
福島・いわき市
福島 ・ いわき市
内外装の
株式会社山崎工業
「まち」と「ひと」の潜在力を引き出す夢咲く住まいづくり
経営理念
無から有への夢咲きを見る
存在感のあるものづくりで地域社会に貢献する
ハイブリッド匠・山崎
代表者メッセージ

弊社は創業以来、従来の慣習や常識にとらわれず新しいことに取組んできました。
変化する時代の流れの中で、古き良き伝統を継承しながら自ら成長し続ける姿勢は、地域社会の中で存在感とオリジナリティを発揮し、発展を続けるための手段にもなっていきました。
弊社は、社会に求められるしっかりとした見識と技能を備えた人財を育成し、社会に貢献していきます。
代表取締役 山崎 建見

私たちのこだわり
父が左官職人の祖父とともに、いわき市で左官会社を設立
株式会社山崎工業は、1979年に福島県いわき市で創業した建設会社です。当初は左官工事専門の会社としてスタートし、そこから防水工事、基礎工事、外構工事など事業領域を徐々に拡大してきました。それらの各種専門工事や特殊工事に加え、近年ではエクステリア専門店「リノベガーデンプラザ」や不動産仲介業「桜まち不動産」もオープンしました。古き良き伝統や技術は大切に継承しながらも、「建設業」の従来のイメージにとらわれることなく事業を展開している会社です。
山崎工業の創業者は私の父ですが、ルーツをたどると祖父の代までさかのぼります。いわき市にはかつて本州最大の炭田といわれた常磐炭田の炭鉱があり、祖父は経済の中心地として栄えていた炭鉱街で左官職人として働いていました。しかし石炭から石油へというエネルギー政策の転換によって炭鉱が閉山され、職場を失った祖父はいわき市に家族を残して東京で働くことになりました。
やがて高校を卒業した父も就職しましたが、就職先で怪我をして仕事が続けられなくなってしまいました。別の仕事に携わるならば、祖父のような左官職人になり、東京の祖父を呼び寄せてまた家族で一緒に暮らしながら働きたいと父は前向きに考えたそうです。
そうして父は別の左官会社で何年か修行したのちに独立し、いわき市内で祖父と一緒に左官業を始めたというのが創業の経緯です。
エクステリア関連の学びを深めるため農大の造園学科に進学
父によると、独立してからしばらくは10人ほどの職人集団のような形で働き、6年ほど経ってから会社を設立したそうです。創業は私が小学生のときで、当時はまだ父が社長だということもよく理解していなかったと思います。周囲の職人からは「お父さんの後を継がないと」としばしばいわれましたが、将来について父から直接何かをいわれた記憶はありません。小中高といわき市の学校に通っていたころは自由にさせてもらっていたので、家業や将来についてはあまり意識することなく過ごしていました。
大学は一浪して東京農大の造園学科(現:造園科学科)に進学しました。造園学科を選んだのは、実家の会社の事業内容が徐々に変化してきていたことが影響しています。
当時の木造住宅の外壁はモルタルが主流でしたが、徐々にサイディングという板材を外壁に張る手法が多数を占めるようになり、個人住宅の仕事は減っていきました。
それでも、戸数が多く大きな建物の工事がある東京や都市圏では、まだモルタル施工の需要があり、仕事をいただけるならと福島県外に出る機会が増えていきました。しかし、数をこなさねばならないため出張は長期にわたり、時には新婚の若い社員が半年間も東京に行ったままということもありました。
このままではいずれ限界がくると感じた父は、社員の負担を減らすために事業領域を広げ、職人が左官業のほかにも、住宅の基礎工事や外構工事、防水工事などの複数の作業ができるように多能工化することで、年間を通じて仕事が途切れることなく続くビジネスモデルをつくり上げていきました。
多能工が定着してからは、再び地元で仕事ができるようになり、対応できる幅も広がったことで少しずつ業績が伸びはじめました。新たに拡大した事業分野の中で、当時最も成長していたのは、父の弟が運営していたエクステリアの分野でした。エクステリアは、門扉やフェンスなどの構造物である外構を含む、建物の外部全体の空間デザインを指します。
