神奈川・川崎市高津区
神奈川 ・ 川崎市
精密部品製造に
三田工機株式会社
一職人として、経営者として、川崎のものづくりを盛り上げていきたい
経営理念
「終わりなきものづくりへの挑戦」
- 丁寧なものづくりを通じて新しい価値を創造し、高い品質の製品をお客様に提供します。
- お客様の課題解決を考え行動し、一歩先をいく企業で在り続けます。
- 高品質・耐久性の高い製品を製作・提供することにより省エネで環境に配慮します。
- 互いを尊重し多様性を活かした少数精鋭の組織で、ものづくりを楽しみます。
代表者メッセージ
業して六十余年、先々代、先代と受け継がれてきたバイト(刃物)製作から始まり精密治具等品種を増やしてまいりました。
今後も精度にこだわり、技術に挑戦し、「困った時の三田工機」と言われる会社で在りたいとの想いを胸にお客様の声に応えられる「ものづくり」を行ってまいります。
代表取締役社長 三田村 宏宣
私たちのこだわり
大手企業入社後まもなく、父からの要請で家業に従事
三田工機の前身は、私の祖父が創業した三田村工業所です。1962年に法人化した際に三田工機と改名しました。名字は三田村なのに、なぜ「村」を取って三田工機なのかと、初対面の方にはいつも疑問を持たれます。創業者である祖父、そして二代目である父にも、由来を訊ねる機会もなく、二人が他界したので、未だに謎のままです。
祖父は大手金属素材メーカーで研究開発に従事していて、そこで開発した新素材を基に独立したと聞いています。創業当初は刃物や特殊工具の製作が中心で、父の代から治具・測定具・ゲージ類など製品の幅を広げていきました。
私は、二代目である父の次男です。今でこそ三代目として経営していますが、家業を継ぐことは子供の頃から全く考えたことがありませんでした。理系が得意だったので大学では土木建築を学び、卒業後は大手ゼネコンに入社。大掛かりな都市計画プロジェクトに配属されました。そんな折、父から「家業を継ぐために、川崎に帰ってきてほしい」と呼び戻されました。入社1年も経たないうちのことで、青天の霹靂でした。
退職の意志を伝えると大手ゼネコンからは相当怒られましたし、「こんなことなら、就職する前に話してほしかった」という思いもありました。実は、父は以前から腎臓が悪く、人工透析が必要な身体でした。父はあまり弱音を吐かないタイプの人間だったので、よほど体調が悪かったのだと思います。そのタイミングで声をかけたということは、「いよいよ会社の行く末を具体的に決めないといけない」と決意したのだと思います。ちなみに長男である兄は、アメリカに留学中だったので、私に頼るしかなかったのでしょう。
現場に没頭して腕を磨いた社員時代
1995年に一般社員として三田工機に入社後、30代半ばまでは、毎日現場でものづくりをしていました。それには理由があります。父のカバン持ちのような形で取引先を回っていた時、「三田工機に求めているのは技術。自分の判断で提案と受注ができるようになるまで、現場で腕を磨いてこい」と、異口同音、何人ものお客様に言われたからです。
確かに、取引先の倉庫には三田工機の製品が数多くありました。中には、専用棚を設けているところもあるくらいです。「三田工機の製品と品質には絶大な信頼を寄せられている。私はその要望に応えなければいけない」と、様々な取引先を回っているうちに実感しました。また、身体の弱い父が、取引先を回って現場でも仕事をし、夕方になると疲れた顔で透析に通う姿を目の当たりにしたことで「自分が何とかしないといけない」と、覚悟を決めました。
それからというもの、土日でも深夜でも現場で加工の仕事に没頭しました。残業時間が月に100時間を超えることもざらにありました。現場の職人さんからは「ヒロちゃん」と呼ばれてとても可愛がってもらいました。一方で、若いというだけで、見たこともない工作機械の操作を、説明なしに丸投げされたりと、今考えると無茶振りと思えることも少なからずありました。とはいえ「必要な技術を身につけるために、学ばせてもらっている」という感覚だったので、全く苦ではありませんでした。
職人気質が行き過ぎて、本来ならプログラムが自動で計算して行う加工作業を、図面を見ながら工具の軌跡を電卓で計算し、それに沿わせて加工したりもしていました。遠回りで労力のいるスタイルですが、機械任せにしていると疎かになりがちな技術や知識をとことん磨けた貴重な時期でした。
職人気質が裏目に出て人材危機に。ワンマン経営からの脱却へ
