栃木・足利市
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引継ぎ実績あり
「創造的流通」で未来を切り拓く、
株式会社板通
色褪せない理念を次世代へ。塗装商材の持続可能なサービスを開拓し続ける
経営理念
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- 01 実現する未来
- ①創造的流通で未来を切り拓く
創造的流通機能の探求により、得意先・仕入先・社会に対し積極的に貢献する。
②社員一人一人の幸せ
毎日の仕事を通じ社員一人一人が責任ある社会人として成長し、組織も個人も幸せに
③利益の再投資と貢献をみんなで分かち合う
実現した利益は構成員・株主・組織への再投資・社会への貢献として配分する。
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- 02 理念
- 板通の価値基準に基づき、すべての人々に対し「快適と信頼」を普遍的に提供し続ける。
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- 03 サービス
- 地域と世界を結ぶ
「塗料や工業薬品を軸に14万点以上の商品を扱う商社」
- 04 価値基準
- ①二大誓願
流汗鍛錬(りゅうかんたんれん)
人よ起てよ 起ちて汗に帰れ 汗なき社会はだらくなり 共に祈りつつすべての人と働け
我が住む我が社に一人の怠る者も無きまでに
同胞相愛(どうほうそうあい)
人よ醒めよ 醒めて愛に帰れ 愛なき社会は暗黒なり 共に祈りつつすべての人と親しめ
我が住む我が社に一人の争う者も無きまでに
②三方よし
我によし・相手によし・世間によし
③不易と流行
変化しない本質的なものを忘れずに、新しい変化を取り入れ続けること。
④創造的流通
購買代理店として、仕入先・得意先・地域のネットワークを繋ぎ、必要なサービスを提供すると同時に常により新たなサービスを創造していく。
代表者メッセージ
新しい時代も「快適と信頼」を提供し続けられる会社を目指します。
コロナ禍が世界中を覆い、感染防止と経済の両立を目指し、各地で多くの人たちが努力をしています。一方、世界ではSDGsやCOP27に代表されるように脱炭素社会、環境、格差、人権といった課題がよりクローズアップされています。
「他の人のことや未来の子供たちのことを思いやる」という視点でみんなができる事を努力していけば、社会のカタチは変わるかもしれません。「明けない夜はない」の言葉通り、新しい素敵な朝を迎えられると確信しています。
このような社会・経済の変革の時代において重要なのは会社の原点を見つめ直す事とそれをベースに新しい改革に挑戦していく事だと思います。
板通は塗料・工業薬品・設備など表面処理に係る商材販売を中心に取引先様、地域に支えられて参りました。「三方よし」や「不易と流行」という会社理念に基づいて、「すべてのお客さまに快適と信頼の提供」を目指すという目標は変わりません。
そして、ICT技術や板通グループの社内外ネットワークを駆使して「社会が求めているサービスの開発」や「仕事の仕方の改革」を通じて持続可能な世界の構築に少しでも貢献できるよう取り組んで参りたいと思います。
みんなで創るいい社会。板通はこれからもチャレンジし続けます。
代表取締役社長 板橋 信行
私たちのこだわり
明治期の染料商「えのぐ屋」から出発
創業134年目を迎える弊社は、1889年(明治22年)に高祖父である板橋半次郎が創業し、絹織物の染料を販売する「えのぐ屋」(当時の社名)が原点となっています。創業の地である栃木県足利市は古くから織物業が盛んであり、明治初期には国内での生糸の増産や輸出に伴い絹織物の市場が拡大し、国策により繊維業が基幹産業となったことで、さらに急成長を遂げました。
日本における繊維業の成長と創業の時期が重なることから、初代も「繊維業の周辺事業なら地域に根づき発展していける」と考えたのかもしれません。その後、1930年代の世界恐慌に伴い国内の繊維業が衰退し始めたため、二代目の板橋栄三郎の代に取扱商品を繊維用染料から工業系塗料や機材等に変更します。1941年(昭和16年)には、第二次世界大戦の勃発により中島飛行機製作所(株式会社SUBARUの源流となる航空機メーカー)の協力工場から指定を受け、工具や工業材料類の調達・納入を幅広く請け負うなど、外的変化に対応しながら事業変革を行っていきました。
1948年(昭和23年)には「株式会社板橋商店」に組織変更にするとともに、工業系製品のほか表面処理の際に使用する工業薬品の取扱いをさらに拡大させ、1967年(昭和42年)には、表面処理の事業を充実させるため、めっき工業向けの資材販売に着手するなど、顧客ニーズを読み取りながら事業領域を拡大させていきました。
会社組織化に込めた地域に根差した企業としての志
一連の変遷の中で最も大きな変化は、1973年(昭和48年)に三代目社長として就任した父、板橋敏雄による会社組織化です。弊社は長い歴史の中で、国内産業の盛衰や戦争、災害等により、取り扱う商材や事業を変えざるを得なかったという経緯があります。三代目は、外的変化に耐え得る盤石な会社組織を作りたいと考え、それまで個人商店的な形態で続いてきた社内の変革を図っていきました。また、「株式会社板橋商店」から「板橋通商株式会社」に社名を変更し、表面処理専門の「商社」としての立ち位置を確立していきました。
