栃木・佐野市
栃木 ・ 佐野市
引継ぎ実績あり
ウキウキ・ワクワクの
株式会社田村写真館
写真を通して地元に貢献し続けること70余年。100年企業を目指す写真館の決意
経営理念
「心をかたちに人にひかりを」
私たちは、お客様の心をかたちにしています。
お客様の喜びや幸せや感動が、また時には悲しみまでもが、人生の確かな証となるように、その瞬間の心をかたちにしています。
そして私たちは、この仕事を通して、お客様と共に感動を創るひかりとなり、さらに、共に働く仲間と自分自身に向かって、夢と幸せと、成長のひかりを与えつづけています。
代表者メッセージ
企業の命題は永続することです。日本には100年以上続いている老舗企業が約37,550社(2022年現在)あり、これは世界でダントツの第1位です。日本の企業は経営の目的が人の役に立つためという考え方が根底にあり、欧米のような利益至上主義ではないからだと言われています。
日本で経営を続ける上で最も大切なことは、過去の伝統を守りつつも、一方で時代を先取りして革新をし続けることだと考えています。
弊社も1950年に三軒長屋の一角の六畳間のスタジオで創業してから、現在に至るまでの72年間、写真を核としながら事業とともに地域に根差し、創業時の良さを残しながらも常に業態の深化にチャレンジしてきました。多くのお客様の声を事業に取り入れることで、よりお客様のニーズに添うサービスへと進化し、今の弊社のスタイルが確立されています。
弊社では100年企業を目指し、永続的にお客様や地域社会の役に立つ存在であり続けるために、永続していきたいと考えています。そして今後も、さらに未来に向かってチャレンジをしながら、まい進いたします。
代表取締役社長 田名網 勝
私たちのこだわり
「へっぽこ写真館」と呼ばれた創業期
田村写真館の創業者である田村文雄が栃木県安蘇郡田沼町(現在の佐野市)に田村写真館を開業したのは、1950年4月でした。
群馬県前橋市出身だった初代は、前橋工業高校を卒業後、空襲による疎開のため栃木県田沼町(現在の佐野市)の親戚を頼り引越してきました。小山のカメラメーカーに勤めたものの終戦と同時に人員整理で解雇になり、その後群馬県桐生市で卒業アルバムを制作する会社に勤めたのちに同社を退社、その際に退職金代わりに貰ったカメラ1台を手に創業に踏み切りました。同年には、2代目である英雄が生まれています。
初代は長屋の一角を借りて住んでいましたが、居室のうち最も広い六畳間をスタジオにして、四畳半で家族7人が寝起きしていたそうです。
戦後の生活が厳しい中で創業したものの、当時は一般の人が写真を撮ってもらう、撮るという文化は根づいておらず、初代は卒業アルバムを作った経験を活かそうと旧田沼町内や近隣の旧葛生町の学校に一校一校に出向き、仕事をもらえるようになっていきました。しかし卒業アルバム製作は、春から取材撮影を始めて翌春の納品後に代金が支払われるまでは収入が得られず、相変わらず生活は苦しかったと聞いています。
レッテルを払拭できず苦戦した2代目
その後、戦後の人口増加により学校が増設され、それに伴い卒業アルバムの仕事も増え、高度経済成長により生活に余裕のあるお客様が少数ながら写真館の方にも訪れるようになりました。栃木県内の写真館も200軒ほどに増え、七五三や結婚など折々の行事で記念写真の需要が高まっていきました。
少しずつお客様が増えてきたものの、初代のカメラの腕は今ひとつで、近隣の住民からは「へっぽこ写真館」と揶揄されていたそうです。
初代の仕事を傍で見てきた2代目は、家業について冷やかされることを「嫌だな」と思いつつも、来ていただくお客様のために、写真やカメラへの知識を深め腕を磨こうと考え、写真館の後を継ぐことを条件に日本大学藝術学部写真学科に進学しました。
自由でしがらみのない都会での生活は2代目のその後の性格に大きな影響を与え、カメラの技術理論や他の学生の作品に触れるうちに得るものはありました。しかしもともとカメラの腕やセンスが良かった2代目は都内から帰郷してから、撮影やプリント技術の地域格差に愕然としたそうです。何とかして家業を発展させていきたいと考えた2代目は、後継者として事業の再構築を始めましたが、へっぽこ写真館という地元での不名誉なレッテルはなかなか払拭できませんでした。
新ブランド「マリア館」が評判となる
事業再構築に奮闘していた2代目は、結婚後に「全く違う名前の写真館を隣町に作ってみては」というアイデアが思い浮かび、1983年に隣接する旧佐野市に「マリア館」という新ブランドで出店することにしました。するとこれが大きな反響を呼ぶことになり、そのうちマリア館の母体は田村写真館であることに住民が気づくようになり、2店舗を構えている写真館は地元では無かったので、図らずも田村写真館の評価が上がって長年の汚名も返上されることとなりました。
