岐阜・高山市
岐阜 ・ 高山市
引継ぎ実績あり
設計開発から
有限会社内藤工業
自ら考え「絶え間なきチャレンジ」を続ける職人を導く成長と挑戦の場
経営理念
絶え間なきチャレンジ
技術屋集団としての自覚を持ち「ものづくりの情熱」「ものづくりの楽しさ」を持ち続けます。
代表者メッセージ
当社は創業以来、試作部品や多品種少量生産を軸に、金属加工品の生産活動を続けてまいりました。特に試作部品では、ほぼ全ての商品を加工治具から製作しております。
近年、開発スピードは、ますます迅速な対応が要求され、精度向上も求められています。また、技術力は、短期間で習得できる物ではなく、熟練工の知恵と経験が必要となります。長年にわたり培った技術と、最新の加工機や測定器を使用する事で、お客様に満足して頂ける商品を納入させて頂いております。
弊社の加工技術を次世代に継承し、ものづくりの未来に貢献できる企業でありたいと願っております。
今後も皆様のご教授とともに、更なる向上を目指し、本物の技術屋集団として、お客様のご期待に添えるよう努力してまいります。
代表取締役 渡瀬 友悟
私たちのこだわり
父と伯父の2名により「内藤溶接」として創業
弊社は1978年に内藤溶接として創業しました。創業者は、父の渡瀬克彦と伯父の内藤重光です。兄弟の仲は良く、父が営業と現場を担当し、伯父は経理と経営を受け持つことで、それぞれの得意分野を活かし、支え合いながら経営していたようです。
しかし、創業したての個人事業に製造を委託するクライアントは業界的には少なく、飛び込みの依頼は取引の継続には結びつきにくいことから、創業当初はとても苦労したと聞いています。受注獲得が難しい中で、父は地道に取引先を開拓し、一つ一つの取引でノウハウを蓄積しながら、少しずつ取引先との信頼関係を築いていきました。
1988年には有限会社内藤工業を設立し、伯父が代表取締役に就任しました。しかし経営は依然として厳しく、役員報酬もとれないような厳しい状況が続きました。
幼少期から先代に後継者として指名され育つ
私は、先代の弟である渡瀬克彦の次男に生まれ、親族には私のほかに男が2人いましたが、伯父はなぜか甥の私を後継者にしたいと考えていたようでした。幼いころから「あなたが後を継ぎなさい」と伯父に言われ育ち、会社を継ぐことを当たり前のこととして受けとめ、「社長になったら好きなことをしたい」と思いながら過ごしていました。
高校卒業後には、後継者として修業に出るか、大学で製造への学びを深めようと考えていましたが、先代から「私の下でしっかり勉強しなさい」と言われ、卒業後すぐに弊社に入社することとなりました。
私の入社当時の社員数は10名ほどで、こじんまりした町工場という雰囲気でした。営業や製造の役割を担当していた父によって取引先との関係性が築かれ、最新鋭の機械を導入されるなど、仕事の量や質が変わり始めており、今思えば弊社にとっての過渡期にあたる時期だったのだろうと思います。
後継者という肩書に苦しんだ過去が代表としての心構えにつながる
入社後は、伯父や父の指導の下で現場、営業などの全ての仕事に取り組みました。クレーム処理の仕事では、理不尽な思いをすることも多くありましたが、弊社との関係性が疎遠である取引先ほど厳しい対応をされ、得意先は私が後継者だからと大目に見てくれているということに気づき、恥ずかしく、情けなくなったこともありました。家業でも縁故でもない会社に就職した方は、後継者の自分とは違い、他人の集団の中で大変な思いや苦労をしています。後継者の私は、家族や社員のフォローがある中でぬるま湯に浸かっているような状態であり、ふがいなさに何度も落ち込みました。
あまりにも仕事が辛い時期には、一度だけ先輩に「会社を辞めたい」と相談したこともありました。社内にはベテランの職人が多くいましたが、私を若造だと軽んじる人は一人もおらず、厳しくも家庭的なあたたかさがあり、先輩からは「この道しかないよ、もうちょっと頑張ってみて!」と背中を押してもらいました。
改めて、先代、社員、顧問、そしてお客様などの周囲の人に恵まれていることに気づき、「この人たちを裏切りたくない」という一心で、恩返しするために「懸命に仕事に取り組まなくては」と奮起することができました。
しばらくは、覚えていたくないほど苦痛な時期が続きましたが、責任を他人に転嫁するのではなく、原因を探り、解決に向けて行動できるように心がけました。この姿勢が、のちの経営者としての心構えとして自身に備わっていったように感じています。