当時は社員数も会社規模も小規模であり、組織化をせずとも事業は成り立ったかもしれませんが、三代目には「一度行ったサービスを次の代に継続し、10年後、20年後も永続的にお客様が困らないようにするのが、企業としての責任である。まして地域に根差した企業であればその責任は重く、組織化は不可欠だ」という揺るぎない志があったようです。
三代目の入社から社長就任にかけては、二代目であり祖父の栄三郎が経営に携わっていました。二代目と三代目は考え方が大きく異なっており、年中喧嘩をしていたように感じます。ある時、三代目はまだ珍しかった電算機(当時のコンピューターの呼び方。電子計算機の略)を導入して、日々の売上を全社員で見られるようにしようと考えました。当時としては非常に先進的な考え方ではありましたが、当時とても高額だった電算機を売上10億円に満たないような企業が導入し、社内で売上や業績を開示するのは異例のことであり、二代目は「何を考えているんだ」と猛反発しました。当時幼かった私は、その二代目と三代目とのやりとりや、反対を押し切って電算機を導入した際のことを覚えています。電算機は紙のテープに自動パンチ機で穴を開け、計算処理するのが当時の最新式で、子ども心に三代目の独創性と推進力を感じました。三代目を含め、戦後の復興と成長を支えた時代の方は皆、そういった高い志力(こころざしりょく)を持っていたように思います。今、私も経営者の責務を全うしようと努めてはいますが、三代目には今でも敵わないと思っています。
父の仕事を間近で見て学んだ「継ぐことの意味」
私が物心ついた時には父が三代目となっており、「板通」と我が家の日常生活がひと続きになっているような状態でした。三代目の仕事を間近で見てきたからか、小さい頃から「会社を継ぐ」というよりも「事業を継続させる」「事業に新しいものを加えていく」という意識が強かったと思います。小学6年生の時に書いた自分の将来の夢は「社長」でした。家業を継ぐことは特殊なように見えますが、どんな人もそれぞれの環境の中で自然と導かれるものがあり、私にとってそれが家業である「板通」だったのだと思います。
それでも実際には継ぐまでには紆余曲折ありました。足利市内の高校を卒業した私は、父と叔父が所属していたロータリークラブの青少年交換プログラム制度を活用して、オーストラリアの人口100万人ほどの地方にある高校に1年間留学しています。当時の日本はバブルにより史上最高の好景気でした。しかし、経済的には大きな違いがなかったはずのオーストラリアは、生活に余裕があり居心地がよく、物理的な豊かさとはまた違った豊かさを感じました。そこから「本当の豊かさとは何だろう」「日本の社会も心持ちを変えればもっと豊かになれるのでは」と考えるきっかけになりました。そうした問いかけは、経営者になった今もよく考えます。
家業を継ぐことを具体的に考えるようになったのは大学卒業後になります。修行をするため、家業の関連業種である工業薬品の販売等を行う中堅会社に入社し、半導体や液晶を扱う事業に携わります。しかし、入社から2、3年経った頃に突然、畑違いの水産物の輸入などを行う「海外事業部」に転属となります。当初は戸惑いもありましたが、実際に仕事をはじめると、韓国やシンガポール、メキシコからイカやタコ等の商材を集め、輸入枠を調整しながら国内の流通ルートに流していく仕事は、貿易事業のダイナミズムが感じられ、非常に面白くやりがいを感じました。小さな部署で、雑務を含め、あらゆることを自分自身で進める必要がありましたが、創業経営者が味わうであろう苦労の一端を経験することができたのかなと、経営者になった今は思えます。
また、修行期間と位置付けたこの頃に、留学やビジネスを通じて海外との接点を得たことで、企業活動の先には地域や国があり、それらを「豊か」にしていくためには、地域で育まれた企業が自ら発展していく必要があると考えるようになりました。
「商社」としての家業を意識、貿易事業の経験を活かす
修行期間を経て家業の「板通」に戻ったのは1991年(平成3年)、31歳の頃になります。配属先は、宇都宮支店でした。後継者候補として戻ることに関しては、多少の緊張はあったものの、さほどプレッシャーは感じませんでした。「板通」は幼少期から馴染み深い場所であり、社員の中には子どもの頃によく遊んでもらっていた人もいて、さらには家業を支えてきた三代目や叔父、一緒に働いてくれる会社の仲間がいたので、安心して会社に戻ることができました。
単独で創業した場合は自分一人で全部抱えなければいけない時期がありますが、私の場合は同族経営の会社で、さらに父である三代目が組織づくりをした後の入社だったこともあり、後継者としては大変恵まれた環境だったと思います。
入社から1年ほどはトラックでの配送業務に就きました。サービス提供の先端にいる社員の苦労を身をもって知るとともに、お客様からの「頑張ったな」という労いや感謝の言葉から、社員の手を通じて弊社の商品が世の中に受け入れられていることを実感できました。
弊社はメーカーとユーザーの橋渡しをする「購買代理店」であり、BtoB(企業間取引)を主としています。また主商材である塗料は、いわゆる半製品できちんと塗装条件を整えて初めて塗膜という商品になります。したがって我々商社はお客様にとって最適な環境を提案していくという専門知識を得なくてはなりません。創造的流通を掲げる当社の創造的な部分の一つがまさにその提案なのです。現場仕事は肉体的には大変でしたが、弊社のビジネスにおける本質的な意味合いを理解し、会社の全体像を知る機会になりました。
