栃木・宇都宮市
栃木 ・ 宇都宮市
事業の成長は
オリオンコンピュータ株式会社
教育事業とIT支援でたくさんのありがとう、その笑顔のために
経営理念
「ありがとう」その笑顔の為に
オリオンコンピュータ株式会社 社員一同は、お客様から「ありがとう」の笑顔を頂く為に、そして、社員と社員の家族が笑顔になる為に、日々、前進する企業です
代表者メッセージ
これからのビジネス社会では、専門的にプログラムを組んだり、システムを設計するといった技術的な専門家とは別に、社会人の基礎能力として、社員一人ひとりがパソコンや各種のソフトウェアなどを十分に活用する能力が不可欠となっています。
そこでわが社は、パソコンなどの情報機器やソフトウェアを活用して、事務の効率化・合理化を図るとともに、更には、経営上や日常業務における問題解決や意思決定につながる能力を開発・育成することを目的として、平成10年から「パソコン教室」として設立いたしました。
情報技術の環境が整いつつあるなかで、営業や財務会計などの業務とITを結びつけ、生産性を向上させるためには、エンドユーザの情報活用能力を高めることが重要となります。一般に、情報技術というと、コンピュータの難しい理論もしくは操作技術をイメージする傾向がまだまだ強く、パソコンの操作を学習する場合も、「パソコンを習うこと」自体が目的化して、「道具として活用する」ことを忘れ、その結果応用力が乏しくなりがちです。
しかし、実際にエンドユーザとしてパソコンを使用する場合、情報機器にどのような情報を与え、どのように処理し、どのように結果を利用するかを最終的に判断するのは人間であり、応用する能力をエンドユーザがどれだけ身につけているかが、重要なポイントとなります。
当社は、この様な問題を幅広い側面からサポートするための業務を行っております
起業前までの仕事と転機となった宇都宮市への移住
出身は日光市稲荷町。「屋台(山車)」を「家体(やたい)」と呼び、春らしい彩りのヤシオツツジの造花に彩られた11台の「花家体」が繰り出す、華やかに日光に春の訪れを告げる弥生祭に参加し、太鼓を叩いたり、お神輿をかついだりしていました。社会人になってからは、地元のガソリンスタンドにも務めていることもあり、その時に3分間スマイルなどメーカーのコンテストなどにもチャレンジしたりもしました。内容は、来客されたお客様に対して接客をおこない、給油・窓ふきサービス・ゴミなどの回収などスムーズに何分で作業がおこなえるのかと接客時の表情などであり、教育というより訓練に近い形でした。そのお陰で営業スマイルを自然と身に付けることができました。今の仕事でもそうですが、第一印象で与えるイメージは重要だと思います。
ガソリンスタンドのサービスは30年以上も前の話ですが、意外と若い女性が多く働いていました。古い話かもしれませんが、昔は25、26歳でお嫁に行くのが当たり前で仕事に関してもあまり長く居座る感じではありませんでした。私も同じ考えであり、結婚することが女性として最大の幸せだと思い、疑っていませんでした。
この当時は、実家は日光市内で小さな牛乳店を経営しておりました。昔は牛乳配達など需要はあったのですが年々注文が減り、経営は悪化していました。私は3人兄弟の末っ子で、25歳ぐらいの時に会社の経営が厳しいという話を聞かされました。兄や姉はそのずいぶん前から聞かされており、家業を継ぐということも誰も考えていませんでした。私以外の家族は連帯保証となって金融機関からの借入があったこともあり、私もその返済を考えるようになりました。前述していたように早く結婚して幸せになろうという気持ちもありましたが、最終的にこのままサービス業で居座るよりも、仕事を辞めアルバイト(ゴルフ場のレストランのウェイトレス)をし、26歳の時に日光を出て宇都宮へ出ることを決意しました。
事務員としてコンピューターとの出会いと創業経緯
この年は1995年で、インターネットが一般に広まりはじめた時期でもあり、業務用だけでなく一般家庭にも急速な普及を見せた画期的なOS(オペレーティングシステム)が誕生したタイミングでもありました。Microsft Windowsを扱う事務機代理店の事務員として働き始めました。それまではオフコン(オフィスコンピューター)と言われ、財力に余裕のある企業が導入してくれるものでそのような商品が主力の事務機器店でした。
