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リブランディングにより
株式会社タマノ
顧客目線のサービス展開で衛生を支える医療現場のパートナー
経営理念
グループ会社一丸となって医療現場のお役に立てる製品とサービスの提供を目指します。
タマノは注射器の製造から始まり、その後は時代の流れと共に滅菌器メーカーとして営業してまいりました。
2008年、将来を見据え運営体制を大幅に変更し、タマノは設計開発、販売、修理に特化し、製造については、グループ会社である株式会社東邦技研に全面委託いたしました。
また、滅菌器のメインパーツである圧力釜を製造している株式会社ステンレス技研がグループ会社であるため、グループ一丸で品質面とコスト面でシナジー効果を生み出せるよう尽力しております。合わせて、このグループ体制を活かして、OEM製品の開発製造も承ります。
代表者メッセージ
タマノは、昭和2年の創業以来、医療の発展と共に今日に至るまで、多くのお客様に支えられて様々なニーズにお応えできるよう努力をしてまいりました。 これからの時代、医療現場での課題は更に多種多様なものになると思われ、私ども医療機器メーカーはもちろん、私どものお客様であります販売会社様に求められるものも次々変化して行くことと思われます。 そのような状況の中、お客様に対してメーカーに出来ることは何か、更にお役に立てるようになるのにはどうすれば良いのかを熟考することが大きな課題だと自覚しております。 また、私たちや家族も、患者として医療を受ける立場でもあります。私たちが安心して医療を受けられるのは、現場で日々奮闘されている医療従事者の方々のおかげです。その医療従事者の方々がお仕事に専念できるような製品やサービスを提供させていただくことがメーカーとしての責任であり、家族の健康を守る者としての責任でもあると考えております。 そのためには、今まで以上に医療現場の声に耳を傾け、医療現場の立場になって考え、製品及びサービスの充実化に向けて努力をしていく所存でございますので、変わらぬご支援とご協力を宜しくお願い申し上げます。
私たちのこだわり
創業95年にわたる歩み
弊社は戦前の1927年(昭和2年)に創業され、1955年(昭和30年)には合資会社玉野注射器製作所として注射器を主力製品としていました。戦前から戦後にかけては国内で痘そうや百日咳、腸チフス等の感染症が広まり、国が予防接種を推進するにあたって注射器の規格標準化、ディスポーザブル(使い捨て)化等が進められ、追ってガス滅菌や放射線滅菌の研究が行われるようになりました。1980年代半ばには国内でのHIV感染が初めて確認され、それまで認知されていた熱湯やアルコールなどの消毒方法に加えて蒸気滅菌などの手法も認められるようになり滅菌機の市場は急拡大するとともに、注射器のほか滅菌機を取り扱うようになった弊社の売上も伸びていきました。
1995年(平成3年)には株式会社タマノが設立され、それから3年後の決算報告書での売上の内訳をみると滅菌器と注射器で半分ずつの売上となっていました。滅菌機が主力製品である注射器に並ぶ製品となったことで社内外で広く扱われるようになった事、また滅菌機が事業の柱となり会社の転換期にもなっただろうという事が推測できます。その後、弊社は同業者間では名の知れた会社にまで成長し、業界トップにまで昇りつめました。
事業が隆盛し会社としての地盤は安定したものの、先々代の時代には創業者の家系である玉野家の親族が承継を辞退し、後を継ぐ者がいなくなるという事態が起こりました。しかし取引先の多くは病院であり、その先にいる患者のことを考えると弊社の社会的責任は大きく、廃業という選択肢は考えられませんでした。そのため玉野家側の現管理部長が承継者を探して必死に同業者間を駆け回った末に、先代である叔父の元に辿り着いたそうです。
当時、先代は埼玉県でステンレス加工業(現・株式会社ステンレス技研)と医療機器製造・高圧蒸気滅菌器製造メーカー(現・株式会社東邦技研)を営み、弊社(タマノ)を含む複数の滅菌機メーカーとも取引がありました。玉野家から承継の打診があったことで、先代は2008年(平成20年)に弊社を第三者の立場から引き継ぐことになりました。その背景には、歴史がありかつて業界トップクラスだった会社を引継ぐことで会社の利潤に繋げたいという思惑だけではなく、業界の一時代を築き上げたタマノに代わり、業界の均衡や市場を維持することで医療の現場を支えたいという社会貢献的な意欲もあったようです。
