
福島・いわき市
福島 ・ いわき市
引継ぎ実績あり
確かな技術と
株式会社久工業所
100年企業を見据え、物心両面の幸せのため技術を磨き続ける
経営理念
全従業員の物心両面の幸福を追求するとともに、我々の技術をもって地域、社会の発展に貢献する。
代表者メッセージ

当社は、1959年2月、福島県いわき市小名浜に創業以来、各種ボイラ据付、点検整備工事、水道施設工事、空調衛生設備工事を初めとし、石油及び化学工場関連のプラント類の機器の製作、据付工事、各種配管工事を行う建設工事会社として躍進してまいりました。
加えて1971年からは、旧通産省及び科学技術庁の溶接認可工場の資格を有し、原子力発電関連分野へと展開を図り、着実に実績と技術力の蓄積を重ねると共に、1990年には、大原工場を現在地の黒須野工場に統合し、更に原子力発電所向の大型製缶品の取扱に対応する為、工場規模の拡大を計り、現在に至っております。
今後もこれまで同様、安全・品質・技術の継承を重ね、お客様により一層満足していただける会社を目指します。
代表取締役 鈴木 淳裕

私たちのこだわり
親分肌でボイラー職人の祖父が地元の仲間と創業
弊社は、祖父の鈴木久枝が1959年に創業した会社です。社名は祖父の名前に由来しています。祖父はもともと、福島県郡山市の化学工場でボイラー据付・整備従事者として働いていましたが、地元のいわき市に戻り、祖父の妹の夫や地元の仲間とともに事業を立ち上げたそうです。1960年前後は高度経済成長期であり、小名浜地区は日本化成や東邦亜鉛などの大企業が進出し、仕事を受注しやすい環境が整ってきていたことも創業の後押しとなったのかもしれません。
当時はボイラーの技術をもつ職人の数が少なく、建設業なので比較的高単価の仕事を受注できていたとは思いますが、今ほどは工具や機械装置が充実していなかったので、リヤカーを引き現場に行っていたそうです。
昔の職人は、現場や飲み屋でけんかをするような血気盛んな人が多かったようですが、そんな職人たちをまとめていた祖父は、親分肌で慕われる存在だったのだろうと思います。創業メンバーの中には独立していった人もいますが、現在も良好な関係が続いているそうです。
その後、祖父はボイラー整備に加えて水道・空調関連事業にも進出し、管工事を中心に事業領域を広げていきました。祖父の面倒見の良さは社外でも活かされ、地元の各種団体の役員を歴任したそうです。経済成長の波に乗り、事業は安定するようになりましたが、祖父には後継者がいなかったため婿入りした父が家業を継ぐこととなりました。
飲食業や観光業などへの投資で多角化を図った2代目
父は、1986年の42歳のときに2代目社長に就任し、飲食業や観光事業などにも手を広げていきました。1992年には遊覧船を2隻購入して「いわきデイクルーズ」という新たな事業を立ち上げ、小名浜初となる海上遊覧船の運航をスタートし、そのほか地元産の海鮮類を使ったイタリアンレストランや、その素材を卸す魚屋、アワビの養殖、水耕栽培、生ごみの堆肥化にも投資をしていきました。バブル期だったので引き合いも多く、地元のためになるアイデアを父は事業として打ち出し、現場は部下の方々に支えてもらっていました。現在の原子力関連工事業も、父の入社後に進出したそうです。
その後も多角化を進めていきましたが、バブル崩壊後は経営が思うようにいかず、先細りになってきていた魚屋やレストランなどを手放し、2000年には海洋事業部を分社化することになりました。しかし立て直しはうまくいかず、借入金は14億円にまで膨れ上がっていました。
アメフト部マネージャーの経験が経営への向き合い方につながる
現在3代目の私は、幼い頃から家業や職人の輪の中で育ちました。祖父は人に喜んでもらうのが好きで、正月に知人や職人を家に招いて餅つきをするのですが、その頃にはすでに私は「3代目」と呼ばれていました。しかし「3代目」となる責任や重さまではわからず、祖父や父の敷いてくれたレールに乗っていけば大丈夫だろうという程度の考えでいました。