事務機器もセットで約100万円ぐらいで、当時の記憶媒体はフロッピーディスクで主な業務処理は請求書の発行という代物でした。事務作業が主な仕事で、コンピューターを使って請求書や納品書の作成、発行をやらせてもらっていました。操作を教わっただけでしたが、早い時期にコンピュータへ触れることができたことは偶然だったのかと思います。仕事が多くあった宇都宮市へ来たことは、実家家業の借金の返済に向けて昼も夜も働くダブルワークをするためでもありました。
昼夜働いても返済できる金額ではなく、どうしようかと思い事務機の代理店を辞めて別なことをしようとしていたところ、前職の社長から呼び出され取引先でコンピューター操作が分からない会社に手伝いに行ってほしいと連絡がありました。事務員としてコンピューターに触れていたのが私と社長のみで、操作ができる者が他にいない、と連絡がありました。当時は月1回程度の頻度(請求書作成のタイミング)くらいしか使われていなかったので操作を忘れてしまう会社も多くあり、緊急に対応したところ作業代を心ばかりいただきました。
このやり取りで、お手伝いで手当がいただけることに気づき、これからはパソコンの時代になる、と1998年にパソコン教室を始めたのが、弊社オリオンコンピュータの創業の流れになります。
創業メンバーは誰も残らず10年経って会社らしくなっていった
創業時はまだ30歳くらいで起業するようなことは考えていなかったというのが本音で、先に商売が始まっており、登記の申請や申告、税務署への登録などは後手後手に処理をおこないました。
同級生が、東京都内でプログラマーをやっており、父親の訃報があり帰省していたこともありコンピューターに精通していることで一緒に参画してもらい、もう一人の同級生も誘って3人で会社をスタートしました。当時は株式会社を設立するには1,000万円の資本金が必要で、そんなお金もなかったため、会社を買うこともできるという方法を知り300万円で売ってくれる会社を譲り受けました。創業は1998年(平成10年)ですが、登記簿上は買収企業の設立が記載されているので1986年(昭和61年)の創業となっています。
社名の由来は、オリオン座の3つ星からで創業時の同級生3人からスタートしたことから取っています。あとは、宇都宮市内にあるオリオン通りが由来です。私たちの青春でもあり、象徴的な場所で、日光に在住している身からすると人が集まる華やかな場所でした。星座の何かを使いたいと思ったこと、日光は空気が澄んでおり星がキレイに見えるというのもありました。
私は仕事獲得のための営業と資金調達が主な担当であり、創業間もない時は金策に必死でした。創業時の仲間も結婚などもあり、最終的に私だけが残った状態でした。仕事があったことで新しい仲間も入ってきてくれて、今の取締役もその一人です。知り合いの紹介や、当時はハローワークでコンピューター関連の募集をかけると最先端のイメージも重なりそれなりに応募はありました。中には興味半分の人もいたので出入りが早くなることもありました。創業して10年ぐらい経った頃にようやく少しずつ従業員も定着していったように感じます。会社が組織としてもそれらしくなったのだと思っています。
私たちのこだわり
先生と呼ばれる責任感と「ありがとう、その笑顔のために」が原動力
社是にある『ありがとう、その笑顔のために』、この言葉があったから続けてこられたのと思っています。その当時、パソコンインストラクターというのは国家資格でもなく、先生と名乗ってしまえば先生と呼ばれてしまいます。今でこそITパスポートなど資格がたくさんありますが、当時は情報処理技術者試験くらいしかパソコンに関する知識や技能を計るものがありませんでした。私には、パソコンを教えるための資格も無かったのですが、教室を開講すると、「ありがとう」「会社ですごく褒められた」「これができて本当に助かった」という言葉をいただき、非常に嬉しく思ったことを覚えています。ただ内心としては、少しパソコン操作が出来る程度で先生と呼ばせてしまった。「先生」という呼び名に恥じないようにこの道を歩んでいこうと固く決意しました。
商売を始めてから気付かされるという点では、起業家精神を持つ人などの創業塾で創業の苦労やデメリットを聞かされていたら、絶対に会社は作っていなかったと思います。無知だったからこそできた起業だと思います。実践と行動が私の強みを生かしたスタイルです。いくら知識があってもその知識を実践で試さなければ何も起こりません。
