
岐阜・高山市
岐阜 ・ 高山市
パッケージ・
株式会社なべしま
縁の下の力持ちとしてお客様に寄り添うことで地域経済の活性化に寄与
経営理念
アメニティーな社会の創造に役立つ
一、人に社会に必要とされる商売であること
一、常に新しいものを創造し挑戦し続けること
一、社会に安心と安全を届けること
代表者メッセージ

弊社は、お客様の欲しいものを伺い、ぴったりの商品をお探しして提供する「購買代理業」です。
お客様のご要望にはスピーディーにお応えするだけでなく、プロとして「お客様の期待を超えるご提案」も弊社の強みです。
地域の企業様からも信頼されるパートナーとして、私たちの仕事ぶりを認めていただいています。今後も、「縁の下の力持ち」として飛騨高山の発展をサポートしていきます。
代表取締役 鍋島 晃典

私たちのこだわり
明治時代にお茶の仕入れ販売で事業をスタート
弊社のルーツは1908年に創業した「鍋島甚三郎商店」です。「鍋島甚三郎商店」を創業した甚三郎の父は、行商としてお客様が欲しい商品を調達し、販売を行っていました。お客様のご要望に応え、人の役に立つ父の姿を見て育った甚三郎が、高山で緑茶を販売するお店として「鍋島甚三郎商店」を創業しました。その頃は、緑茶が一般的に飲まれるようになった時代で、大八車に茶を積んで一軒ずつ訪問し、販売を行ったと聞いています。地域のお客様を一人、また一人と増やしていき、少しずつ事業を成長させていきました。
1927年には、遠縁の親戚が火薬商を廃業する際に、火薬商の許可を得た上で事業を引き継ぎ、火薬や鉄砲の弾の取扱いを開始しました。第二次世界大戦後、高度経済期に入ると、工業化や都市化が急速に進んでいきます。ダム建設などの土木工事が盛んに行われるようになり、掘削の際などに火薬が広く使われるようになったことで、業績を大きく伸ばしました。その後、1965年に「株式会社鍋島甚三郎商店」と法人化した頃からは、梱包用バンド、緩衝材などの包装資材を取り扱うパッケージ事業にも進出しました。
さらに、1976年には「株式会社鍋島商店」に社名変更します。事業の多角化や取引の増大に伴い、成長戦略の一環として分社化が行われ、1990年に株式会社鍋島商店の販売部門が独立し設立されたのが弊社、株式会社なべしまです。現在は、包装資材・梱包材事業を主軸に、産業火薬、催事レンタルの3本柱で事業を展開しています。企業間の商売、卸売が中心のBtoBであるゆえ、一般の方々にはあまり知られていない会社ではありますが、創業からの歴史が長く、取引先は約400社と地元企業の購買担当者であれば誰でも弊社を知っていただけるほどになりました。地域のお客様の困りごとやご要望などの「声」をもとに成り立つ事業として捉え、地域の方々に感謝しながら本業を通じて地域社会に貢献し続けたいと考えています。
婿養子となり株式会社なべしまに入社
私は愛知県出身で、大学卒業後はトヨタ自動車の販売店に就職しました。自動車の購入は、人生において重要な買い物の一つだと思います。そのため、お客様と接する中で信頼関係を築くことを何よりも大切にしていました。お客様のニーズに合った商品を見極めて提案することで、「あなたから買いたい」と購入していただくことも多くあり、そのたびに大きな喜びとやりがいを感じていました。
弊社への入社のきっかけは結婚です。妻の実家が代々鍋島商店を経営していたため、28歳で婿入りし子会社の株式会社なべしまに入社しました。周囲からの厳しい目やプレッシャーを感じたこともありましたが、「他の社員の3倍以上働いて、業績を良くしたら認めてもらえるのでは」と考え、目の前の仕事に懸命に取り組みました。
入社してから約1年半は化成品の営業を担当しました。スーパーの食品トレーやラップ、POPシール、レシートなどを取り扱っていて、地域で最多の店舗数を誇るスーパーマーケットへの納品を私1人で行いました。前職は自動車の販売でしたが、販売業そのものが好きだったため新しい環境にもスムーズに順応することができたように思います。経験を生かしながら、お客様のニーズに応じたサービスを提供することにやりがいを感じて取り組みましたが、ほとんど休むこともなく、早く業務を覚えようと、とにかく毎日必死でした。
改めて振り返ってみると、事業について深く理解して自分のものにすることができ、そして社員との円滑な意思疎通や取引先との信頼関係の構築ができた貴重な経験だったと思います。
葬儀事業の撤退、経営者としてのスピード感ある意思決定の必要性