その後、2代目夫妻は本店も建て替えようとしましたが、マリア館の新設により多額の資金を使うことになったため、自店でフィルム現像や引き伸ばしができる「ミニラボシステム」を導入したQSS株式会社を1985年に設立し、また田村写真館も法人化し事業の多角化を図りました。
ペットフード宅配業をたたみ、従姉妹の伝手で写真業へ
現在3代目である私は、昔から社長になりたいという想いがあり、故郷の佐野市を出て22歳の時に東京でペットフードの宅配会社を経営していました。しかし思っていたより利益が出ず、2代目の妻であり副社長(私の従姉妹)の伝手で、1992年に関連会社のQSS植野店に入社しました。
当時の私は写真の知識も全く持っておらず、将来的には別会社を立ち上げて経営者として再出発したいと考えていたため、2代目夫妻には正直に打ち明け「それでも良ければ雇って下さい」とお願いしたところ、快く受け入れてくれました。年齢は18歳離れていましたが、社交的な2代目の性格からすぐに意気投合し、ビジネスのセンスがある2代目と酒を飲みながら仕事の話をするのが、私にとって本当に楽しく充実した時間でした。
酒場での話は会社の将来像にも及ぶこともあり、2代目からは「事業承継のタイミングが来た時に一番ふさわしい人に継がせたい」という考えも聞いていました。その頃には写真館への愛着も深まっていたので、ゆくゆくは後継者となりたいという気持ちも芽生えていました。
小山ルミナス、宇都宮ヴィラージュを軌道に乗せ、事業を引き継ぐ
その後、大きな転機になったのは2000年です。田村写真館も徐々に従業員数が増え、2代目は「従業員が活躍できる場を作り、より多くの方に弊社のサービスを提供したい」と考え、小山市に写真館の新設を決めました。それが「天使の森小山ルミナス」です。2代目は、全社員に「小山店の責任者となり経営に携わりたい者はいるか」と聞きましたが、私以外に手を挙げたものはおらず、新店舗の経営を任せてもらえることになりました。
小山店の責任者となった私は、新店舗立ち上げと同時に小山市内に引越し、自分の手でアイデアを形にできることを嬉しく思っていました。もともと企画や構想をするのがとても得意で興味があり、経営者になりたいと思っていたのも、自分の発想を活かせると考えたからです。地域の方からも好評いただき、小山店は開設当初から軌道に乗ることができました。
その5年後の2005年には、宇都宮市に「天使の森宇都宮ヴィラージュ」を開店しました。人口16万人ほどの小山市で受け入れていただけたのであれば、小山市の3倍の51万人の人口がある宇都宮市では、より多くの方に喜ばれるだろうと思ったからです。ところが新設から4年間は赤字続きで、建築の初期費用や月々1200坪の地代を支払っていくのも厳しく、会社を存続できないのではないかという状態にまで陥りました。小山店が好調だったからこそ何とか継続することができ、本店や小山店、広告での地道な周知の甲斐あって、宇都宮店新設から5年後の2010年頃に、ようやく利益が出始めました。
2008年には、佐野地区にあったスタジオタムラ本店、マリア館、ショールームを佐野市浅沼町の一店舗に集約して、「天使の森佐野オリヴィエ」としてリニューアルオープンしました。その頃には、店舗のある佐野市や小山市、宇都宮市だけではなく栃木県内での認知度も少しずつ上がっていきました。
「天使の森」が軌道に乗るようになったところで、2代目が私に遠回しに「経営者を引き継いでほしい」という話をするようになり、経営者や経営幹部が通う幹部研修に通い始めました。それまで明言されたことはありませんでしたが、研修が終わった時に2代目から「会社を任せたい」という内容の手紙をもらい、本気で任せたいと思ってくれているのだと理解しました。
その後は3代目候補として専務に就任し7、8年間伴走をしてもらいました。その後2014年の45歳の時に3代目として事業を引継ぎ、2代目は会長として会社を支え続け、会社にもステークホルダーに対しても、真摯に向き合おうとしている2代目の実直さを感じました。
「テーマパークのような写真館」をコンセプトに掲げる
弊社は、現在まで「オンリーワン」を大切にした戦略で事業を展開していきました。他社が取り組んでいないような独創性を追求するというよりも、お客様が何を求めているかに対して応える「マーケットイン」の発想で事業を構築しています。お客様を想うサービスを突き詰めていけば自然とオンリーワンの形になっているもので、2代目が設けたマリア館では、他社に先駆けて予約制を導入したり、2枚1組の写真のセット商品をお客様の要望で1枚でも提供できるようにしたりと、常にお客様の目線でサービス提供ができていたからこそ、多くのお客様からの好評を得られたのだと考えています。
私が3代目社長になって間もなくの2015年からは、2代目が築き上げたビジネスモデルと、かねてから2代目が構想していた「時間と空間を提供する体験型の写真館」のイメージを引き継ぎ、ビジョンがより明確になるように再構築をして「テーマパークのような写真館」というコンセプトを掲げることにしました。