小中高を地元のいわき市で過ごし、日本大学の文理学部哲学科に進学してからは、アメリカンフットボール部に入部しマネージャーを務めました。日大アメフトの黄金期を築いたことで知られる篠竹監督のもとで選手たちと学び、心身ともに鍛えられた大学生活は辛く厳しいものではありましたが、経営者に必要な忍耐力や地道な努力、物事に向き合う心構えを身につけられたと感じています。
日大アメフト部は、合宿でこの小名浜に滞在したこともあり、弊社がかつて運航していた海上遊覧船「ふぇにっくす」も、日大アメフト部の愛称「フェニックス」からとり名づけられるなど、家業や地域とも深い関わりがありました。
そして就職活動のときには、漁業や農家などさまざまな業種に就いてみたいと思っていたので父に相談したところ「一度自社を見てから他社を経験した方が比較できるのでは」と助言され、さほど悩むことなく入社を決意しました。
入社時の従業員数は、現在の半分ほどの30~40名で、入社から5年間は、本社勤務ではなく遊覧船やレストランの業務を担当することとなりました。レストランでは初日から店長を任され、未経験ながら2年間運営にあたりました。
一般社員としての入社ながら、周りは後継者として接するので複雑な気持ちもありましたが、外へ出ずとも魚屋や遊覧船といった幅広い事業に携われたことは、今も大きな財産となっています。
盛和塾への入塾を機に、経営者として地域と社員の幸せを目指す
私に3代目としての意識が芽生える大きな転機となったのは、2011年3月の東日本大震災と、その3カ月後に開塾された稲盛和夫氏の「盛和塾福島」への入塾でした。当時のいわき市はまだ復旧の最中でしたが、開塾式には今は亡き稲盛和夫塾長が登壇すると聞き、私も参加することにしました。稲盛塾長は「企業の経営者が行動を起こすことが復興への第一歩になる」と、住まいや日常を失った福島の経営者に激励の言葉をかけてくださり、私も地域と社員のために経営していきたいと奮い立つとともに、3代目という立場や経営のあり方について深く考えるようになっていきました。
以前は、親の敷いたレールに乗ればいいという安易な考えがありましたが、稲盛氏の教えを通して、3代目として新たなレールを敷き、会社の方向性を決めるのは私自身であり、社員の人生を背負う責任の重さを改めて実感しました。3代目となり代表を務めることへの不安を抱きながらも、改めて経営者となる覚悟を決め、まずは職場の改善に着手していくことを決めました。
先代は「残業をして仕事で稼ぎなさい」というタイプでしたが、社員の居残りを助長する形となってしまっていました。働き方を健全にすることは、会社のためにも社員の家族のためにもなると思い至り、定時で帰ってもらえるような仕組みづくりをすることにしました。残業代を基本給に織り込み、手取り額は変えずに実質的なベースアップを行ったところ、無駄な作業や時間が減り、繁忙期をのぞき17時の定時で帰宅してもらえるようになっていきました。17時に帰宅できれば、家族と夕食の時間をゆっくり過ごすことができます。社員の幸せは家族の団らんの時間にあると感じ、人として経営者として、社員の幸せを考え続けることが大事だという実感を得ました。
そして、経営者としての覚悟ができた2017年の45歳のときに、社長に就任することとなりました。伴走期間はないままの社長交代でしたが、現在の常務に仕事を教わりながら、経営者としての視野を広げていきました。
社長就任当時にはまだ数億円の借入があったので、丹野会計事務所の助力を得て少しずつ返済していきました。債務超過の状態だったので、金融機関からの支援はあまり期待できず、社員たちにもあまり心配をかけたくないとの思いから知らせずにいたので、最も身近な会計事務所の皆様が頼りであり、支えていただきました。
現在は無借金となり、自己資本率も70%以上にまですることができました。これまで会社を支え働き続けてくれた社員の幸せのために、いい会社を目指していきたいと思っています。
建設工事部と原子力部への集中と選択により技術力を高め続ける
現在は事業の選択と集中のため、主要事業を 「建設工事部」と「原子力部」の二つに絞り展開しています。
