岐阜・下呂市
岐阜 ・ 下呂市
「郷土料理・
有限会社萩原チキンセンター
ロジカルに実績を上げて組織、業界を変え、挑戦と進化を続ける
経営理念
進化する会社
~新たな行動をしよう~
代表者メッセージ
萩原チキンセンターでは、1人でも多くの方に鶏ちゃんのおいしさをお伝えするため、「萩屋ケイちゃん」ブランドの展開を通じて、ケイちゃん文化の啓蒙にも積極的に取り組んでいます。
事業活動を行う上で大切にしているのは、従業員とその家族、お客様、取引先など関わるすべての人の「幸せの実現」と、創業の地・下呂への貢献をはじめとした「社会貢献」です。
萩原チキンセンター(Hagiwara Chicken Center)の頭文字「HCC」。同じHCCと綴る事ができる、ハッピークリエイトカンパニー(Happy Create Company)すなわち、幸せをつくる会社 として、関わるすべての人の幸せづくりにも積極的に取り組みます。
変化の多い時代の中で、弊社を取り巻く環境も変わり、ここ数年でビジネスステージも次の段階に進んでいます。業界のリーディングカンパニーとして事業を続ける中で、鶏ちゃんの認知度の高まりも感じています。
経営理念「進化する会社〜新たな行動をしよう〜」を常に意識し、ケイちゃん文化を世界中に広めるべく、新たな挑戦を続けます。
代表取締役 日下部 讓
私たちのこだわり
狭い商圏での生き残りをかけ、農業から養鶏、食品加工販売へ
弊社は、私の妻の父である先代が1962年に創立しました。先代は代々続く農家の出で、稲作や養蚕、茶葉の栽培など、様々な農業を生業としていたそうです。戦後の1955年頃には、鶏卵の需要増にともない、鶏を千羽飼うとビジネスとして成り立つという「千羽養鶏」が流行し、先代は地元で気の合うメンバーと4人で養鶏をスタートしたと聞いています。創業メンバーはそれぞれ別の事業を立ち上げて独立しましたが、先代は引き続き養鶏に携わり、食肉加工、鶏卵販売、販路開拓などに挑戦しました。
創業当時の飛騨エリアは交通の便が悪く、どこへ行くにしても時間がかかることから、狭い商圏で商売をせざるを得ませんでした。そこで先代は、食肉加工品の製造販売に特化し、アイテムを増やすことに商機を事業展開しました。その際に開発された商品のひとつが「萩屋ケイちゃん」です。
「ケイちゃん」は、鶏肉を一口サイズにカットしてタレで味付けした、飛騨・美濃地方の郷土料理「鶏(ケイ)ちゃん」をベースとして開発されました。郷土料理の「鶏ちゃん」は、卵を産まなくなった成鶏を無駄にせず、最後までおいしくいただくために考え出された鶏肉の食べ方で、各家庭や店で味付けが違います。「鶏ちゃん」は家庭でつくるものという認識が強く、販売以前は店頭に並ぶことはあまりありませんでした。
そこで先代は日下部家に伝わる、みそ味のタレを改良し、鶏肉に味つけをして販売することにしました。当時弊社の取引先は、地元の八百屋や食料品店などの個人商店であり、「萩屋ケイちゃん」の他にも唐揚げなどの総菜品を納品し、クリスマスの時期にはローストチキンなども納めていたそうです。
1990年頃に地域初のコンビニができてからは、コンビニにも唐揚げや焼き鳥などの総菜品を納めるなど、時代に合わせて販路を拡大していきました。
「萩屋ケイちゃん」の味に感動し、運送会社での勤務を経て入社
私は愛知県弥富市出身で、先代の娘と結婚して婿養子に入りました。大学時代、当時恋人だった妻の実家で鶏ちゃんを生まれて初めて食べて、あまりの美味しさに衝撃を受けました。「隣の県に住んでいたのに、こんなに美味しいものを知らないままだったのは勿体ない、どうにかして広めたい!」との思いが1つの原体験です。
大学在学中に婚約していたため、卒業後は、2年後の退職を前提に運送会社に就職しました。私は論理的に物事を考えるのが好きな性分なので、物流の仕組みを学んでみたいと思い、海上コンテナのトレーラー輸送の運転手を務めることにしました。コンテナ輸送は、輸出入のスケジュールや細かな規約によって作業や役割分担が明確であり、ロジティクスの領域から、効率的な業務プロセスについて働きながら学ぶことができました。
