栃木・宇都宮市
栃木 ・ 宇都宮市
地域密着型の総合不動産を目指し続け、
河内土地建物株式会社
来店客へ「コンマ一秒の集中」が出来る不動産屋さん
経営理念
「お客様にも社員にも、幸せな生活を送る基盤となる住居・職場を」
これからも地域密着型総合不動産を目指し続け、地域と共に発展します。
お客様のそんな門出を心から祝福するため、新生活にピタットくる物件の提案を通じて、喜びや幸せをもたらすことだと考えています。
「社員=家族」すべての社員に「この会社の社員になって良かった」と感じて欲しい。
宇都宮で一番社員に優しい会社にする」という目標を胸に、社員だけでなく、社員を支えてくれている家族にも愛される会社づくりに取り組んでいます。
代表者メッセージ
当社は昭和46年1月の創立以来、地域密着スタイルを貫いてきました。
おかげさまで、たくさんの方々に支えられてきました。
そして今、賃貸・売買仲介はもちろん、不動産買取、中古住宅の再生、宅地開発分譲ができるまでになりました。アパート探しから、マイホームの取得まで、すべての方のニーズに合わせたライフプランの提案、トータルサポートをスタッフ全員でお手伝いさせていただくことで地域社会に貢献し続ける企業でありたいと願っています。
河内土地建物株式会社 代表取締役 田村 恭志
河内土地建物への入社経緯
2022年(来期)で50期を迎えます。1971年(昭和46年)に創業し、法人となったのが1973年(昭和48年)になります。
1995年(平成7年)2月1日に社員として入社しました。入社した時は、不動産賃貸業の仲介のみ、今はそれに加え不動産賃貸業(自身が貸主となる大家業)と、大家さんの物件を管理する賃貸不動産管理業、それと不動産の売買業もおこなっています。
27歳の時に入社をして、全くの異業種からの転職でもあったので3年くらいは業界のことを知る期間でもありました。それまでは、今の宇都宮市にあるショッピングセンターのベルモール跡地にあったミシンの製造をおこなう会社に勤めていました。業務は、工場内で機械製品の設計・開発をおこない、毎日のようにデスクワークで図面を書いている日々でした。そんな人間が畑違いの不動産業を選択することになったのですが、最初の動機は不純なものでした。
今の会社に入りたくて志望したわけではなく、前職の仕事内容に自分の将来が見えないこと、それと上司との人間関係もうまくいったいなかったこと、工場でもあり社内の雰囲気が暗く働いていて楽しくなかったこと、これら辞めたい要素が先行していました。
そんな時に叔父が経営をしていた河内土地建物株式会社へ何とか転職できないかと相談したところ、不毛な動機は直ぐに見透かされてしまいました。当時の叔父は長続きはしないだろうと思ったのか、宅地建物取引主任者の資格を取得することを条件に加えました。私もこの条件に、しっかりと覚悟をみせようと今振り返ってみても当時は驚くほど勉強したのを覚えています。当時ほど勉強していれば二浪することもなかったと思うほど資格取得のために勉強しました。そんな当時の苦労を知っている彼女が今の妻です。
叔父に相談して1年後に宅地建物取引主任者の資格を取ることができ1995年2月1日に入社をしました。
不動産屋として待ち受けていた大きな試練
入社をした時、不動産賃貸業の仲介だけではお客様が全く来てくれなかったので多角化を少しずつ始めていきました。始めたことは他社の模倣でもある成功していた収益モデルを自社で取り入れようと、今となっては無謀なことをひたすらに見よう見まねで取り組んでいきました。
その原動力となっていたのが、27歳で入社して直ぐに結婚をした妻の存在でした。このままでは家族を養えないと思ったこと、当時は手取りも少なく、妻の貯金を切り崩しながら生活をしていました。
当時の河内土地建物株式会社は社員5名が在籍していましたが、叔父と叔父の息子は行政書士の仕事を持ち、且つ兼業農家でした。不動産業に携わっていたのは私と実母(叔父の姉)、近所の叔母さんの3人で業務をおこなっていました。フルタイムで動けるのが私しかいない状態でした。
信頼できる絶対的なパートナーとの出会い