事業を拡大していく時に、もう駄目だと思ったことは何度もありました。私一人の給与であればどうにでもなりますが、一緒に働くスタッフのことを考え、多角化や事業の拡大を常に考えながら行動していました。会社のビジョンと中長期の事業計画などを作らなければいけないことは分かっていても、当時の経営者が掲げていた内容は、夢をそのまま語っているように感じていました。10年先に獲得したい10億円よりも、明日の5万円をどう稼ぐのか…視野が狭いと言われればそれまでですが、その時はそれが精一杯の現実でした。
先見の明ではなく、プラス思考と感性派で臆せずチャレンジするから今がある
ある程度余裕が出てきても、ハングリー精神はありました。これで全て安心、ということは本当にありえません。手を抜いたら会社は一瞬で無くなってしまいます。大手企業でも一瞬にして経営方針の違いで会社がおかしくなってしまうところもあります。どの企業も安泰ということはないと思っています。手を抜かないと表現しましたが、自分のやるべきこと、やれることは全部やり切るということです。今の事業も周りからは、先見の明がある、と言われますがそこは全く違います。10個やった事業のうち1個が当たっただけと考えています。あくまで結果論でしかありません。
恐怖心もなく、プラス思考と感性で動くところが今の私であり、会社が存続できている理由だと思っています。そのため人の何倍も挑戦と失敗をしていると自負しています。課題となるのは、後継者や私の右腕の育成です。このまま自分の手腕に頼った経営を続けることは、事業の継続や成長を止めかねないと感じています。
弊社には営業部門は存在していません。今の事業の柱は、教育部門、専門学校、プロメトリックの運営管理(テストセンター)になります。HP制作やシステムフォローはお客さんの紹介案件が殆どで、パンフレット制作やシステム開発は減ってきています。新型コロナウィルスの影響で試験会場運営や専門学校に影響が出ている点と、ミャンマーはコロナ禍と内紛クーデターもあり動けない状況のため、スリランカに託しています。
パソコンを介した教育事業は、外国の方への教育、PCを使った試験会場の運営管理にシフトしています。パソコンと教育は今後もふくめ外せない組み合わせです。ただ、デバイスや通信技術など進化の移り変わりで、今までリアルの対面方式だったものがオンライン化していき、教育分野も非対面型に変わっていっています。
外国人を対象にした専門学校とアフターコロナの教育の進化
専門学校も当初は外国人を対象にしたものではありませんでした。教育事業も2000年ごろの国策でIT普及に国家予算を注いだことでインターネットなどのインフラ整備が一気に進み、パソコンやスマートフォンなどが広まっていきました。予算がついたことで、創業2~3年目の会社がパソコン教室を立ち上げられ、そこから行政の仕事までいただけました。当時のIT普及は、森喜朗総理であり今の事業の根幹と成長を後ろ支えいただいたので感謝しかありません。
ただ、国家予算の中の3年が終わってしまうと仕事がゼロになりました。自分たちで生徒を集めるために自身で専門学校を作ってしまえば学生の募集ができると思い始めました。ただ、専門的に何を学ばせるかで県内に競合もあったので、定員の半分を留学生も可能にして始めてみました。1期生は、スリランカ4人が入学し、その後も中国・韓国・ベトナム・ネパールと1期目の口コミでスリランカの方も翌年になるとまた入学してくださいました。留学生30万人計画で、専門学校の留学生比率も解除となり、日本人の募集を止めて授業は小学生に教えるような基礎的な日本語での授業を始めました。口コミを中心に広まり、なんと募集も掛けずに学生が集まるようになっていきました。ただ新型コロナウィルス禍でここ数年が転換期になると思っています。コロナの影響で留学生の数は激減しており、終息までの何年かは非常に厳しい経営を強いられると思っています。ただ…「ピンチはチャンス」このタイミングで、今まで後回しになっていたオンラインにシフトしていくことに挑戦します。今後はオンライン専用のカリキュラムやコンテンツの構築に力を注ぎます。オンライン授業は録画で簡単に済むと思われがちですが、アシスタントやディレクション業務もできないと成立しません。撮影スペースや機材の準備もそうで、顧客価値の提供でスペックを出さないと満足は得られません。仕組み化できれば個人事業でやられている方を支援することも出来ます。教える側をサポートする新たなビジネスも視野に入れています。