そして2年後には、予定通り「寿退職」をして結婚し、弊社には1993年に一般社員として入社しました。当時の売上は3億円ほどで、先代が開発した「萩屋ケイちゃん」の売上は、全体の1割を占める程度でした。入社から半年ほどは製造現場で勤務し、その後は営業部に配属されました。当時の弊社の営業はルートセールスと呼ばれる手法でした。朝に商品をトラックに積んで出発し、顧客を一軒一軒回って御用聞きをしながら販売をして、帰社後は伝票整理や荷物の片付けをするスタイルです。あまりに非効率で「これでいいのか?」という思いで一杯でした。
地域にはスーパーマーケットが進出しはじめていた時代で、取引先の個人商店の店主たちも口々に「今後は商売として成り立たない。自分の代で店は終わりにする」と話していて、自社のあり方についても「このままでいいのだろうか」という不安や疑念が大きく、将来に疑問を感じていきました。
地道なマーケット開拓と業務効率化が実を結ぶ
会社の存続への危機感を覚えた私は「岐阜だけではなく、名古屋などへ商圏を広げたい」と先輩や上司に訴えましたが「売れる保証がない」「地元のお客様を放って外へ出ていくのか」と大反対され、話を聞いてもらえませんでした。そこで、月曜から土曜まで6日間かけていたルートセールスを、効率化により5日間に圧縮し、空いた1日を自社製品「萩屋ケイちゃん」のマーケット開拓に充てました。
売上を落とさずに、自力で商談成立にこぎつけることができましたが、私が営業部の中で一番の若手であり協力してくれる人はいませんでした。社内からは「自分でとってきた仕事なんだから全て自分で手配しろ」と言われ、発送のために運送会社を手配すれば「コストがかかることをするな」「お客様に直接納品するのが営業マンの仕事だ」と叱られ、受注増に伴い増産を頼めば「そんなに仕事を取ってきてどうするというんだ、お前は何もわかっていない」と意見されました。なかなか理解が得られず、大変な時期でしたが「ここでめげるわけにはいかない、こんな非効率な仕事のやり方は自分の時代で終わりにしたい」と、気持ちを切り替えて社内システムの改善策を模索し続けました。
当時は、手書きの伝票を自分たちで集計していたため、電算システムの導入を提案しましたが却下されたので、自分でデータベースのプログラムを組み、事務員さんの協力を得て効率化を図りました。そして空いた時間を次の営業とオンラインの受注システム構築に充てることで、地道に生産性の向上に取り組み続けました。
業務改善を繰り返しているうちに、地元の個人商店は減少してしまいましたが、これまで1割ほどでした鶏ケイちゃんの売上は、8割を占めるまでになりました。弊社の売上の半分以上が私の実績となる頃には、上司や先輩も認めざるを得なくなったのか何も言われなくなりました。当時は理解者がいないことに苛立つこともありましたが、今振り返ると企業文化を変え、新しいことに挑戦するときはこれくらいの高い壁がある事が当然でしたと思います。従業員それぞれ想いのある弊社であり、私に意見するということはそれだけ弊社のことを深く考えてくれていたのだと、今では感謝の気持ちで一杯です。
その後、一般社員から専務へと昇進し、2007年には39歳で社長に就任しました。
「強みは伸びしろ」萩屋ケイちゃんに的を絞った展開
社長就任後は、古い体質から脱却するために、業務改善と組織づくりに着手しました。しかし、私が社長権限だけで先導しても、反発を招くだけなのが目に見えています。そこで、食品の安全を確保するための国際規格ISO22000を取得することにしました。ISO取得のために社内システムや商品サービスの改善をすれば、品質管理において会社の信用度も上がり、商談の際にも信頼性が担保されます。
私個人の意見を訴えるのではなく、ISO取得に向けてコンサルタントの方にアドバイスを頂くことで、食品提供者としてISO規格に準拠し、改善をしていくことは、お客様や取引先、社会など本来意識すべき相手を確認し直す機会になると考えました。
営業方針も、全国展開を見据えてスーパーマーケット・トレードショーなどの商談展示会へ積極的に出展する方向に舵を切りました。東海発の企業とコラボしたケイちゃんの販売もスタートし、着々と全国に商圏を広げ、現在の売上は5億円を超えています。