家族、友人、恋人が喜びを共有しながら、テーマパークのように楽しく1日を過ごせるところが弊社の最大の特徴となっています。
異業種「森のパン屋」のオープンによりシナジーを創出
「テーマパーク」というコンセプトを貫き、1日を長く楽しく過ごせる空間づくりをと考えていった時に既存事業と「飲食事業」は親和性が非常に高いのではと感じていました。まずは小山店でレストランをオープンさせようと構想していましたが立地的に難しく、地元の方に日常的に利用してもらえるパンであればテイクアウトの需要もあり、弊社の大切にしている想いをご家庭の食卓でも楽しんでもらえることから、新事業として最適だと考えました。
パン作りのノウハウは一切無かったので、研修で知り合った西東京にある有名なパン屋から、必要な設備や仕入れルート、パンの作り方を教わりました。パン屋を開業する上での準備はできたものの、肝心のパンを焼く従業員がなかなか見つからなかったので「自分で焼こう」と思い、西東京のパン屋に社員と2人、泊まり込みで修行に行きました。
パン事業は社員と2人でスタートすることになるかもしれないと思っていたところ、HPの「パン屋のオープニングスタッフ募集」の記事を偶然見つけた現店長が入社したところ、不思議と人が集まり始め、無事2016年に「森のパン屋」をオープンすることができました。
ところが、パン屋は朝早くから仕込みを始めなければならず、写真屋とは労働時間も形態も全く違い、就業規則を変えなければならず苦労しました。労働時間や就業規則の他にカルチャーショックを感じたのは、パンは売れなければそのまま廃棄ロスになってしまうことでした。写真は撮影して一つの原板を作り、転写媒体によってサイズや値段を変えればいいだけですが、パンは1個100円であれば100円以上の価値はつかず、食べ物なので傷むという当たり前のことに気付かされました。飲食業の難しさを痛感するとともに、考え方を改めなければいけないと思いましたが、どうすれば黒字を出せるのかがわからず、4年間悩み続けました。
そのうち、お客様に買いに来てもらうだけではなく、届けられるようにしてみようと考え、閉店間際に余りそうなパンを急速冷凍して通信販売で提供する「ツーパン」をInstagram等で発信を始めました。フォロワーが3000人を越えた頃から、アップ後すぐに注文が入るようになり、パンの廃棄ロスはあっという間にゼロになりました。
コロナが拡大し始めてからはECサイトも立ち上げ、「森のパン屋」の名も全国に少しずつ広まり、インフルエンサーの存在によって「全国のパン8選」にも選ばれました。SNSとの相乗効果もうまく出るようになったことで、パン事業も徐々に安定していきました。
パン事業と写真業とのシナジーも生まれています。パンを買いに来た方がロケーション撮影している他のお客様を見て、写真館のお客様としても来店いただくという外側の変化だけではなく、異業種を組み合わせたことで、社員がお客様を喜ばせようとわくわくしながら働ける幸せや面白さを感じられるような環境になり、インナーブランディングにも繋がっています。
また、従業員の能力に最も適した配置を考えるきっかけにもなりました。以前、パン屋でうまくいかなかった従業員がいましたが、いいところもたくさんあったので「天使の森」に転属してもらったところ活躍してくれています。今後も従業員の声を聞きながら、働きやすい環境づくりにも注力したい考えです。
地元の方の厚意で宇都宮店存続の危機を乗り切る
事業が軌道に乗り安定するようになっていた2017年、2代目が突然倒れ、闘病を続けましたが、倒れてからちょうど9か月後の2018年6月20日に他界しました。
2代目に長い期間を伴走してもらえたことで、経営者としての素養は身に付いたと思えるようになっていました。ところが2代目が亡くなった翌々月、宇都宮ヴィラージュの定期借地権の契約更新ができないことになり、再契約への交渉は続けましたが、翌年10月には立ち退かねばならなくなりました。
それまで不動産関連は2代目が担っており、経験も時間も無い中で新店舗の土地を見つけて建物を準備しなければならず、背筋が凍る想いでした。
そこから急ピッチで土地探しを始め、不動産を頼るだけでなく自分でも宇都宮市内を車で巡り探しましたが、宇都宮ヴィラージュと同規模の1200坪という広い土地はなかなか見つかりませんでした。お客様からは「規模を小さくしないでほしい」という声も多くいただいていたので、期待に応えたいと思い、タイムリミットが迫る中で焦りながらも探し続けました。土地を探し始めてから約4カ月後、弊社の副社長から「私、たまたま通りがかりで見つけた場所があるんだけど」ということで、現地に出向いてみたところ、希望面積の半分の600坪程度の土地でした。土地の真ん中には地主の自宅があり、それでもすがる想いで話をしてみたところ「土地の中で自宅を移動させて1000坪を貸しましょう」と応じてくれました。宇都宮市内は商業施設が多く、これほどの広大な土地を探し出すのは困難です。今この場所に宇都宮ブルームがあるのは地主さんのご厚意のおかげであり、本当に感謝しかありません。