入社して1年半が経過した2003年に、義父から「苦戦しているから社長を替わってほしい」と、立ち上げから8年ほどの葬儀部門の社長を任されました。葬儀部門では、事業立ち上げ時に主流だった寺院や公民館で行う葬儀の設営や施行を手がけていました。しかし、世の中の流れがセレモニーホールで葬儀を行う形式へと移行していき業績に大きな影響を及ぼしていました。地域の寺院すべてをまわって営業するなど必死で尽力しましたが、どうしても立て直すことができませんでした。
そして、グループ全体で葬儀形態を再構築していくなど業態変更への投資はしないと決断し、葬儀部門を清算することになりました。
社員は5名いましたが、4名をリストラせざるを得ませんでした。リストラする社員に土下座したり、株主に謝罪したりと、申し訳ないという気持ちでいっぱいでした。社員を辞めさせるということは、経営者として絶対にしてはいけないことだととても反省しています。
この経験から、業績が悪化してから手を打つのではなく、事前に対策を講じる重要性を学びました。採算が合わない事業や撤退すべき部分を迅速に判断するようになり、同じ過ちを繰り返さないよう努めています。
株式会社なべしまの再生
2006年に取締役として株式会社なべしまに戻り、社長だった義父のもとで経営に携わるようになりました。その後半年間専務を務め、2008年12月に代表取締役に就任しました。
当時、弊社は危機的な状況を迎えていました。もともと、公共工事での掘削時に使用する産業火薬の受注が多く、火薬事業が利益の4割ほどを占めていました。しかし、高速道路の開発が落ち着いたことなどから掘削工事が減少し、火薬事業の需要が激減していました。火薬事業に依存しているビジネスモデルだったため、外部環境の変化のあおりを受けている状態でした。
そのような時に、縁あって松井会計事務所(現:MMPCコンサルティンググループ)のマーケティング塾に入塾しました。入塾した理由は、喫緊の課題である「火薬からの脱却」のため、新たなビジネスモデルの構築が必要だと考えたからです。他にも経営計画書の策定など、企業としての方針やビジョンなど道しるべとなるようなものがない中で経営をしている現状そのものを改革していかなくては企業存続できず社員を守れないと思ってのことでした。
先生のアドバイスをもとに、ビジネスモデルについては「火薬の需要が回復するまで、パッケージ事業に注力し、レンタル事業と合わせて収益の柱にする」という方針を定めました。
今、振り返ってみてもこの経営方針の見直しはとてもいいタイミングでした。「前と同じことをやり続ける」という老舗企業の大きな転換期だったと思います。食品衛生用品の販売強化と催事レンタル事業に注力していきましたが、特に大きく変化させたのが催事レンタル事業です。もともと縁日やイベントで使用される綿菓子機などの道具やテーブルなどを「貸すこと」のみを行っていましたが、材料の仕入れから作成方法のレクチャーなど「トータルサポート」の形態に変化させました。結果として、このことが他社との差別化にもなり、地域でも「なべしまにお願いすれば間違いない」と高い評価をいただけるようになりました。
私が就任したのは期の途中で、大赤字でしたが、ビジネスモデルの転換が功を奏したことにより再生することができました。次の期以降は一貫して黒字経営を維持し、現在に至ります。
人件費アップ&ボーナス支給宣言
以前ボーナス支給は業績のいい期のみ出す方針でしたが、私が社長に就任してからは「ボーナス支給宣言」をして、ボーナス支給と毎年の昇給を約束しています。社員一人ひとりがかけがえのない「人財」であるため、ともに未来を築くための長期的な視点に基づいた報酬制度です。社員には年2回の賞与を支給し、毎年給与を約2%ずつ昇給しています。
それらを行うためには、当然ですが安定的な利益確保が必要です。経営計画を策定する際には、まず人件費を優先的に確保し、残りの収益や経費を考えた上で取扱商品やサービスの価格設定を行います。
また、私自身も現場の一員としてパッケージやレンタル事業の営業活動に取り組み、取引先を着実に増やし続けています。社長就任後に取引先を50社増やし、現在全部で400社にまで拡大しています。
その一方で、採算が合わない取引や商品に関しては撤退やカットも行っています。お客様はビジネスパートナーです。対等な立場で双方が気持ちよく取引できる関係性を築き、地域の総力をもって地域経済の活性化を図りたいと考えています。弊社と考え方が合わない先様に対しては、弊社の代わりになる会社を紹介すれば良いと社員にも伝えています。
朝礼後はまず団欒タイムで絆を深める