そして2020年には、32歳で代表取締役に就任しました。先代は、かねてから70歳になったタイミングでの事業承継を構想しており、計画通りに実施した形です。事業承継を見据えて伴走期間を設け、覚えるべきことや取り組むことに集中できたため、スムーズな事業承継ができました。
フレキシブルな対応で顧客ニーズに応える
弊社は創業以来、車両機械部品、産業機械部品の製造を主業としており、大きなビジネスモデルの変化はありません。ここ15年ほどの間には、創業から50年にわたり蓄積された加工治具のノウハウと技術力、材料の特性への知見が機械化によって効率化され、受注の幅とスピード感あるフレキシブルな対応が強みとなっています。
弊社の技術的な強みとしては、複雑な可動機構の設計開発、装置部品から各種器具・治具部品まで、材質を問わず1個から対応ができる点です。小ロット発注や特殊な形状・素材の案件を嫌厭する企業は多いですが、弊社ではできる限り対応することで、困ったときに頼れる会社となれるように努めています。他社に依頼すると工数が多くなり、図面・発注書を何枚も必要とする場合でも、弊社では設計から製造まで一貫して対応できるので、不要な手間や時間をかけずに済みます。熟練の職人技で、試作品の単品製造や既存品の機能向上、コスト面との兼ね合いなど、お客様の目線に立った柔軟なサービス提供や最適な提案をすることができています。
社員が大切な家族と過ごす時間を何よりも大事にしたい
現在、弊社の社員数は20名です。私の入社時と比較すると社員数はちょうど倍となり、弊社が安定成長している証でもあると思っています。年齢層としては、先代の時代から働いているベテラン社員の世代と、若手社員の世代とで2極化しており、30代半ばの私がちょうど橋渡しのような立ち位置となっています。
経営者の立場としては、平等な目線で社員を評価し、誰もが納得する正当な対価を支払いたいと思っているので、あえて会社主催の社内イベントは開催していません。以前は職場とプライベートとの距離感が近く、社員との交流会もありましたが、私としては、限りある時間の使い方は社員自身に選んでもらいたいと思っています。会社の節目は大事にしつつ、社員が大切な家族と過ごすための正当な対価の支給やワークライフバランス・安全整備等の労働環境の改善を継続して行い続ける所存です。
自ら考え、挑戦を続ける職人を育てる
弊社の経営理念は「絶え間なきチャレンジ」であり、私が策定しました。社員には、挑戦して成長することを何より大切にしてほしいとの考えから、仕事が100あるとすれば、利益を追求する仕事は51あれば会社は成長し続けます。残りの49の仕事は、職人個人の成長の為、挑戦して頂きたいと考えております。
弊社の考える「成長」とは、自分で考え挑戦することであり、途中経過とゴールだけ設定し、製造のプロセスは各職人に任せています。完成形は同じでも、職人それぞれに技術の引き出しがあり、それぞれのアプローチで取り組んでもらっています。
製品個別のマニュアル化は、特定のユーザー様や大量生産の予定のある製品等で実施しております。技術の平均化としてすべての製品にマニュアルをつくるよりも、要点をおさえた共通ルールの元、職人が自分の仕事として向き合い試行錯誤することで、画一的な手法を教え込まれるよりも、より自分の一部として技術が身につけられるからです。
そして試作にあたっては、私自身も現場経験を積んだ職人として対応しています。依頼が寄せられ、初めて挑戦する案件も中にはありますが、図面を見れば製作の可不可、製作工程はすぐ判断できるので、お客様をお待たせせずにスピード感をもって取り組むことができます。
会社としての成長は職人のやりがいにあり、職人には、成功するかわからないような、少し難しい仕事にもぜひ挑戦していってほしいと思っています。もし個人として失敗をしても、職人には「挑戦をした」という経験と度胸、自信が生まれます。仮に個人として失敗したとしても、多くの事に挑戦を続ける職人集団の為、個の経験、技能を束ねて向合う事により、必ず成功致します。収益は自分の仕事の先にあるものなので、挑戦する分だけ期待値が上がっていきます。これからも全員が少しずつ背伸びできるような案件に取り組み、成長を目指したいと思っています。
雇用創出により地域社会へ貢献
業界全体の課題としては、大手企業の影響力が大きいことや、価格決定権が依頼者側にある事も御座います。さらに、地域間の最低賃金の格差により、賃金の高いエリアに人財が流出していることから、人口の一極集中により、地方の競争力がなくなってしまうことに大きな危機感を抱いています。弊社では良質な雇用機会を創出し、地元・Uターン就職の促進につなげることで、地域社会への貢献ができればと考えています。職人やお客様などの周りの「人」にスポットライトがあたるように、裏方で頑張り続けたいと思っています。
