栃木・宇都宮市
栃木 ・ 宇都宮市
業界の
三信電工株式会社
地域に根差し、質の高い技術で社会に貢献します
経営理念
「誠実・明朗・協和」の精神と、質の高い技術をもって、お客様からの満足と信頼を獲得し、社会に貢献する。
社是
「誠実・明朗・協和」
代表者メッセージ
創業者である祖父・橋本英夫は、戦後まもなく地元宇都宮市で起業しました。電話や電気を主体とした地元復興のインフラ整備に始まり、土木・電気・電気通信分野を中心に工種を増やし、以後70年以上の長きにわたり地域の皆様に支えられて事業を続けてくることができました。「誠実・明朗・協和」の社是と、「地域とともに未来をつかむ!」のスローガンどおり、これからも地域密着で栃木県の未来に貢献していきたいと思っております。
代表取締役 名村 史絵
私たちのこだわり
創業から名村社長へ事業承継するまでのあゆみ
弊社は、1949年(昭和24年)に、戦後のインフラ整備として、職人であった曾祖父がひとり息子である祖父を社長に立てて事業を始めたのが会社の始まりと聞いています。以来70年以上、栃木県に根ざして工事事業を続けてまいりました。私は世代的には3代目ですが、社長としては5人目の承継となります。創業者の祖父、婿養子の父、創業者の娘である母、義叔父と続いた後、母から株の生前贈与の話を受けたことがきっかけとなり、2011年に取締役に就任、2012年に母を代表に戻して自身は副社長となり、2016年に正式に社長として会社を継ぐことになりました。
もともと、会社を継ぐ気は全くありませんでした。というのも、私は二人姉妹で、昔は「後を継ぐのは男子」という考えが強く、後継ぎとしては期待されていなかったのだと思います。どちらかというと、結婚した相手が後を継いでくれれば、という感覚だったのかもしれません。家庭内でも父が会社について話すことも少なかったため、家業の事業内容すらよく知らずに育ちました。
そのため、後継ぎについて話をされたこともなく、将来については自分の好きなことをしなさいと言われていました。国語が好きだったことから、大学は文学部国文学科に進学しましたが、専門性を活かせる働き先が見つかりませんでした。そのころ、ちょうどパソコンが普及し始めた時期で、SE(システムエンジニア)やプログラマーの求職が多かったことから、宇都宮市のソフトウェア開発会社である株式会社マテハン(現・株式会社マテハンソフト)に入社しました。入社後は主にパソコンのインストラクターとして従事し、転職を経て、フリーランスとしてそのまま細々とインストラクターを続けていました。自分にとって、とてもやりがいのある仕事で天職だと思っていました。
そんな折、母から株の生前贈与について相談を受けました。この時に初めて決算書を目にし、経営状況の厳しさを知りました。当時業績としては一番悪い時期でした。財務諸表の見方も分からず、マテハン勤務時代の同期で友人の橋本会長(株式会社マテハンソフト現会長)に相談に行きました。すると、橋本会長は、ただ株を引き継ぐだけでなく、経営に関わったほうがいいのではないかとアドバイスをしてくれました。
このことがきっかけで、経営に関わることを本格的に考えるようになり、OBに話を聞きに行ったり、会社の書類を自発的に見たりするようになりました。前職で培ったパソコン技術が私の強みだったため、集めたデータを入力し、会社の実態を分析したところ、判明した業績は決して芳しいものではありませんでした。これをきっかけとして積極的に経営に関わることが必要だと感じ、事業承継を決意しました。
社長になってからの苦労
会社の仕事内容については周りの社員を頼りに、とにかく教えてくださいというスタンスで、学びながら、経営に関わっていきました。ベテランが多い会社でしたので、私を受け入れてもらえるかどうかが一番の心配でしたが、幸いにも社員が非常に協力的で、おかげで、少しずつではありますが、会社への理解を深めることができました。
実は、取締役に就任した際に密かに5年計画を立てました。経営の知識も経験もなく、何の根拠もないのですが、今見るとその計画はほとんど達成していました。計画というよりは、自分の願望を書き連ねたようなものなのですが、書き出すことで自分のモチベーションを保っていたのだと思います。社員の幸せのためにということだけは、ぶれずに続けていこうと考えていました。