業績が伸びている外構・エクステリアの関連分野を学ぶことは、家業にとってもプラスになるだろうと考え、景観に合わせた植栽や空間デザインを学べる造園学科を進学先として選びました。
家業の危機に瀕し帰郷を決意
就職活動の時期を経て、大学卒業後は都内の造園会社に就職することが決まりました。
ところが卒業を間近に控えたある日、祖母から「会社が大変だから福島に戻り助けてほしい」という電話がかかってきました。祖母によると、経営方針をめぐり父と叔父の間で意見が衝突し、会社を分割することになったというのです。
すでに就職が決まっていた私は悩みましたが、電話をかけてきた祖母は末期がんを患っており、私を頼りにしてくれた祖母の願いをむげに断ることもできません。結局私は、何年か修行をしてから家業に戻るという当初の予定を変更し、造園会社の内定を辞退して実家に戻ることを決断しました。
思わぬ形で入社することになった実家の会社ですが、経営は想像以上に厳しい状態でした。時代的にも1990年代後半というバブル崩壊後の不況のさなかで、ただでさえ売上が落ちているところに会社が2つに分裂し、仕事もお客様も社員も半減してしまっていました。
会社の混乱に嫌気がさして退職してしまった社員もいて、先行きの見通しもつかず大変な状況でしたが、周囲のお客様や取引先にとっては「後継ぎが帰ってきたことが大きなプラス要素として捉えてもらえたようでした。残念ながら祖母は私が戻ってすぐの4月に亡くなってしまいましたが、祖母の葬式で「社長の息子です」と弔問客に挨拶をして回ったことで、私自身が後継者の立場にある自覚が芽生えていきました。
年間30棟から150棟に基礎工事の受注数を伸ばし業績を安定化
家業への入社1年目は、社員の1人としてひたすら働き続ける日々を過ごしました。基礎工事から外構工事まで幅広く携わり、休日でも先輩社員から「仕事があるから出てくれ」といわれれば現場に出ました。ほぼ休みなしで忙しい日々を送るうちに、気付けば1年が過ぎていました。
2年目以降は、デフレにより不況がさらに悪化し、単価が安い仕事を数多くこなさねばならない状況にまでに追い詰められました。年齢の近い社員と3人1組で基礎工事を中心に数多くの仕事をこなし、作業効率を追求することで単価が安い工事でも少しずつ利益を出せるようになっていきました。
すると、安いからという理由で仕事が集まってますます忙しくなり、そのうえ倒産した同業他社の仕事を弊社が丸ごと引き受けることになったので、仕事量はさらに増えていきました。
私が入社したころの請負数は年間30棟ぐらいでしたが、ピーク時は年間約150棟の基礎工事を請け負うようになり、住宅の基礎工事に関していえば、一時期はいわき市内で1番多くの工事を請け負っていたと思います。実績が上げられるようになったことで、大手ハウスメーカーなどから請け負う仕事も増えていきました。
施工実績を上げる一方、ハードな労働環境から離職者が続出
多くの仕事をこなすうちに、次第に会社の経営状態も持ち直しました。その一方で、ハードな労働環境から社員の離職が相次ぎ、職業安定所で何度も募集をかけるうちに地元では「あそこは仕事がきつい」という噂が広がり、求人票を出しても応募が集まらなくなっていきました。
独立意欲のある方が、仕事を覚えるために短期間だけ入社をするケースは増えましたが、人が定着しなければ会社は続きません。仕事を任せられる社員が育たない中で、価格競争を延々と続けていくことが会社にとっても社員にとっても大きな負担となっていました。
そのため、これから先は仕事の数や利益のバランスを見直し、職人を育成していく必要があると考えるようになりました。そして将来会社が進むべき方向性について考えることが増えるようになってきたころ、父の後を継ぎ、41歳で社長に就任することになりました。
職人が育ち、自らキャリアアップを目指す会社に
社長に就任してからまず取りかかったのは、社内で職人を育成できる体制作りです。人が定着しない会社は成長が頭打ちになり、いずれ衰退していきます。人財の定着を促進するためには、新卒を採用し職人としての成長を実感できる環境作りが必要だと考えました。