その後、社内業務をこなしながら経営を引き継ぐ準備を少しずつ進めていくうちに、お客様が海外展開を始めたことを契機に、弊社も貿易事業を始めてみたいと思うようになりました。社長に就任した翌年の2005年(平成17年)にはフィリピンにマニラオフィスを開設し、新たに輸出入業務を開始します。現在では、フィリピンだけでなく、タイ、インドネシア、ベトナム、中国にまで拠点が増え、表面処理薬品や装置、化学品などの販売を軸にした貿易事業を展開できるまでになりました。
修行していた当時は、貿易事業が家業に役立つとは思っていませんでしたが、今振り返ると「計画的偶発性理論」(心理学者ジョン・D・クランボルツによるキャリア形成理論)のように、偶然の連続の中で自分のキャリアや人生が形成されてきたのだと感じています。一見意味がなさそうなことでも、前向きな気持ちで精一杯向き合っていけば成功の足掛かりになり、失敗した場合の教訓にもなるだろうと考えています。
時代と環境と共に進化・拡大してきた事業展開の歩み
弊社の歴史を事業という切り口で見ていくと、繊維に使う染料を販売するところからスタートし、工業用製品向けの塗料を扱うようになり、さらには建築用塗料も扱いはじめ、そこから塗料は表面処理の一つという解釈から、めっきにも展開していきました。また、塗料は「半製品」だという話をしましたが、塗料の販売だけでなく、塗装自体を弊社で行ったり、製品加工までも視野に入れたビジネス展開もするようになっています。
近年では、各得意先の技術と弊社の専門知識をかけ合わせ、付加価値を生み出すような体制づくりに取り組んでいます。例えば、部品加工の請け負い部門として「製品加工事業部」を新設し、自動車や家電、建材などの製造業者から部品製造を受託して、得意先の成型会社で成型してもらったものを、自社で組み立て、関連会社で塗装を施し、品質と納期を保障して納品するというサービスの提供ができるようになりました。オールインワンで受注できる体制が作れたことで、弊社に任せてくれるお客様が増え、さらに自社だけでは対応できなった案件、お付き合いがなかった業界に市場が広がり、飛躍的に業績が伸びました。
また、市場を広げるという部分では、弊社で取り扱う洗浄剤やアルコール類などの商材を、食品業界に提案していったところ、大手のビール工場のほか、ハム・ソーセージ工場や豆富・納豆工場などにも広がり、事業の柱を増やすことができています。今後もさらにサービスの専門性を深めるために、塗装関連会社を設けるなど、新たな事業創出のための種まきを続けています。
今に引き継がれる普遍の価値基準
弊社の4つの「価値基準」は、二代目である祖父が板橋商店を経営していた明治時代に作られました。この「価値基準」のうち「二大誓願」は、日本の社会教育の形成と発展に尽力した蓮沼門三という道徳家が作ったものを元にしており、この「二大誓願」は足利にあった繊維工場で女工さんによって唱和されていました。内容は「汗を流し働きましょう」「全ての人とよく話し合い喧嘩をしないように」という非常にシンプルなもので、祖父はこれを板橋商店流、板通流にアレンジして理念に落とし込み、直筆で書いたものを社内に掲示していました。以来、朝礼でこの「二大誓願」を唱和することが慣習となり、時代を経て様々なメッセージが加わり、変化していく中でも変わらず引き継がれてきました。入社当初は古めかしい全体主義のように感じていましたが、自分自身、社員とともに懸命に働き、毎朝唱和するうちに「どんな時代にも必要なこと」だと実感できるようになりました。
2番目の価値基準である近江商人の「三方良し」という考えは、板通流の解釈で「我によし、相手によし、世間によし」となっています。「我」は経営者・従業員・グループ会社、「相手」は得意先・仕入れ先で、「世間」は地域社会・業界団体・関係官庁を指しています。
3番目は、松尾芭蕉の「不易流行」という言葉です。変化しない本質的なものを忘れずに、新しい変化を取り入れ続けることという意味で、伝統や歴史を大切にしながらも、新しい挑戦も忘れずにいこうという思いが込められています。
4番目の「創造的流通」は、商品を売ってお終いということではなく、仕入先・得意先・地域のネットワークといった人と人を繋ぎ、新たな価値とサービスを生み出していこうというものです。
ここ数年はコロナ禍で朝礼ができず、理念を共有する時間をとれていませんが、先輩社員の仕事の向き合い方が後輩に伝わり、それがお客様へのサービスとして表れていることから、社風として理念が根づいているのを感じています。言葉で共有できればより方向性が明確に定まるため、今後は折を見て理念浸透の機会を改めて設けていきたいと思っています。
社員のアイデアで幅が広がった「地域貢献」
約130年に渡って足利に本社を構える弊社では、表面処理の事業を通じて「地域人財」の受け皿となり、利益を還元していくことが「地域貢献」でした。そこに明確な形の「地域貢献」活動が加わったのは、2013年(平成25年)にスタートしたハチミツやお菓子の販売事業「れんがHoneyGarden」からになります。地域の産品を使った商品を展開していくことで、事業を通じた地域貢献ができています。最近では「デイサービスさくらの里」、入浴特化型の「デイサービス湯ざくら」を開業しており、これは中堅社員を集めて行った社内新規事業プロジェクトから生まれたアイデアを、弊社の新規事業として始めたものになります。発案者である社員が資格を取得したり、自分の人脈でスタッフを集めたりと、意欲的に展開しているのが特徴です。高齢者のコミュニケーションの場をつくることは、介護をしている人の助けになるだけではなく、利用者が人の集いの中で生きがいを得て、さらには地域活性化の一助にもなると考えています。これは弊社が理念に掲げる「快適と信頼の提供」にも通じるものです。