会社に入ったばかりの頃は、「前例がないから」「うちはずっとこうしてきたから」と言われることも多々ありました。ただ、会社の違和感に気づけるのは、業界の外で経験を積んできた私しかいないと考え、恥を忍んで、気になったことはためらわずに話すようにしていました。話す際は、どのような言い方をすれば伝わるかを常に意識していました。対話では伝えきれない自分の考えは、じっくりと推敲した上で、文章で発信するようにしていました。
社員への尊敬の念だけは忘れずに、謙虚でいなければならないと常に考えていました。そのせいか、うまくいかないことがあっても、「今はそのタイミングではない」と考えるようにしていました。そのような考えで話し合いを重ねていると、何度提案しても納得してもらえなかったものが、その時の会社の状況や、時代の変化とともに、風向きが変わるタイミングが必ず来るのです。なので、無理強いをして自分の意見を通してきたことはほとんどありませんでした。
このように忍耐強く会社と向き合うことができたのは、母(現・会長)からの忠告も大きかったと思います。私のもともとの暴れん坊な性格を知ってか、「急ぐな」ということを常々言われていました。そのため、なるべく急いで改革しようとせず、焦らずにいようというのは常に自分に言い聞かせていました。
その中で、周りに協力してくれる人が増えていくのは、本当にありがたいことだと思います。初めは消極的だった社員たちが、次第に合言葉のように「とりあえずやってみよう」と言ってくれるようになりました。
建設業界に必要なのは固定概念の払拭と柔軟な考え
建設業界は固定観念にとらわれている業界だと感じます。その中で、なかなか変わらない部分との軋轢を感じることもありますが、時代の変化で自然に淘汰されていくこともあるので、性急に変革を求めすぎないことも必要だと考えています。
なぜなら、誰かに言われて変えるよりは、自分で理解して変える方が、圧倒的に浸透が早いからです。考え方が異なる中で足並みをそろえるのは難しいことです。無理に変えようとすると反発が起きてしまうので、複数の選択肢を用意しながら、少しずつお互いに歩み寄るということが重要なのだと思います。それを忍耐強く待つ時間はすごく辛いのですが、時間をかけて、時代に合わせて改善していくということが、業界には大切だと感じています。もっと柔軟な対応ができるようになれば、建設業界全体が変化してくると思います。
社長になってから変えたこと
会社を見て一番に感じたことは、利益が明確な数字でなく、感覚的なものでとらえられているということでした。当時、会社の会議では、「完成高」や「売り上げ」という単語ばかりが使われていて、「利益」という言葉が一度も出てこないような状況でした。いくらお金がかかっても、大きい仕事が仕上がればそれでいいという感覚だったのだと思います。売上高ではなく利益を重視しましょうということをまず役員に伝えたのを覚えています。
初めに、一つ一つの工事の利益率を出すようにしたのですが、最初は社内から猛反対を受けました。工事によって利益にばらつきがあるので、担当者がそれで評価されてしまうことを恐れていたのだと思います。なので、そこで良し悪しを判断するのではなく、あくまで数字として、利益を見ていくことが必要だと伝えて、理解してもらいました。利益率を上げて、原価率を下げる。すごく単純なことなのですが、分からないなりにも、違和感を覚えたところから変えていけるように試行錯誤していました。
また、現場の実行予算も、当時はしっかりと計画を明確にしないまま仕事が進んでしまうこともありました。それでは意味がないので、最初に予定を明確にし、最終的にどこがどのように変化したのかを全員で確認できるようにしようということも会議で伝えました。
理念の浸透について
理念については、まずは私自身が、既に存在していた社是と経営理念をかみ砕いて解釈するところから始めました。そのうえで、リッツ・カールトンのクレドを見せてもらったことをきっかけに、数年かけて役員会で何度も提案し、自社でもクレドを作成しました。社是と経営理念に加え、社是に関する自分なりの解釈も併せて書きました。名札や手帳に挟めるサイズで作成し、朝礼で読み上げる内容に加え、毎期の会社の目標、部の目標、グループの目標、個人の目標もひと目で見られるようにしています。このクレドを作成してから、社是や経営理念が少しずつ浸透してきているのを感じています。
社員教育について
