栃木・宇都宮市
栃木 ・ 宇都宮市
伝統と
有限会社髙林堂
「宮のかりまん」でお馴染みの老舗和菓子屋
経営理念
お客様を大切に、お客様の心を満たす和菓子をつくり、感動を提供する
代表者メッセージ
髙林堂は、栃木県宇都宮市に明治18年に創業以来、「お客様を大切にして、心を満腹にする菓子を作っていきたい」「日常に彩りを提供する菓子をご用意したい」と願いながら、代々お菓子作りに励んで参りました。
これからも代々受け継がれる古き良きものを守りつつ、和菓子というジャンルを越えた新たなる菓子の世界に挑み続けて参ります。
店主 和氣 康匡
先々代(祖父)が「髙林堂」を承継した経緯
弊社は、創業者である「小島家」から先々代(祖父)の和氣勇雄が暖簾を継ぎ、今に至っています。私は先々代(祖父)の代から数えて3代目になります。100年を超える店では記録が残っていないことも多くあり、弊社の場合も和氣家が承継する以前のことは不明確なため、創業年代は弊社の最も古いお菓子である「友志良賀(ともしらが)」が発売された1885年(明治18年)を創業の起点としています。小島家が「髙林堂」を経営していた年代を含めると、実際の創業年はさらに遡るものと考えられます。先々代(祖父)は戦前の1935年(昭和10年)に小島家が営む髙林堂へ修業に入り、戦争から帰還後に独立して「和光」という和菓子店を構えました。しかし髙林堂には後継者がおらず、先々代(祖父)がその腕を見込まれて髙林堂を承継することになりました。
先々代(祖父)から先代(父)への変遷と、和菓子やお客様に囲まれ育った幼少期
先代(父)は、小学校の頃から、登校前と下校後に先々代(祖父)の仕事を手伝い、傍でその技を見て学んでいました。高校を卒業後、外へ修業に行き、一度弊社に戻りましたが、自分の力を試すために再び他の会社へ働きに出ました。先々代(祖父)が体調を崩し、その後すぐに他界したため、先代(父)は弊社に戻り、37歳の時に承継しました。先々代(祖父)は、私が2歳の頃に亡くなったのであまり覚えてはいませんが、職人気質の先々代(祖父)と商人気質の先代(父)との間では、意見のすれ違いが多かったと聞いています。
先代(父)が家の手伝いから家業に馴染んでいったように、私も5歳頃から仕事を手伝うようになり、幼少期からずっと和菓子やお客様に囲まれた生活を送っていました。当時は、本店の1階が店舗と工場で、2階が住まいになっており、本店の出入り口が玄関になっていました。朝になると父や職人の声で目覚め、登下校の際は店舗を通るので、「行ってきます」「ただいま」の前に、お客様への「いらっしゃいませ」を言うのが日課でした。母とお客様の会話では「跡取り」という言葉をよく耳にしていていましたが、先代(父)の後を継いで和菓子屋になりたいとはあまり思っていませんでした。元々食の道を極めていきたいと思っていましたが、和菓子だけではなく板前やラーメン屋、パン屋など様々なものに興味がありました。
三代目の現社長が事業承継を決意したきっかけ
跡取りになろうと決意したのは、中学校の三者面談の時です。私は当時から勉強が苦手で「このままでは、栃木県宇都宮市内のどの高校にも進学することは難しい」と担任から聞いた父が「絶対にお前だけは継がせたくない!」「優秀な長女に継がせる!」と激高したことがきっかけとなって自分の中で後継者としての決心がつき、「俺が継ぐ!」と断言しました。その後は、栃木県宇都宮市内の高校に進学し、サッカーに打ち込みつつ家業を手伝い、日本菓子専門学校を卒業後、東京・自由ヶ丘の「蜂の家」で5年間修業を積みました。