東邦技研入社から一転し、タマノの社長に就任
一方の私は埼玉で生まれ育ちました。20代前半はシステム開発業界でエンジニアとして働き、20歳後半には独立して、友人と2年間ほどシステム開発や販売を行う会社を経営していました。その頃父が入院し、見舞いに訪れた先代(叔父)と15年ぶりに再会しました。その際に「会社のシステム導入を考えているから入社しないか」と誘われましたが「もう少し頑張ってみたい」という気持ちもあり、一度断りました。
その後、結局、経営していた会社を軌道に乗せることが出来ず、繋がりのあった同業の会社に1年ほど身を寄せていたのですが、そこで色々と商品企画をしているうちに、もっと生活の根幹を支える業界で開発時の努力が継続するサブスクリプション(subscription:製品やサービスを一定期間ごとに一定の利用料で提供するビジネスモデル)的な分野か、消耗品を扱うディスポーザブル分野で事業を成功させたいと思うようになり、医療機器業界に類似性を見出したことから改めて先代に相談して、グループ会社の東邦技研に入社しました。医療機器である滅菌機は薬機法(正式名称:薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律)などの参入障壁もあることから他社が易々と参入できないだろうという考えもありました。
東邦技研に従業員として在職していた時には、先代(叔父)の承継も遠巻きに見ていました。先代の直系親族には跡取りがいなかったため、承継の候補に自分が入っていてもおかしくないとは思いつつも、友人と2年間会社を経営した事で多くの苦労を経験していたことから、内心ではできれば承継は避けたいと思っていました。そうこうしているうちに東邦技研内で現場を取り仕切っていたベテランの部長が引退することとなり、さらに大口のお客様からも「後継はどうするの」と問われ、社内には部長の後継を希望する人がいなかったので「自分がやるしかない」と覚悟を決めました。その後、東邦技研の部長が引退する際に入れ替わる形で昇進し「ゆくゆくは東邦技研の経営を任されるようになるかもしれない、でもそれまでは期間があるだろう」と思いながら部長職としての仕事に勤しんでいました。しかし部長昇進から2、3年後の2016年(平成28年)、グループ会社の一つである弊社(タマノ)の社長に抜擢され、就任する事になりました。色々と経験し把握している社内で昇進するのと、グループ会社とはいえ働いた経験のない他社の経営者になるのとではわけが違います。突然の事に周囲も驚きましたが、引き受ける以上は「やりたいからやった」「全て自分事」と思うようにして、今日まで経営者の役割を果たすべく努力し続けてきました。承継直後の弊社の状況としては社歴の中でも一番厳しい状況で、改めて会社の在り方から再考しなければならない状態でした。ただこの厳しい環境だったからこそ、経営者として何をすべきか、今後5年、10年、30年と永続できる会社となるためには今何が必要なのかと、自身と自社についての課題が明確になりました。
リブランディングを推進し滅菌器業界で返り咲く
滅菌機は卸価格も安価で利鞘が少ないため全国的にも専門メーカー数は少なくニッチな業界です。3憶から10憶円ほどの資本のメーカーが業界の主流でしたが、電気機器の多様化とともに滅菌器とは全く異なるメイン製品を持つ100憶円以上のメーカーも参入するようになり、滅菌機の市場の在り方は大きく変動することとなりました。機器メーカーでは、お客様が製品を購入した後のメンテナンスが重要であり、各地にサポートの拠点を持つ大手は業界内では有利となります。また滅菌機がメイン商品ではないので利益を追求する必要もなく、製品の値段を市場価格より大きく引き下げたことで顧客は大手に流れ、市場では値崩れが起こり、低価格が定着してしまいました。近年には大手精密機器メーカーが滅菌機メーカーを買収して参入し数年で撤退したという事もありました。