この状況は問題しかないと感じ、入社直後に不動産売買を始めました。単純に1件あたりの単価が高いという理由からです。ただ、資格はありましたがどのように案件を開拓すれば良いのか営業手法までは資格取得の参考書では教えてくれませんでした。今となっては無謀なことですが、地元の同業企業にノウハウを教わりへ訪問をしました。私よりも年下の若手社員が私の話を聞いてくれ、時間外であれば時間を作ってくれるとのことで河内土地建物株式会社の事務所にまで来て丁寧に教えてくれました。業界事情、営業方法だけでなく、同業他社との付き合い方、情報の横連携の作り方、新規物件の情報まで繋いでくれました。その物件情報を当時の新聞広告でおよそ20万円の掲載枠でしたが、掲載内容も一緒になって考えてくれ物件の掲載レイアウトを投稿したところ問い合わせもきてしまい、見よう見まねで契約書を書いて初の成約を取ることが出来ました。その時、同業他社に所属しながらも親身になって私に教えてくれた若手社員こそが2021年1月に亡くなった専務でした。専務は私にとっての大切なパートナーであり、右腕、懐刀でもあったり、今日までの河内土地建物株式会社を二人三脚で作り上げた感謝しきれないくらいの戦友です。2020年の夏に癌が見つかり闘病半年という期間でしたが49歳の若さで旅立ってしまいました。
不動産業界は新生活となる1~3月は繁忙期です。専務との辛い別れもありましたが、何か良い報告が出来ればと社員一丸となってやった成果が売買仲介部門、賃貸部門で過去最高の成績を上げることができました。私個人は弔い合戦でもありましたが、河内土地建物株式会社の魅力は「社員の力なんだ」と、改めて知ることとなり専務と積み上げてきたものが結実した瞬間でした。
私たちのこだわり
コンマ一秒に全神経を集中できる社員力
河内土地建物株式会社の社員は、金融機関、取引先でもお褒めの言葉をいただくことが多くそのことが本当に誇らしいと感じていました。不動産賃貸業は、「借りませんか」と飛び込み営業をするわけでもなく、街中に数ある不動産事業者の中から選んで入店してもらうため、お客様へ感謝の表現をすることを一番の教えにしています。
賃貸をお探しのお客様も、お引越しや新生活など不動産会社を訪れる回数は人生の中でもそんなに頻度が高いものではありません。出費も掛かりますし、見ず知らずの人から物件を紹介される不安もあります。私たちは、お客様が入店した瞬間の「コンマ一秒」に集中し、お店の雰囲気であったり、不安を取り除かせるような接客であったりと気配りは徹底しています。
今日まで続く理由としては、私の経営者としてのスキルではなく、社員力があってのものだと思っています。
事業承継し社長になろうと思ったきっかけ
中途入社した時は、自身が社長になるなどは1ミリも思ってはいませんでした。
入社してから、不動産売買や管理業、賃貸業を経験し約10年が経った2004年(平成16年)に社長へ就任しました。実際の時期はしっかりと思い出せませんが、先代の社長から会社の売上も格段によくなったこと何よりも不動産業として社員も7~8人にまで当時は増やしたこともあって、好きにやれと言われ社長業を引継いだという記憶しかありません。それまでも必死に業界のことを学び続けていたので、ただ社長という肩書きがついただけで何も変わっていない認識でした。
地域に合ったローカライズされたビジネススタイルの構築
不動産業界は、全国でみても九州・四国のエリアの方が不動産文化が進んでいました。首都圏は不動産のニーズが高いため、お客さんが十分にいるためサービスに変化を加える必要がありませんでした。
九州地方や四国地方は、都心と比べて不動産ニーズが少なく企業の生存競争のために知恵と工夫から、大家さんから手数料をもらうという管理業という仕組みを持っていました。地方では賃貸暮らしも少なく、且つ頻発に不動産を賃貸する機会も少ないです。管理業という仕組みは、借りたい物件を大家さんではなく不動産賃貸業の仲介事業者が担うことで不動産業者が管理をするものです。そのビジネスモデルを習得したいと考え、この管理業が得意な会社を探しては直談判して、営業ノウハウや運用方法を教えてもらいに九州まで足を運びました。ただ実際の開拓方法ふくめ地域経済に特化したものでもあったため、地元栃木の文化にあわせ10年掛けて提案方法から管理体制などを作り上げていきました。
このような学びは、当時5名の社員一人一人に伝えていき皆が同じ営業開拓できるように教育をしていくという繰り返しでした。地元の殆どの大家さんがこの管理業の仕組みについて、部屋の価値を高めることから、選ばれる賃貸・選ばれない賃貸物件の分析、収益性まで提案内容については理解するまで説明をしていました。当時、24世帯の不動産を持つ女性オーナー(旦那さんを亡くして苦労しながら子育てをしていた方)がこの管理業の1号店となりました。その受注した成功体験から1件ずつ丁寧に説明し管理業務を理解してもらっていったからこそ、50人の社員と4店舗まで事業を拡大することが出来ました。