外で修業を積んだのは、生活や家庭の延長にあった“髙林堂”を、一軒の和菓子屋として外の視点から見つめ直してみたいという想いと、“後継者” として育った自身の甘えを断ち切りたいという意志があったからです。親族内承継が行われる場合、後継者は、幼い頃から周囲に期待され、予め用意された役職に就けるのが「当然」だという先入観にとらわれることが多々あります。その慢心が過大評価になってしまえば、「美味しい商品を開発しよう」「良い店づくりをしよう」という意欲も失われてしまうかもしれません。それ故、先代(父)は、修行に送り出してくれたのだと思います。社会の波に揉まれたこの5年間の修行によって、技術面だけでなく精神面も大きく成長し、髙林堂三代目としての土台も盤石になったと実感しています。貴重な経験をさせてくれた先代(父)に心から感謝しています。
和菓子職人としての思い
「和菓子職人」という職業が、将来の担い手となる子どもたちの憧れであり、夢になってほしいと願っています。そのためには、和菓子の伝統を引き継ぎながらも、より多くの人に親しんでもらえるように、常に新しい風を取り入れ続けることが必要です。国内に限らず、海外にも門戸を広げることで様々なエッセンスがブレンドされ、その地域や国に合った新しい和菓子が生み出されるかもしれません。そういった挑戦をし続けることで、和菓子の認知度や和菓子職人の価値が向上し、ゆくゆくは弊社だけでなく和菓子業界全体にその利益が還元されていくはずです。業界総出で取り組み、世代や国を超えた和菓子の発展に期待しています。
私たちのこだわり
高級路線からの方針転換と、「かりまん」の誕生ストーリー
先々代(祖父)の時代は、本店2割と旧上野百貨店8割の売上で推移していました。しかし、栃木県宇都宮市内に百貨店が続々と開店したことで、旧上野百貨店での売上が低迷し、先代(父)は陽東店、西武百貨店、東武百貨店、氏家店、海道店の店舗展開に踏み切ることで経営危機を打破しようと考えました。私が25、6歳の頃、弊社一の大型店である海道店がオープンしました。先代(父)は、私が修行から戻ってきたことで、新たに地盤づくりをしようと意気込んでいたのだと思いますが、売上は期待値を遥かに下回り、非常に苦しい状況が続きました。
そこから脱却するためには高級店というイメージを払拭し、お客様が手に取りやすい価格帯の商品を生み出さねばと考えていました。ある時、固くなった饅頭を揚げている菓子屋が福島県にあると聞き、さっそく現地に食べに行ってみたところ、とても美味しく、“揚げる”という発想を基にした看板商品を開発しようと、約3ヵ月間ほぼ毎日、改良と試食を繰り返しました。そのうち「失敗したかもしれない」と思いながら作った試作品が、予想外に一番美味しく仕上がり、それを微調整しながら商品化まで漕ぎつけることができました。それが現在の「かりまん」です。
当初は、今までにない全く新しい商品だった上、以前の高級路線から、急な方針転換を行ったことで、内部反発もあり、職人7人のうち半数が退職する事態にも陥りました。唯一、副社長(妻)が当時店長を務めていた海道店でのみ、店頭に出すことができました。店長や従業員が、私がつくった「かりまん」への想いを汲んで、試食を通して紹介してくれたことで、口コミであっという間に広まり、試食を始めてから1週間もしないうちに、来店したお客様は必ず「かりまん」を2、3こ購入していくという流れができました。「かりまん」を全店舗に置くようになってからは売上も上がり、さらにテレビで報じられたことで爆発的にヒットして、経営難を脱することができました。今では、売上比率の非常に大きな割合を占める看板商品となりました。ちなみに「かりまん」は、当初「かりんとうまんじゅう」という商品名で出していましたが、試食した友人から「かりまん美味しかった」というメールが届き、イメージにも合っていたため「かりまん」になったという裏話もあります。
私が職人として、熱意を持ってつくり上げた「かりまん」によって、経営危機を乗り越えられましたが、先代(父)が持ち前の商売人気質で店舗展開を行っていたからこそ、シナジーが生まれて事業が拡大し、今の弊社があるのだと感じます。先々代(祖父)にも、先代(父)にも感謝し、「心を満たす和菓子をつくり、お客様を幸せにして、初めてリピートをしてもらえる」という共通の考え方は、今後も引き続き大切にしていきたいです。