弊社の事業は、これまで本業を軸にした地域貢献という考えでしたが、社員のアイデアを得たことで地域課題をスタート地点にして弊社ができることという形で、より広がりを持たせられるようになったと思います。
この考え方はM&Aも同様です。現在、銀行やコンサルティング会社等を通じて、化学系商社を中心としたM&Aのお話が来るようになっています。ただ、弊社がM&Aをする理由は、足りない技術やノウハウを譲り受けることだけが目的ではないので、その企業や技術、人財が育まれた郷土も含めて守っていけるような事業承継にしていきたいと考えています。
地域と世界を見据えた新たなサービスを創造し続ける
弊社では、創業当初から「顧客第一」の流通を大事にしてきました。中小企業から中堅企業になりつつある現在は、既存の流通に専門知識や新しい情報を加え、トータルメリットが得られる提案やサービス提供を可能にする「創造的流通」を目指しています。
また、取引先からも情報セキュリティ面での高い安全性を求められる時代ですので、今後は社内システムの更新を進め、DX化を図りながら、ワンストップソリューションの提供を可能にするシステムを構築していく所存です。
今後、社会や企業の価値観が急激に変化していく中では、「環境適応」「人財育成」「事業・市場創造」の3つが企業経営の大事な要素になっていくと思います。特にコロナ拡大後には、事業の安定化を図りながらトータルソリューションを提供するような事業体が増えつつあります。
地域に目を向ければ、人口が減少していることから、ある程度のリソースを持つ会社が様々な業種を手掛けなければ地域の産業は衰退するでしょう。ですので、弊社も地域の産業を支える企業の一つになるべきだと考えています。国内では少子高齢化や自然災害の課題もあり、地域社会を守るには、一都集中型から地方分散型に変化させていくことが日本が生き残る術だと考えています。地方分散型社会を実現し、次世代が安心して社会生活を営める環境を残し、さらに循環型の社会に転換していくためには、地域の雇用、組織、技術を維持・発展させていかなければなりません。
世界中が覇権主義に変わりつつあり、今までとは異なる価値感で「豊かな生活」を追求していくことも大きな課題だと感じています。これから次世代に社会を引き渡す側の責務として、これらを心に留め、少しでも地域に貢献できるような事業展開を進めたいと考えています。
かつての弊社は創業者の血縁によって引き継がれ、トップが会社を牽引する形態でしたが、三代目が組織化をしてくれたことが転換点となり、今は全社員が一つの目標に向かって行動し、会社全体で事業を継続できる環境に変わってきています。この伝統を踏まえ、揺るがない風土を築きながら、社員や協力企業の力を借り、地域と世界を見据えた新たなサービスを創造していきたいと考えています。
私の代では事業の継続を第一に、次世代に引き継いでいくために市場の創造と開拓を行ってきました。「一度世に出したサービスは、それを利用しているお客様や次の世代のためにも継続していくことが使命」と弊社は考えているので、これからも、地域経済を様々な事業、サービスを通じて活性化していければと考えています。
明治期の染料商「えのぐ屋」から出発
創業134年目を迎える弊社は、1889年(明治22年)に高祖父である板橋半次郎が創業し、絹織物の染料を販売する「えのぐ屋」(当時の社名)が原点となっています。創業の地である栃木県足利市は古くから織物業が盛んであり、明治初期には国内での生糸の増産や輸出に伴い絹織物の市場が拡大し、国策により繊維業が基幹産業となったことで、さらに急成長を遂げました。
日本における繊維業の成長と創業の時期が重なることから、初代も「繊維業の周辺事業なら地域に根づき発展していける」と考えたのかもしれません。その後、1930年代の世界恐慌に伴い国内の繊維業が衰退し始めたため、二代目の板橋栄三郎の代に取扱商品を繊維用染料から工業系塗料や機材等に変更します。1941年(昭和16年)には、第二次世界大戦の勃発により中島飛行機製作所(株式会社SUBARUの源流となる航空機メーカー)の協力工場から指定を受け、工具や工業材料類の調達・納入を幅広く請け負うなど、外的変化に対応しながら事業変革を行っていきました。
1948年(昭和23年)には「株式会社板橋商店」に組織変更にするとともに、工業系製品のほか表面処理の際に使用する工業薬品の取扱いをさらに拡大させ、1967年(昭和42年)には、表面処理の事業を充実させるため、めっき工業向けの資材販売に着手するなど、顧客ニーズを読み取りながら事業領域を拡大させていきました。
会社組織化に込めた地域に根差した企業としての志
一連の変遷の中で最も大きな変化は、1973年(昭和48年)に三代目社長として就任した父、板橋敏雄による会社組織化です。弊社は長い歴史の中で、国内産業の盛衰や戦争、災害等により、取り扱う商材や事業を変えざるを得なかったという経緯があります。三代目は、外的変化に耐え得る盤石な会社組織を作りたいと考え、それまで個人商店的な形態で続いてきた社内の変革を図っていきました。また、「株式会社板橋商店」から「板橋通商株式会社」に社名を変更し、表面処理専門の「商社」としての立ち位置を確立していきました。
当時は社員数も会社規模も小規模であり、組織化をせずとも事業は成り立ったかもしれませんが、三代目には「一度行ったサービスを次の代に継続し、10年後、20年後も永続的にお客様が困らないようにするのが、企業としての責任である。まして地域に根差した企業であればその責任は重く、組織化は不可欠だ」という揺るぎない志があったようです。