「建設工事部」では、工場の配管工事を中心に携わっています。水配管などに使われる一般配管から、食品、ケミカル、石油・ガス・水素などの工事にともなう計画・施工管理をはじめ、機器や架台の移設、増設・改造、点検・補修までを行っています。それぞれの配管工事で求められる規格や品質、検査基準、製造の難易度は、使用目的や据付環境によって大きく異なり、どのような案件にも柔軟に対応できる溶接技術が弊社の最大の強みとなっています。
例えば、一般の水道配管に対して、ガソリンやガスなどの危険物の配管は、絶対に漏れないよう内部までしっかりと溶け込む溶接や、強靭性の検査が必要となります。
さらに厳重な製造管理が必要となる「原子力部」では、原子力を中心とした発電設備関連の配管工事を行っており、納品先は原子力発電所や研究機関です。発電設備の製作納入にあたっては、タンクやダクト、配管、廃棄処理装置ユニットなどの各種製品の製造に加え、原材料の品質や保管などの細かな規定、管理実態の定期的な報告義務もあります。
発電所関連の案件は、計画が届いてから製造に取りかかるまでに5年から10年かかることもあり、見積りや材料の変更、調整を何度も行いながらつくり上げていきます。一つでも手を抜けばインフラに重大な損害を与えてしまう可能性もあるため、信頼し任せていただいた仕事と役割を全うできるよう、技術を磨き続けることが、弊社の最大の使命だと考えています。
発電所関連の仕事は、長年にわたる技術の蓄積と実績がなければ参入すら難しく、弊社が旧通産相の認定工場に指定され、取引先の皆様から厚い信頼をいただけているのは、職人の経験と技術力、そしてたゆまぬ努力が社内に蓄積されているからだと思っています。
地域の職人の受け皿となり20代から30代が活躍
現在の社員数は約70名です。弊社では 20代後半から30代の若手社員が中心となり、事業を支える体制になりつつあり、お客様からの評価もさらに高まってきています。
会社の評判は、社員の技量や練度の高さそのものです。一人ひとりが溶接技能者として国や省庁のテストで認められ、規格や信頼性に見合う技量を維持するために自ら学び続け、監査を欠かさないことが大事だと思っています。同じ作業を繰り返すだけでは技術の幅は広がらないため、若手の方には常に溶接施工の方法を学んでもらい実践しながら、トップクラスの溶接班を目指して頑張ってもらっているところです。
業界としては、人手不足と少子高齢で若い職人が育たないと言われていますが、弊社では今のところ新卒も中途も安定的に採用することができています。新卒・中途いずれも「溶接に携わりたい」という明確な意思をもち入社する方が多く、来春は溶接に関心のある地元の高校生2名が入社する予定です。中途採用で入社する方は溶接の経験者が多く、前職の社長が高齢で廃業するため、転職先として弊社を選んだという方の割合が多くなってきています。
近年は、会社のコーポレートサイトを見て入社を希望する方も多いため、3年ほど前にはサイトを刷新しました。社員が書いているブログは評判がよく、求職者の方だけでなく遠方のお客様から選ばれる理由にもなっているのかもしれません。
休日の確保や賞与、個人面談により従業員が働きやすい環境を整える
以前は経営理念が定められていなかったため、私が盛和塾で学んだ「物心両面の幸福」を理念のベースに据え、弊社の根幹である「技術」を大事な要素として盛り込んでいます。経営理念の共有までは行っていないので、まだ完全には浸透していませんが、社員が少しでも幸せであってほしいという思いを、働きやすい職場づくりにより示していきたいと思っています。
職場環境としては、繁忙期を除く17時の定時帰宅のほかに、第1、第2、第4土曜を休みとしています。建設業は、工場などが稼働していない休日に作業を依頼されることも多いため土曜は休みづらいのですが、会社が休業日として定めることで、社員が心置きなく休めるようにしています。家族と過ごす時間も大事にしてもらいたいとの思いから、年間休日数も同業と比較すると多く、112日としています。また賞与は、決算賞与を含めた年3回の支給により、社員のモチベーション向上につなげています。