2代目の命日を宇都宮ブルームオープン記念日に
土地が決まり、設計から建築に入ったところでコロナの感染が拡大し、急ピッチで進めていた工事も国からの「密を避けて」という要請で進まず、オープン予定日にはどうしても間に合わなくなってしまいました。
オープン予定日は2代目の命日である6月20日と決めていましたが、工事現場から「どうしても間に合わない」と言われ「建物ができ上がっていなくてもいいから、電気だけ通して下さい」とお願いをして、どうにか撮影できるように空間の体裁を整えてもらいました。
2020年6月20日当日は、大安の一粒万倍日という最良の日で、お客様1組だけを招待して私が写真を撮り、宇都宮ブルームの開店を祝いました。実際のオープンは7月29日となりましたが、今でも宇都宮Bloomのオープン記念日は6月20日としています。2代目の命日を記念日にすれば、私も社員もいつも会長を思い出せるからです。
社長就任後の移転は私にとって大きな課題ではありましたが、宇都宮ブルームも軌道に乗り、縁にも恵まれ、ここに移転して良かったと思えるようになりました。
2代目の理念と想いを価値観として引き継ぐ
現在、従業員は全体で83人となっており、2代目から引き継いだ「心をかたちに人にひかりを」という理念と、初代と2代目の事業への想いを「タムライズム」として社内で引継ぎ、体系化しています。
理念は「心をかたちに人にひかりを」を頂点として、「人生は素晴らしい」「テーマパークのような写真館を通して、未来(あす)に希望を感じられる社会を実現します」「私達は世界で一番心を大切にするテーマパークです」「学びつづける人、磨きつづける人、与えつづける人」というビジョンが全て体系化されています。
社員が理念、価値観に共感できてこそ、言葉や行動を通じて外に表れるものであり、価値観が合う人同士や会社同士は、共感し響き合うことができるのだと思います。
そのため、理念に共感した人に入社してもらえるように、面接の段階から価値観が合うかどうかをチェックして、入社後も月1回の勉強会や研修を継続し、毎朝の朝礼でも経営計画書を使い、理念を落とし込めるようにしています。
朝礼では、毎朝リーダーが1人指名され、理念にあるもののうち1カ所を選び、選んだ理由や考えを発表してもらっています。習慣化することで浸透が進んでいると思います。
互いが同じ価値観で繋がっていれば、弊社の社員として、また社会人として、他者と社会をより良いものにしていきたいと思えるはずです。多くの社員がいる中で、理念の浸透を継続していくのは簡単ではありませんが、2代目が残してくれた言葉と想いを後続に引き継ぐことが私の使命だと思っています。
後続を見守りながら100年企業を目指す
弊社は、決して高いとは言えない評価からスタートしたにもかかわらず、72年もの間、写真を通じて事業を展開し続ける事ができました。写真1枚1枚が積み重なってアルバムになるように、弊社の歴史はお客様と従業員の笑顔で彩られています。
この地域でずっと写真事業を続けてきた責任もあり、頼りにしていただいているお客様のためにも、写真事業は中核事業として継続していきたい考えです。
私も後継にバトンを渡せるように準備を始めようと考え、去年「2028年には4代目に事業を承継する」と発表しました。承継について聞いたときに、手を挙げてくれた2代目の長女にバトンを渡す予定です。彼女にはブランド開発部長として宇都宮Bloomと、atelier honeyの立ち上げに携わってもらいました。苦戦していることもありますが、うまくいくよりも失敗や挫折から何を得られたかが大事だと思っています。私が2代目に伴走してもらいながら経営感覚を磨いてきたように、今後7、8年は伴走をしながら見守っていきたいと思います。
いま写真のマーケットは、コロナ禍もあり、この2年、3年の間に急速に縮小しています。それでも弊社は、今後マーケットがどのような状態になったとしても、写真館で過ごす時間すべてを楽しんでいただき、家族の絆を強められるようなサービスと空間を提供していくことで、地元の写真館として踏ん張っていきたいと考えています。
田村写真館が100年企業を目指していく上では、M&Aのような形で他社様を引き継ぐことも柔軟に考えながら、写真以外の事業領域にも積極的に挑戦していきたいと思っています。その上で弊社の得意分野である、人の心に届く喜びや感動を提供するという強みは大切にしながら進んでいきます。
「へっぽこ写真館」と呼ばれた創業期
田村写真館の創業者である田村文雄が栃木県安蘇郡田沼町(現在の佐野市)に田村写真館を開業したのは、1950年4月でした。
群馬県前橋市出身だった初代は、前橋工業高校を卒業後、空襲による疎開のため栃木県田沼町(現在の佐野市)の親戚を頼り引越してきました。小山のカメラメーカーに勤めたものの終戦と同時に人員整理で解雇になり、その後群馬県桐生市で卒業アルバムを制作する会社に勤めたのちに同社を退社、その際に退職金代わりに貰ったカメラ1台を手に創業に踏み切りました。同年には、2代目である英雄が生まれています。