三代目の入社から社長就任にかけては、二代目であり祖父の栄三郎が経営に携わっていました。二代目と三代目は考え方が大きく異なっており、年中喧嘩をしていたように感じます。ある時、三代目はまだ珍しかった電算機(当時のコンピューターの呼び方。電子計算機の略)を導入して、日々の売上を全社員で見られるようにしようと考えました。当時としては非常に先進的な考え方ではありましたが、当時とても高額だった電算機を売上10億円に満たないような企業が導入し、社内で売上や業績を開示するのは異例のことであり、二代目は「何を考えているんだ」と猛反発しました。当時幼かった私は、その二代目と三代目とのやりとりや、反対を押し切って電算機を導入した際のことを覚えています。電算機は紙のテープに自動パンチ機で穴を開け、計算処理するのが当時の最新式で、子ども心に三代目の独創性と推進力を感じました。三代目を含め、戦後の復興と成長を支えた時代の方は皆、そういった高い志力(こころざしりょく)を持っていたように思います。今、私も経営者の責務を全うしようと努めてはいますが、三代目には今でも敵わないと思っています。
父の仕事を間近で見て学んだ「継ぐことの意味」
私が物心ついた時には父が三代目となっており、「板通」と我が家の日常生活がひと続きになっているような状態でした。三代目の仕事を間近で見てきたからか、小さい頃から「会社を継ぐ」というよりも「事業を継続させる」「事業に新しいものを加えていく」という意識が強かったと思います。小学6年生の時に書いた自分の将来の夢は「社長」でした。家業を継ぐことは特殊なように見えますが、どんな人もそれぞれの環境の中で自然と導かれるものがあり、私にとってそれが家業である「板通」だったのだと思います。
それでも実際には継ぐまでには紆余曲折ありました。足利市内の高校を卒業した私は、父と叔父が所属していたロータリークラブの青少年交換プログラム制度を活用して、オーストラリアの人口100万人ほどの地方にある高校に1年間留学しています。当時の日本はバブルにより史上最高の好景気でした。しかし、経済的には大きな違いがなかったはずのオーストラリアは、生活に余裕があり居心地がよく、物理的な豊かさとはまた違った豊かさを感じました。そこから「本当の豊かさとは何だろう」「日本の社会も心持ちを変えればもっと豊かになれるのでは」と考えるきっかけになりました。そうした問いかけは、経営者になった今もよく考えます。
家業を継ぐことを具体的に考えるようになったのは大学卒業後になります。修行をするため、家業の関連業種である工業薬品の販売等を行う中堅会社に入社し、半導体や液晶を扱う事業に携わります。しかし、入社から2、3年経った頃に突然、畑違いの水産物の輸入などを行う「海外事業部」に転属となります。当初は戸惑いもありましたが、実際に仕事をはじめると、韓国やシンガポール、メキシコからイカやタコ等の商材を集め、輸入枠を調整しながら国内の流通ルートに流していく仕事は、貿易事業のダイナミズムが感じられ、非常に面白くやりがいを感じました。小さな部署で、雑務を含め、あらゆることを自分自身で進める必要がありましたが、創業経営者が味わうであろう苦労の一端を経験することができたのかなと、経営者になった今は思えます。
また、修行期間と位置付けたこの頃に、留学やビジネスを通じて海外との接点を得たことで、企業活動の先には地域や国があり、それらを「豊か」にしていくためには、地域で育まれた企業が自ら発展していく必要があると考えるようになりました。
「商社」としての家業を意識、貿易事業の経験を活かす
修行期間を経て家業の「板通」に戻ったのは1991年(平成3年)、31歳の頃になります。配属先は、宇都宮支店でした。後継者候補として戻ることに関しては、多少の緊張はあったものの、さほどプレッシャーは感じませんでした。「板通」は幼少期から馴染み深い場所であり、社員の中には子どもの頃によく遊んでもらっていた人もいて、さらには家業を支えてきた三代目や叔父、一緒に働いてくれる会社の仲間がいたので、安心して会社に戻ることができました。
単独で創業した場合は自分一人で全部抱えなければいけない時期がありますが、私の場合は同族経営の会社で、さらに父である三代目が組織づくりをした後の入社だったこともあり、後継者としては大変恵まれた環境だったと思います。
入社から1年ほどはトラックでの配送業務に就きました。サービス提供の先端にいる社員の苦労を身をもって知るとともに、お客様からの「頑張ったな」という労いや感謝の言葉から、社員の手を通じて弊社の商品が世の中に受け入れられていることを実感できました。
弊社はメーカーとユーザーの橋渡しをする「購買代理店」であり、BtoB(企業間取引)を主としています。また主商材である塗料は、いわゆる半製品できちんと塗装条件を整えて初めて塗膜という商品になります。したがって我々商社はお客様にとって最適な環境を提案していくという専門知識を得なくてはなりません。創造的流通を掲げる当社の創造的な部分の一つがまさにその提案なのです。現場仕事は肉体的には大変でしたが、弊社のビジネスにおける本質的な意味合いを理解し、会社の全体像を知る機会になりました。