社内の交流としては、1泊2日の社員研修旅行を実施し、年末には忘年会も開催することができました。忘年会には、お坊さまやスパリゾートハワイアンズの社長、消防署員の方、落語家の方などさまざまな業界の方を講師としてお招きしています。忘年会のほかにも、2〜3カ月に1度、保険や銀行員の方をお呼びし、社員のためになりそうな新NISAなどの話をしてもらっています。普段関わりのない業界にも興味関心をもち、身の回りの制度や情報を実生活に役立ててもらうことで、広い視野と柔軟な思考を育てていってほしいと思っています。
経営計画は、年1回の幹部への発表にて共有し、数字以外の大切にしていきたい考え方や職場改善などの意見交換は、年2回の個人面談にて行うようにしています。社員が70名になり、会社全体が忙しくなってからは面談のタイミングを合わせるのが難しく、個人面談に2、3カ月はかかるようになりましたが、社員と対話する機会はできる限りつくり続けたいと思っています。
社会人競技の受け皿となり社内外の活気を生み出す
私の社長就任からは8年が経ちますが、社員の会社への向き合い方は大きく変わったように思います。代表就任当初は、会議や勉強会、ラジオ体操などの集合時間が守られないこともありましたが、現在は5~10分前には全員が揃い、定刻通りにスムーズに始められるようになりました。安全衛生委員会や消防訓練も定期的に実施されるようになり、今まで以上に安全意識も高まったと感じています。
社内だけでなく、社外での社員の活動も活発になってきています。弊社には社員10人ほどが所属するウエイトリフティング部があり、2024年の内閣総理大臣杯第61回全日本社会人ウエイトリフティング選手権大会では、企業別の団体対抗選手権で優勝することができました。大手自動車メーカーの連覇を破り、弊社のような中小企業のチームが勝ち星を挙げられたことは快挙であり、大変嬉しく思っています。
私自身にはウエイトリフティングの経験はありませんが、5年ほど前に社会人競技の受け皿となれる企業が少ないという話を聞き設立しました。ウエイトリフティング部のほかにもバトミントン部があり、スポーツを通じて社員が交流し、地域に活気を生み出すのも社会貢献の一つだろうと思っています。
地域から社員を預かっている立場としては、社内だけでなく地域も視野に入れるべきとの考えから、コロナ禍のときには、市や消防署に自動計測の体温計を寄付しています。
地域の維持発展と100年企業を目指すための事業承継
弊社は100年企業を目標に掲げています。100年の節目をより良い状態で迎えるには、次の世代にあたる20代30代の成長と、事業継続のための社内承継が欠かせないと考えています。現在社長を務める私の役目は、未来を担う経営人財の育成であり、社内承継に向けて少しずつ準備を進めているところです。
弊社が事業を継続できているのは地域社会の支えがあるからであり、安定した経営で利益を出し納税するだけでなく、地域の発展に寄与することが恩返しになると思っています。
弊社が地域に対してまずできることは、サプライチェーンの維持発展だと考えています。同業や鉄鋼業などで会社が成長しない、新入社員の採用ができない、後継者がいないなどの課題でお困りの会社様を損得勘定なくお手伝いしていくことで、身近なところからより良い地域を築いていけたらと考えています。事業承継M&Aはその一環として取り組んでいきますが、その過程で事業の多角化につながる可能性もあるため、臨機応変に対応できる組織づくりに努めていきたい考えです。

親分肌でボイラー職人の祖父が地元の仲間と創業
弊社は、祖父の鈴木久枝が1959年に創業した会社です。社名は祖父の名前に由来しています。祖父はもともと、福島県郡山市の化学工場でボイラー据付・整備従事者として働いていましたが、地元のいわき市に戻り、祖父の妹の夫や地元の仲間とともに事業を立ち上げたそうです。1960年前後は高度経済成長期であり、小名浜地区は日本化成や東邦亜鉛などの大企業が進出し、仕事を受注しやすい環境が整ってきていたことも創業の後押しとなったのかもしれません。