不動産業はその土地・地域に根付かないと商売が成り立ちません。その土地の中で店舗の名前・屋号を浸透していかないと情報をもらうことすらうまくいきません。管理業はさらに大家さんとの信用・信頼関係でもあったので成功体験から簡単にエリアを増やせられないモデルでもありました。
今後の展開として地域にさらに根付く
収益構造の柱を増やす、面となるエリアを増やすことで売上拡大に繋がります。しかし、新規事業もエリアを増やすことよりも、今のお客様がいる同じマーケットで骨太経営をすることがアフターコロナも見据えても重要と考えます。まだ同じ地元のエリアでもやりきれていないこともあり、しっかりと深掘りしていく方が地域を知る上でも大切にしていることです。
他社には負けないのは社員の力です。一概に計れるものではありませんが、取引先や利用してくれたお客様からも感謝をいただいている内容は私の誇りです。社員に対しては、教育とスキルを身につけ後輩をまた育成し続けていくことです。社会人としてのマナーや人間力を身につけること、経営計画書の中で書かれており行動規範ふくめ、社員へ浸透させるため朝礼で1ページずつ読み上げています。不動産業界では商品やサービスの差別化が難しいため、社員の教育が差別化となります。
自分自身の性格とは、、、、
皆と喜びを分かち合うことは好きです。仕事をして対価をもらうのも好きだし、誰かの役に立つこと、褒められることも好きです。あと、喜んでいる姿を見ていることも性に合います。
会社としては、お客様第一で、企業の活動としてもカスタマーサティスファクションを軸にお客様の満足度をあらゆる指標で測っています。
私自身は、社員ファーストで社員がいかに満足してもらえるかを考えています。社員が目標を達成したことが一番嬉しいです。
地域に対する思い
私は宇都宮市の白沢・岡本で生まれ育ちました。店舗数からも転勤するもなく、地元に根付いている会社でもあるので長く在籍して欲しいとはいつも思っています。事業活動を通して地域に貢献をしていくため不動産価値を高めて、利用者を増やすこと、大家さんが安心して物件を預けていいただくことも地域への貢献と考えています。上記のことからも4年前に制作した経営計画書が年々分厚くなっていることも良いかとだと思っています。
コンマ一秒に全神経を集中できる社員力
河内土地建物株式会社の社員は、金融機関、取引先でもお褒めの言葉をいただくことが多くそのことが本当に誇らしいと感じていました。不動産賃貸業は、「借りませんか」と飛び込み営業をするわけでもなく、街中に数ある不動産事業者の中から選んで入店してもらうため、お客様へ感謝の表現をすることを一番の教えにしています。
賃貸をお探しのお客様も、お引越しや新生活など不動産会社を訪れる回数は人生の中でもそんなに頻度が高いものではありません。出費も掛かりますし、見ず知らずの人から物件を紹介される不安もあります。私たちは、お客様が入店した瞬間の「コンマ一秒」に集中し、お店の雰囲気であったり、不安を取り除かせるような接客であったりと気配りは徹底しています。
今日まで続く理由としては、私の経営者としてのスキルではなく、社員力があってのものだと思っています。
事業承継し社長になろうと思ったきっかけ
中途入社した時は、自身が社長になるなどは1ミリも思ってはいませんでした。
入社してから、不動産売買や管理業、賃貸業を経験し約10年が経った2004年(平成16年)に社長へ就任しました。実際の時期はしっかりと思い出せませんが、先代の社長から会社の売上も格段によくなったこと何よりも不動産業として社員も7~8人にまで当時は増やしたこともあって、好きにやれと言われ社長業を引継いだという記憶しかありません。それまでも必死に業界のことを学び続けていたので、ただ社長という肩書きがついただけで何も変わっていない認識でした。
地域に合ったローカライズされたビジネススタイルの構築
不動産業界は、全国でみても九州・四国のエリアの方が不動産文化が進んでいました。首都圏は不動産のニーズが高いため、お客さんが十分にいるためサービスに変化を加える必要がありませんでした。
九州地方や四国地方は、都心と比べて不動産ニーズが少なく企業の生存競争のために知恵と工夫から、大家さんから手数料をもらうという管理業という仕組みを持っていました。地方では賃貸暮らしも少なく、且つ頻発に不動産を賃貸する機会も少ないです。管理業という仕組みは、借りたい物件を大家さんではなく不動産賃貸業の仲介事業者が担うことで不動産業者が管理をするものです。そのビジネスモデルを習得したいと考え、この管理業が得意な会社を探しては直談判して、営業ノウハウや運用方法を教えてもらいに九州まで足を運びました。ただ実際の開拓方法ふくめ地域経済に特化したものでもあったため、地元栃木の文化にあわせ10年掛けて提案方法から管理体制などを作り上げていきました。