初代は長屋の一角を借りて住んでいましたが、居室のうち最も広い六畳間をスタジオにして、四畳半で家族7人が寝起きしていたそうです。
戦後の生活が厳しい中で創業したものの、当時は一般の人が写真を撮ってもらう、撮るという文化は根づいておらず、初代は卒業アルバムを作った経験を活かそうと旧田沼町内や近隣の旧葛生町の学校に一校一校に出向き、仕事をもらえるようになっていきました。しかし卒業アルバム製作は、春から取材撮影を始めて翌春の納品後に代金が支払われるまでは収入が得られず、相変わらず生活は苦しかったと聞いています。
レッテルを払拭できず苦戦した2代目
その後、戦後の人口増加により学校が増設され、それに伴い卒業アルバムの仕事も増え、高度経済成長により生活に余裕のあるお客様が少数ながら写真館の方にも訪れるようになりました。栃木県内の写真館も200軒ほどに増え、七五三や結婚など折々の行事で記念写真の需要が高まっていきました。
少しずつお客様が増えてきたものの、初代のカメラの腕は今ひとつで、近隣の住民からは「へっぽこ写真館」と揶揄されていたそうです。
初代の仕事を傍で見てきた2代目は、家業について冷やかされることを「嫌だな」と思いつつも、来ていただくお客様のために、写真やカメラへの知識を深め腕を磨こうと考え、写真館の後を継ぐことを条件に日本大学藝術学部写真学科に進学しました。
自由でしがらみのない都会での生活は2代目のその後の性格に大きな影響を与え、カメラの技術理論や他の学生の作品に触れるうちに得るものはありました。しかしもともとカメラの腕やセンスが良かった2代目は都内から帰郷してから、撮影やプリント技術の地域格差に愕然としたそうです。何とかして家業を発展させていきたいと考えた2代目は、後継者として事業の再構築を始めましたが、へっぽこ写真館という地元での不名誉なレッテルはなかなか払拭できませんでした。
新ブランド「マリア館」が評判となる
事業再構築に奮闘していた2代目は、結婚後に「全く違う名前の写真館を隣町に作ってみては」というアイデアが思い浮かび、1983年に隣接する旧佐野市に「マリア館」という新ブランドで出店することにしました。するとこれが大きな反響を呼ぶことになり、そのうちマリア館の母体は田村写真館であることに住民が気づくようになり、2店舗を構えている写真館は地元では無かったので、図らずも田村写真館の評価が上がって長年の汚名も返上されることとなりました。
その後、2代目夫妻は本店も建て替えようとしましたが、マリア館の新設により多額の資金を使うことになったため、自店でフィルム現像や引き伸ばしができる「ミニラボシステム」を導入したQSS株式会社を1985年に設立し、また田村写真館も法人化し事業の多角化を図りました。
ペットフード宅配業をたたみ、従姉妹の伝手で写真業へ
現在3代目である私は、昔から社長になりたいという想いがあり、故郷の佐野市を出て22歳の時に東京でペットフードの宅配会社を経営していました。しかし思っていたより利益が出ず、2代目の妻であり副社長(私の従姉妹)の伝手で、1992年に関連会社のQSS植野店に入社しました。
当時の私は写真の知識も全く持っておらず、将来的には別会社を立ち上げて経営者として再出発したいと考えていたため、2代目夫妻には正直に打ち明け「それでも良ければ雇って下さい」とお願いしたところ、快く受け入れてくれました。年齢は18歳離れていましたが、社交的な2代目の性格からすぐに意気投合し、ビジネスのセンスがある2代目と酒を飲みながら仕事の話をするのが、私にとって本当に楽しく充実した時間でした。
酒場での話は会社の将来像にも及ぶこともあり、2代目からは「事業承継のタイミングが来た時に一番ふさわしい人に継がせたい」という考えも聞いていました。その頃には写真館への愛着も深まっていたので、ゆくゆくは後継者となりたいという気持ちも芽生えていました。
小山ルミナス、宇都宮ヴィラージュを軌道に乗せ、事業を引き継ぐ
その後、大きな転機になったのは2000年です。田村写真館も徐々に従業員数が増え、2代目は「従業員が活躍できる場を作り、より多くの方に弊社のサービスを提供したい」と考え、小山市に写真館の新設を決めました。それが「天使の森小山ルミナス」です。2代目は、全社員に「小山店の責任者となり経営に携わりたい者はいるか」と聞きましたが、私以外に手を挙げたものはおらず、新店舗の経営を任せてもらえることになりました。
小山店の責任者となった私は、新店舗立ち上げと同時に小山市内に引越し、自分の手でアイデアを形にできることを嬉しく思っていました。もともと企画や構想をするのがとても得意で興味があり、経営者になりたいと思っていたのも、自分の発想を活かせると考えたからです。地域の方からも好評いただき、小山店は開設当初から軌道に乗ることができました。