当時はボイラーの技術をもつ職人の数が少なく、建設業なので比較的高単価の仕事を受注できていたとは思いますが、今ほどは工具や機械装置が充実していなかったので、リヤカーを引き現場に行っていたそうです。
昔の職人は、現場や飲み屋でけんかをするような血気盛んな人が多かったようですが、そんな職人たちをまとめていた祖父は、親分肌で慕われる存在だったのだろうと思います。創業メンバーの中には独立していった人もいますが、現在も良好な関係が続いているそうです。
その後、祖父はボイラー整備に加えて水道・空調関連事業にも進出し、管工事を中心に事業領域を広げていきました。祖父の面倒見の良さは社外でも活かされ、地元の各種団体の役員を歴任したそうです。経済成長の波に乗り、事業は安定するようになりましたが、祖父には後継者がいなかったため婿入りした父が家業を継ぐこととなりました。
飲食業や観光業などへの投資で多角化を図った2代目
父は、1986年の42歳のときに2代目社長に就任し、飲食業や観光事業などにも手を広げていきました。1992年には遊覧船を2隻購入して「いわきデイクルーズ」という新たな事業を立ち上げ、小名浜初となる海上遊覧船の運航をスタートし、そのほか地元産の海鮮類を使ったイタリアンレストランや、その素材を卸す魚屋、アワビの養殖、水耕栽培、生ごみの堆肥化にも投資をしていきました。バブル期だったので引き合いも多く、地元のためになるアイデアを父は事業として打ち出し、現場は部下の方々に支えてもらっていました。現在の原子力関連工事業も、父の入社後に進出したそうです。
その後も多角化を進めていきましたが、バブル崩壊後は経営が思うようにいかず、先細りになってきていた魚屋やレストランなどを手放し、2000年には海洋事業部を分社化することになりました。しかし立て直しはうまくいかず、借入金は14億円にまで膨れ上がっていました。
アメフト部マネージャーの経験が経営への向き合い方につながる
現在3代目の私は、幼い頃から家業や職人の輪の中で育ちました。祖父は人に喜んでもらうのが好きで、正月に知人や職人を家に招いて餅つきをするのですが、その頃にはすでに私は「3代目」と呼ばれていました。しかし「3代目」となる責任や重さまではわからず、祖父や父の敷いてくれたレールに乗っていけば大丈夫だろうという程度の考えでいました。
小中高を地元のいわき市で過ごし、日本大学の文理学部哲学科に進学してからは、アメリカンフットボール部に入部しマネージャーを務めました。日大アメフトの黄金期を築いたことで知られる篠竹監督のもとで選手たちと学び、心身ともに鍛えられた大学生活は辛く厳しいものではありましたが、経営者に必要な忍耐力や地道な努力、物事に向き合う心構えを身につけられたと感じています。
日大アメフト部は、合宿でこの小名浜に滞在したこともあり、弊社がかつて運航していた海上遊覧船「ふぇにっくす」も、日大アメフト部の愛称「フェニックス」からとり名づけられるなど、家業や地域とも深い関わりがありました。
そして就職活動のときには、漁業や農家などさまざまな業種に就いてみたいと思っていたので父に相談したところ「一度自社を見てから他社を経験した方が比較できるのでは」と助言され、さほど悩むことなく入社を決意しました。
入社時の従業員数は、現在の半分ほどの30~40名で、入社から5年間は、本社勤務ではなく遊覧船やレストランの業務を担当することとなりました。レストランでは初日から店長を任され、未経験ながら2年間運営にあたりました。
一般社員としての入社ながら、周りは後継者として接するので複雑な気持ちもありましたが、外へ出ずとも魚屋や遊覧船といった幅広い事業に携われたことは、今も大きな財産となっています。
盛和塾への入塾を機に、経営者として地域と社員の幸せを目指す