このような学びは、当時5名の社員一人一人に伝えていき皆が同じ営業開拓できるように教育をしていくという繰り返しでした。地元の殆どの大家さんがこの管理業の仕組みについて、部屋の価値を高めることから、選ばれる賃貸・選ばれない賃貸物件の分析、収益性まで提案内容については理解するまで説明をしていました。当時、24世帯の不動産を持つ女性オーナー(旦那さんを亡くして苦労しながら子育てをしていた方)がこの管理業の1号店となりました。その受注した成功体験から1件ずつ丁寧に説明し管理業務を理解してもらっていったからこそ、50人の社員と4店舗まで事業を拡大することが出来ました。
不動産業はその土地・地域に根付かないと商売が成り立ちません。その土地の中で店舗の名前・屋号を浸透していかないと情報をもらうことすらうまくいきません。管理業はさらに大家さんとの信用・信頼関係でもあったので成功体験から簡単にエリアを増やせられないモデルでもありました。
今後の展開として地域にさらに根付く
収益構造の柱を増やす、面となるエリアを増やすことで売上拡大に繋がります。しかし、新規事業もエリアを増やすことよりも、今のお客様がいる同じマーケットで骨太経営をすることがアフターコロナも見据えても重要と考えます。まだ同じ地元のエリアでもやりきれていないこともあり、しっかりと深掘りしていく方が地域を知る上でも大切にしていることです。
他社には負けないのは社員の力です。一概に計れるものではありませんが、取引先や利用してくれたお客様からも感謝をいただいている内容は私の誇りです。社員に対しては、教育とスキルを身につけ後輩をまた育成し続けていくことです。社会人としてのマナーや人間力を身につけること、経営計画書の中で書かれており行動規範ふくめ、社員へ浸透させるため朝礼で1ページずつ読み上げています。不動産業界では商品やサービスの差別化が難しいため、社員の教育が差別化となります。
自分自身の性格とは、、、、
皆と喜びを分かち合うことは好きです。仕事をして対価をもらうのも好きだし、誰かの役に立つこと、褒められることも好きです。あと、喜んでいる姿を見ていることも性に合います。
会社としては、お客様第一で、企業の活動としてもカスタマーサティスファクションを軸にお客様の満足度をあらゆる指標で測っています。
私自身は、社員ファーストで社員がいかに満足してもらえるかを考えています。社員が目標を達成したことが一番嬉しいです。
地域に対する思い
私は宇都宮市の白沢・岡本で生まれ育ちました。店舗数からも転勤するもなく、地元に根付いている会社でもあるので長く在籍して欲しいとはいつも思っています。事業活動を通して地域に貢献をしていくため不動産価値を高めて、利用者を増やすこと、大家さんが安心して物件を預けていいただくことも地域への貢献と考えています。上記のことからも4年前に制作した経営計画書が年々分厚くなっていることも良いかとだと思っています。
ツグナラ専門家による紹介
担当専門家:株式会社サクシード 株式会社サクシードの詳細
社長自身は社員を一番に考え行動し、社員にはお客様を一番に行動してもらう。経営に必要な基本的なことを自然にできる素晴らしい組織です。若い社員さんが成長するスピードが早く、女性社員の活躍も目覚ましい会社さんです。
会社概要
社名 | 河内土地建物株式会社 |
創立年 | 1971年 |
代表者名 | 代表取締役 田村 恭志 |
URL |
https://www.k-tt.co.jp/
|
本社住所 |
〒321-0924 賃貸:宇都宮市、河内岡本エリア 売買:栃木県全域 |
事業内容 | 不動産仲介(不動産売却・購入の仲介) 不動産売買(不動産の買取・販売) 宅地分譲(土地開発・造成・宅地販売) 賃貸仲介(アパートの入居者募集・入居斡旋) アパート管理(アパートの家賃集金保証・トラブル処理) 土地活用コンサルタント(土地の有効活用ご提案) 相談業務(相続税対策・不動産に関する無料相談) |
河内土地建物株式会社の経営資源引継ぎ募集情報
公開日:2021/07/09 (2023/01/25修正)
※本記事の内容および所属名称は2023年1月現在のものです。現在の情報とは異なる場合があります。
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