私が社長に就任してからは、完全なる社員ファーストで、待遇の改善や働きやすい職場環境を提供し、社員の意見を最大限尊重しています。就任前と比較して、社内の雰囲気も明るく変化しました。弊社では、朝礼後にコーヒータイムを設けています。和やかな雰囲気の中で、社員同士での会話を楽しみます。役職を超えた交流もできるので、社内のつながりを感じられる場となっています。社員の家族構成やお子さんの進学状況などもお互いに把握していて、自然と気にかけあうこともできるようになりました。
業務では、配達などの一人で行う業務も多いですが、皆でシェアする文化を醸成していることで自然と助け合いや情報共有が進み、チームとしての連携が強化されています。その結果、業務の効率化だけでなく、社員同士の信頼関係も深まっています。
また、社員たちが会社のことを居心地のいい環境と思ってくれるからか、離職率が低いことも特徴です。10〜20年勤続する社員も多い一方で、近年は若手の採用も積極的に進めています。特に30代の社員を多く採用し、50~60代のベテラン社員からの業務引き継ぎを進行しており、3〜5年かけて徐々に移行していく計画です。
各部門においても、増員しても経営がプラスになるようなビジネスモデルを構築しながら、人財育成と業務継承を進めています。
お客様への感謝は日頃の業務でお示しする
弊社の取り組みの中で、お客様へ誠実な対応をもって日頃の感謝をお伝えしていくことをなによりも大切にしています。具体的には以下の3つです。
まず1つ目が、「スピーディーな配達」です。基本的には注文を受けたその日に配達します。ライバルは同業他社ではなく、ネット販売です。また、工場や飲食店、スーパーなどのお客様の在庫が切れればお客様の業務に大きな支障が出てしまいます。どこよりも早くお届けするために、在庫を切らさないことを徹底しています。
2つ目に、「正直な経営」です。取扱商品の価格は変動がありますが、値上げが必要な場合は適切に対応し、その後、価格が下がる際には必ず値下げを行います。他社の中には価格を据え置く場合もありますが、私たちは価格の透明性を重視しています。
3つ目は、「アナログ対応」です。IT化が進む現代においても、お客様対応を合理化することなく、私自身や社員は、はがきやお礼状をこまめに書くことを徹底しています。感謝の気持ちを丁寧に伝えることで、お客様との良好な関係を築けると考えています。また、お客様が困ったときに、真っ先に私たちの顔を思い浮かべていただける存在になりたいと願っています。
また、私は社会教育団体である倫理法人会で20年以上にわたり学び続けてきました。倫理法人会が提唱する、経営者自身の心の在り方が企業の成功や繁栄に直結するという「心の経営」の考え方に深く共感しています。特に、弊社のような中小企業の業績は、97%が社長の心の在り方や実力であると考え、学びを実践しています。会社の実力を県内トップクラスに高めることを目指し、ビジネスモデルの確立だけでなく、社員教育にも力を入れています。
黒字経営を維持するためには、事業運営だけでなく、組織としての実力向上も重要だと考えています。
地域経済の活性化を支えたい
今後も各部門で「小さな分野でのNo.1」を増やし続けることを目指します。各部門で特化した強みを作り出すことで、独自の価値を提供し、競争力を高めようという方針です。そして、地域のニーズに応えながら、地域密着型のビジネスを着実に拡大していきます。
弊社の業務は、目立たない裏方の役割が中心です。しかし、今後も変わらず「縁の下の力持ち」として、地道にお客様に寄り添い続けたいと考えています。お客様の業績向上に貢献するためにも、安価で品質の高い包装資材を供給するなどの着実なサポートを続けていきます。
取引先の活性化を支援することで、弊社にも良い影響がもたらされると考えています。お客様と共に成長しながら、永続的な企業を目指し、その取り組みを通じて地域経済の活性化に貢献していきたいと考えています。
また、自社の事業承継にあたっては、後継者が負担を感じることなくスムーズに経営を引き継げるよう、シンプルで整理された状態で渡すことを目指しています。
事業承継はまだまだ先の話ではありますが、未来の経営を託す後継者に対しては、適切なサポートや指導を行うとともに、会社全体が円滑に移行できるよう努めていきたいと思います。
明治時代にお茶の仕入れ販売で事業をスタート