業界1、2位の立ち位置にいた弊社もその流れには抗えず、20年ほどの間に売上は落ち込み、社長就任時には大手医療機器の卸売業者のカタログにも当社の製品は1台も掲載されず、長年付き合いのある中小規模の販売店様に助けてもらいながらかろうじて経営している状態でした。ここから挽回するためにはまず顧客へのアプローチの方法を変える必要があると考え、まず広告宣伝に力を入れることにしました。数十年ぶりに新製品が出るタイミングでもあったので医療機器の展示会に出店して自社PRを行い、それを足掛かりに知名度の回復を図りました。業界関係者からは「タマノってまだあったんだ、懐かしい」と声をかけられることもあり、製品入れ替え等を機に徐々に旧来のお客様が弊社の製品を購入してくれるようになりました。弊社の製品は他社ほど多機能ではありませんが、国内で長期にわたりデフレが続いたこともあり、基本機能を満たしコストを押さえたいというシンプル志向のお客様のニーズと合致し売上は伸びていきました。その後、2019年(令和元年)には新型コロナウイルスの影響で再び滅菌機にスポットが当たるようになり、売上はさらに増大していきました。
会社の顔であるHPをリニューアルし、ユーザー目線の会社にシフト
財産には正の財産、負の財産があり、その両方を引き継ぐことが承継だと思っています。95年にわたり築き上げられた弊社のネームバリューは正の財産であり、新旧のお客様にまず弊社の存在を示すことが最良の戦略だと考えています。そこで、広告宣伝活動の一環として会社の顔である自社webサイトをリニューアルしました。頼む側の責任としてWEBマーケティングチームの担当者と数えきれないほどの打合せを重ね、「分かりやすさ」をテーマにユーザーである医療現場の目線に寄り添うメンテナンスページを新設しました。特に読めばトラブル解決に繋がるメンテナンスのページはトップページの次にアクセス数が高く、お客様からは好評をいただいています。社長就任までは先代とのギャップを感じないように社内整備に注力してきましたが、このブランディング戦略は恐らく私の経営者としてのカラーであり、新たな時代に生き残るために必要だったことでもあり、長年にわたる弊社の歴史の一つの節目なのではないかと思います。
社内の情報格差をなくし、全員が同じ目線で会社を築き上げる体制へ
従業員は30代から50代でベテランが多く在籍しています。ここ1年ほどはコロナ禍で開催できていませんが、年2回の全体会議で財務内容などを共有しています。この下地は先代の時代に入社した専務が作り、それ以前には会社の経営に関する情報が共有されることも会議もありませんでした。私自身は経営者と一般従業員に意識の差があるのだとしたらそれは危機感の差であり、その差を生むのは情報量だと考えています。同じ会社で働き生活する従業員全員の情報の格差を可能な限りなくしながら関係性を築き、意見を汲み上げていくことが、今、経営者としてできることだと思っています。ベテランと新人、経営者と従業員など、役割や立場で考え方の相違が生じることもあって大変なこともありますが、良かれ悪しかれまず関係性を築いていくことでその差は解消していけると信じています。互いを信頼し支え合える企業になっていけば、企業活動もより充実したものになっていきます。そして企業活動の先には従業員の生活やその家族、そして地域社会があります。取引先や地域に必要とされ続ける企業でありたいと思っています。
顧客、従業員とともに成長する現代の企業を目指す
会社を経営し他社と交流していくうちに、創業者と承継者の事業へのスタンスの違いや課題を実感するようになりました。私のような承継者は、創業者のようにゼロから作り上げていくときに必要な原動力を自身で経験したわけではないので伝承されてきた創業時の話を思い出すことはできても、自身の経験として振り返ることのできるゼロの原点がありません。だからこそ、目標となる会社像や「何のために会社を続けるのか」というテーマを据えることが大事なのだと理解しています。弊社の方針の軸となるものは、「従業員との関係性や生活を大切にしたい」という事です。一緒に働いてくれている従業員がいるから企業活動ができているので、その生活を守り豊かなものにしていきたいと思っています。最近は、従業員に自分や家族の10年後を想像してもらい、そのために会社がどのように活動をしていくべきかを互いに考えて、それを会社の目標にも入れるようにしています。人生のうち多くの時間を過ごす場所だからこそ、働く仲間がお互いにより良い生活を目指せる場所にしていきたいと思えるようになりました。突然の承継から現在まで苦労はありましたが、会社としての在り方も大きく変わり、顧客とともに成長する現代の企業として前進できる体制になったと思います。