学ぶ人は、前向きな人です。後ろ向きな人は学びに来ません。学ぶ人の夢を叶えるお手伝いをすることが使命だと考えています。日本は経済の発展と反比例するように倫理・道徳が衰退していくような所もあって、良いところを年々見失っているように感じます。教育を通じて日本の良い所を少しでも多く残せればと思っています。留学生を相手にしているので日本人の良さを感じる場面が多くあります。私たちは日々当たり前のように掃除をしますが、留学生の母国では、掃除はお仕事であり対価の発生する作業という認識だったりするのです。国によって捉え方の違いはありますが、留学生の95%以上が日本で仕事をしたいと考えています。日本らしさや自国との違いを知らないままに日本企業に就職すると、本人にも採用企業様にも不満が出てくるのは当然です。そのようなことから、当校の留学生には教育の一環として掃除や先生のお手伝いなどにも積極的に参加してもらっています。
また、教育事業においては、ハイエンドと呼ばれる教授や博士号をもつ専門家の指導であったり、カリキュラムの中に高度な素養や教育を入れて差別化していく必要性を感じています。ここでしか会えない、学べない、聞けないことをこれからも追求し続けないと、生き残れないと思っています。
会社の運営と管理体制について
3ヶ月に1回は、各営業所が参加する会議をおこなっています。売上や実績報告と今後の方向性を発表する場です。違う部署同士での情報共有の場という側面も持っています。全体としては年に1回実施し、働きやすい環境作りをメインに意見を言えるようにしています。
スタッフのやる気スイッチを点火すること、見極めることがリーダーの役割であり責任です。人となりを理解することは重要で、話をさせる、できる環境作りを大切にしています。半期に一度は、社長自らが個人面談をおこないます。現場の把握もできますし、動き出しが遅れている人にスイッチを入れてあげること、人財を育てることが目的になっています。
創業者としてやってきたことに後悔もなく、私の個性だと思っています。しかし、違う人が同じ方法でやっても決して同じ結果にはなりません。平準化することと、基準と指針を設けることで、誰が跡継ぎになるかは別として、会社としての向かうべき道を明確にしていきたいと思っています。
企業として存在価値を示すこと。県内にも立派な会社が多数ありますが、真似をして、同じことを自社へ落とし込んでも同じように浸透する訳ではありません。自社独特のオンリーワンを構築するしか企業の存在価値を示すことも生き残ることもできないと思っています。
会社や従業員向けに行動規範(クレド)のようなものを作ることも模索しています。その意義もそうですし経営方針が意味するところと連動していなければなりません。社員全員に浸透させることが大切なんです。
社是の『ありがとう、その笑顔のために』をさらに深く自社へ根付かせていければと思っています。
先生と呼ばれる責任感と「ありがとう、その笑顔のために」が原動力
社是にある『ありがとう、その笑顔のために』、この言葉があったから続けてこられたのと思っています。その当時、パソコンインストラクターというのは国家資格でもなく、先生と名乗ってしまえば先生と呼ばれてしまいます。今でこそITパスポートなど資格がたくさんありますが、当時は情報処理技術者試験くらいしかパソコンに関する知識や技能を計るものがありませんでした。私には、パソコンを教えるための資格も無かったのですが、教室を開講すると、「ありがとう」「会社ですごく褒められた」「これができて本当に助かった」という言葉をいただき、非常に嬉しく思ったことを覚えています。ただ内心としては、少しパソコン操作が出来る程度で先生と呼ばせてしまった。「先生」という呼び名に恥じないようにこの道を歩んでいこうと固く決意しました。
商売を始めてから気付かされるという点では、起業家精神を持つ人などの創業塾で創業の苦労やデメリットを聞かされていたら、絶対に会社は作っていなかったと思います。無知だったからこそできた起業だと思います。実践と行動が私の強みを生かしたスタイルです。いくら知識があってもその知識を実践で試さなければ何も起こりません。