そこで、まずは給与体系を変更しました。弊社ではそれまで、働いた日数分の給与が支払われる日給月給制を採用していました。職人の世界では一般的な制度ですが、日給制を月給制に変えるとともに、年間カレンダーを作成して休みを少しずつ増やしていきました。
またキャリアパスについても具体的に設定し、仕事を身に付ければ次のフェーズに挑めるという状態を作りました。経験や学びに合わせて給与も上がり、各人の裁量の範囲も広がります。
レベルの可視化によって社員が自身の成長を体感できるような仕組みを作り、会社として今後目指していってほしいフェーズや道筋をマップ化して辿れるようにすることで、社員の働き方と会社の考えを自然に重ね合わせられるようにすることが、キャリアパス導入の狙いでした。
私自身が入社したてのころは、先の見えない多忙な日々を過ごす中で「これをずっとこの先も続けていくのか」と虚しさを覚えたことがありました。社員には辛い思いをしてもらいたくないとの思いから、自らのキャリアを3年ほど先まで俯瞰し、目標を立てられるような環境を整えてあげたいと思うようになりました。社員の意欲に繋がるように、今後もベースアップを前提とした経営計画に努めたいと考えています。
リフォーム・外構工事専門店と不動産仲介業を新たに展開
社員の育成に力を入れるとともに、事業面でも新たな領域に参入しました。それが不動産仲介「桜まち不動産」やエクステリア専門店「リノベガーデンプラザ」です。
不動産業への参入は、2011年の東日本大震災がきっかけとなっています。いわき市は震度6弱ものの揺れで損壊した家屋が多く、復旧にともない住宅の建築が進みました。震災から10年ほど経ったころからは、地域の方の高齢化や世代交代によって売りに出される住宅や土地が増え、今後は資材の高騰によって新築コストの上昇が続くという業界予測から中古リフォームのニーズが拡大するだろうと判断し、サプライチェーン上流にあたる不動産、中古リフォーム、エクステリア分野に踏み出すことにしました。
この3事業への拡大とともに、さらに地域に親しまれる会社にしたいという思いから本社をリノベーションし、社長就任前から構想していた複合施設「桜まちテラス」としてオープンしました。「桜まちテラス」には、弊社の事務所と「不動産まち不動産」「リノベーションガーデンプラザ」のほかに、地域の方が気軽に立ち寄り、交流できる場としてレンタルスペース「あつまろ」や、ドッグガーデン、バーベキューガーデンを設けていたり、陶芸教室のテナントが入っています。
エクステリア部門の主なお客様はミドル・シニア世代です。定年退職をして家で過ごす時間が増えると、犬を飼ったり庭の手入れをしたりと住環境を充実させたくなります。ゆとりある快適なセカンドライフの実現を目指しご提案を行っています。また、店舗エクステリアのリノベーションやリフォームも承っています。店舗のデザインや外観は、店のコンセプトを打ち出す大切な手段です。お客様のご希望に沿うご提案・施工を心がけています。
建築施工関連の受注は、以前はハウスメーカーとのBtoB取引が中心でしたが、現在は「桜まちテラス」にてエンドユーザーの声を直接いただけるようになり、BtoCの受注が増えてきています。
地元の若者が地元でチャレンジし成長していく手助けをしたい
弊社は間もなく50周年を迎えます。地元からさらに必要とされる建築施工会社となり、地元の高校や大学を卒業した若者が地元に就職し、成長を後押ししていける環境づくりが目標です。仮に地域の若者が他社やほかの地域でチャレンジしたいときも、自信をもって送り出せるような教育ができる会社になりたいと思っています。
その目標を実現するためには、経営面で盤石な企業になっておく必要があります。
年間を通じて安定した仕事量と利益を確保できる体制も作っていかなければなりません。指標の1つとしては、創業53年ごろまでに社員50名、売上10億という数字をまず達成し、進み続ける力を蓄えていければと考えています。
父が左官職人の祖父とともに、いわき市で左官会社を設立
株式会社山崎工業は、1979年に福島県いわき市で創業した建設会社です。当初は左官工事専門の会社としてスタートし、そこから防水工事、基礎工事、外構工事など事業領域を徐々に拡大してきました。それらの各種専門工事や特殊工事に加え、近年ではエクステリア専門店「リノベガーデンプラザ」や不動産仲介業「桜まち不動産」もオープンしました。古き良き伝統や技術は大切に継承しながらも、「建設業」の従来のイメージにとらわれることなく事業を展開している会社です。