創業95年にわたる歩み
弊社は戦前の1927年(昭和2年)に創業され、1955年(昭和30年)には合資会社玉野注射器製作所として注射器を主力製品としていました。戦前から戦後にかけては国内で痘そうや百日咳、腸チフス等の感染症が広まり、国が予防接種を推進するにあたって注射器の規格標準化、ディスポーザブル(使い捨て)化等が進められ、追ってガス滅菌や放射線滅菌の研究が行われるようになりました。1980年代半ばには国内でのHIV感染が初めて確認され、それまで認知されていた熱湯やアルコールなどの消毒方法に加えて蒸気滅菌などの手法も認められるようになり滅菌機の市場は急拡大するとともに、注射器のほか滅菌機を取り扱うようになった弊社の売上も伸びていきました。
1995年(平成3年)には株式会社タマノが設立され、それから3年後の決算報告書での売上の内訳をみると滅菌器と注射器で半分ずつの売上となっていました。滅菌機が主力製品である注射器に並ぶ製品となったことで社内外で広く扱われるようになった事、また滅菌機が事業の柱となり会社の転換期にもなっただろうという事が推測できます。その後、弊社は同業者間では名の知れた会社にまで成長し、業界トップにまで昇りつめました。
事業が隆盛し会社としての地盤は安定したものの、先々代の時代には創業者の家系である玉野家の親族が承継を辞退し、後を継ぐ者がいなくなるという事態が起こりました。しかし取引先の多くは病院であり、その先にいる患者のことを考えると弊社の社会的責任は大きく、廃業という選択肢は考えられませんでした。そのため玉野家側の現管理部長が承継者を探して必死に同業者間を駆け回った末に、先代である叔父の元に辿り着いたそうです。
当時、先代は埼玉県でステンレス加工業(現・株式会社ステンレス技研)と医療機器製造・高圧蒸気滅菌器製造メーカー(現・株式会社東邦技研)を営み、弊社(タマノ)を含む複数の滅菌機メーカーとも取引がありました。玉野家から承継の打診があったことで、先代は2008年(平成20年)に弊社を第三者の立場から引き継ぐことになりました。その背景には、歴史がありかつて業界トップクラスだった会社を引継ぐことで会社の利潤に繋げたいという思惑だけではなく、業界の一時代を築き上げたタマノに代わり、業界の均衡や市場を維持することで医療の現場を支えたいという社会貢献的な意欲もあったようです。
東邦技研入社から一転し、タマノの社長に就任
一方の私は埼玉で生まれ育ちました。20代前半はシステム開発業界でエンジニアとして働き、20歳後半には独立して、友人と2年間ほどシステム開発や販売を行う会社を経営していました。その頃父が入院し、見舞いに訪れた先代(叔父)と15年ぶりに再会しました。その際に「会社のシステム導入を考えているから入社しないか」と誘われましたが「もう少し頑張ってみたい」という気持ちもあり、一度断りました。
その後、結局、経営していた会社を軌道に乗せることが出来ず、繋がりのあった同業の会社に1年ほど身を寄せていたのですが、そこで色々と商品企画をしているうちに、もっと生活の根幹を支える業界で開発時の努力が継続するサブスクリプション(subscription:製品やサービスを一定期間ごとに一定の利用料で提供するビジネスモデル)的な分野か、消耗品を扱うディスポーザブル分野で事業を成功させたいと思うようになり、医療機器業界に類似性を見出したことから改めて先代に相談して、グループ会社の東邦技研に入社しました。医療機器である滅菌機は薬機法(正式名称:薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律)などの参入障壁もあることから他社が易々と参入できないだろうという考えもありました。