社員の働き方には、「生き生き笑顔で」というのが一番のポイントだと考えています。建設業は3Kと呼ばれる仕事ではありますが、だからこそ、やりがいや働き甲斐を感じてほしいのです。小さなことでも、やり遂げた、できたという成功体験を積み上げることで、達成感や仕事をすることの楽しさを感じてほしいと考えています。
そのような環境を作り出すためにも、社内にグループ制を導入しました。それまでの工事は、部門ごとの縦割りで完結してしまうことが多く、他の部門が何をしているのかという横のつながりが弱いと感じていました。そこで、職種ごとにグループを作り、リーダーを立てることで、他のチームと連携できるような仕組み作りに注力しています。少しずつではありますが、それまで経理の仕事しかしていなかった社員が、営業の会議や工事の会議に出て、いろいろな情報を集めたうえで、共有するようになるなど、グループリーダー間で話しあいをすることで、お互いのチームで協力を求めることができるようになってきていると感じます。
また、サブリーダーをチームの中で決めるようにしたところ、入って間もなくの若手が立候補したことがあります。このように、思わぬ資質が見えたり、社員のやる気が感じられたりするようになったのも嬉しい変化です。
社員は、資格取得にも力を入れています。仕事をしながらの勉強はたいへんですが、様々な資格に挑戦し、資格保持者が増えています。また、新たに建設ディレクターという役割を養成する取り組みを始めています。工事資料の作成を建設ディレクターが行うことで、現場社員の負担を減らす取り組みです。現場では、自分がやるべき仕事という意識があって、なかなかディレクターに仕事を渡せないのが現実です。そこで、少しずつできる部分から手伝っていくという形で現場に入り込んでくれています。建設ディレクターに就任した女性が、現場の仕事に関わる経験を通して、現場に興味を持ち、電気工事士の資格を取得しました。新たに役割を与えられることで、自発的に業務への理解を深める機会にも繋がるのだと実感しているところです。
公共工事への取り組み
その他、公共工事への信頼度を高めるために、すぐにできる取り組みとして、工事の実績以外にできることをすべて洗い出して、一つずつ解決していくようにしました。加えて、長期的な計画として、工事の実績を上げるためにどのような仕事を受けるべきかを逆算していきました。工事の受注に関しても、それまで営業の一存で決めていたものを、現場と一緒に目指すべき仕事を話し合ってもらうようにしました。これにより、部署間の軋轢が減っただけでなく、全員で先を見据えた仕事ができるようになったのも、少しずつ変化してきた部分だと思います。
今後は、公共工事だけでなく民間の仕事にも積極的に取り組み、仕事の幅を広げるだけでなく、会社が安定して利益を確保できるようにしていきたいと考えています。人員の補強という部分と、仕事の幅を広げるという観点から、選択肢の一つとしてM&Aも有効な手段ではないかと考えています。
地域へ還元できる仕事を続けていきたい
これまで当社が70年以上も続けることができているのは、地域の皆様のおかげです。少しでもそのお返しができればという一念です。東京の仕事をしたこともありましたが、やはり地域の足固めから見直さなければと感じました。あくまでも地域に根付く仕事をしようと社員と常に話し合っているところです。地域に少しでも還元できるような仕事をこれからも続けていきたいと思っています。
創業から名村社長へ事業承継するまでのあゆみ
弊社は、1949年(昭和24年)に、戦後のインフラ整備として、職人であった曾祖父がひとり息子である祖父を社長に立てて事業を始めたのが会社の始まりと聞いています。以来70年以上、栃木県に根ざして工事事業を続けてまいりました。私は世代的には3代目ですが、社長としては5人目の承継となります。創業者の祖父、婿養子の父、創業者の娘である母、義叔父と続いた後、母から株の生前贈与の話を受けたことがきっかけとなり、2011年に取締役に就任、2012年に母を代表に戻して自身は副社長となり、2016年に正式に社長として会社を継ぐことになりました。
もともと、会社を継ぐ気は全くありませんでした。というのも、私は二人姉妹で、昔は「後を継ぐのは男子」という考えが強く、後継ぎとしては期待されていなかったのだと思います。どちらかというと、結婚した相手が後を継いでくれれば、という感覚だったのかもしれません。家庭内でも父が会社について話すことも少なかったため、家業の事業内容すらよく知らずに育ちました。