山崎工業の創業者は私の父ですが、ルーツをたどると祖父の代までさかのぼります。いわき市にはかつて本州最大の炭田といわれた常磐炭田の炭鉱があり、祖父は経済の中心地として栄えていた炭鉱街で左官職人として働いていました。しかし石炭から石油へというエネルギー政策の転換によって炭鉱が閉山され、職場を失った祖父はいわき市に家族を残して東京で働くことになりました。
やがて高校を卒業した父も就職しましたが、就職先で怪我をして仕事が続けられなくなってしまいました。別の仕事に携わるならば、祖父のような左官職人になり、東京の祖父を呼び寄せてまた家族で一緒に暮らしながら働きたいと父は前向きに考えたそうです。
そうして父は別の左官会社で何年か修行したのちに独立し、いわき市内で祖父と一緒に左官業を始めたというのが創業の経緯です。
エクステリア関連の学びを深めるため農大の造園学科に進学
父によると、独立してからしばらくは10人ほどの職人集団のような形で働き、6年ほど経ってから会社を設立したそうです。創業は私が小学生のときで、当時はまだ父が社長だということもよく理解していなかったと思います。周囲の職人からは「お父さんの後を継がないと」としばしばいわれましたが、将来について父から直接何かをいわれた記憶はありません。小中高といわき市の学校に通っていたころは自由にさせてもらっていたので、家業や将来についてはあまり意識することなく過ごしていました。
大学は一浪して東京農大の造園学科(現:造園科学科)に進学しました。造園学科を選んだのは、実家の会社の事業内容が徐々に変化してきていたことが影響しています。
当時の木造住宅の外壁はモルタルが主流でしたが、徐々にサイディングという板材を外壁に張る手法が多数を占めるようになり、個人住宅の仕事は減っていきました。
それでも、戸数が多く大きな建物の工事がある東京や都市圏では、まだモルタル施工の需要があり、仕事をいただけるならと福島県外に出る機会が増えていきました。しかし、数をこなさねばならないため出張は長期にわたり、時には新婚の若い社員が半年間も東京に行ったままということもありました。
このままではいずれ限界がくると感じた父は、社員の負担を減らすために事業領域を広げ、職人が左官業のほかにも、住宅の基礎工事や外構工事、防水工事などの複数の作業ができるように多能工化することで、年間を通じて仕事が途切れることなく続くビジネスモデルをつくり上げていきました。
多能工が定着してからは、再び地元で仕事ができるようになり、対応できる幅も広がったことで少しずつ業績が伸びはじめました。新たに拡大した事業分野の中で、当時最も成長していたのは、父の弟が運営していたエクステリアの分野でした。エクステリアは、門扉やフェンスなどの構造物である外構を含む、建物の外部全体の空間デザインを指します。
業績が伸びている外構・エクステリアの関連分野を学ぶことは、家業にとってもプラスになるだろうと考え、景観に合わせた植栽や空間デザインを学べる造園学科を進学先として選びました。
家業の危機に瀕し帰郷を決意
就職活動の時期を経て、大学卒業後は都内の造園会社に就職することが決まりました。
ところが卒業を間近に控えたある日、祖母から「会社が大変だから福島に戻り助けてほしい」という電話がかかってきました。祖母によると、経営方針をめぐり父と叔父の間で意見が衝突し、会社を分割することになったというのです。
すでに就職が決まっていた私は悩みましたが、電話をかけてきた祖母は末期がんを患っており、私を頼りにしてくれた祖母の願いをむげに断ることもできません。結局私は、何年か修行をしてから家業に戻るという当初の予定を変更し、造園会社の内定を辞退して実家に戻ることを決断しました。
思わぬ形で入社することになった実家の会社ですが、経営は想像以上に厳しい状態でした。時代的にも1990年代後半というバブル崩壊後の不況のさなかで、ただでさえ売上が落ちているところに会社が2つに分裂し、仕事もお客様も社員も半減してしまっていました。