その後、社内業務をこなしながら経営を引き継ぐ準備を少しずつ進めていくうちに、お客様が海外展開を始めたことを契機に、弊社も貿易事業を始めてみたいと思うようになりました。社長に就任した翌年の2005年(平成17年)にはフィリピンにマニラオフィスを開設し、新たに輸出入業務を開始します。現在では、フィリピンだけでなく、タイ、インドネシア、ベトナム、中国にまで拠点が増え、表面処理薬品や装置、化学品などの販売を軸にした貿易事業を展開できるまでになりました。
修行していた当時は、貿易事業が家業に役立つとは思っていませんでしたが、今振り返ると「計画的偶発性理論」(心理学者ジョン・D・クランボルツによるキャリア形成理論)のように、偶然の連続の中で自分のキャリアや人生が形成されてきたのだと感じています。一見意味がなさそうなことでも、前向きな気持ちで精一杯向き合っていけば成功の足掛かりになり、失敗した場合の教訓にもなるだろうと考えています。
時代と環境と共に進化・拡大してきた事業展開の歩み
弊社の歴史を事業という切り口で見ていくと、繊維に使う染料を販売するところからスタートし、工業用製品向けの塗料を扱うようになり、さらには建築用塗料も扱いはじめ、そこから塗料は表面処理の一つという解釈から、めっきにも展開していきました。また、塗料は「半製品」だという話をしましたが、塗料の販売だけでなく、塗装自体を弊社で行ったり、製品加工までも視野に入れたビジネス展開もするようになっています。
近年では、各得意先の技術と弊社の専門知識をかけ合わせ、付加価値を生み出すような体制づくりに取り組んでいます。例えば、部品加工の請け負い部門として「製品加工事業部」を新設し、自動車や家電、建材などの製造業者から部品製造を受託して、得意先の成型会社で成型してもらったものを、自社で組み立て、関連会社で塗装を施し、品質と納期を保障して納品するというサービスの提供ができるようになりました。オールインワンで受注できる体制が作れたことで、弊社に任せてくれるお客様が増え、さらに自社だけでは対応できなった案件、お付き合いがなかった業界に市場が広がり、飛躍的に業績が伸びました。
また、市場を広げるという部分では、弊社で取り扱う洗浄剤やアルコール類などの商材を、食品業界に提案していったところ、大手のビール工場のほか、ハム・ソーセージ工場や豆富・納豆工場などにも広がり、事業の柱を増やすことができています。今後もさらにサービスの専門性を深めるために、塗装関連会社を設けるなど、新たな事業創出のための種まきを続けています。
今に引き継がれる普遍の価値基準
弊社の4つの「価値基準」は、二代目である祖父が板橋商店を経営していた明治時代に作られました。この「価値基準」のうち「二大誓願」は、日本の社会教育の形成と発展に尽力した蓮沼門三という道徳家が作ったものを元にしており、この「二大誓願」は足利にあった繊維工場で女工さんによって唱和されていました。内容は「汗を流し働きましょう」「全ての人とよく話し合い喧嘩をしないように」という非常にシンプルなもので、祖父はこれを板橋商店流、板通流にアレンジして理念に落とし込み、直筆で書いたものを社内に掲示していました。以来、朝礼でこの「二大誓願」を唱和することが慣習となり、時代を経て様々なメッセージが加わり、変化していく中でも変わらず引き継がれてきました。入社当初は古めかしい全体主義のように感じていましたが、自分自身、社員とともに懸命に働き、毎朝唱和するうちに「どんな時代にも必要なこと」だと実感できるようになりました。
2番目の価値基準である近江商人の「三方良し」という考えは、板通流の解釈で「我によし、相手によし、世間によし」となっています。「我」は経営者・従業員・グループ会社、「相手」は得意先・仕入れ先で、「世間」は地域社会・業界団体・関係官庁を指しています。
3番目は、松尾芭蕉の「不易流行」という言葉です。変化しない本質的なものを忘れずに、新しい変化を取り入れ続けることという意味で、伝統や歴史を大切にしながらも、新しい挑戦も忘れずにいこうという思いが込められています。
4番目の「創造的流通」は、商品を売ってお終いということではなく、仕入先・得意先・地域のネットワークといった人と人を繋ぎ、新たな価値とサービスを生み出していこうというものです。
ここ数年はコロナ禍で朝礼ができず、理念を共有する時間をとれていませんが、先輩社員の仕事の向き合い方が後輩に伝わり、それがお客様へのサービスとして表れていることから、社風として理念が根づいているのを感じています。言葉で共有できればより方向性が明確に定まるため、今後は折を見て理念浸透の機会を改めて設けていきたいと思っています。
社員のアイデアで幅が広がった「地域貢献」
約130年に渡って足利に本社を構える弊社では、表面処理の事業を通じて「地域人財」の受け皿となり、利益を還元していくことが「地域貢献」でした。そこに明確な形の「地域貢献」活動が加わったのは、2013年(平成25年)にスタートしたハチミツやお菓子の販売事業「れんがHoneyGarden」からになります。地域の産品を使った商品を展開していくことで、事業を通じた地域貢献ができています。最近では「デイサービスさくらの里」、入浴特化型の「デイサービス湯ざくら」を開業しており、これは中堅社員を集めて行った社内新規事業プロジェクトから生まれたアイデアを、弊社の新規事業として始めたものになります。発案者である社員が資格を取得したり、自分の人脈でスタッフを集めたりと、意欲的に展開しているのが特徴です。高齢者のコミュニケーションの場をつくることは、介護をしている人の助けになるだけではなく、利用者が人の集いの中で生きがいを得て、さらには地域活性化の一助にもなると考えています。これは弊社が理念に掲げる「快適と信頼の提供」にも通じるものです。