元請け企業をM&Aにて承継し再構築により改善
弊社の取引先は100社以上あり、入れ替わりながら20社ほどから常時受注が寄せられています。そのうち経営のコアとなるような主要取引先は4社あり、取引先拡大の一手として、核となる取引先をもう1社増やし、5社にできたらと思っています。
経営面での取り組みとしては、2022年に後継者不在の元請け企業1社をM&Aにて引き継ぎました。先方は、サプライチェーンでは川上側の企業であり、事業拡大を目指す上で押さえておきたい取引先でした。事前調査を行ったのちに承継を申し出て、先方には決算書を開示してもらいましたが、経営状態は想定よりも悪く、このままでは資金繰りがショートしそうな状態でした。しかし早急に対処すれば改善できる数字であり、売り手企業には、財務回りの現状を率直に伝えたことで危機感を持ってもらえたらしく、アプローチから半年で統合することができました。
承継後は、経営体制の再構築と内製化を進めましたが、想定よりも早く改善に成功し、事業を軌道に乗せることができました。先方の現場は提案力不足が弱点でしたが、M&A後には新しい業務を入れつつ、弊社の提案力を活かせるようにすることで、相乗効果を発揮することができています。先方の会社のポテンシャルと、これまでの関係性があったからこそできた、自然な形での承継だったと思っています。
社員が誇りをもって働ける会社づくりを
今後も、売上規模や人員の拡大よりも、社員の家族や周りの人が自慢したくなるような職人を育てていきたいと思っています。会社としてはあくまでも裏方に徹し、依頼主様などのお客様が利益をあげられるように注力することで、常にご要望に応じた最適なサービスを提供できる、便利な会社となりたいと思っています。取引量と関係性を、より深化させていければと思います。
父と伯父の2名により「内藤溶接」として創業
弊社は1978年に内藤溶接として創業しました。創業者は、父の渡瀬克彦と伯父の内藤重光です。兄弟の仲は良く、父が営業と現場を担当し、伯父は経理と経営を受け持つことで、それぞれの得意分野を活かし、支え合いながら経営していたようです。
しかし、創業したての個人事業に製造を委託するクライアントは業界的には少なく、飛び込みの依頼は取引の継続には結びつきにくいことから、創業当初はとても苦労したと聞いています。受注獲得が難しい中で、父は地道に取引先を開拓し、一つ一つの取引でノウハウを蓄積しながら、少しずつ取引先との信頼関係を築いていきました。
1988年には有限会社内藤工業を設立し、伯父が代表取締役に就任しました。しかし経営は依然として厳しく、役員報酬もとれないような厳しい状況が続きました。
幼少期から先代に後継者として指名され育つ
私は、先代の弟である渡瀬克彦の次男に生まれ、親族には私のほかに男が2人いましたが、伯父はなぜか甥の私を後継者にしたいと考えていたようでした。幼いころから「あなたが後を継ぎなさい」と伯父に言われ育ち、会社を継ぐことを当たり前のこととして受けとめ、「社長になったら好きなことをしたい」と思いながら過ごしていました。
高校卒業後には、後継者として修業に出るか、大学で製造への学びを深めようと考えていましたが、先代から「私の下でしっかり勉強しなさい」と言われ、卒業後すぐに弊社に入社することとなりました。
私の入社当時の社員数は10名ほどで、こじんまりした町工場という雰囲気でした。営業や製造の役割を担当していた父によって取引先との関係性が築かれ、最新鋭の機械を導入されるなど、仕事の量や質が変わり始めており、今思えば弊社にとっての過渡期にあたる時期だったのだろうと思います。
後継者という肩書に苦しんだ過去が代表としての心構えにつながる
入社後は、伯父や父の指導の下で現場、営業などの全ての仕事に取り組みました。クレーム処理の仕事では、理不尽な思いをすることも多くありましたが、弊社との関係性が疎遠である取引先ほど厳しい対応をされ、得意先は私が後継者だからと大目に見てくれているということに気づき、恥ずかしく、情けなくなったこともありました。家業でも縁故でもない会社に就職した方は、後継者の自分とは違い、他人の集団の中で大変な思いや苦労をしています。後継者の私は、家族や社員のフォローがある中でぬるま湯に浸かっているような状態であり、ふがいなさに何度も落ち込みました。