2023年12月には、観光客の集まる下呂温泉の中心街に、直営レストラン「お食事処 萩屋ケイちゃん」もオープンしました。レストランの強みは、自社工場をセントラルキッチンとして、万全の衛生管理体制で下ごしらえができる点です。店舗では簡易的な調理で提供できるので、他エリアへの出店やスタッフ採用のハードルも下がります。この自社工場の強みを足がかりに、新しいスタイルの外食事業にも乗り出していきたい考えです。
企業成長のために職場環境づくりに注力
現在は社員34名に加えて、直営レストランでは11名のスタッフが働いています。社員は近所から通う地元の方が多く、昼休みには自宅に戻り昼食を食べる方もいます。
弊社の福利厚生は、入社前に勤めた運送会社を参考に定めました。私が海上コンテナ輸送に従事していたその会社では、30年前だったにも関わらず完全週休2日制で、残業代も明確に付き、有給も自由に取得できました。今で言うスーパーホワイト企業です。帰社後の洗車やオイル交換の時間も残業としてカウントされるので、車両のメンテナンスが行き届き、車の不具合も早期に発見できるため、結果的に修理費の削減にも繋がりました。また、適切な勤怠や休憩時間の管理は、社員の健康に起因する事故を未然に防ぐ手立てとなり、非常に理にかなうシステムでした。
そうした前職での経験から、弊社の年間休日は120日と定めています。社員の家庭や生活を大事にすることが、より良い職場づくりの基盤になると考え、有給取得を推奨していることから、2023年度の有給休暇の取得実績は平均13.5日です。新型コロナウイルスやインフルエンザなどの、ドクターストップがかかるような感染症に罹患した際には、有給休暇を使わずに済むように特別休暇制度を適用しています。
また働き方としては、急な欠勤などへの対応ができるようにジョブローテーションを導入しています。日頃から、誰かが抜けてもフォローに入れる状態にしているので、社員には「お互い様」の気持ちが醸成されていると感じています。外食事業への進出により、社員の得意分野を活かせる職場と、社員自身の選択肢が増えたことで、より働きやすい職場となりました。
社員が働きやすい職場にするには収益を上げなければいけません。そのためには作業効率を上げ、標準化を進めつつ、社員全員のスキルをアップさせる必要があります。そうした俯瞰的な考え方の定着や仕組みづくりにも、職場改善とISOの取得が役立ちました。
企業の垣根を超えて「鶏ちゃん」の普及に努める
現在、売上の過半数を占めるようになった「萩屋ケイちゃん」は、定番の味噌味に加えて醤油やピリ辛、塩なども展開し、1日1万パック以上を出荷する看板商品となりました。
岐阜県から中京エリアに商圏を拡大する際には、自社製品である「萩屋ケイちゃん」主力商品としてレベルアップさせていきたいと考え、「鶏(ケイ)ちゃん」の定義として「鶏肉」「一口サイズ」「タレで味付け」の3つを定めました。あえて調理法や原産地を限定していないのは、鶏ちゃん文化をまだ知らない地域へ展開し、現地の風土や味覚に合わせて、柔軟に味を変えられるようにするためです。愛知県生まれの私が知らないくらいでしたから、全国にはまだまだ伸びしろがあります。鶏肉は世界中で食べられている食材なので、世界も視野に入るでしょう。
弊社の強みは、この「ケイちゃん」の伸びしろにあると考え、自社製品の「萩屋ケイちゃん」と、郷土料理「鶏ちゃん」の文化の担い手として、多くの企業や店舗とのコラボレーション企画を推進しています。
また、鶏ちゃんを提供する飲食店や製造メーカーなど90社以上とともに「鶏ちゃん合衆国」を設立し、イベントや交流会を開催しています。岐阜県知事にも名誉顧問としてご協力いただき、地域の皆様と楽しみながら鶏ちゃんという食文化の普及に努めています。
「鶏ちゃん」文化を世界へ発信
私の夢は、鶏ちゃん文化を世界中に広げることです。今後の事業展開により売上が5億を超え、さらにその先を目指すとなると、会社の規模やステージは今までとは変わってくるでしょう。次の世代のために、新たな組織づくりと管理職人材の育成にも取り組んでいきます。
狭い商圏での生き残りをかけ、農業から養鶏、食品加工販売へ