弊社のルーツは1908年に創業した「鍋島甚三郎商店」です。「鍋島甚三郎商店」を創業した甚三郎の父は、行商としてお客様が欲しい商品を調達し、販売を行っていました。お客様のご要望に応え、人の役に立つ父の姿を見て育った甚三郎が、高山で緑茶を販売するお店として「鍋島甚三郎商店」を創業しました。その頃は、緑茶が一般的に飲まれるようになった時代で、大八車に茶を積んで一軒ずつ訪問し、販売を行ったと聞いています。地域のお客様を一人、また一人と増やしていき、少しずつ事業を成長させていきました。
1927年には、遠縁の親戚が火薬商を廃業する際に、火薬商の許可を得た上で事業を引き継ぎ、火薬や鉄砲の弾の取扱いを開始しました。第二次世界大戦後、高度経済期に入ると、工業化や都市化が急速に進んでいきます。ダム建設などの土木工事が盛んに行われるようになり、掘削の際などに火薬が広く使われるようになったことで、業績を大きく伸ばしました。その後、1965年に「株式会社鍋島甚三郎商店」と法人化した頃からは、梱包用バンド、緩衝材などの包装資材を取り扱うパッケージ事業にも進出しました。
さらに、1976年には「株式会社鍋島商店」に社名変更します。事業の多角化や取引の増大に伴い、成長戦略の一環として分社化が行われ、1990年に株式会社鍋島商店の販売部門が独立し設立されたのが弊社、株式会社なべしまです。現在は、包装資材・梱包材事業を主軸に、産業火薬、催事レンタルの3本柱で事業を展開しています。企業間の商売、卸売が中心のBtoBであるゆえ、一般の方々にはあまり知られていない会社ではありますが、創業からの歴史が長く、取引先は約400社と地元企業の購買担当者であれば誰でも弊社を知っていただけるほどになりました。地域のお客様の困りごとやご要望などの「声」をもとに成り立つ事業として捉え、地域の方々に感謝しながら本業を通じて地域社会に貢献し続けたいと考えています。
婿養子となり株式会社なべしまに入社
私は愛知県出身で、大学卒業後はトヨタ自動車の販売店に就職しました。自動車の購入は、人生において重要な買い物の一つだと思います。そのため、お客様と接する中で信頼関係を築くことを何よりも大切にしていました。お客様のニーズに合った商品を見極めて提案することで、「あなたから買いたい」と購入していただくことも多くあり、そのたびに大きな喜びとやりがいを感じていました。
弊社への入社のきっかけは結婚です。妻の実家が代々鍋島商店を経営していたため、28歳で婿入りし子会社の株式会社なべしまに入社しました。周囲からの厳しい目やプレッシャーを感じたこともありましたが、「他の社員の3倍以上働いて、業績を良くしたら認めてもらえるのでは」と考え、目の前の仕事に懸命に取り組みました。
入社してから約1年半は化成品の営業を担当しました。スーパーの食品トレーやラップ、POPシール、レシートなどを取り扱っていて、地域で最多の店舗数を誇るスーパーマーケットへの納品を私1人で行いました。前職は自動車の販売でしたが、販売業そのものが好きだったため新しい環境にもスムーズに順応することができたように思います。経験を生かしながら、お客様のニーズに応じたサービスを提供することにやりがいを感じて取り組みましたが、ほとんど休むこともなく、早く業務を覚えようと、とにかく毎日必死でした。
改めて振り返ってみると、事業について深く理解して自分のものにすることができ、そして社員との円滑な意思疎通や取引先との信頼関係の構築ができた貴重な経験だったと思います。
葬儀事業の撤退、経営者としてのスピード感ある意思決定の必要性
入社して1年半が経過した2003年に、義父から「苦戦しているから社長を替わってほしい」と、立ち上げから8年ほどの葬儀部門の社長を任されました。葬儀部門では、事業立ち上げ時に主流だった寺院や公民館で行う葬儀の設営や施行を手がけていました。しかし、世の中の流れがセレモニーホールで葬儀を行う形式へと移行していき業績に大きな影響を及ぼしていました。地域の寺院すべてをまわって営業するなど必死で尽力しましたが、どうしても立て直すことができませんでした。
そして、グループ全体で葬儀形態を再構築していくなど業態変更への投資はしないと決断し、葬儀部門を清算することになりました。
社員は5名いましたが、4名をリストラせざるを得ませんでした。リストラする社員に土下座したり、株主に謝罪したりと、申し訳ないという気持ちでいっぱいでした。社員を辞めさせるということは、経営者として絶対にしてはいけないことだととても反省しています。
この経験から、業績が悪化してから手を打つのではなく、事前に対策を講じる重要性を学びました。採算が合わない事業や撤退すべき部分を迅速に判断するようになり、同じ過ちを繰り返さないよう努めています。