あまりにも仕事が辛い時期には、一度だけ先輩に「会社を辞めたい」と相談したこともありました。社内にはベテランの職人が多くいましたが、私を若造だと軽んじる人は一人もおらず、厳しくも家庭的なあたたかさがあり、先輩からは「この道しかないよ、もうちょっと頑張ってみて!」と背中を押してもらいました。
改めて、先代、社員、顧問、そしてお客様などの周囲の人に恵まれていることに気づき、「この人たちを裏切りたくない」という一心で、恩返しするために「懸命に仕事に取り組まなくては」と奮起することができました。
しばらくは、覚えていたくないほど苦痛な時期が続きましたが、責任を他人に転嫁するのではなく、原因を探り、解決に向けて行動できるように心がけました。この姿勢が、のちの経営者としての心構えとして自身に備わっていったように感じています。
そして2020年には、32歳で代表取締役に就任しました。先代は、かねてから70歳になったタイミングでの事業承継を構想しており、計画通りに実施した形です。事業承継を見据えて伴走期間を設け、覚えるべきことや取り組むことに集中できたため、スムーズな事業承継ができました。
フレキシブルな対応で顧客ニーズに応える
弊社は創業以来、車両機械部品、産業機械部品の製造を主業としており、大きなビジネスモデルの変化はありません。ここ15年ほどの間には、創業から50年にわたり蓄積された加工治具のノウハウと技術力、材料の特性への知見が機械化によって効率化され、受注の幅とスピード感あるフレキシブルな対応が強みとなっています。
弊社の技術的な強みとしては、複雑な可動機構の設計開発、装置部品から各種器具・治具部品まで、材質を問わず1個から対応ができる点です。小ロット発注や特殊な形状・素材の案件を嫌厭する企業は多いですが、弊社ではできる限り対応することで、困ったときに頼れる会社となれるように努めています。他社に依頼すると工数が多くなり、図面・発注書を何枚も必要とする場合でも、弊社では設計から製造まで一貫して対応できるので、不要な手間や時間をかけずに済みます。熟練の職人技で、試作品の単品製造や既存品の機能向上、コスト面との兼ね合いなど、お客様の目線に立った柔軟なサービス提供や最適な提案をすることができています。
社員が大切な家族と過ごす時間を何よりも大事にしたい
現在、弊社の社員数は20名です。私の入社時と比較すると社員数はちょうど倍となり、弊社が安定成長している証でもあると思っています。年齢層としては、先代の時代から働いているベテラン社員の世代と、若手社員の世代とで2極化しており、30代半ばの私がちょうど橋渡しのような立ち位置となっています。
経営者の立場としては、平等な目線で社員を評価し、誰もが納得する正当な対価を支払いたいと思っているので、あえて会社主催の社内イベントは開催していません。以前は職場とプライベートとの距離感が近く、社員との交流会もありましたが、私としては、限りある時間の使い方は社員自身に選んでもらいたいと思っています。会社の節目は大事にしつつ、社員が大切な家族と過ごすための正当な対価の支給やワークライフバランス・安全整備等の労働環境の改善を継続して行い続ける所存です。
自ら考え、挑戦を続ける職人を育てる
弊社の経営理念は「絶え間なきチャレンジ」であり、私が策定しました。社員には、挑戦して成長することを何より大切にしてほしいとの考えから、仕事が100あるとすれば、利益を追求する仕事は51あれば会社は成長し続けます。残りの49の仕事は、職人個人の成長の為、挑戦して頂きたいと考えております。
弊社の考える「成長」とは、自分で考え挑戦することであり、途中経過とゴールだけ設定し、製造のプロセスは各職人に任せています。完成形は同じでも、職人それぞれに技術の引き出しがあり、それぞれのアプローチで取り組んでもらっています。
製品個別のマニュアル化は、特定のユーザー様や大量生産の予定のある製品等で実施しております。技術の平均化としてすべての製品にマニュアルをつくるよりも、要点をおさえた共通ルールの元、職人が自分の仕事として向き合い試行錯誤することで、画一的な手法を教え込まれるよりも、より自分の一部として技術が身につけられるからです。
そして試作にあたっては、私自身も現場経験を積んだ職人として対応しています。依頼が寄せられ、初めて挑戦する案件も中にはありますが、図面を見れば製作の可不可、製作工程はすぐ判断できるので、お客様をお待たせせずにスピード感をもって取り組むことができます。