そのため、後継ぎについて話をされたこともなく、将来については自分の好きなことをしなさいと言われていました。国語が好きだったことから、大学は文学部国文学科に進学しましたが、専門性を活かせる働き先が見つかりませんでした。そのころ、ちょうどパソコンが普及し始めた時期で、SE(システムエンジニア)やプログラマーの求職が多かったことから、宇都宮市のソフトウェア開発会社である株式会社マテハン(現・株式会社マテハンソフト)に入社しました。入社後は主にパソコンのインストラクターとして従事し、転職を経て、フリーランスとしてそのまま細々とインストラクターを続けていました。自分にとって、とてもやりがいのある仕事で天職だと思っていました。
そんな折、母から株の生前贈与について相談を受けました。この時に初めて決算書を目にし、経営状況の厳しさを知りました。当時業績としては一番悪い時期でした。財務諸表の見方も分からず、マテハン勤務時代の同期で友人の橋本会長(株式会社マテハンソフト現会長)に相談に行きました。すると、橋本会長は、ただ株を引き継ぐだけでなく、経営に関わったほうがいいのではないかとアドバイスをしてくれました。
このことがきっかけで、経営に関わることを本格的に考えるようになり、OBに話を聞きに行ったり、会社の書類を自発的に見たりするようになりました。前職で培ったパソコン技術が私の強みだったため、集めたデータを入力し、会社の実態を分析したところ、判明した業績は決して芳しいものではありませんでした。これをきっかけとして積極的に経営に関わることが必要だと感じ、事業承継を決意しました。
社長になってからの苦労
会社の仕事内容については周りの社員を頼りに、とにかく教えてくださいというスタンスで、学びながら、経営に関わっていきました。ベテランが多い会社でしたので、私を受け入れてもらえるかどうかが一番の心配でしたが、幸いにも社員が非常に協力的で、おかげで、少しずつではありますが、会社への理解を深めることができました。
実は、取締役に就任した際に密かに5年計画を立てました。経営の知識も経験もなく、何の根拠もないのですが、今見るとその計画はほとんど達成していました。計画というよりは、自分の願望を書き連ねたようなものなのですが、書き出すことで自分のモチベーションを保っていたのだと思います。社員の幸せのためにということだけは、ぶれずに続けていこうと考えていました。
会社に入ったばかりの頃は、「前例がないから」「うちはずっとこうしてきたから」と言われることも多々ありました。ただ、会社の違和感に気づけるのは、業界の外で経験を積んできた私しかいないと考え、恥を忍んで、気になったことはためらわずに話すようにしていました。話す際は、どのような言い方をすれば伝わるかを常に意識していました。対話では伝えきれない自分の考えは、じっくりと推敲した上で、文章で発信するようにしていました。
社員への尊敬の念だけは忘れずに、謙虚でいなければならないと常に考えていました。そのせいか、うまくいかないことがあっても、「今はそのタイミングではない」と考えるようにしていました。そのような考えで話し合いを重ねていると、何度提案しても納得してもらえなかったものが、その時の会社の状況や、時代の変化とともに、風向きが変わるタイミングが必ず来るのです。なので、無理強いをして自分の意見を通してきたことはほとんどありませんでした。
このように忍耐強く会社と向き合うことができたのは、母(現・会長)からの忠告も大きかったと思います。私のもともとの暴れん坊な性格を知ってか、「急ぐな」ということを常々言われていました。そのため、なるべく急いで改革しようとせず、焦らずにいようというのは常に自分に言い聞かせていました。
その中で、周りに協力してくれる人が増えていくのは、本当にありがたいことだと思います。初めは消極的だった社員たちが、次第に合言葉のように「とりあえずやってみよう」と言ってくれるようになりました。
建設業界に必要なのは固定概念の払拭と柔軟な考え
建設業界は固定観念にとらわれている業界だと感じます。その中で、なかなか変わらない部分との軋轢を感じることもありますが、時代の変化で自然に淘汰されていくこともあるので、性急に変革を求めすぎないことも必要だと考えています。