私に3代目としての意識が芽生える大きな転機となったのは、2011年3月の東日本大震災と、その3カ月後に開塾された稲盛和夫氏の「盛和塾福島」への入塾でした。当時のいわき市はまだ復旧の最中でしたが、開塾式には今は亡き稲盛和夫塾長が登壇すると聞き、私も参加することにしました。稲盛塾長は「企業の経営者が行動を起こすことが復興への第一歩になる」と、住まいや日常を失った福島の経営者に激励の言葉をかけてくださり、私も地域と社員のために経営していきたいと奮い立つとともに、3代目という立場や経営のあり方について深く考えるようになっていきました。
以前は、親の敷いたレールに乗ればいいという安易な考えがありましたが、稲盛氏の教えを通して、3代目として新たなレールを敷き、会社の方向性を決めるのは私自身であり、社員の人生を背負う責任の重さを改めて実感しました。3代目となり代表を務めることへの不安を抱きながらも、改めて経営者となる覚悟を決め、まずは職場の改善に着手していくことを決めました。
先代は「残業をして仕事で稼ぎなさい」というタイプでしたが、社員の居残りを助長する形となってしまっていました。働き方を健全にすることは、会社のためにも社員の家族のためにもなると思い至り、定時で帰ってもらえるような仕組みづくりをすることにしました。残業代を基本給に織り込み、手取り額は変えずに実質的なベースアップを行ったところ、無駄な作業や時間が減り、繁忙期をのぞき17時の定時で帰宅してもらえるようになっていきました。17時に帰宅できれば、家族と夕食の時間をゆっくり過ごすことができます。社員の幸せは家族の団らんの時間にあると感じ、人として経営者として、社員の幸せを考え続けることが大事だという実感を得ました。
そして、経営者としての覚悟ができた2017年の45歳のときに、社長に就任することとなりました。伴走期間はないままの社長交代でしたが、現在の常務に仕事を教わりながら、経営者としての視野を広げていきました。
社長就任当時にはまだ数億円の借入があったので、丹野会計事務所の助力を得て少しずつ返済していきました。債務超過の状態だったので、金融機関からの支援はあまり期待できず、社員たちにもあまり心配をかけたくないとの思いから知らせずにいたので、最も身近な会計事務所の皆様が頼りであり、支えていただきました。
現在は無借金となり、自己資本率も70%以上にまですることができました。これまで会社を支え働き続けてくれた社員の幸せのために、いい会社を目指していきたいと思っています。
建設工事部と原子力部への集中と選択により技術力を高め続ける
現在は事業の選択と集中のため、主要事業を 「建設工事部」と「原子力部」の二つに絞り展開しています。
「建設工事部」では、工場の配管工事を中心に携わっています。水配管などに使われる一般配管から、食品、ケミカル、石油・ガス・水素などの工事にともなう計画・施工管理をはじめ、機器や架台の移設、増設・改造、点検・補修までを行っています。それぞれの配管工事で求められる規格や品質、検査基準、製造の難易度は、使用目的や据付環境によって大きく異なり、どのような案件にも柔軟に対応できる溶接技術が弊社の最大の強みとなっています。
例えば、一般の水道配管に対して、ガソリンやガスなどの危険物の配管は、絶対に漏れないよう内部までしっかりと溶け込む溶接や、強靭性の検査が必要となります。
さらに厳重な製造管理が必要となる「原子力部」では、原子力を中心とした発電設備関連の配管工事を行っており、納品先は原子力発電所や研究機関です。発電設備の製作納入にあたっては、タンクやダクト、配管、廃棄処理装置ユニットなどの各種製品の製造に加え、原材料の品質や保管などの細かな規定、管理実態の定期的な報告義務もあります。
発電所関連の案件は、計画が届いてから製造に取りかかるまでに5年から10年かかることもあり、見積りや材料の変更、調整を何度も行いながらつくり上げていきます。一つでも手を抜けばインフラに重大な損害を与えてしまう可能性もあるため、信頼し任せていただいた仕事と役割を全うできるよう、技術を磨き続けることが、弊社の最大の使命だと考えています。
発電所関連の仕事は、長年にわたる技術の蓄積と実績がなければ参入すら難しく、弊社が旧通産相の認定工場に指定され、取引先の皆様から厚い信頼をいただけているのは、職人の経験と技術力、そしてたゆまぬ努力が社内に蓄積されているからだと思っています。