その5年後の2005年には、宇都宮市に「天使の森宇都宮ヴィラージュ」を開店しました。人口16万人ほどの小山市で受け入れていただけたのであれば、小山市の3倍の51万人の人口がある宇都宮市では、より多くの方に喜ばれるだろうと思ったからです。ところが新設から4年間は赤字続きで、建築の初期費用や月々1200坪の地代を支払っていくのも厳しく、会社を存続できないのではないかという状態にまで陥りました。小山店が好調だったからこそ何とか継続することができ、本店や小山店、広告での地道な周知の甲斐あって、宇都宮店新設から5年後の2010年頃に、ようやく利益が出始めました。
2008年には、佐野地区にあったスタジオタムラ本店、マリア館、ショールームを佐野市浅沼町の一店舗に集約して、「天使の森佐野オリヴィエ」としてリニューアルオープンしました。その頃には、店舗のある佐野市や小山市、宇都宮市だけではなく栃木県内での認知度も少しずつ上がっていきました。
「天使の森」が軌道に乗るようになったところで、2代目が私に遠回しに「経営者を引き継いでほしい」という話をするようになり、経営者や経営幹部が通う幹部研修に通い始めました。それまで明言されたことはありませんでしたが、研修が終わった時に2代目から「会社を任せたい」という内容の手紙をもらい、本気で任せたいと思ってくれているのだと理解しました。
その後は3代目候補として専務に就任し7、8年間伴走をしてもらいました。その後2014年の45歳の時に3代目として事業を引継ぎ、2代目は会長として会社を支え続け、会社にもステークホルダーに対しても、真摯に向き合おうとしている2代目の実直さを感じました。
「テーマパークのような写真館」をコンセプトに掲げる
弊社は、現在まで「オンリーワン」を大切にした戦略で事業を展開していきました。他社が取り組んでいないような独創性を追求するというよりも、お客様が何を求めているかに対して応える「マーケットイン」の発想で事業を構築しています。お客様を想うサービスを突き詰めていけば自然とオンリーワンの形になっているもので、2代目が設けたマリア館では、他社に先駆けて予約制を導入したり、2枚1組の写真のセット商品をお客様の要望で1枚でも提供できるようにしたりと、常にお客様の目線でサービス提供ができていたからこそ、多くのお客様からの好評を得られたのだと考えています。
私が3代目社長になって間もなくの2015年からは、2代目が築き上げたビジネスモデルと、かねてから2代目が構想していた「時間と空間を提供する体験型の写真館」のイメージを引き継ぎ、ビジョンがより明確になるように再構築をして「テーマパークのような写真館」というコンセプトを掲げることにしました。
家族、友人、恋人が喜びを共有しながら、テーマパークのように楽しく1日を過ごせるところが弊社の最大の特徴となっています。
異業種「森のパン屋」のオープンによりシナジーを創出
「テーマパーク」というコンセプトを貫き、1日を長く楽しく過ごせる空間づくりをと考えていった時に既存事業と「飲食事業」は親和性が非常に高いのではと感じていました。まずは小山店でレストランをオープンさせようと構想していましたが立地的に難しく、地元の方に日常的に利用してもらえるパンであればテイクアウトの需要もあり、弊社の大切にしている想いをご家庭の食卓でも楽しんでもらえることから、新事業として最適だと考えました。
パン作りのノウハウは一切無かったので、研修で知り合った西東京にある有名なパン屋から、必要な設備や仕入れルート、パンの作り方を教わりました。パン屋を開業する上での準備はできたものの、肝心のパンを焼く従業員がなかなか見つからなかったので「自分で焼こう」と思い、西東京のパン屋に社員と2人、泊まり込みで修行に行きました。
パン事業は社員と2人でスタートすることになるかもしれないと思っていたところ、HPの「パン屋のオープニングスタッフ募集」の記事を偶然見つけた現店長が入社したところ、不思議と人が集まり始め、無事2016年に「森のパン屋」をオープンすることができました。
ところが、パン屋は朝早くから仕込みを始めなければならず、写真屋とは労働時間も形態も全く違い、就業規則を変えなければならず苦労しました。労働時間や就業規則の他にカルチャーショックを感じたのは、パンは売れなければそのまま廃棄ロスになってしまうことでした。写真は撮影して一つの原板を作り、転写媒体によってサイズや値段を変えればいいだけですが、パンは1個100円であれば100円以上の価値はつかず、食べ物なので傷むという当たり前のことに気付かされました。飲食業の難しさを痛感するとともに、考え方を改めなければいけないと思いましたが、どうすれば黒字を出せるのかがわからず、4年間悩み続けました。