事業を拡大していく時に、もう駄目だと思ったことは何度もありました。私一人の給与であればどうにでもなりますが、一緒に働くスタッフのことを考え、多角化や事業の拡大を常に考えながら行動していました。会社のビジョンと中長期の事業計画などを作らなければいけないことは分かっていても、当時の経営者が掲げていた内容は、夢をそのまま語っているように感じていました。10年先に獲得したい10億円よりも、明日の5万円をどう稼ぐのか…視野が狭いと言われればそれまでですが、その時はそれが精一杯の現実でした。
先見の明ではなく、プラス思考と感性派で臆せずチャレンジするから今がある
ある程度余裕が出てきても、ハングリー精神はありました。これで全て安心、ということは本当にありえません。手を抜いたら会社は一瞬で無くなってしまいます。大手企業でも一瞬にして経営方針の違いで会社がおかしくなってしまうところもあります。どの企業も安泰ということはないと思っています。手を抜かないと表現しましたが、自分のやるべきこと、やれることは全部やり切るということです。今の事業も周りからは、先見の明がある、と言われますがそこは全く違います。10個やった事業のうち1個が当たっただけと考えています。あくまで結果論でしかありません。
恐怖心もなく、プラス思考と感性で動くところが今の私であり、会社が存続できている理由だと思っています。そのため人の何倍も挑戦と失敗をしていると自負しています。課題となるのは、後継者や私の右腕の育成です。このまま自分の手腕に頼った経営を続けることは、事業の継続や成長を止めかねないと感じています。
弊社には営業部門は存在していません。今の事業の柱は、教育部門、専門学校、プロメトリックの運営管理(テストセンター)になります。HP制作やシステムフォローはお客さんの紹介案件が殆どで、パンフレット制作やシステム開発は減ってきています。新型コロナウィルスの影響で試験会場運営や専門学校に影響が出ている点と、ミャンマーはコロナ禍と内紛クーデターもあり動けない状況のため、スリランカに託しています。
パソコンを介した教育事業は、外国の方への教育、PCを使った試験会場の運営管理にシフトしています。パソコンと教育は今後もふくめ外せない組み合わせです。ただ、デバイスや通信技術など進化の移り変わりで、今までリアルの対面方式だったものがオンライン化していき、教育分野も非対面型に変わっていっています。
外国人を対象にした専門学校とアフターコロナの教育の進化
専門学校も当初は外国人を対象にしたものではありませんでした。教育事業も2000年ごろの国策でIT普及に国家予算を注いだことでインターネットなどのインフラ整備が一気に進み、パソコンやスマートフォンなどが広まっていきました。予算がついたことで、創業2~3年目の会社がパソコン教室を立ち上げられ、そこから行政の仕事までいただけました。当時のIT普及は、森喜朗総理であり今の事業の根幹と成長を後ろ支えいただいたので感謝しかありません。
ただ、国家予算の中の3年が終わってしまうと仕事がゼロになりました。自分たちで生徒を集めるために自身で専門学校を作ってしまえば学生の募集ができると思い始めました。ただ、専門的に何を学ばせるかで県内に競合もあったので、定員の半分を留学生も可能にして始めてみました。1期生は、スリランカ4人が入学し、その後も中国・韓国・ベトナム・ネパールと1期目の口コミでスリランカの方も翌年になるとまた入学してくださいました。留学生30万人計画で、専門学校の留学生比率も解除となり、日本人の募集を止めて授業は小学生に教えるような基礎的な日本語での授業を始めました。口コミを中心に広まり、なんと募集も掛けずに学生が集まるようになっていきました。ただ新型コロナウィルス禍でここ数年が転換期になると思っています。コロナの影響で留学生の数は激減しており、終息までの何年かは非常に厳しい経営を強いられると思っています。ただ…「ピンチはチャンス」このタイミングで、今まで後回しになっていたオンラインにシフトしていくことに挑戦します。今後はオンライン専用のカリキュラムやコンテンツの構築に力を注ぎます。オンライン授業は録画で簡単に済むと思われがちですが、アシスタントやディレクション業務もできないと成立しません。撮影スペースや機材の準備もそうで、顧客価値の提供でスペックを出さないと満足は得られません。仕組み化できれば個人事業でやられている方を支援することも出来ます。教える側をサポートする新たなビジネスも視野に入れています。