私が代表として社長に就任したのが2009年6月のことでした。経営者として直面したのが採用問題です。職人として積み重ねてきた経験から「自分ができたんだから、誰でもできるはず」「技術が第一。腕は自分で磨くもの」という発想で、社員の自主性に任せていたつもりが、結果としては育成を放棄しているような状態になっていたのだと思います。結果、新入社員が成果を出せずに挫折し、辞めることが続きました。それならばと、気骨がありそうな人材を採用すれば、今度は我が強くて社内で衝突を起こして、また辞めてしまうという状況がしばらく続きました。
ものづくりを行うのは、人です。人なくして、会社は存続できません。そこで、人が定着し、社員がより働きやすくしようと考えました。まず、未経験者を採用して、しっかりと育成する方向に舵を切りました。当然ながら技能と経験が足りないので、現場では私も指導に当たります。業務の質問に答えたり、相談を受けたりしながら積極的に雑談をして情報収集し、個人的に面談をする時の会話のフックにしました。また、一人ひとりの目標や方向性を具体的に決めるシートを社員とともに作成し、視覚化して取り組めるようにしました。加えて、これまで私一人で行っていた採用面接を、複数人で行うことにしました。様々なフィルターを通して人を見ることができ、会話の幅も膨らむので、価値観のミスマッチが減りました。こうした小さな取り組みを積み重ね、社内のコミュニケーションを増やしていったおかげか、ここ数年の社員の定着率は上がっていますし、今年入社した社員に関してはまだ誰も辞めていません。
現在の弊社では、3~4年目の社員が主戦力として活躍してくれています。未経験者を採用するようになると、属人化していた業務を標準化したり、暗黙知を明文化していく必要が出始め、それらを1つ1つ言語化したり、マニュアル化したことで標準化できるようになったことが要因だと思います。
私も含め、いわゆる職人気質の人間は、自分の仕事に対する責任感は人一倍ありますが、人に頼るのが苦手な傾向があります。経営者として守るべき社員がいる以上、職人気質のワンマン経営から、組織経営へ踏み出していくことが責任の1つだと考えられるようになりました。
これまでの弊社に欠けていたのは「組織化・マニュアル化」だったのかもしれません。今は、全く現場経験がない人でも、マニュアルを見ればできる仕事があり、社員の能力に合わせて仕事の幅を柔軟に変えることができるようになりました。その結果、社員それぞれが会社に貢献できているという意識を持てるようになったようで、社内全体の雰囲気も非常に良くなっています。
若手社員の才能をさらに伸ばし、未来にも責任を持ちたい
弊社の若手社員は、素直でものづくりが大好きで、成長の伸びしろを感じています。難しい製品を作るとき、私の元へ積極的に相談に来てくれたり、自分で熟考を重ねて「こうやったら、上手くいきました!」と、嬉しそうな顔で報告してくれたりします。中にはYouTubeで加工方法などを見て、情報収集している社員もいて、「今どき」だと思いつつも、同じ職人として頼もしさを感じています。
私自身、出来上がった製品の品質や外観などを含めて、良いものづくりができたときは心の底から嬉しいです。優れた他社製品を見たときは「もっと良いものを作りたい!」と発奮します。現在では、自分が現場作業をすることは徐々に減り、若手への指導がメインではありますが、社員の成長を感じるのもまた嬉しいものです。仕事として、ただやらされているのではなく「もっと工夫してみよう!」という積極性のある若手社員の姿を見ていると、ものづくりとは、考え方や人生観などを含めた「ひとづくり」の一面もあるのかなとも考えるようになりました。
若手社員の声に耳を傾けるようになってから「カッコイイ作業着を着たい」という要望があることに気づきました。それに応えて2022年に作業着を一新して、ロゴ入りのものに新調したところ、非常に喜んでもらえました。
また、私が川崎市の現役技術・技能職者の匠として「かわさきマイスター」に認定された時は、若手社員が我が事のように喜んでくれたのが印象的でした。
現在は終身雇用の時代ではないと言われていますが、弊社を選んで、働いてくれている社員にはできるだけ長く働いて欲しいと考えています。社員が一生働いていけるような環境を整え、1つでも多く学び、その技術を伸ばしながら働き続けることができる体制にしていければと思っています。
「タカツクラフト」で新たなものづくりに挑戦
ものづくりの企業が多い川崎は、チャレンジングで熱い気概を持った経営者が多く、切磋琢磨できる良い関係が築けています。とりわけ川崎市を含め、行政の支援や協力体制が他の都市とは比べ物にならないほど手厚く、操業環境として非常に良い地域だと感じています。
三田工機は、高津区を中心とした270社ほどの企業が集まる「協同組合高津工友会」に加入しています。また、製造業の若手経営者が中心となってものづくりの輪を広げる「タカツクラフト」の一員でもあります。タカツクラフトでは、研究開発分野や地域社会との繋がりを深めているほか、最近では特に共同受注に力を入れています。