新しい領域に挑戦できる社風
本店のある栃木県宇都宮市は、観光地ではないので、近隣のお客様に何回も来てもらえるような、飽きさせない商品づくりを念頭に置いて開発に取り組んでいます。和菓子は、四季折々を伝えるツールでもあるので、季節ごとに多種多彩な和菓子を店頭に並べています。現代は何が売れるかわからない時代だし、お客様によって好みも全く違います。全ての人に受け入れられる和菓子は存在しないし、万人受けする商品の開発に固着するよりも新しい領域に挑戦することに意義があると感じているので、職人には「責任や決定は私がするから、まずは挑戦してみよう」というスタンスで自由に取り組んでもらっています。
弊社は、中長期的な目標に向かって突き進むというよりも、こういった和菓子に向き合った日々の積み重ねでできていると考えています。「和菓子屋だから、和菓子の素材は絶対に入れる」という約束は守ってもらい、美味しい試作品ができたらすぐに商品化しているので、職人たちにやりがいを感じてもらえているかなと思います。「これは違うな、でも面白い」という場合は「もうちょっと工夫してみて」という風に、口は挟むけれど手は出さないようにすることで、アイデアを尊重し、意欲も高めたいという考えです。
弊社にしっかりと還元できる仕事ができれば、働く従業員のためにもなるしビジネスとして成り立つと考えています。これは職人が店主、代表だからこそできることだと思っています。目に見えないことですが、和菓子に対する熱い想いは、お客様に伝わると思っているので、業務中だけでなくプライベートでも常に新商品を作るスタンスで、例えば餃子にソースをかけるなど、新たな発見をしようと挑戦し続けています。お客様の心を満足させて感動を提供できれば、リピートに繋がると思うので、日頃から従業員には「徹底的に一流であれ」と言っています。接客力や技術力の一長一短はお互いに補い合いながら一つの和菓子を丹精を込めてつくり、一つの店をチームでつくり上げていこうと話しています。
和菓子の土台となる餡子(あんこ)も、髙林堂を受け継いだ者としては手の抜けないものの一つで、先々代(祖父)は「餡子は、和菓子屋の生命線だから、自分の店で作りなさい」と話していたそうです。餡子は、同じ生産者の同じ小豆、同じ砂糖の量を用意しても、職人の炊き方次第で全く違う味になります。私も髙林堂で受け継がれているこの餡子の製法が一番美味しいと思っているので、時代に合わせたお菓子を作る場合も餡子の製法だけは絶対に崩さないようにしています。このように核となる部分は保ちながら、四季折々を伝える和菓子の特長を活かして、常に新しいものを発信し続けていきたいと思っています。
和菓子業界の「スーパースター」を生み出したい
和菓子業界の中では、ライバル店としのぎを削り合うよりも、切磋琢磨して和菓子を盛り上げていきたいという気持ちが強くあります。業界全体が活性化すれば和菓子職人の担い手が増えます。「家」「店」という括りだけではなく、一流パティシエのように個人の名前で商品が売れる「スーパースター」を和菓子業界で生み出し、多くの人に和菓子や和菓子職人の存在をPRできる機会を設けることが一番の近道だと考えています。社長に就任した後間もなく海外進出に挑戦したのも、和菓子職人の認知度向上を狙った戦略です。海外で認められ、メディアで取り上げられれば、世界中で和菓子職人の価値も高まり、活躍の場を広げていけるのだと考えています。
和菓子業界が盛り上がることによって、和菓子職人が、次世代を担う子ども達の憧れの職業になれたらと思います。さらに、専門学校の講師をしたり、地域の子どもたちに和菓子作りの体験をしてもらったり、身近なところから和菓子を知ってもらうことも方法の一つだと思います。今は様々なメディア、ツールで海外からの情報を目にする機会も多くなっていますが、今一度和菓子や日本の食文化も見つめ直してもらい、たどり着いた先が髙林堂であり、和菓子であってほしいと願っています。