弊社は、私の妻の父である先代が1962年に創立しました。先代は代々続く農家の出で、稲作や養蚕、茶葉の栽培など、様々な農業を生業としていたそうです。戦後の1955年頃には、鶏卵の需要増にともない、鶏を千羽飼うとビジネスとして成り立つという「千羽養鶏」が流行し、先代は地元で気の合うメンバーと4人で養鶏をスタートしたと聞いています。創業メンバーはそれぞれ別の事業を立ち上げて独立しましたが、先代は引き続き養鶏に携わり、食肉加工、鶏卵販売、販路開拓などに挑戦しました。
創業当時の飛騨エリアは交通の便が悪く、どこへ行くにしても時間がかかることから、狭い商圏で商売をせざるを得ませんでした。そこで先代は、食肉加工品の製造販売に特化し、アイテムを増やすことに商機を事業展開しました。その際に開発された商品のひとつが「萩屋ケイちゃん」です。
「ケイちゃん」は、鶏肉を一口サイズにカットしてタレで味付けした、飛騨・美濃地方の郷土料理「鶏(ケイ)ちゃん」をベースとして開発されました。郷土料理の「鶏ちゃん」は、卵を産まなくなった成鶏を無駄にせず、最後までおいしくいただくために考え出された鶏肉の食べ方で、各家庭や店で味付けが違います。「鶏ちゃん」は家庭でつくるものという認識が強く、販売以前は店頭に並ぶことはあまりありませんでした。
そこで先代は日下部家に伝わる、みそ味のタレを改良し、鶏肉に味つけをして販売することにしました。当時弊社の取引先は、地元の八百屋や食料品店などの個人商店であり、「萩屋ケイちゃん」の他にも唐揚げなどの総菜品を納品し、クリスマスの時期にはローストチキンなども納めていたそうです。
1990年頃に地域初のコンビニができてからは、コンビニにも唐揚げや焼き鳥などの総菜品を納めるなど、時代に合わせて販路を拡大していきました。
「萩屋ケイちゃん」の味に感動し、運送会社での勤務を経て入社
私は愛知県弥富市出身で、先代の娘と結婚して婿養子に入りました。大学時代、当時恋人だった妻の実家で鶏ちゃんを生まれて初めて食べて、あまりの美味しさに衝撃を受けました。「隣の県に住んでいたのに、こんなに美味しいものを知らないままだったのは勿体ない、どうにかして広めたい!」との思いが1つの原体験です。
大学在学中に婚約していたため、卒業後は、2年後の退職を前提に運送会社に就職しました。私は論理的に物事を考えるのが好きな性分なので、物流の仕組みを学んでみたいと思い、海上コンテナのトレーラー輸送の運転手を務めることにしました。コンテナ輸送は、輸出入のスケジュールや細かな規約によって作業や役割分担が明確であり、ロジティクスの領域から、効率的な業務プロセスについて働きながら学ぶことができました。
そして2年後には、予定通り「寿退職」をして結婚し、弊社には1993年に一般社員として入社しました。当時の売上は3億円ほどで、先代が開発した「萩屋ケイちゃん」の売上は、全体の1割を占める程度でした。入社から半年ほどは製造現場で勤務し、その後は営業部に配属されました。当時の弊社の営業はルートセールスと呼ばれる手法でした。朝に商品をトラックに積んで出発し、顧客を一軒一軒回って御用聞きをしながら販売をして、帰社後は伝票整理や荷物の片付けをするスタイルです。あまりに非効率で「これでいいのか?」という思いで一杯でした。
地域にはスーパーマーケットが進出しはじめていた時代で、取引先の個人商店の店主たちも口々に「今後は商売として成り立たない。自分の代で店は終わりにする」と話していて、自社のあり方についても「このままでいいのだろうか」という不安や疑念が大きく、将来に疑問を感じていきました。
地道なマーケット開拓と業務効率化が実を結ぶ
会社の存続への危機感を覚えた私は「岐阜だけではなく、名古屋などへ商圏を広げたい」と先輩や上司に訴えましたが「売れる保証がない」「地元のお客様を放って外へ出ていくのか」と大反対され、話を聞いてもらえませんでした。そこで、月曜から土曜まで6日間かけていたルートセールスを、効率化により5日間に圧縮し、空いた1日を自社製品「萩屋ケイちゃん」のマーケット開拓に充てました。