そのうち、お客様に買いに来てもらうだけではなく、届けられるようにしてみようと考え、閉店間際に余りそうなパンを急速冷凍して通信販売で提供する「ツーパン」をInstagram等で発信を始めました。フォロワーが3000人を越えた頃から、アップ後すぐに注文が入るようになり、パンの廃棄ロスはあっという間にゼロになりました。
コロナが拡大し始めてからはECサイトも立ち上げ、「森のパン屋」の名も全国に少しずつ広まり、インフルエンサーの存在によって「全国のパン8選」にも選ばれました。SNSとの相乗効果もうまく出るようになったことで、パン事業も徐々に安定していきました。
パン事業と写真業とのシナジーも生まれています。パンを買いに来た方がロケーション撮影している他のお客様を見て、写真館のお客様としても来店いただくという外側の変化だけではなく、異業種を組み合わせたことで、社員がお客様を喜ばせようとわくわくしながら働ける幸せや面白さを感じられるような環境になり、インナーブランディングにも繋がっています。
また、従業員の能力に最も適した配置を考えるきっかけにもなりました。以前、パン屋でうまくいかなかった従業員がいましたが、いいところもたくさんあったので「天使の森」に転属してもらったところ活躍してくれています。今後も従業員の声を聞きながら、働きやすい環境づくりにも注力したい考えです。
地元の方の厚意で宇都宮店存続の危機を乗り切る
事業が軌道に乗り安定するようになっていた2017年、2代目が突然倒れ、闘病を続けましたが、倒れてからちょうど9か月後の2018年6月20日に他界しました。
2代目に長い期間を伴走してもらえたことで、経営者としての素養は身に付いたと思えるようになっていました。ところが2代目が亡くなった翌々月、宇都宮ヴィラージュの定期借地権の契約更新ができないことになり、再契約への交渉は続けましたが、翌年10月には立ち退かねばならなくなりました。
それまで不動産関連は2代目が担っており、経験も時間も無い中で新店舗の土地を見つけて建物を準備しなければならず、背筋が凍る想いでした。
そこから急ピッチで土地探しを始め、不動産を頼るだけでなく自分でも宇都宮市内を車で巡り探しましたが、宇都宮ヴィラージュと同規模の1200坪という広い土地はなかなか見つかりませんでした。お客様からは「規模を小さくしないでほしい」という声も多くいただいていたので、期待に応えたいと思い、タイムリミットが迫る中で焦りながらも探し続けました。土地を探し始めてから約4カ月後、弊社の副社長から「私、たまたま通りがかりで見つけた場所があるんだけど」ということで、現地に出向いてみたところ、希望面積の半分の600坪程度の土地でした。土地の真ん中には地主の自宅があり、それでもすがる想いで話をしてみたところ「土地の中で自宅を移動させて1000坪を貸しましょう」と応じてくれました。宇都宮市内は商業施設が多く、これほどの広大な土地を探し出すのは困難です。今この場所に宇都宮ブルームがあるのは地主さんのご厚意のおかげであり、本当に感謝しかありません。
2代目の命日を宇都宮ブルームオープン記念日に
土地が決まり、設計から建築に入ったところでコロナの感染が拡大し、急ピッチで進めていた工事も国からの「密を避けて」という要請で進まず、オープン予定日にはどうしても間に合わなくなってしまいました。
オープン予定日は2代目の命日である6月20日と決めていましたが、工事現場から「どうしても間に合わない」と言われ「建物ができ上がっていなくてもいいから、電気だけ通して下さい」とお願いをして、どうにか撮影できるように空間の体裁を整えてもらいました。
2020年6月20日当日は、大安の一粒万倍日という最良の日で、お客様1組だけを招待して私が写真を撮り、宇都宮ブルームの開店を祝いました。実際のオープンは7月29日となりましたが、今でも宇都宮Bloomのオープン記念日は6月20日としています。2代目の命日を記念日にすれば、私も社員もいつも会長を思い出せるからです。
社長就任後の移転は私にとって大きな課題ではありましたが、宇都宮ブルームも軌道に乗り、縁にも恵まれ、ここに移転して良かったと思えるようになりました。
2代目の理念と想いを価値観として引き継ぐ
現在、従業員は全体で83人となっており、2代目から引き継いだ「心をかたちに人にひかりを」という理念と、初代と2代目の事業への想いを「タムライズム」として社内で引継ぎ、体系化しています。
理念は「心をかたちに人にひかりを」を頂点として、「人生は素晴らしい」「テーマパークのような写真館を通して、未来(あす)に希望を感じられる社会を実現します」「私達は世界で一番心を大切にするテーマパークです」「学びつづける人、磨きつづける人、与えつづける人」というビジョンが全て体系化されています。
社員が理念、価値観に共感できてこそ、言葉や行動を通じて外に表れるものであり、価値観が合う人同士や会社同士は、共感し響き合うことができるのだと思います。
そのため、理念に共感した人に入社してもらえるように、面接の段階から価値観が合うかどうかをチェックして、入社後も月1回の勉強会や研修を継続し、毎朝の朝礼でも経営計画書を使い、理念を落とし込めるようにしています。