地域の職人の受け皿となり20代から30代が活躍
現在の社員数は約70名です。弊社では 20代後半から30代の若手社員が中心となり、事業を支える体制になりつつあり、お客様からの評価もさらに高まってきています。
会社の評判は、社員の技量や練度の高さそのものです。一人ひとりが溶接技能者として国や省庁のテストで認められ、規格や信頼性に見合う技量を維持するために自ら学び続け、監査を欠かさないことが大事だと思っています。同じ作業を繰り返すだけでは技術の幅は広がらないため、若手の方には常に溶接施工の方法を学んでもらい実践しながら、トップクラスの溶接班を目指して頑張ってもらっているところです。
業界としては、人手不足と少子高齢で若い職人が育たないと言われていますが、弊社では今のところ新卒も中途も安定的に採用することができています。新卒・中途いずれも「溶接に携わりたい」という明確な意思をもち入社する方が多く、来春は溶接に関心のある地元の高校生2名が入社する予定です。中途採用で入社する方は溶接の経験者が多く、前職の社長が高齢で廃業するため、転職先として弊社を選んだという方の割合が多くなってきています。
近年は、会社のコーポレートサイトを見て入社を希望する方も多いため、3年ほど前にはサイトを刷新しました。社員が書いているブログは評判がよく、求職者の方だけでなく遠方のお客様から選ばれる理由にもなっているのかもしれません。
休日の確保や賞与、個人面談により従業員が働きやすい環境を整える
以前は経営理念が定められていなかったため、私が盛和塾で学んだ「物心両面の幸福」を理念のベースに据え、弊社の根幹である「技術」を大事な要素として盛り込んでいます。経営理念の共有までは行っていないので、まだ完全には浸透していませんが、社員が少しでも幸せであってほしいという思いを、働きやすい職場づくりにより示していきたいと思っています。
職場環境としては、繁忙期を除く17時の定時帰宅のほかに、第1、第2、第4土曜を休みとしています。建設業は、工場などが稼働していない休日に作業を依頼されることも多いため土曜は休みづらいのですが、会社が休業日として定めることで、社員が心置きなく休めるようにしています。家族と過ごす時間も大事にしてもらいたいとの思いから、年間休日数も同業と比較すると多く、112日としています。また賞与は、決算賞与を含めた年3回の支給により、社員のモチベーション向上につなげています。
社内の交流としては、1泊2日の社員研修旅行を実施し、年末には忘年会も開催することができました。忘年会には、お坊さまやスパリゾートハワイアンズの社長、消防署員の方、落語家の方などさまざまな業界の方を講師としてお招きしています。忘年会のほかにも、2〜3カ月に1度、保険や銀行員の方をお呼びし、社員のためになりそうな新NISAなどの話をしてもらっています。普段関わりのない業界にも興味関心をもち、身の回りの制度や情報を実生活に役立ててもらうことで、広い視野と柔軟な思考を育てていってほしいと思っています。
経営計画は、年1回の幹部への発表にて共有し、数字以外の大切にしていきたい考え方や職場改善などの意見交換は、年2回の個人面談にて行うようにしています。社員が70名になり、会社全体が忙しくなってからは面談のタイミングを合わせるのが難しく、個人面談に2、3カ月はかかるようになりましたが、社員と対話する機会はできる限りつくり続けたいと思っています。
社会人競技の受け皿となり社内外の活気を生み出す
私の社長就任からは8年が経ちますが、社員の会社への向き合い方は大きく変わったように思います。代表就任当初は、会議や勉強会、ラジオ体操などの集合時間が守られないこともありましたが、現在は5~10分前には全員が揃い、定刻通りにスムーズに始められるようになりました。安全衛生委員会や消防訓練も定期的に実施されるようになり、今まで以上に安全意識も高まったと感じています。