高級路線からの方針転換と、「かりまん」の誕生ストーリー
先々代(祖父)の時代は、本店2割と旧上野百貨店8割の売上で推移していました。しかし、栃木県宇都宮市内に百貨店が続々と開店したことで、旧上野百貨店での売上が低迷し、先代(父)は陽東店、西武百貨店、東武百貨店、氏家店、海道店の店舗展開に踏み切ることで経営危機を打破しようと考えました。私が25、6歳の頃、弊社一の大型店である海道店がオープンしました。先代(父)は、私が修行から戻ってきたことで、新たに地盤づくりをしようと意気込んでいたのだと思いますが、売上は期待値を遥かに下回り、非常に苦しい状況が続きました。
そこから脱却するためには高級店というイメージを払拭し、お客様が手に取りやすい価格帯の商品を生み出さねばと考えていました。ある時、固くなった饅頭を揚げている菓子屋が福島県にあると聞き、さっそく現地に食べに行ってみたところ、とても美味しく、“揚げる”という発想を基にした看板商品を開発しようと、約3ヵ月間ほぼ毎日、改良と試食を繰り返しました。そのうち「失敗したかもしれない」と思いながら作った試作品が、予想外に一番美味しく仕上がり、それを微調整しながら商品化まで漕ぎつけることができました。それが現在の「かりまん」です。
当初は、今までにない全く新しい商品だった上、以前の高級路線から、急な方針転換を行ったことで、内部反発もあり、職人7人のうち半数が退職する事態にも陥りました。唯一、副社長(妻)が当時店長を務めていた海道店でのみ、店頭に出すことができました。店長や従業員が、私がつくった「かりまん」への想いを汲んで、試食を通して紹介してくれたことで、口コミであっという間に広まり、試食を始めてから1週間もしないうちに、来店したお客様は必ず「かりまん」を2、3こ購入していくという流れができました。「かりまん」を全店舗に置くようになってからは売上も上がり、さらにテレビで報じられたことで爆発的にヒットして、経営難を脱することができました。今では、売上比率の非常に大きな割合を占める看板商品となりました。ちなみに「かりまん」は、当初「かりんとうまんじゅう」という商品名で出していましたが、試食した友人から「かりまん美味しかった」というメールが届き、イメージにも合っていたため「かりまん」になったという裏話もあります。
私が職人として、熱意を持ってつくり上げた「かりまん」によって、経営危機を乗り越えられましたが、先代(父)が持ち前の商売人気質で店舗展開を行っていたからこそ、シナジーが生まれて事業が拡大し、今の弊社があるのだと感じます。先々代(祖父)にも、先代(父)にも感謝し、「心を満たす和菓子をつくり、お客様を幸せにして、初めてリピートをしてもらえる」という共通の考え方は、今後も引き続き大切にしていきたいです。
新しい領域に挑戦できる社風
本店のある栃木県宇都宮市は、観光地ではないので、近隣のお客様に何回も来てもらえるような、飽きさせない商品づくりを念頭に置いて開発に取り組んでいます。和菓子は、四季折々を伝えるツールでもあるので、季節ごとに多種多彩な和菓子を店頭に並べています。現代は何が売れるかわからない時代だし、お客様によって好みも全く違います。全ての人に受け入れられる和菓子は存在しないし、万人受けする商品の開発に固着するよりも新しい領域に挑戦することに意義があると感じているので、職人には「責任や決定は私がするから、まずは挑戦してみよう」というスタンスで自由に取り組んでもらっています。