株式会社なべしまの再生
2006年に取締役として株式会社なべしまに戻り、社長だった義父のもとで経営に携わるようになりました。その後半年間専務を務め、2008年12月に代表取締役に就任しました。
当時、弊社は危機的な状況を迎えていました。もともと、公共工事での掘削時に使用する産業火薬の受注が多く、火薬事業が利益の4割ほどを占めていました。しかし、高速道路の開発が落ち着いたことなどから掘削工事が減少し、火薬事業の需要が激減していました。火薬事業に依存しているビジネスモデルだったため、外部環境の変化のあおりを受けている状態でした。
そのような時に、縁あって松井会計事務所(現:MMPCコンサルティンググループ)のマーケティング塾に入塾しました。入塾した理由は、喫緊の課題である「火薬からの脱却」のため、新たなビジネスモデルの構築が必要だと考えたからです。他にも経営計画書の策定など、企業としての方針やビジョンなど道しるべとなるようなものがない中で経営をしている現状そのものを改革していかなくては企業存続できず社員を守れないと思ってのことでした。
先生のアドバイスをもとに、ビジネスモデルについては「火薬の需要が回復するまで、パッケージ事業に注力し、レンタル事業と合わせて収益の柱にする」という方針を定めました。
今、振り返ってみてもこの経営方針の見直しはとてもいいタイミングでした。「前と同じことをやり続ける」という老舗企業の大きな転換期だったと思います。食品衛生用品の販売強化と催事レンタル事業に注力していきましたが、特に大きく変化させたのが催事レンタル事業です。もともと縁日やイベントで使用される綿菓子機などの道具やテーブルなどを「貸すこと」のみを行っていましたが、材料の仕入れから作成方法のレクチャーなど「トータルサポート」の形態に変化させました。結果として、このことが他社との差別化にもなり、地域でも「なべしまにお願いすれば間違いない」と高い評価をいただけるようになりました。
私が就任したのは期の途中で、大赤字でしたが、ビジネスモデルの転換が功を奏したことにより再生することができました。次の期以降は一貫して黒字経営を維持し、現在に至ります。
人件費アップ&ボーナス支給宣言
以前ボーナス支給は業績のいい期のみ出す方針でしたが、私が社長に就任してからは「ボーナス支給宣言」をして、ボーナス支給と毎年の昇給を約束しています。社員一人ひとりがかけがえのない「人財」であるため、ともに未来を築くための長期的な視点に基づいた報酬制度です。社員には年2回の賞与を支給し、毎年給与を約2%ずつ昇給しています。
それらを行うためには、当然ですが安定的な利益確保が必要です。経営計画を策定する際には、まず人件費を優先的に確保し、残りの収益や経費を考えた上で取扱商品やサービスの価格設定を行います。
また、私自身も現場の一員としてパッケージやレンタル事業の営業活動に取り組み、取引先を着実に増やし続けています。社長就任後に取引先を50社増やし、現在全部で400社にまで拡大しています。
その一方で、採算が合わない取引や商品に関しては撤退やカットも行っています。お客様はビジネスパートナーです。対等な立場で双方が気持ちよく取引できる関係性を築き、地域の総力をもって地域経済の活性化を図りたいと考えています。弊社と考え方が合わない先様に対しては、弊社の代わりになる会社を紹介すれば良いと社員にも伝えています。
朝礼後はまず団欒タイムで絆を深める
私が社長に就任してからは、完全なる社員ファーストで、待遇の改善や働きやすい職場環境を提供し、社員の意見を最大限尊重しています。就任前と比較して、社内の雰囲気も明るく変化しました。弊社では、朝礼後にコーヒータイムを設けています。和やかな雰囲気の中で、社員同士での会話を楽しみます。役職を超えた交流もできるので、社内のつながりを感じられる場となっています。社員の家族構成やお子さんの進学状況などもお互いに把握していて、自然と気にかけあうこともできるようになりました。
業務では、配達などの一人で行う業務も多いですが、皆でシェアする文化を醸成していることで自然と助け合いや情報共有が進み、チームとしての連携が強化されています。その結果、業務の効率化だけでなく、社員同士の信頼関係も深まっています。
また、社員たちが会社のことを居心地のいい環境と思ってくれるからか、離職率が低いことも特徴です。10〜20年勤続する社員も多い一方で、近年は若手の採用も積極的に進めています。特に30代の社員を多く採用し、50~60代のベテラン社員からの業務引き継ぎを進行しており、3〜5年かけて徐々に移行していく計画です。