弊社の事業は、これまで本業を軸にした地域貢献という考えでしたが、社員のアイデアを得たことで地域課題をスタート地点にして弊社ができることという形で、より広がりを持たせられるようになったと思います。
この考え方はM&Aも同様です。現在、銀行やコンサルティング会社等を通じて、化学系商社を中心としたM&Aのお話が来るようになっています。ただ、弊社がM&Aをする理由は、足りない技術やノウハウを譲り受けることだけが目的ではないので、その企業や技術、人財が育まれた郷土も含めて守っていけるような事業承継にしていきたいと考えています。
地域と世界を見据えた新たなサービスを創造し続ける
弊社では、創業当初から「顧客第一」の流通を大事にしてきました。中小企業から中堅企業になりつつある現在は、既存の流通に専門知識や新しい情報を加え、トータルメリットが得られる提案やサービス提供を可能にする「創造的流通」を目指しています。
また、取引先からも情報セキュリティ面での高い安全性を求められる時代ですので、今後は社内システムの更新を進め、DX化を図りながら、ワンストップソリューションの提供を可能にするシステムを構築していく所存です。
今後、社会や企業の価値観が急激に変化していく中では、「環境適応」「人財育成」「事業・市場創造」の3つが企業経営の大事な要素になっていくと思います。特にコロナ拡大後には、事業の安定化を図りながらトータルソリューションを提供するような事業体が増えつつあります。
地域に目を向ければ、人口が減少していることから、ある程度のリソースを持つ会社が様々な業種を手掛けなければ地域の産業は衰退するでしょう。ですので、弊社も地域の産業を支える企業の一つになるべきだと考えています。国内では少子高齢化や自然災害の課題もあり、地域社会を守るには、一都集中型から地方分散型に変化させていくことが日本が生き残る術だと考えています。地方分散型社会を実現し、次世代が安心して社会生活を営める環境を残し、さらに循環型の社会に転換していくためには、地域の雇用、組織、技術を維持・発展させていかなければなりません。
世界中が覇権主義に変わりつつあり、今までとは異なる価値感で「豊かな生活」を追求していくことも大きな課題だと感じています。これから次世代に社会を引き渡す側の責務として、これらを心に留め、少しでも地域に貢献できるような事業展開を進めたいと考えています。
かつての弊社は創業者の血縁によって引き継がれ、トップが会社を牽引する形態でしたが、三代目が組織化をしてくれたことが転換点となり、今は全社員が一つの目標に向かって行動し、会社全体で事業を継続できる環境に変わってきています。この伝統を踏まえ、揺るがない風土を築きながら、社員や協力企業の力を借り、地域と世界を見据えた新たなサービスを創造していきたいと考えています。
私の代では事業の継続を第一に、次世代に引き継いでいくために市場の創造と開拓を行ってきました。「一度世に出したサービスは、それを利用しているお客様や次の世代のためにも継続していくことが使命」と弊社は考えているので、これからも、地域経済を様々な事業、サービスを通じて活性化していければと考えています。
会社概要
社名 | 株式会社板通 |
創立年 | 1889年 |
代表者名 | 代表取締役社長 板橋 信行 |
資本金 | 3,000万円 |
URL |
https://www.itatsu.co.jp/
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本社住所 |
〒326-0802 0284-41-8181 |
事業内容 | 塗料・溶剤 工業薬品 めっき薬品 機械・設備 合成樹脂 接着剤 |
事業エリア |
本部 〒373-0015 0276-25-8131 |
両毛支店 〒373-0015 0276-25-8181 |
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埼玉支店 〒355-0006 0493-22-5888 |
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高崎支店 〒370-1201 027-347-1919 |
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小山支店 〒323-0811 0285-27-7143 |
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宇都宮支店 〒321-0905 028-663-5835 |
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水戸支店 〒311-3116 029-292-8181 |
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東北支店 〒989-6228 0229-26-5000 |
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名古屋支店 〒460-0026 052-228-2981 |
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製品加工事業部 〒373-0847 0276-33-7557 |
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両毛調色サービスステーション 〒373-0015 0276-25-6398 |