売上を落とさずに、自力で商談成立にこぎつけることができましたが、私が営業部の中で一番の若手であり協力してくれる人はいませんでした。社内からは「自分でとってきた仕事なんだから全て自分で手配しろ」と言われ、発送のために運送会社を手配すれば「コストがかかることをするな」「お客様に直接納品するのが営業マンの仕事だ」と叱られ、受注増に伴い増産を頼めば「そんなに仕事を取ってきてどうするというんだ、お前は何もわかっていない」と意見されました。なかなか理解が得られず、大変な時期でしたが「ここでめげるわけにはいかない、こんな非効率な仕事のやり方は自分の時代で終わりにしたい」と、気持ちを切り替えて社内システムの改善策を模索し続けました。
当時は、手書きの伝票を自分たちで集計していたため、電算システムの導入を提案しましたが却下されたので、自分でデータベースのプログラムを組み、事務員さんの協力を得て効率化を図りました。そして空いた時間を次の営業とオンラインの受注システム構築に充てることで、地道に生産性の向上に取り組み続けました。
業務改善を繰り返しているうちに、地元の個人商店は減少してしまいましたが、これまで1割ほどでした鶏ケイちゃんの売上は、8割を占めるまでになりました。弊社の売上の半分以上が私の実績となる頃には、上司や先輩も認めざるを得なくなったのか何も言われなくなりました。当時は理解者がいないことに苛立つこともありましたが、今振り返ると企業文化を変え、新しいことに挑戦するときはこれくらいの高い壁がある事が当然でしたと思います。従業員それぞれ想いのある弊社であり、私に意見するということはそれだけ弊社のことを深く考えてくれていたのだと、今では感謝の気持ちで一杯です。
その後、一般社員から専務へと昇進し、2007年には39歳で社長に就任しました。
「強みは伸びしろ」萩屋ケイちゃんに的を絞った展開
社長就任後は、古い体質から脱却するために、業務改善と組織づくりに着手しました。しかし、私が社長権限だけで先導しても、反発を招くだけなのが目に見えています。そこで、食品の安全を確保するための国際規格ISO22000を取得することにしました。ISO取得のために社内システムや商品サービスの改善をすれば、品質管理において会社の信用度も上がり、商談の際にも信頼性が担保されます。
私個人の意見を訴えるのではなく、ISO取得に向けてコンサルタントの方にアドバイスを頂くことで、食品提供者としてISO規格に準拠し、改善をしていくことは、お客様や取引先、社会など本来意識すべき相手を確認し直す機会になると考えました。
営業方針も、全国展開を見据えてスーパーマーケット・トレードショーなどの商談展示会へ積極的に出展する方向に舵を切りました。東海発の企業とコラボしたケイちゃんの販売もスタートし、着々と全国に商圏を広げ、現在の売上は5億円を超えています。
2023年12月には、観光客の集まる下呂温泉の中心街に、直営レストラン「お食事処 萩屋ケイちゃん」もオープンしました。レストランの強みは、自社工場をセントラルキッチンとして、万全の衛生管理体制で下ごしらえができる点です。店舗では簡易的な調理で提供できるので、他エリアへの出店やスタッフ採用のハードルも下がります。この自社工場の強みを足がかりに、新しいスタイルの外食事業にも乗り出していきたい考えです。
企業成長のために職場環境づくりに注力
現在は社員34名に加えて、直営レストランでは11名のスタッフが働いています。社員は近所から通う地元の方が多く、昼休みには自宅に戻り昼食を食べる方もいます。
弊社の福利厚生は、入社前に勤めた運送会社を参考に定めました。私が海上コンテナ輸送に従事していたその会社では、30年前だったにも関わらず完全週休2日制で、残業代も明確に付き、有給も自由に取得できました。今で言うスーパーホワイト企業です。帰社後の洗車やオイル交換の時間も残業としてカウントされるので、車両のメンテナンスが行き届き、車の不具合も早期に発見できるため、結果的に修理費の削減にも繋がりました。また、適切な勤怠や休憩時間の管理は、社員の健康に起因する事故を未然に防ぐ手立てとなり、非常に理にかなうシステムでした。