会社としての成長は職人のやりがいにあり、職人には、成功するかわからないような、少し難しい仕事にもぜひ挑戦していってほしいと思っています。もし個人として失敗をしても、職人には「挑戦をした」という経験と度胸、自信が生まれます。仮に個人として失敗したとしても、多くの事に挑戦を続ける職人集団の為、個の経験、技能を束ねて向合う事により、必ず成功致します。収益は自分の仕事の先にあるものなので、挑戦する分だけ期待値が上がっていきます。これからも全員が少しずつ背伸びできるような案件に取り組み、成長を目指したいと思っています。
雇用創出により地域社会へ貢献
業界全体の課題としては、大手企業の影響力が大きいことや、価格決定権が依頼者側にある事も御座います。さらに、地域間の最低賃金の格差により、賃金の高いエリアに人財が流出していることから、人口の一極集中により、地方の競争力がなくなってしまうことに大きな危機感を抱いています。弊社では良質な雇用機会を創出し、地元・Uターン就職の促進につなげることで、地域社会への貢献ができればと考えています。職人やお客様などの周りの「人」にスポットライトがあたるように、裏方で頑張り続けたいと思っています。
元請け企業をM&Aにて承継し再構築により改善
弊社の取引先は100社以上あり、入れ替わりながら20社ほどから常時受注が寄せられています。そのうち経営のコアとなるような主要取引先は4社あり、取引先拡大の一手として、核となる取引先をもう1社増やし、5社にできたらと思っています。
経営面での取り組みとしては、2022年に後継者不在の元請け企業1社をM&Aにて引き継ぎました。先方は、サプライチェーンでは川上側の企業であり、事業拡大を目指す上で押さえておきたい取引先でした。事前調査を行ったのちに承継を申し出て、先方には決算書を開示してもらいましたが、経営状態は想定よりも悪く、このままでは資金繰りがショートしそうな状態でした。しかし早急に対処すれば改善できる数字であり、売り手企業には、財務回りの現状を率直に伝えたことで危機感を持ってもらえたらしく、アプローチから半年で統合することができました。
承継後は、経営体制の再構築と内製化を進めましたが、想定よりも早く改善に成功し、事業を軌道に乗せることができました。先方の現場は提案力不足が弱点でしたが、M&A後には新しい業務を入れつつ、弊社の提案力を活かせるようにすることで、相乗効果を発揮することができています。先方の会社のポテンシャルと、これまでの関係性があったからこそできた、自然な形での承継だったと思っています。
社員が誇りをもって働ける会社づくりを
今後も、売上規模や人員の拡大よりも、社員の家族や周りの人が自慢したくなるような職人を育てていきたいと思っています。会社としてはあくまでも裏方に徹し、依頼主様などのお客様が利益をあげられるように注力することで、常にご要望に応じた最適なサービスを提供できる、便利な会社となりたいと思っています。取引量と関係性を、より深化させていければと思います。
会社概要
社名 | 有限会社内藤工業 |
創立年 | 1988年 |
代表者名 | 代表取締役 渡瀬 友悟 |
資本金 | 800万円 |
URL |
https://naitoco.co.jp/
|
本社住所 |
〒509-3505 |
事業内容 | 車両機械部品の製造 産業機械部品の製造 精密板金加工 製缶加工 |
会社沿革
1978年 | 内藤重光・渡瀬克彦、両名にて内藤溶接設立 |
1988年 | 有限会社内藤工業設立 代表取締役内藤重光就任 |
1991年 | 現在地に工場新築 |
1996年 | CNCタレットパンチプレス機の導入 |
2003年 | レーザー加工機(2.5kw.)の導入 |
2004年 | 工場の増床 |
2013年 | レーザー溶接機(400W)の導入 |
2014年 | レーザー加工機(4.5kw.)の更新 |
2015年 | 工場の増床 |
2016年 | 工場の増床 |
2019年 | レーザー加工機(2.5kw.)の増設 |
2020年 | 三次元測定器の導入 代表取締役 内藤重光 退任 代表取締役 渡瀬友悟 就任 |
公開日:2024/08/06
※本記事の内容および所属名称は2024年8月現在のものです。現在の情報とは異なる場合があります。
この企業を見た方はこれらのツグナラ企業も見ています
ツグナラ企業へのお問い合わせ
本フォームからのお問い合わせ内容はツグナラ運営事務局でお預かりし、有意義と判断した問い合わせのみツグナラ企業にお渡ししています。営業目的の問い合わせ、同一送信者による大量送付はお控えください。