東邦技研に従業員として在職していた時には、先代(叔父)の承継も遠巻きに見ていました。先代の直系親族には跡取りがいなかったため、承継の候補に自分が入っていてもおかしくないとは思いつつも、友人と2年間会社を経営した事で多くの苦労を経験していたことから、内心ではできれば承継は避けたいと思っていました。そうこうしているうちに東邦技研内で現場を取り仕切っていたベテランの部長が引退することとなり、さらに大口のお客様からも「後継はどうするの」と問われ、社内には部長の後継を希望する人がいなかったので「自分がやるしかない」と覚悟を決めました。その後、東邦技研の部長が引退する際に入れ替わる形で昇進し「ゆくゆくは東邦技研の経営を任されるようになるかもしれない、でもそれまでは期間があるだろう」と思いながら部長職としての仕事に勤しんでいました。しかし部長昇進から2、3年後の2016年(平成28年)、グループ会社の一つである弊社(タマノ)の社長に抜擢され、就任する事になりました。色々と経験し把握している社内で昇進するのと、グループ会社とはいえ働いた経験のない他社の経営者になるのとではわけが違います。突然の事に周囲も驚きましたが、引き受ける以上は「やりたいからやった」「全て自分事」と思うようにして、今日まで経営者の役割を果たすべく努力し続けてきました。承継直後の弊社の状況としては社歴の中でも一番厳しい状況で、改めて会社の在り方から再考しなければならない状態でした。ただこの厳しい環境だったからこそ、経営者として何をすべきか、今後5年、10年、30年と永続できる会社となるためには今何が必要なのかと、自身と自社についての課題が明確になりました。
リブランディングを推進し滅菌器業界で返り咲く
滅菌機は卸価格も安価で利鞘が少ないため全国的にも専門メーカー数は少なくニッチな業界です。3憶から10憶円ほどの資本のメーカーが業界の主流でしたが、電気機器の多様化とともに滅菌器とは全く異なるメイン製品を持つ100憶円以上のメーカーも参入するようになり、滅菌機の市場の在り方は大きく変動することとなりました。機器メーカーでは、お客様が製品を購入した後のメンテナンスが重要であり、各地にサポートの拠点を持つ大手は業界内では有利となります。また滅菌機がメイン商品ではないので利益を追求する必要もなく、製品の値段を市場価格より大きく引き下げたことで顧客は大手に流れ、市場では値崩れが起こり、低価格が定着してしまいました。近年には大手精密機器メーカーが滅菌機メーカーを買収して参入し数年で撤退したという事もありました。
業界1、2位の立ち位置にいた弊社もその流れには抗えず、20年ほどの間に売上は落ち込み、社長就任時には大手医療機器の卸売業者のカタログにも当社の製品は1台も掲載されず、長年付き合いのある中小規模の販売店様に助けてもらいながらかろうじて経営している状態でした。ここから挽回するためにはまず顧客へのアプローチの方法を変える必要があると考え、まず広告宣伝に力を入れることにしました。数十年ぶりに新製品が出るタイミングでもあったので医療機器の展示会に出店して自社PRを行い、それを足掛かりに知名度の回復を図りました。業界関係者からは「タマノってまだあったんだ、懐かしい」と声をかけられることもあり、製品入れ替え等を機に徐々に旧来のお客様が弊社の製品を購入してくれるようになりました。弊社の製品は他社ほど多機能ではありませんが、国内で長期にわたりデフレが続いたこともあり、基本機能を満たしコストを押さえたいというシンプル志向のお客様のニーズと合致し売上は伸びていきました。その後、2019年(令和元年)には新型コロナウイルスの影響で再び滅菌機にスポットが当たるようになり、売上はさらに増大していきました。
会社の顔であるHPをリニューアルし、ユーザー目線の会社にシフト
財産には正の財産、負の財産があり、その両方を引き継ぐことが承継だと思っています。95年にわたり築き上げられた弊社のネームバリューは正の財産であり、新旧のお客様にまず弊社の存在を示すことが最良の戦略だと考えています。そこで、広告宣伝活動の一環として会社の顔である自社webサイトをリニューアルしました。頼む側の責任としてWEBマーケティングチームの担当者と数えきれないほどの打合せを重ね、「分かりやすさ」をテーマにユーザーである医療現場の目線に寄り添うメンテナンスページを新設しました。特に読めばトラブル解決に繋がるメンテナンスのページはトップページの次にアクセス数が高く、お客様からは好評をいただいています。社長就任までは先代とのギャップを感じないように社内整備に注力してきましたが、このブランディング戦略は恐らく私の経営者としてのカラーであり、新たな時代に生き残るために必要だったことでもあり、長年にわたる弊社の歴史の一つの節目なのではないかと思います。