なぜなら、誰かに言われて変えるよりは、自分で理解して変える方が、圧倒的に浸透が早いからです。考え方が異なる中で足並みをそろえるのは難しいことです。無理に変えようとすると反発が起きてしまうので、複数の選択肢を用意しながら、少しずつお互いに歩み寄るということが重要なのだと思います。それを忍耐強く待つ時間はすごく辛いのですが、時間をかけて、時代に合わせて改善していくということが、業界には大切だと感じています。もっと柔軟な対応ができるようになれば、建設業界全体が変化してくると思います。
社長になってから変えたこと
会社を見て一番に感じたことは、利益が明確な数字でなく、感覚的なものでとらえられているということでした。当時、会社の会議では、「完成高」や「売り上げ」という単語ばかりが使われていて、「利益」という言葉が一度も出てこないような状況でした。いくらお金がかかっても、大きい仕事が仕上がればそれでいいという感覚だったのだと思います。売上高ではなく利益を重視しましょうということをまず役員に伝えたのを覚えています。
初めに、一つ一つの工事の利益率を出すようにしたのですが、最初は社内から猛反対を受けました。工事によって利益にばらつきがあるので、担当者がそれで評価されてしまうことを恐れていたのだと思います。なので、そこで良し悪しを判断するのではなく、あくまで数字として、利益を見ていくことが必要だと伝えて、理解してもらいました。利益率を上げて、原価率を下げる。すごく単純なことなのですが、分からないなりにも、違和感を覚えたところから変えていけるように試行錯誤していました。
また、現場の実行予算も、当時はしっかりと計画を明確にしないまま仕事が進んでしまうこともありました。それでは意味がないので、最初に予定を明確にし、最終的にどこがどのように変化したのかを全員で確認できるようにしようということも会議で伝えました。
理念の浸透について
理念については、まずは私自身が、既に存在していた社是と経営理念をかみ砕いて解釈するところから始めました。そのうえで、リッツ・カールトンのクレドを見せてもらったことをきっかけに、数年かけて役員会で何度も提案し、自社でもクレドを作成しました。社是と経営理念に加え、社是に関する自分なりの解釈も併せて書きました。名札や手帳に挟めるサイズで作成し、朝礼で読み上げる内容に加え、毎期の会社の目標、部の目標、グループの目標、個人の目標もひと目で見られるようにしています。このクレドを作成してから、社是や経営理念が少しずつ浸透してきているのを感じています。
社員教育について
社員の働き方には、「生き生き笑顔で」というのが一番のポイントだと考えています。建設業は3Kと呼ばれる仕事ではありますが、だからこそ、やりがいや働き甲斐を感じてほしいのです。小さなことでも、やり遂げた、できたという成功体験を積み上げることで、達成感や仕事をすることの楽しさを感じてほしいと考えています。
そのような環境を作り出すためにも、社内にグループ制を導入しました。それまでの工事は、部門ごとの縦割りで完結してしまうことが多く、他の部門が何をしているのかという横のつながりが弱いと感じていました。そこで、職種ごとにグループを作り、リーダーを立てることで、他のチームと連携できるような仕組み作りに注力しています。少しずつではありますが、それまで経理の仕事しかしていなかった社員が、営業の会議や工事の会議に出て、いろいろな情報を集めたうえで、共有するようになるなど、グループリーダー間で話しあいをすることで、お互いのチームで協力を求めることができるようになってきていると感じます。
また、サブリーダーをチームの中で決めるようにしたところ、入って間もなくの若手が立候補したことがあります。このように、思わぬ資質が見えたり、社員のやる気が感じられたりするようになったのも嬉しい変化です。
社員は、資格取得にも力を入れています。仕事をしながらの勉強はたいへんですが、様々な資格に挑戦し、資格保持者が増えています。また、新たに建設ディレクターという役割を養成する取り組みを始めています。工事資料の作成を建設ディレクターが行うことで、現場社員の負担を減らす取り組みです。現場では、自分がやるべき仕事という意識があって、なかなかディレクターに仕事を渡せないのが現実です。そこで、少しずつできる部分から手伝っていくという形で現場に入り込んでくれています。建設ディレクターに就任した女性が、現場の仕事に関わる経験を通して、現場に興味を持ち、電気工事士の資格を取得しました。新たに役割を与えられることで、自発的に業務への理解を深める機会にも繋がるのだと実感しているところです。