社内だけでなく、社外での社員の活動も活発になってきています。弊社には社員10人ほどが所属するウエイトリフティング部があり、2024年の内閣総理大臣杯第61回全日本社会人ウエイトリフティング選手権大会では、企業別の団体対抗選手権で優勝することができました。大手自動車メーカーの連覇を破り、弊社のような中小企業のチームが勝ち星を挙げられたことは快挙であり、大変嬉しく思っています。
私自身にはウエイトリフティングの経験はありませんが、5年ほど前に社会人競技の受け皿となれる企業が少ないという話を聞き設立しました。ウエイトリフティング部のほかにもバトミントン部があり、スポーツを通じて社員が交流し、地域に活気を生み出すのも社会貢献の一つだろうと思っています。
地域から社員を預かっている立場としては、社内だけでなく地域も視野に入れるべきとの考えから、コロナ禍のときには、市や消防署に自動計測の体温計を寄付しています。
地域の維持発展と100年企業を目指すための事業承継
弊社は100年企業を目標に掲げています。100年の節目をより良い状態で迎えるには、次の世代にあたる20代30代の成長と、事業継続のための社内承継が欠かせないと考えています。現在社長を務める私の役目は、未来を担う経営人財の育成であり、社内承継に向けて少しずつ準備を進めているところです。
弊社が事業を継続できているのは地域社会の支えがあるからであり、安定した経営で利益を出し納税するだけでなく、地域の発展に寄与することが恩返しになると思っています。
弊社が地域に対してまずできることは、サプライチェーンの維持発展だと考えています。同業や鉄鋼業などで会社が成長しない、新入社員の採用ができない、後継者がいないなどの課題でお困りの会社様を損得勘定なくお手伝いしていくことで、身近なところからより良い地域を築いていけたらと考えています。事業承継M&Aはその一環として取り組んでいきますが、その過程で事業の多角化につながる可能性もあるため、臨機応変に対応できる組織づくりに努めていきたい考えです。

会社概要
社名 | 株式会社久工業所 |
創立年 | 1959年 |
代表者名 | 代表取締役 鈴木 淳裕 |
資本金 | 5,000万円 |
URL |
https://hisakougyousyo.com/index.html
|
本社住所 |
〒971-8184 |
事業内容 | ・石油及び化学工場・環境施設の配管、製缶、機器据付工事 ・原子力関連工事 ・ボイラ据付及び整備点検工事 ・上・下水道及び空調衛生設備工事 |


会社沿革
1959年 | 有限会社久工業所を福島県磐城市隼人42番地に設立 各種プラント工事を請負う |
1963年 | 本社をいわき市小名浜大原字堀米254番地2へ移転 |
1969年 | 有限会社久工業所を株式会社に組織変更後資本金500万円にする |
1973年 | 原子力関連工事に進出 |
1974年 | いわき市泉町黒須野字砂利59番地4に黒須野工場を新設する |
1975年 | 資本金1,000万円にする |
1976年 | ステンレス加工専用工場を新設する(200m² ) |
1978年 | 黒須野工場敷地買増し、計13,209m² となる |
1983年 | 検査建屋を新設(439m²) |
1990年 | 黒須野工場を増設(2,420m²) 本社をいわき市泉町黒須野字砂利59番地4に移転するとともに、本社社屋を新設する |
1991年 | 資本金を2,000万円にする 第一倉庫新設 |
1992年 | 海洋事業部小名浜営業所を福島県いわき市小名浜字辰巳町45に新設 観光船の就航を開始する |
2000年 | 海洋事業部を別会社として分離設立 |
2008年 | 第二倉庫新設 |
2016年 | 厚生棟改築 |
2018年 | 資本金を5000万円にする |
株式会社久工業所の経営資源引継ぎ募集情報
人的資本引継ぎ
福島県
技術を磨き地域のインフラを支える職人を募集しています
公開日:2025/03/12
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