朝礼では、毎朝リーダーが1人指名され、理念にあるもののうち1カ所を選び、選んだ理由や考えを発表してもらっています。習慣化することで浸透が進んでいると思います。
互いが同じ価値観で繋がっていれば、弊社の社員として、また社会人として、他者と社会をより良いものにしていきたいと思えるはずです。多くの社員がいる中で、理念の浸透を継続していくのは簡単ではありませんが、2代目が残してくれた言葉と想いを後続に引き継ぐことが私の使命だと思っています。
後続を見守りながら100年企業を目指す
弊社は、決して高いとは言えない評価からスタートしたにもかかわらず、72年もの間、写真を通じて事業を展開し続ける事ができました。写真1枚1枚が積み重なってアルバムになるように、弊社の歴史はお客様と従業員の笑顔で彩られています。
この地域でずっと写真事業を続けてきた責任もあり、頼りにしていただいているお客様のためにも、写真事業は中核事業として継続していきたい考えです。
私も後継にバトンを渡せるように準備を始めようと考え、去年「2028年には4代目に事業を承継する」と発表しました。承継について聞いたときに、手を挙げてくれた2代目の長女にバトンを渡す予定です。彼女にはブランド開発部長として宇都宮Bloomと、atelier honeyの立ち上げに携わってもらいました。苦戦していることもありますが、うまくいくよりも失敗や挫折から何を得られたかが大事だと思っています。私が2代目に伴走してもらいながら経営感覚を磨いてきたように、今後7、8年は伴走をしながら見守っていきたいと思います。
いま写真のマーケットは、コロナ禍もあり、この2年、3年の間に急速に縮小しています。それでも弊社は、今後マーケットがどのような状態になったとしても、写真館で過ごす時間すべてを楽しんでいただき、家族の絆を強められるようなサービスと空間を提供していくことで、地元の写真館として踏ん張っていきたいと考えています。
田村写真館が100年企業を目指していく上では、M&Aのような形で他社様を引き継ぐことも柔軟に考えながら、写真以外の事業領域にも積極的に挑戦していきたいと思っています。その上で弊社の得意分野である、人の心に届く喜びや感動を提供するという強みは大切にしながら進んでいきます。
会社概要
社名 | 株式会社田村写真館 |
創立年 | 1987年 |
代表者名 | 代表取締役社長 田名網 勝 |
資本金 | 4,000万円 |
URL |
https://www.angel-forest.jp/
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本社住所 |
〒327-0317 |
事業内容 | 写真撮影業、フォトサービス業、撮影所、貸衣裳業、ベーカリー |
事業エリア |
宇都宮Bloom 〒321-0932 028-651-0505 |
小山ルミナス 〒323-0829 0285-31-3179 |
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佐野オリヴィエ 〒327-0831 0283-22-8977 |
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森のパン屋 〒323-0829 0285-28-0202 |
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atelier honey 〒320-0848 028-678-3821 |
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関連会社 |
会社沿革
1950年 | 栃木県田沼町(現:佐野市田村町)で創業者・田村文雄が田村写真館を創業 |
1987年 | 二代目・田村英雄が田村写真館を法人化 新ブランド「マリア館」を設立 |
2000年 | 新ブランド「天使の森」として「天使の森小山ルミナス」(小山市)を開店 |
2005年 | 「天使の森宇都宮ヴィラージュ」(宇都宮市)を開店 |
2009年 | 「天使の森佐野オリヴィエ」(佐野市)を開店 |
2014年 | 代表取締役社長 田名網 勝 就任 |
2020年 | 「天使の森宇都宮ヴィラージュ」を移転し、「天使の森宇都宮Bloom」(宇都宮市)を開店 |
株式会社田村写真館の経営資源引継ぎ募集情報
人的資本引継ぎ
栃木県
テーマパークのような写真館が、感動、そして勇気と希望を提供する人財を募集
公開日:2023/02/20 (2023/07/12修正)
※本記事の内容および所属名称は2023年7月現在のものです。現在の情報とは異なる場合があります。
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