そうした前職での経験から、弊社の年間休日は120日と定めています。社員の家庭や生活を大事にすることが、より良い職場づくりの基盤になると考え、有給取得を推奨していることから、2023年度の有給休暇の取得実績は平均13.5日です。新型コロナウイルスやインフルエンザなどの、ドクターストップがかかるような感染症に罹患した際には、有給休暇を使わずに済むように特別休暇制度を適用しています。
また働き方としては、急な欠勤などへの対応ができるようにジョブローテーションを導入しています。日頃から、誰かが抜けてもフォローに入れる状態にしているので、社員には「お互い様」の気持ちが醸成されていると感じています。外食事業への進出により、社員の得意分野を活かせる職場と、社員自身の選択肢が増えたことで、より働きやすい職場となりました。
社員が働きやすい職場にするには収益を上げなければいけません。そのためには作業効率を上げ、標準化を進めつつ、社員全員のスキルをアップさせる必要があります。そうした俯瞰的な考え方の定着や仕組みづくりにも、職場改善とISOの取得が役立ちました。
企業の垣根を超えて「鶏ちゃん」の普及に努める
現在、売上の過半数を占めるようになった「萩屋ケイちゃん」は、定番の味噌味に加えて醤油やピリ辛、塩なども展開し、1日1万パック以上を出荷する看板商品となりました。
岐阜県から中京エリアに商圏を拡大する際には、自社製品である「萩屋ケイちゃん」主力商品としてレベルアップさせていきたいと考え、「鶏(ケイ)ちゃん」の定義として「鶏肉」「一口サイズ」「タレで味付け」の3つを定めました。あえて調理法や原産地を限定していないのは、鶏ちゃん文化をまだ知らない地域へ展開し、現地の風土や味覚に合わせて、柔軟に味を変えられるようにするためです。愛知県生まれの私が知らないくらいでしたから、全国にはまだまだ伸びしろがあります。鶏肉は世界中で食べられている食材なので、世界も視野に入るでしょう。
弊社の強みは、この「ケイちゃん」の伸びしろにあると考え、自社製品の「萩屋ケイちゃん」と、郷土料理「鶏ちゃん」の文化の担い手として、多くの企業や店舗とのコラボレーション企画を推進しています。
また、鶏ちゃんを提供する飲食店や製造メーカーなど90社以上とともに「鶏ちゃん合衆国」を設立し、イベントや交流会を開催しています。岐阜県知事にも名誉顧問としてご協力いただき、地域の皆様と楽しみながら鶏ちゃんという食文化の普及に努めています。
「鶏ちゃん」文化を世界へ発信
私の夢は、鶏ちゃん文化を世界中に広げることです。今後の事業展開により売上が5億を超え、さらにその先を目指すとなると、会社の規模やステージは今までとは変わってくるでしょう。次の世代のために、新たな組織づくりと管理職人材の育成にも取り組んでいきます。
会社概要
社名 | 有限会社萩原チキンセンター |
創立年 | 1962年 |
代表者名 | 代表取締役 日下部 讓 |
資本金 | 1,000万円 |
URL |
https://k-chan.co.jp/
|
本社住所 |
〒509-2505 |
事業内容 | 鶏肉加工品、豚肉加工品、牛加工品、朴葉寿司、笹寿司の製造販売 |
関連会社 |
|
会社沿革
1962年 | 創立 |
1969年 | 有限会社萩原チキンセンター設立 |
1980年 | 現在の場所に本社工場が完成 |
1996年 | 本社工場を増築 |
2007年 | 日下部 讓 代表取締役就任 飛騨美濃鶏ちゃん協同組合 設立 |
2010年 | 自動包装機導入 |
2012年 | スーパーマーケットトレードショー2012に初出展 フーデックスジャパン2012に初出展 ISO22000取得 鶏ちゃん合衆国 建国 |
2014年 | 会長 日下部 護が鶏ちゃん合衆国 人間国宝に認定 |
2017年 | 岐阜HACCAP認定 取得 |
2018年 | 現在のパッケージに刷新 |
2019年 | 近隣の清掃活動開始 |
2020年 | 自動包装機 増設 2ライン体制構築 |
公開日:2024/08/07
※本記事の内容および所属名称は2024年8月現在のものです。現在の情報とは異なる場合があります。
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