発のコンセプトは「大手他社ができないものを作る」でした。例えば今でも製造販売している麦入りの納豆や国産の極小粒納豆、大手の商品供給量からすると少なすぎて手を出せない種類の大豆を使った納豆などです。そこには「くめ納豆」本来の製法を引き継いだ金砂郷食品の工場だからこそできるというプライドがありました。また価格にしても、価値のある商品ならば、お客さまに選んでいただけるという確信のもと、200円や300円、高いものでは500円を超える高級路線に踏み出しました。一方で、製造技術の向上による波及効果で、安くても旨い納豆を作れるようにもなりました。それらは後に展開するプライベートブランド(PB)を手掛ける際に他社との差別化に活きています。
そうした積み重ねにより、今や弊社は、前身企業が年商100億円を計上していた頃でも取引できなかった高級スーパー・成城石井や紀ノ国屋と取引ができるようになりました。成城石井ではPBで大粒納豆を、紀ノ国屋でも同じくPBの小粒納豆をそれぞれ製造・供給しています。また首都圏を中心に展開する大手スーパー「ライフ」にカップ納豆を納品するようになりました。
取引につながったきっかけは、いずれも弊社の商品を食べた方からの推薦になります。成城石井の場合は社長、ライフの場合は当時の商品部長のご家族からの推薦でした。弊社が守り続けてきた「味」が営業マンとなり、好結果に繋がっているのは、これまでの苦労が報われた思いです。同時にこの味を守り続けていくことへの責任を改めて実感する機会になりました。
あらゆる情報を開示する報告会で社員の当事者意識を醸成
弊社では毎月第3水曜日の午前11時から12時まで、派遣社員を除いた社員全員と全アルバイトを集めて社員報告会を実施しています。その報告会では前月の月次報告、生産の稼働率や生産時の事故の有無、クレームの有無、そして詳細な収支報告、事業計画の共有を行います。報告会開始時には全員で社是・社訓の唱和を行い、経営理念とか社是を作った意味などを理解してもらっています。
このような報告会を行う理由は、前の会社が粉飾決算で倒産したためです。「もしあの時、社員が会社の今の状況を知っていたなら、最悪の事態は免れることができたのではないか」、その思いから社員報告会を始めました。今の会社の状況を把握すれば、自分の働きが会社の利益のどこにつながっているのかが見えてきます。見えないゆえに他人事になっていたのが、見えることで我が事のように感じてもらえると考えているからです。
社員教育ではパートナー制度を導入しています。新入社員ひとりに対して、先輩社員がパートナーとして1年間、仕事の仕方や向き合い方を伝えたり、悩み相談に乗る役割を担う制度です。パートナーは入社3、4年目社員が担っています。歳の近い先輩に教えられることで新入社員が頼りやすいというメリットがある他、教える側の社員にとっては、自分の仕事の知識やノウハウを言語化し、責任と自覚を持つきっかけになっており、その点こそが最大の教育効果といえる部分です。
前身企業の頃は、クレームに対する認識が非常に甘く、月に100件ものクレームが寄せられたこともありました。弊社を立ち上げる時に「クレームゼロを目指そう」と社員に伝えたところ、当時約100人の社員は全員口を開けて唖然としていたのをよく覚えています。当時はクレームに対する問題意識が低く、さらにクレームが寄せられることが当たり前だととらえる雰囲気があったからです。そこから地道に教育を行い、ヒューマンエラーが起きやすい部分には設備投資で機械化していくことで事故防止を行い、2年半後にはクレームがゼロになる月も出てくるようになりました。今では年間で約6,000万食製造していますが、クレーム数は年間で20件以下に止まっています。このクレームに対して向き合う姿勢は、弊社が誇る企業カルチャーといえます。
会社は自分のものではなく地域に残すためのもの
「くめ納豆」の「くめ」は、前身企業の創業の地である「久米村」に由来したものです。また弊社の「金砂郷」も今は合併により消滅した地名ですが、地元の「金砂郷町」から取っています。現在、金砂郷という地名を使っているのは弊社と地元の小学校など数か所程度です。私はこの会社を自分のものではなく、地域に残すための会社だと考えておりましたので、現在の社名を選択しました。私は、常陸太田市の特産品である納豆を製造する会社がこの地にあることは大切なことだと思っていますし、そういう価値観を大切にしてくれるメンバーをこの地域に残したいと思っています。なぜならそれが地域への誇りや愛着を生み、地域全体の活性化に繋がっていくと考えているからです。
今後の事業については、コロナ禍で少し滞っていた海外輸出を再び本格化させたいと考えています。納豆を海外の人たちの食生活に取り込めるような常温化した製品や、ペースト化したものなど、納豆加工品の商品開発を続けております。売り上げとしてはまだまだ少ないですが、年商数千万円の規模にまで育ってきました。将来的には海外の売上と国内の売上が半々ぐらいになるような状態を目指しています。弊社だけで海外展開に関わるすべてのことを行うとは思っていません。シナジー効果のある企業とはM&Aや業務提携も含め、事業を一緒に進めていきたいと考えております。
会社概要
社名 | 金砂郷食品株式会社 |
創立年 | 2009年 |
代表者名 | 代表取締役社長 永田 由紀夫 |
資本金 | 300万円 |
URL |
https://www.sitogi.jp/
|
本社住所 |
〒313-0113 |
事業内容 | 納豆の製造・販売 |
事業エリア |
本部・大里工場 〒313-0125 0294-76-3333 |
関連会社 |
会社沿革
2009年 | 創業 |
金砂郷食品株式会社の経営資源引継ぎ募集情報
人的資本引継ぎ
茨城県
常陸太田市の「味」を守り続ける納豆メーカーが若手人財を募集
公開日:2023/02/27 (2023/03/30修正)
※本記事の内容および所属名称は2023年3月現在のものです。現在の情報とは異なる場合があります。
この企業を見た方はこれらのツグナラ企業も見ています
ツグナラ企業へのお問い合わせ
本フォームからのお問い合わせ内容はツグナラ運営事務局でお預かりし、有意義と判断した問い合わせのみツグナラ企業にお渡ししています。営業目的の問い合わせ、同一送信者による大量送付はお控えください。