人と同じで、ひとつひとつの会社でできることは限られています。しかし、お互いの得意な分野を活かせば、一社だけでは成し得ないものづくりが可能になります。主従を決めないフラットな関係で、誰かを助けるための課題に取り組むという共同企業体がタカツクラフトです。
このような取り組みは全国各地にありますが、タカツクラフトの特徴は、「つながる」をテーマにお客様の声を聞き、その製品に合わせた開発チームを編成、速やかに量産を見込んだ試作提案を行える点です。同じものづくりをしている周りの仲間にも波及効果が出せる試みなので、弊社にとっても大きなプラスになっています。
同じものづくりをする仲間を増やしていきたい
仲間づくりの一環として、M&Aという選択肢もあるでしょう。しかし私は、M&Aをする、されるという関係に特にこだわりはありません。
M&Aは、時間をお金で買うという発想です。人材育成が軌道に乗る前は、弊社だけでは受注をさばけず、協力企業や仲間に助けてもらって仕上げ加工だけ行っていた時期もありました。「採用でこんなに苦戦するんだったら、後継者のいない会社と合併して、お互いに相乗効果を出せたらいいな」と考えたこともあります。
最近、事業を縮小して一部の製品やサービスを止める会社が多く出ています。ニッチで特殊な製品は、他の会社ですぐに対応できるものではありません。お客様にも「採算が合わなければ、しっかり価格に反映してほしい」と言われています。技術を守り、ものづくりの基盤を支えるためにも、一緒に事業を続けていく仲間として手を組むという未来は大いにあります。そう考えるのは、同じものづくりをする仲間を増やし、川崎をもっともっと盛り上げていきたいからです。
大手企業入社後まもなく、父からの要請で家業に従事
三田工機の前身は、私の祖父が創業した三田村工業所です。1962年に法人化した際に三田工機と改名しました。名字は三田村なのに、なぜ「村」を取って三田工機なのかと、初対面の方にはいつも疑問を持たれます。創業者である祖父、そして二代目である父にも、由来を訊ねる機会もなく、二人が他界したので、未だに謎のままです。
祖父は大手金属素材メーカーで研究開発に従事していて、そこで開発した新素材を基に独立したと聞いています。創業当初は刃物や特殊工具の製作が中心で、父の代から治具・測定具・ゲージ類など製品の幅を広げていきました。
私は、二代目である父の次男です。今でこそ三代目として経営していますが、家業を継ぐことは子供の頃から全く考えたことがありませんでした。理系が得意だったので大学では土木建築を学び、卒業後は大手ゼネコンに入社。大掛かりな都市計画プロジェクトに配属されました。そんな折、父から「家業を継ぐために、川崎に帰ってきてほしい」と呼び戻されました。入社1年も経たないうちのことで、青天の霹靂でした。
退職の意志を伝えると大手ゼネコンからは相当怒られましたし、「こんなことなら、就職する前に話してほしかった」という思いもありました。実は、父は以前から腎臓が悪く、人工透析が必要な身体でした。父はあまり弱音を吐かないタイプの人間だったので、よほど体調が悪かったのだと思います。そのタイミングで声をかけたということは、「いよいよ会社の行く末を具体的に決めないといけない」と決意したのだと思います。ちなみに長男である兄は、アメリカに留学中だったので、私に頼るしかなかったのでしょう。
現場に没頭して腕を磨いた社員時代
1995年に一般社員として三田工機に入社後、30代半ばまでは、毎日現場でものづくりをしていました。それには理由があります。父のカバン持ちのような形で取引先を回っていた時、「三田工機に求めているのは技術。自分の判断で提案と受注ができるようになるまで、現場で腕を磨いてこい」と、異口同音、何人ものお客様に言われたからです。
確かに、取引先の倉庫には三田工機の製品が数多くありました。中には、専用棚を設けているところもあるくらいです。「三田工機の製品と品質には絶大な信頼を寄せられている。私はその要望に応えなければいけない」と、様々な取引先を回っているうちに実感しました。また、身体の弱い父が、取引先を回って現場でも仕事をし、夕方になると疲れた顔で透析に通う姿を目の当たりにしたことで「自分が何とかしないといけない」と、覚悟を決めました。
それからというもの、土日でも深夜でも現場で加工の仕事に没頭しました。残業時間が月に100時間を超えることもざらにありました。現場の職人さんからは「ヒロちゃん」と呼ばれてとても可愛がってもらいました。一方で、若いというだけで、見たこともない工作機械の操作を、説明なしに丸投げされたりと、今考えると無茶振りと思えることも少なからずありました。とはいえ「必要な技術を身につけるために、学ばせてもらっている」という感覚だったので、全く苦ではありませんでした。