会社の混乱に嫌気がさして退職してしまった社員もいて、先行きの見通しもつかず大変な状況でしたが、周囲のお客様や取引先にとっては「後継ぎが帰ってきたことが大きなプラス要素として捉えてもらえたようでした。残念ながら祖母は私が戻ってすぐの4月に亡くなってしまいましたが、祖母の葬式で「社長の息子です」と弔問客に挨拶をして回ったことで、私自身が後継者の立場にある自覚が芽生えていきました。
年間30棟から150棟に基礎工事の受注数を伸ばし業績を安定化
家業への入社1年目は、社員の1人としてひたすら働き続ける日々を過ごしました。基礎工事から外構工事まで幅広く携わり、休日でも先輩社員から「仕事があるから出てくれ」といわれれば現場に出ました。ほぼ休みなしで忙しい日々を送るうちに、気付けば1年が過ぎていました。
2年目以降は、デフレにより不況がさらに悪化し、単価が安い仕事を数多くこなさねばならない状況にまでに追い詰められました。年齢の近い社員と3人1組で基礎工事を中心に数多くの仕事をこなし、作業効率を追求することで単価が安い工事でも少しずつ利益を出せるようになっていきました。
すると、安いからという理由で仕事が集まってますます忙しくなり、そのうえ倒産した同業他社の仕事を弊社が丸ごと引き受けることになったので、仕事量はさらに増えていきました。
私が入社したころの請負数は年間30棟ぐらいでしたが、ピーク時は年間約150棟の基礎工事を請け負うようになり、住宅の基礎工事に関していえば、一時期はいわき市内で1番多くの工事を請け負っていたと思います。実績が上げられるようになったことで、大手ハウスメーカーなどから請け負う仕事も増えていきました。
施工実績を上げる一方、ハードな労働環境から離職者が続出
多くの仕事をこなすうちに、次第に会社の経営状態も持ち直しました。その一方で、ハードな労働環境から社員の離職が相次ぎ、職業安定所で何度も募集をかけるうちに地元では「あそこは仕事がきつい」という噂が広がり、求人票を出しても応募が集まらなくなっていきました。
独立意欲のある方が、仕事を覚えるために短期間だけ入社をするケースは増えましたが、人が定着しなければ会社は続きません。仕事を任せられる社員が育たない中で、価格競争を延々と続けていくことが会社にとっても社員にとっても大きな負担となっていました。
そのため、これから先は仕事の数や利益のバランスを見直し、職人を育成していく必要があると考えるようになりました。そして将来会社が進むべき方向性について考えることが増えるようになってきたころ、父の後を継ぎ、41歳で社長に就任することになりました。
職人が育ち、自らキャリアアップを目指す会社に
社長に就任してからまず取りかかったのは、社内で職人を育成できる体制作りです。人が定着しない会社は成長が頭打ちになり、いずれ衰退していきます。人財の定着を促進するためには、新卒を採用し職人としての成長を実感できる環境作りが必要だと考えました。
そこで、まずは給与体系を変更しました。弊社ではそれまで、働いた日数分の給与が支払われる日給月給制を採用していました。職人の世界では一般的な制度ですが、日給制を月給制に変えるとともに、年間カレンダーを作成して休みを少しずつ増やしていきました。
またキャリアパスについても具体的に設定し、仕事を身に付ければ次のフェーズに挑めるという状態を作りました。経験や学びに合わせて給与も上がり、各人の裁量の範囲も広がります。
レベルの可視化によって社員が自身の成長を体感できるような仕組みを作り、会社として今後目指していってほしいフェーズや道筋をマップ化して辿れるようにすることで、社員の働き方と会社の考えを自然に重ね合わせられるようにすることが、キャリアパス導入の狙いでした。
私自身が入社したてのころは、先の見えない多忙な日々を過ごす中で「これをずっとこの先も続けていくのか」と虚しさを覚えたことがありました。社員には辛い思いをしてもらいたくないとの思いから、自らのキャリアを3年ほど先まで俯瞰し、目標を立てられるような環境を整えてあげたいと思うようになりました。社員の意欲に繋がるように、今後もベースアップを前提とした経営計画に努めたいと考えています。