各部門においても、増員しても経営がプラスになるようなビジネスモデルを構築しながら、人財育成と業務継承を進めています。
お客様への感謝は日頃の業務でお示しする
弊社の取り組みの中で、お客様へ誠実な対応をもって日頃の感謝をお伝えしていくことをなによりも大切にしています。具体的には以下の3つです。
まず1つ目が、「スピーディーな配達」です。基本的には注文を受けたその日に配達します。ライバルは同業他社ではなく、ネット販売です。また、工場や飲食店、スーパーなどのお客様の在庫が切れればお客様の業務に大きな支障が出てしまいます。どこよりも早くお届けするために、在庫を切らさないことを徹底しています。
2つ目に、「正直な経営」です。取扱商品の価格は変動がありますが、値上げが必要な場合は適切に対応し、その後、価格が下がる際には必ず値下げを行います。他社の中には価格を据え置く場合もありますが、私たちは価格の透明性を重視しています。
3つ目は、「アナログ対応」です。IT化が進む現代においても、お客様対応を合理化することなく、私自身や社員は、はがきやお礼状をこまめに書くことを徹底しています。感謝の気持ちを丁寧に伝えることで、お客様との良好な関係を築けると考えています。また、お客様が困ったときに、真っ先に私たちの顔を思い浮かべていただける存在になりたいと願っています。
また、私は社会教育団体である倫理法人会で20年以上にわたり学び続けてきました。倫理法人会が提唱する、経営者自身の心の在り方が企業の成功や繁栄に直結するという「心の経営」の考え方に深く共感しています。特に、弊社のような中小企業の業績は、97%が社長の心の在り方や実力であると考え、学びを実践しています。会社の実力を県内トップクラスに高めることを目指し、ビジネスモデルの確立だけでなく、社員教育にも力を入れています。
黒字経営を維持するためには、事業運営だけでなく、組織としての実力向上も重要だと考えています。
地域経済の活性化を支えたい
今後も各部門で「小さな分野でのNo.1」を増やし続けることを目指します。各部門で特化した強みを作り出すことで、独自の価値を提供し、競争力を高めようという方針です。そして、地域のニーズに応えながら、地域密着型のビジネスを着実に拡大していきます。
弊社の業務は、目立たない裏方の役割が中心です。しかし、今後も変わらず「縁の下の力持ち」として、地道にお客様に寄り添い続けたいと考えています。お客様の業績向上に貢献するためにも、安価で品質の高い包装資材を供給するなどの着実なサポートを続けていきます。
取引先の活性化を支援することで、弊社にも良い影響がもたらされると考えています。お客様と共に成長しながら、永続的な企業を目指し、その取り組みを通じて地域経済の活性化に貢献していきたいと考えています。
また、自社の事業承継にあたっては、後継者が負担を感じることなくスムーズに経営を引き継げるよう、シンプルで整理された状態で渡すことを目指しています。
事業承継はまだまだ先の話ではありますが、未来の経営を託す後継者に対しては、適切なサポートや指導を行うとともに、会社全体が円滑に移行できるよう努めていきたいと思います。
会社概要
社名 | 株式会社なべしま |
創立年 | 1908年 |
代表者名 | 代表取締役 鍋島 晃典 |
資本金 | 3,500万円 |
URL |
https://www.nabesima.co.jp/nabeshima/
|
本社住所 |
〒506-0045 |
事業内容 | 火薬関連製品や包装資材などを販売する会社 |
関連会社 |
会社沿革
1908年 | 高山市で「鍋島甚三郎商店」を創業 |
1927年 | 鉄砲、産業火薬類の販売営業を開始 |
1965年 | 「株式会社鍋島甚三郎商店」に法人化 |
1976年 | 「株式会社鍋島商店」に社名変更 |
1977年 | アンホ爆薬の製造を開始 |
1990年 | 株式会社鍋島商店の販売部門を独立し「株式会社なべしま」を設立 |
2005年 | 株式会社なべしまのお茶部門を独立し、「株式会社なべしま銘茶」を設立 株式会社なべしま本社を現在の赤保木町へ移転 |
公開日:2025/04/15
※本記事の内容および所属名称は2025年4月現在のものです。現在の情報とは異なる場合があります。
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