弊社は、中長期的な目標に向かって突き進むというよりも、こういった和菓子に向き合った日々の積み重ねでできていると考えています。「和菓子屋だから、和菓子の素材は絶対に入れる」という約束は守ってもらい、美味しい試作品ができたらすぐに商品化しているので、職人たちにやりがいを感じてもらえているかなと思います。「これは違うな、でも面白い」という場合は「もうちょっと工夫してみて」という風に、口は挟むけれど手は出さないようにすることで、アイデアを尊重し、意欲も高めたいという考えです。
弊社にしっかりと還元できる仕事ができれば、働く従業員のためにもなるしビジネスとして成り立つと考えています。これは職人が店主、代表だからこそできることだと思っています。目に見えないことですが、和菓子に対する熱い想いは、お客様に伝わると思っているので、業務中だけでなくプライベートでも常に新商品を作るスタンスで、例えば餃子にソースをかけるなど、新たな発見をしようと挑戦し続けています。お客様の心を満足させて感動を提供できれば、リピートに繋がると思うので、日頃から従業員には「徹底的に一流であれ」と言っています。接客力や技術力の一長一短はお互いに補い合いながら一つの和菓子を丹精を込めてつくり、一つの店をチームでつくり上げていこうと話しています。
和菓子の土台となる餡子(あんこ)も、髙林堂を受け継いだ者としては手の抜けないものの一つで、先々代(祖父)は「餡子は、和菓子屋の生命線だから、自分の店で作りなさい」と話していたそうです。餡子は、同じ生産者の同じ小豆、同じ砂糖の量を用意しても、職人の炊き方次第で全く違う味になります。私も髙林堂で受け継がれているこの餡子の製法が一番美味しいと思っているので、時代に合わせたお菓子を作る場合も餡子の製法だけは絶対に崩さないようにしています。このように核となる部分は保ちながら、四季折々を伝える和菓子の特長を活かして、常に新しいものを発信し続けていきたいと思っています。
和菓子業界の「スーパースター」を生み出したい
和菓子業界の中では、ライバル店としのぎを削り合うよりも、切磋琢磨して和菓子を盛り上げていきたいという気持ちが強くあります。業界全体が活性化すれば和菓子職人の担い手が増えます。「家」「店」という括りだけではなく、一流パティシエのように個人の名前で商品が売れる「スーパースター」を和菓子業界で生み出し、多くの人に和菓子や和菓子職人の存在をPRできる機会を設けることが一番の近道だと考えています。社長に就任した後間もなく海外進出に挑戦したのも、和菓子職人の認知度向上を狙った戦略です。海外で認められ、メディアで取り上げられれば、世界中で和菓子職人の価値も高まり、活躍の場を広げていけるのだと考えています。
和菓子業界が盛り上がることによって、和菓子職人が、次世代を担う子ども達の憧れの職業になれたらと思います。さらに、専門学校の講師をしたり、地域の子どもたちに和菓子作りの体験をしてもらったり、身近なところから和菓子を知ってもらうことも方法の一つだと思います。今は様々なメディア、ツールで海外からの情報を目にする機会も多くなっていますが、今一度和菓子や日本の食文化も見つめ直してもらい、たどり着いた先が髙林堂であり、和菓子であってほしいと願っています。
サービスの特徴 | 宮のかりまん
-サービスの特徴-
宮のかりまん
揚げたてのカリカリの皮は、まさにかりんとうをかじっているような懐かしい黒糖風味。
噛むごとに、しっとりとした自家製餡とバランスよく混ざり合います。
失敗から生まれた「かりまん」は、改良を重ね、当店の看板商品へと成長を遂げました。
今では髙林堂の和菓子を多くの人に知ってもらう大切な役割を担っています。
揚げたてのカリカリの皮は、まさにかりんとうをかじっているような懐かしい黒糖風味。
噛むごとに、しっとりとした自家製餡とバランスよく混ざり合います。
失敗から生まれた「かりまん」は、改良を重ね、当店の看板商品へと成長を遂げました。
今では髙林堂の和菓子を多くの人に知ってもらう大切な役割を担っています。
サービスの特徴 | 燻×羹(くんばいかん)
-サービスの特徴-
燻×羹(くんばいかん)