リフォーム・外構工事専門店と不動産仲介業を新たに展開
社員の育成に力を入れるとともに、事業面でも新たな領域に参入しました。それが不動産仲介「桜まち不動産」やエクステリア専門店「リノベガーデンプラザ」です。
不動産業への参入は、2011年の東日本大震災がきっかけとなっています。いわき市は震度6弱ものの揺れで損壊した家屋が多く、復旧にともない住宅の建築が進みました。震災から10年ほど経ったころからは、地域の方の高齢化や世代交代によって売りに出される住宅や土地が増え、今後は資材の高騰によって新築コストの上昇が続くという業界予測から中古リフォームのニーズが拡大するだろうと判断し、サプライチェーン上流にあたる不動産、中古リフォーム、エクステリア分野に踏み出すことにしました。
この3事業への拡大とともに、さらに地域に親しまれる会社にしたいという思いから本社をリノベーションし、社長就任前から構想していた複合施設「桜まちテラス」としてオープンしました。「桜まちテラス」には、弊社の事務所と「不動産まち不動産」「リノベーションガーデンプラザ」のほかに、地域の方が気軽に立ち寄り、交流できる場としてレンタルスペース「あつまろ」や、ドッグガーデン、バーベキューガーデンを設けていたり、陶芸教室のテナントが入っています。
エクステリア部門の主なお客様はミドル・シニア世代です。定年退職をして家で過ごす時間が増えると、犬を飼ったり庭の手入れをしたりと住環境を充実させたくなります。ゆとりある快適なセカンドライフの実現を目指しご提案を行っています。また、店舗エクステリアのリノベーションやリフォームも承っています。店舗のデザインや外観は、店のコンセプトを打ち出す大切な手段です。お客様のご希望に沿うご提案・施工を心がけています。
建築施工関連の受注は、以前はハウスメーカーとのBtoB取引が中心でしたが、現在は「桜まちテラス」にてエンドユーザーの声を直接いただけるようになり、BtoCの受注が増えてきています。
地元の若者が地元でチャレンジし成長していく手助けをしたい
弊社は間もなく50周年を迎えます。地元からさらに必要とされる建築施工会社となり、地元の高校や大学を卒業した若者が地元に就職し、成長を後押ししていける環境づくりが目標です。仮に地域の若者が他社やほかの地域でチャレンジしたいときも、自信をもって送り出せるような教育ができる会社になりたいと思っています。
その目標を実現するためには、経営面で盤石な企業になっておく必要があります。
年間を通じて安定した仕事量と利益を確保できる体制も作っていかなければなりません。指標の1つとしては、創業53年ごろまでに社員50名、売上10億という数字をまず達成し、進み続ける力を蓄えていければと考えています。
会社概要
社名 | 株式会社山崎工業 |
創立年 | 1979年 |
代表者名 | 代表取締役 山崎 建見 |
資本金 | 2,000万円 |
URL |
http://www.yamazaki-kogyo.co.jp/
|
本社住所 |
〒970-8034 |
事業内容 | 専門工事:左官・防水・塗装・タイル・基礎・大工・エクステリア 特殊工事:スタンプコンクリート・耐震補強・セルフレベリング・土舗装 リノベガーデンプラザ(エクステリア専門店):設計・管理・施工・メンテナンス 不動産事業:不動産売買の仲介 |
事業エリア |
技術部 〒970-8031 |

会社沿革
1979年 | 創業 |
1985年 | 社屋移転 |
1993年 | 新社屋建設 |
2014年 | 代表取締役交代 |
2016年 | リノベガーデンプラザ開店 |
2020年 | 宅建業事業者登録 桜まち不動産開店 |
株式会社山崎工業の経営資源引継ぎ募集情報
人的資本引継ぎ
福島県
地元いわき市で住まいづくりの技術を磨きたい若手を募集
事業引継ぎ
福島県
新たなステージで成長していきたい建設・不動産会社様へ
公開日:2025/07/23
※本記事の内容および所属名称は2025年7月現在のものです。現在の情報とは異なる場合があります。
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