職人気質が行き過ぎて、本来ならプログラムが自動で計算して行う加工作業を、図面を見ながら工具の軌跡を電卓で計算し、それに沿わせて加工したりもしていました。遠回りで労力のいるスタイルですが、機械任せにしていると疎かになりがちな技術や知識をとことん磨けた貴重な時期でした。
職人気質が裏目に出て人材危機に。ワンマン経営からの脱却へ
私が代表として社長に就任したのが2009年6月のことでした。経営者として直面したのが採用問題です。職人として積み重ねてきた経験から「自分ができたんだから、誰でもできるはず」「技術が第一。腕は自分で磨くもの」という発想で、社員の自主性に任せていたつもりが、結果としては育成を放棄しているような状態になっていたのだと思います。結果、新入社員が成果を出せずに挫折し、辞めることが続きました。それならばと、気骨がありそうな人材を採用すれば、今度は我が強くて社内で衝突を起こして、また辞めてしまうという状況がしばらく続きました。
ものづくりを行うのは、人です。人なくして、会社は存続できません。そこで、人が定着し、社員がより働きやすくしようと考えました。まず、未経験者を採用して、しっかりと育成する方向に舵を切りました。当然ながら技能と経験が足りないので、現場では私も指導に当たります。業務の質問に答えたり、相談を受けたりしながら積極的に雑談をして情報収集し、個人的に面談をする時の会話のフックにしました。また、一人ひとりの目標や方向性を具体的に決めるシートを社員とともに作成し、視覚化して取り組めるようにしました。加えて、これまで私一人で行っていた採用面接を、複数人で行うことにしました。様々なフィルターを通して人を見ることができ、会話の幅も膨らむので、価値観のミスマッチが減りました。こうした小さな取り組みを積み重ね、社内のコミュニケーションを増やしていったおかげか、ここ数年の社員の定着率は上がっていますし、今年入社した社員に関してはまだ誰も辞めていません。
現在の弊社では、3~4年目の社員が主戦力として活躍してくれています。未経験者を採用するようになると、属人化していた業務を標準化したり、暗黙知を明文化していく必要が出始め、それらを1つ1つ言語化したり、マニュアル化したことで標準化できるようになったことが要因だと思います。
私も含め、いわゆる職人気質の人間は、自分の仕事に対する責任感は人一倍ありますが、人に頼るのが苦手な傾向があります。経営者として守るべき社員がいる以上、職人気質のワンマン経営から、組織経営へ踏み出していくことが責任の1つだと考えられるようになりました。
これまでの弊社に欠けていたのは「組織化・マニュアル化」だったのかもしれません。今は、全く現場経験がない人でも、マニュアルを見ればできる仕事があり、社員の能力に合わせて仕事の幅を柔軟に変えることができるようになりました。その結果、社員それぞれが会社に貢献できているという意識を持てるようになったようで、社内全体の雰囲気も非常に良くなっています。
若手社員の才能をさらに伸ばし、未来にも責任を持ちたい
弊社の若手社員は、素直でものづくりが大好きで、成長の伸びしろを感じています。難しい製品を作るとき、私の元へ積極的に相談に来てくれたり、自分で熟考を重ねて「こうやったら、上手くいきました!」と、嬉しそうな顔で報告してくれたりします。中にはYouTubeで加工方法などを見て、情報収集している社員もいて、「今どき」だと思いつつも、同じ職人として頼もしさを感じています。
私自身、出来上がった製品の品質や外観などを含めて、良いものづくりができたときは心の底から嬉しいです。優れた他社製品を見たときは「もっと良いものを作りたい!」と発奮します。現在では、自分が現場作業をすることは徐々に減り、若手への指導がメインではありますが、社員の成長を感じるのもまた嬉しいものです。仕事として、ただやらされているのではなく「もっと工夫してみよう!」という積極性のある若手社員の姿を見ていると、ものづくりとは、考え方や人生観などを含めた「ひとづくり」の一面もあるのかなとも考えるようになりました。
若手社員の声に耳を傾けるようになってから「カッコイイ作業着を着たい」という要望があることに気づきました。それに応えて2022年に作業着を一新して、ロゴ入りのものに新調したところ、非常に喜んでもらえました。
また、私が川崎市の現役技術・技能職者の匠として「かわさきマイスター」に認定された時は、若手社員が我が事のように喜んでくれたのが印象的でした。