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【フィリピン】マニラオフィス +63(0)49-530-0975 |
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【タイ】ITATSU(THAILAND)CO.,LTD.(現地法人) +66(0)2-637-9877 |
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【インドネシア】PT.ITATSU INDONESIA (現地法人) +62(0)21-8967-7730 |
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【中国】板通商貿(上海)有限公司(現地法人) 〒201206 ROOM 610、YUZHOU PLAZA、NO.299、JINGANG ROAD、 PUDONG、SHANGHAI +86(0)21-2028-6088 |
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【ベトナム】ITATSU VIETNAM CO.,LTD. (現地法人) 〒71006 +(84)28-3933-0786 |
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関連会社 |
会社沿革
1889年 | 創業。板橋半次郎、足利市井草にて染料商「えのぐ屋」をはじめる |
1905年 | 一代目・板橋栄三郎、家業を継ぐ |
1917年 | ニ代目・板橋栄三郎、家業を継ぐ。塗料、塗装用機材を商う |
1931年 | ホーチキ(株)の代理店となり、消火器の販売を開始 |
1941年 | 中島飛行機製作所協力工場の指定を受け、工業材料、工具類の調達・納入を幅広く行う |
1948年 | 株式会社(資本金50万)に組織変更し、「株式会社板橋商店」となる。主に塗料、工業薬品を扱う |
1963年 | 群馬県太田市に太田営業所(旧太田支店)開設 |
1967年 | 資本金400万円に増資。めっき工業向け資材の販売に着手 |
1969年 | 本社を足利市旭町553番地(現住所)に移転。合成樹脂部門を強化 |
1974年 | 足利税務署より優良申告法人として表彰される (以後、2019年の国税調査対象となるまで、優良申告法人継続) |
1976 年 | 配送センター(太田東部工業団地)を開設 |
1977年 | 塗装工事・防水工事・消火施設工事等建築業許可を受ける |
1982年 | 配送センター隣接地に営業本部を開設 |
1983年 | 建装事業部(旭町本社ビル内)の開設にともない、塗装工事・防災工事部門を拡充 両毛成型品塗装株式会社設立 |
1984年 | 宇都宮、平出工業団地に小山支社宇都宮営業所(現宇都宮支店)を開設 |
1985年 | 群馬支社(旧太田支店)を太田市西部工業団地移転 |
1986年 | 小山支社水戸営業所(現水戸支店)を水戸市南部に開設 |
1989年 | 創業100周年を期に社名を「株式会社 板通」に変更 埼玉県東松山市に群馬支社東松山営業所(現埼玉支店)を開設 |
1992年 | 高崎市倉賀野金属工業団地に高崎支店を開設 |
1993年 | 板橋秀二が社長に就任 |
1999年 | ISO9001取得 |
2002年 | 昭和サイン株式会社 株取得によるグループ化 |
2003年 | 両毛成型品塗装株式会社 太田工場設立 |
2004年 | 板橋信行が社長に就任 |
2005年 | マニラオフィス(フィリピン)開設 北関東ケミカル株式会社設立 |
2006年 | 宮城県大崎市に東北営業所(現東北支店)を開設 |
2008年 | 経済産業省の中小企業IT経営力大賞2008で「IT経営実践認定企業」に認定 ITATSU(THAILAND) CO.,LTD(タイ)設立 有限会社 落合消防商会 株取得によるグループ化 |
2011年 | PT.ITATSU INDONESIA(インドネシア)設立 足利支店と太田支店を統合し両毛支店を開設。 東松山支店を埼玉支店へ名称変更 |
2012年 | 板通商貿(上海)有限公司(中国)設立 |
2015年 | ホーチミン事務所(ベトナム)開設 |
2016年 | 両毛成型品塗装株式会社足利工場設立 |
2017年 | デイサービスさくらの里開設 |
2018年 | ホーチミン事務所を現地法人化しITATSU VIETNAM CO.,LTD設立 経済産業省より「地域未来牽引企業」に選定される |
2019年 | 東北営業所を東北支店に名称変更 |
2020年 | デイサービス湯ざくら開設 |
2021年 | 名古屋支店開設 |
株式会社板通の経営資源引継ぎ募集情報
人的資本引継ぎ
宮城県
茨城県
栃木県
群馬県
埼玉県
愛知県
創業130年の専門商社が人財募集。求めるのは進化と深化に意欲的な方
事業引継ぎ
茨城県
栃木県
群馬県
埼玉県
譲渡企業様の想いに寄り添いたい。弊社の理念に共感いただける先を募集
公開日:2022/12/02 (2023/02/10修正)
※本記事の内容および所属名称は2023年2月現在のものです。現在の情報とは異なる場合があります。
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