学ぶ人は、前向きな人です。後ろ向きな人は学びに来ません。学ぶ人の夢を叶えるお手伝いをすることが使命だと考えています。日本は経済の発展と反比例するように倫理・道徳が衰退していくような所もあって、良いところを年々見失っているように感じます。教育を通じて日本の良い所を少しでも多く残せればと思っています。留学生を相手にしているので日本人の良さを感じる場面が多くあります。私たちは日々当たり前のように掃除をしますが、留学生の母国では、掃除はお仕事であり対価の発生する作業という認識だったりするのです。国によって捉え方の違いはありますが、留学生の95%以上が日本で仕事をしたいと考えています。日本らしさや自国との違いを知らないままに日本企業に就職すると、本人にも採用企業様にも不満が出てくるのは当然です。そのようなことから、当校の留学生には教育の一環として掃除や先生のお手伝いなどにも積極的に参加してもらっています。
また、教育事業においては、ハイエンドと呼ばれる教授や博士号をもつ専門家の指導であったり、カリキュラムの中に高度な素養や教育を入れて差別化していく必要性を感じています。ここでしか会えない、学べない、聞けないことをこれからも追求し続けないと、生き残れないと思っています。
会社の運営と管理体制について
3ヶ月に1回は、各営業所が参加する会議をおこなっています。売上や実績報告と今後の方向性を発表する場です。違う部署同士での情報共有の場という側面も持っています。全体としては年に1回実施し、働きやすい環境作りをメインに意見を言えるようにしています。
スタッフのやる気スイッチを点火すること、見極めることがリーダーの役割であり責任です。人となりを理解することは重要で、話をさせる、できる環境作りを大切にしています。半期に一度は、社長自らが個人面談をおこないます。現場の把握もできますし、動き出しが遅れている人にスイッチを入れてあげること、人財を育てることが目的になっています。
創業者としてやってきたことに後悔もなく、私の個性だと思っています。しかし、違う人が同じ方法でやっても決して同じ結果にはなりません。平準化することと、基準と指針を設けることで、誰が跡継ぎになるかは別として、会社としての向かうべき道を明確にしていきたいと思っています。
企業として存在価値を示すこと。県内にも立派な会社が多数ありますが、真似をして、同じことを自社へ落とし込んでも同じように浸透する訳ではありません。自社独特のオンリーワンを構築するしか企業の存在価値を示すことも生き残ることもできないと思っています。
会社や従業員向けに行動規範(クレド)のようなものを作ることも模索しています。その意義もそうですし経営方針が意味するところと連動していなければなりません。社員全員に浸透させることが大切なんです。
社是の『ありがとう、その笑顔のために』をさらに深く自社へ根付かせていければと思っています。
ツグナラ専門家による紹介
担当専門家:株式会社サクシード 株式会社サクシードの詳細
行動力のあるパワフルな社長です。常にチャレンジ精神を持つことを忘れず、明るく前向きな姿勢で、今後も県内オンリーワンの会社として進化していくでしょう。
会社概要
社名 | オリオンコンピュータ株式会社 |
創立年 | 1998年 |
代表者名 | 代表取締役 石川 尚子 |
URL |
https://orion-p98.co.jp/
|
本社住所 |
〒320-0851 |
事業内容 | <教育事業> 委託職業訓練 企業・団体パソコン講座 パソコン個人授業 各種検定試験 <システム開発事業> パッケージソフト開発 受注開発 営・保守 <制作事業> ホームページ制作 CGI・PHPを使用したWebシステム構築 ショップサイト構築 DTP制作 PCメンテナンス ネットワーク構築 <会場運営事業> プロメトリック宇都宮駅東会場 川越駅東口会場 大宮駅東口会場 山形駅東口会場 ピアソンVUE 宇都宮テストセンター <食品事業> 宅配牛乳販売(メイトー牛乳) |
公開日:2021/10/10 (2023/01/25修正)
※本記事の内容および所属名称は2023年1月現在のものです。現在の情報とは異なる場合があります。
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