公共工事への取り組み
その他、公共工事への信頼度を高めるために、すぐにできる取り組みとして、工事の実績以外にできることをすべて洗い出して、一つずつ解決していくようにしました。加えて、長期的な計画として、工事の実績を上げるためにどのような仕事を受けるべきかを逆算していきました。工事の受注に関しても、それまで営業の一存で決めていたものを、現場と一緒に目指すべき仕事を話し合ってもらうようにしました。これにより、部署間の軋轢が減っただけでなく、全員で先を見据えた仕事ができるようになったのも、少しずつ変化してきた部分だと思います。
今後は、公共工事だけでなく民間の仕事にも積極的に取り組み、仕事の幅を広げるだけでなく、会社が安定して利益を確保できるようにしていきたいと考えています。人員の補強という部分と、仕事の幅を広げるという観点から、選択肢の一つとしてM&Aも有効な手段ではないかと考えています。
地域へ還元できる仕事を続けていきたい
これまで当社が70年以上も続けることができているのは、地域の皆様のおかげです。少しでもそのお返しができればという一念です。東京の仕事をしたこともありましたが、やはり地域の足固めから見直さなければと感じました。あくまでも地域に根付く仕事をしようと社員と常に話し合っているところです。地域に少しでも還元できるような仕事をこれからも続けていきたいと思っています。
会社概要
社名 | 三信電工株式会社 |
創立年 | 1949年 |
代表者名 | 代表取締役 名村 史絵 |
資本金 | 2,000万円 |
URL |
http://www.sanshin.ne.jp
|
本社住所 |
〒321-0977 |
事業内容 | 電気工事/電気通信工事/LAN設備工事/電話工事/交通信号機 ・交通施設工事/土木工事/防球・防鳥など各種ネット設計施工/体育施設設計施工/建柱工事/コンクリート柱販売/電柱広告(栃木県内のNTT柱一手取扱い)、看板など |
事業エリア |
工事:関東から東北まで施工 電柱広告:栃木県全域・茨城県の一部 |
会社沿革
1949年 | 会社設立(宇都宮市塙田町327)電気・電話・鉄鋼工事を開始 |
1952年 | 建設業者登録を行う。知事(ロ)225号 |
1969年 | 「誠実・明朗・協和」の社是を制定 |
1977年 | 電話ショールーム開設(宇都宮市昭和1丁目) |
1984年 | オフコンセンター開設(宇都宮市昭和1丁目) |
2008年 | ISO9001:2000認証取得(電気工事) |
2009年 | 「宇都宮まちづくり貢献企業(宇都宮CSR)」認証 |
2013年 | 国土交通省関東整備局「建設会社における災害時の基礎的事業継続力(BCP)」認定 |
2015年 | 栃木県「いい仕事いい家庭つぎつぎとちぎ宣言」認定 |
2017年 | 宇都宮市より優良建設工事表彰(電線共同溝工事 ユニオン通り) 宇都宮市「きらり大賞」受賞 栃木県「男女生き活き企業」認定(第17号) |
2020年 | 健康づくり事業者表彰(宇都宮市) 健康長寿とちぎづくり表彰 健康経営部門 最優秀賞受賞(栃木県) 健康経営優良法人(中小規模法人部門)認定(日本健康会議) とちぎ健康経営事業所認定(栃木県) 栃木県より工事優良建設業者として知事表彰(総合スポーツゾーン新スタジアム新築電気設備工事 6JV) 宇都宮市より優良建設工事表彰(道路改良工事 都市計画道路3・4・102号宇都宮日光線一条) |
2021年 | 宇都宮市より優良建設工事表彰(電線共同溝築造工事 都市計画道路3・4・102号 一条) とちぎSDGs推進企業登録 |
三信電工株式会社の経営資源引継ぎ募集情報
事業引継ぎ
茨城県
栃木県
群馬県
埼玉県
譲渡側の文化や伝統などその想いを理解した上で建設事業を引き継ぎます
人的資本引継ぎ
栃木県
建設業界の慣習にとらわれず柔軟な発想で働く栃木県の人材を募集
公開日:2022/08/09 (2023/01/25修正)
※本記事の内容および所属名称は2023年1月現在のものです。現在の情報とは異なる場合があります。
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