現在は終身雇用の時代ではないと言われていますが、弊社を選んで、働いてくれている社員にはできるだけ長く働いて欲しいと考えています。社員が一生働いていけるような環境を整え、1つでも多く学び、その技術を伸ばしながら働き続けることができる体制にしていければと思っています。
「タカツクラフト」で新たなものづくりに挑戦
ものづくりの企業が多い川崎は、チャレンジングで熱い気概を持った経営者が多く、切磋琢磨できる良い関係が築けています。とりわけ川崎市を含め、行政の支援や協力体制が他の都市とは比べ物にならないほど手厚く、操業環境として非常に良い地域だと感じています。
三田工機は、高津区を中心とした270社ほどの企業が集まる「協同組合高津工友会」に加入しています。また、製造業の若手経営者が中心となってものづくりの輪を広げる「タカツクラフト」の一員でもあります。タカツクラフトでは、研究開発分野や地域社会との繋がりを深めているほか、最近では特に共同受注に力を入れています。
人と同じで、ひとつひとつの会社でできることは限られています。しかし、お互いの得意な分野を活かせば、一社だけでは成し得ないものづくりが可能になります。主従を決めないフラットな関係で、誰かを助けるための課題に取り組むという共同企業体がタカツクラフトです。
このような取り組みは全国各地にありますが、タカツクラフトの特徴は、「つながる」をテーマにお客様の声を聞き、その製品に合わせた開発チームを編成、速やかに量産を見込んだ試作提案を行える点です。同じものづくりをしている周りの仲間にも波及効果が出せる試みなので、弊社にとっても大きなプラスになっています。
同じものづくりをする仲間を増やしていきたい
仲間づくりの一環として、M&Aという選択肢もあるでしょう。しかし私は、M&Aをする、されるという関係に特にこだわりはありません。
M&Aは、時間をお金で買うという発想です。人材育成が軌道に乗る前は、弊社だけでは受注をさばけず、協力企業や仲間に助けてもらって仕上げ加工だけ行っていた時期もありました。「採用でこんなに苦戦するんだったら、後継者のいない会社と合併して、お互いに相乗効果を出せたらいいな」と考えたこともあります。
最近、事業を縮小して一部の製品やサービスを止める会社が多く出ています。ニッチで特殊な製品は、他の会社ですぐに対応できるものではありません。お客様にも「採算が合わなければ、しっかり価格に反映してほしい」と言われています。技術を守り、ものづくりの基盤を支えるためにも、一緒に事業を続けていく仲間として手を組むという未来は大いにあります。そう考えるのは、同じものづくりをする仲間を増やし、川崎をもっともっと盛り上げていきたいからです。
会社概要
社名 | 三田工機株式会社 |
創立年 | 1962年 |
代表者名 | 代表取締役 三田村 宏宣 |
資本金 | 1,200万円 |
URL |
https://mita-kouki.co.jp/
|
本社住所 |
〒213-0015 044-877-0229 |
事業内容 | 一般機械器具製造業 ・特殊切削工具 バイト・総型バイト・ドリル・エンドミル・リーマ・特殊ホルダー (ハイス・超硬・CBN・ダイヤモンドコンパックス) ・精密治工具 センター・ブレード・測定子・各種ゲージ・各種ツメ (各種鋼材・超硬・ダイヤモンドコンパックス) |
会社沿革
1962年 | 特殊工具の個人販売を行っていた三田村工業所を法人組織に改組し、三田工機株式会社を設立 |
1967年 | 川崎市高津区へ工場を新設し、ハイス・超硬の特殊工具の製造開始 |
1978年 | 川崎市企業診断にて優良企業として表彰 |
1982年 | 神奈川県より中小企業優良工場として表彰 |
2007年 | 本社工場 ISO 9001:2000 認証取得 以後 認証更新 |
2013年 | 本社工場 ISO 14001:2004 認証取得 以後 認証更新 |
2021年 | 令和3年度川崎市生産性向上・働き方改革モデル創出事業に採択される |
2022年 | 雑誌「工場管理」2022年10月臨時増刊号 モノづくりデジタル化〝事例〟大全に掲載される |
2022年 | 令和4年度「かわさきマイスター」に代表の三田村が認定される |
三田工機株式会社の経営資源引継ぎ募集情報
人的資本引継ぎ
神奈川県
ものづくりが大好きな人、集まれ。技術をとことん磨ける環境です
公開日:2023/02/15
※本記事の内容および所属名称は2023年2月現在のものです。現在の情報とは異なる場合があります。
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