社内の情報格差をなくし、全員が同じ目線で会社を築き上げる体制へ
従業員は30代から50代でベテランが多く在籍しています。ここ1年ほどはコロナ禍で開催できていませんが、年2回の全体会議で財務内容などを共有しています。この下地は先代の時代に入社した専務が作り、それ以前には会社の経営に関する情報が共有されることも会議もありませんでした。私自身は経営者と一般従業員に意識の差があるのだとしたらそれは危機感の差であり、その差を生むのは情報量だと考えています。同じ会社で働き生活する従業員全員の情報の格差を可能な限りなくしながら関係性を築き、意見を汲み上げていくことが、今、経営者としてできることだと思っています。ベテランと新人、経営者と従業員など、役割や立場で考え方の相違が生じることもあって大変なこともありますが、良かれ悪しかれまず関係性を築いていくことでその差は解消していけると信じています。互いを信頼し支え合える企業になっていけば、企業活動もより充実したものになっていきます。そして企業活動の先には従業員の生活やその家族、そして地域社会があります。取引先や地域に必要とされ続ける企業でありたいと思っています。
顧客、従業員とともに成長する現代の企業を目指す
会社を経営し他社と交流していくうちに、創業者と承継者の事業へのスタンスの違いや課題を実感するようになりました。私のような承継者は、創業者のようにゼロから作り上げていくときに必要な原動力を自身で経験したわけではないので伝承されてきた創業時の話を思い出すことはできても、自身の経験として振り返ることのできるゼロの原点がありません。だからこそ、目標となる会社像や「何のために会社を続けるのか」というテーマを据えることが大事なのだと理解しています。弊社の方針の軸となるものは、「従業員との関係性や生活を大切にしたい」という事です。一緒に働いてくれている従業員がいるから企業活動ができているので、その生活を守り豊かなものにしていきたいと思っています。最近は、従業員に自分や家族の10年後を想像してもらい、そのために会社がどのように活動をしていくべきかを互いに考えて、それを会社の目標にも入れるようにしています。人生のうち多くの時間を過ごす場所だからこそ、働く仲間がお互いにより良い生活を目指せる場所にしていきたいと思えるようになりました。突然の承継から現在まで苦労はありましたが、会社としての在り方も大きく変わり、顧客とともに成長する現代の企業として前進できる体制になったと思います。
会社概要
社名 | 株式会社タマノ |
創立年 | 1991年 |
代表者名 | 代表取締役 髙後 恵介 |
資本金 | 1,400万円 |
URL |
https://kabu-tamano.co.jp/
|
本社住所 |
〒173-0026 |
事業内容 | 医療機器の製造・販売及び修理 |
事業エリア |
本社 〒173-0026 |
大阪営業所 〒578-0903 |
|
株式会社 東邦技研(グループ会社) 〒343-0021 |
|
株式会社ステンレス技研(グループ会社) 〒340-0834 |
|
関連会社 |
会社沿革
1927年 | 創業 |
1955年 | 合資会社玉野注射器製作所を設立 |
1972年 | 合資会社玉野製作所に社名変更 |
1991年 | 株式会社タマノを設立 合資会社玉野製作所と合併 |
2008年 | 髙後良光が代表取締役社長に就任 |
2016年 | 髙後良光が代表取締役会長に就任 髙後恵介が代表取締役社長に就任 |
2017年 | 新社屋業務開始 |
公開日:2022/06/08 (2023/01/25修正)
※本記事の内容および所属名称は2023年1月現在のものです。現在の情報とは異なる場合があります。
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