和菓子業界では大変珍しい「燻す」という製法を取り入れ、波照間島(はてるまじま)産の黒糖羊羹に、軽やかなウィスキーオークの燻煙の香りを纏わせました。
栃木県茂木産の柚子とほのかな塩味が羊羹を引き立てます。
口の中で交わり合う「旨さ」は三代目の現社長にしか出せない味わいです。
和菓子業界では大変珍しい「燻す」という製法を取り入れ、波照間島(はてるまじま)産の黒糖羊羹に、軽やかなウィスキーオークの燻煙の香りを纏わせました。
栃木県茂木産の柚子とほのかな塩味が羊羹を引き立てます。
口の中で交わり合う「旨さ」は三代目の現社長にしか出せない味わいです。
サービスの特徴 | 四季折々の多様な和菓子
-サービスの特徴-
四季折々の多様な和菓子
古いものを大切に守りながら新しい美味しさを探し求めていく。明治18年創業以来、感謝のこころを美味しさのおもてなしに代えて、お客様の心を満腹にする和菓子を創り続けて参りました。
四季折々の風情をうつす「上生菓子」は、職人の技術とこだわり抜いた餡で作ります。和の「美」と「味」をご堪能ください。
「和マカロン」は、特に若い世代に和菓子に親しんでもらいたいという願いを込め、フランス伝統の菓子「マカロン」に着目し、5年の試作期間を経て誕生しました。「マカロン」と「餅」との融合により、洋菓子でもなく和菓子でもない、新たな菓子の世界を広げ深めていく商品となりました。
その他、四季折々や通年の和菓子を、多数製造販売しています。
古いものを大切に守りながら新しい美味しさを探し求めていく。明治18年創業以来、感謝のこころを美味しさのおもてなしに代えて、お客様の心を満腹にする和菓子を創り続けて参りました。
四季折々の風情をうつす「上生菓子」は、職人の技術とこだわり抜いた餡で作ります。和の「美」と「味」をご堪能ください。
「和マカロン」は、特に若い世代に和菓子に親しんでもらいたいという願いを込め、フランス伝統の菓子「マカロン」に着目し、5年の試作期間を経て誕生しました。「マカロン」と「餅」との融合により、洋菓子でもなく和菓子でもない、新たな菓子の世界を広げ深めていく商品となりました。
その他、四季折々や通年の和菓子を、多数製造販売しています。
会社概要
社名 | 有限会社髙林堂 |
創立年 | 1885年 |
代表者名 | 代表取締役社長 和氣 康匡 |
資本金 | 1,000万円 |
URL |
https://www.kourindo.jp/
|
本社住所 |
〒320-0804 |
事業内容 | 和菓子の製造販売 |
事業エリア |
本社・工場 〒320-0804 |
髙林堂 本店 〒320-0026 |
|
髙林堂 陽東店 〒321-0904 |
|
髙林堂 海道店 〒321-0971 |
|
髙林堂 氏家店 〒329-1311 |
|
髙林堂 JR宇都宮店 〒321-0965 栃木グランマルシェ(みどりの窓口前) |
会社沿革
1885年 | 創業。銘菓「友志良賀」発売。 |
1947年 | 宇都宮市剣宮に菓子店「和光」開業。 |
1958年 | 髙林堂後継者不在のため、現本店千手町にて髙林堂を引き継ぐ。 |
1970年 | 有限会社設立。 |
1989年 | 宇都宮陽東2丁目に「陽東店」出店。 |
1994年 | 宇都宮西武百貨店へ出店 |
1997年 | 工場を二荒町に移転。 |
1998年 | 塩谷郡氏家町(現さくら市)に「氏家店」出店。 |
1999年 | 東武宇都宮店へ出店。 |
2007年 | かりまん発売。 |
2011年 | 二荒町に第二工場完成。 |
2017年 | シンガポール髙島屋に催事出店。 |
公開日:2022/04/14 (2023/01/25修正)
※本記事の内容および所属名称は2023年1月現在のものです。現在の情報とは異なる場合があります。
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