神奈川・小田原市
神奈川 ・ 小田原市
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株式会社エイチ・エス・エー
共生と共栄の人間力を育み協働への挑戦意欲を喚起する社会的企業
経営理念
企業理念
社会的企業 Human.spirit.association
「人として豊かな心を育み、正しく生きる誇りを持てる人」の組織
理念
仕事は良道【サービス・職場環境・社会】
「理念の前では皆平等、多様な才能と自由な議論」
組織基準
良道において、1人では成し得ない又は、1人では非効率な目的を達成する為に、1人ひとりが「知識、技術、技能、人間力」を高め、お互いに協働することで、社会から必要とされ、支持される組織。
行動思想
良道において、自分だけではなく、他者の存在、人格を認め理解し、共生できる社会を目指す。
- ①他者を理解し尊重する。
- ②価値観の違う人同士が共存共栄できる社会(会社)を実現する。
- ③常に挑戦し、変化し、そして成長する。
代表者メッセージ
私たち人間の暮らしは、人と人が、それぞれの立場で、それぞれの役割を果たしていることで社会が形成されています。今日においては、暮らしやすさや便利さの追求により、欲しいものはお金で手に入れることができ、必要な情報もITを使用していつでも入手可能になり、非常に便利になりました。
その一方で、人と人との交流、交渉、ふれあいなどの人同士の直接的な結びつきが希薄になり、社会形成の在り方を忘れてしまい、一人で生きているかのような錯覚をしてしまいがちです。自分さえ良ければ人はどうでもいい、自分が楽しければそれでいいと、自分のことしか考えない人ばかりの世の中は、住みにくいと思います。
どうか少し想像力を働かせて、身の回りの人のことを考えてみてください。自分が言ったりしたりすることを相手がどのように感じるか。毎日自分が当たり前のように受けている恩恵の裏側で、誰が、どんな苦労をしているのだろうかということをです。
想像し、考えることで、お互いの気持ちや立場、考え方を大切にできるようになります。仕事(利用者、会社の仲間、地域社会の人)を通じて人としての徳を学び合い、苦労を共に努力しながらあたたかな人間関係を築き、集中して事を成し遂げる事により、人間性が高まっていきます。そして人として生きる喜びや誇りを実感することで、人と人とが感謝し信頼し合える社会、安心して互いに協力し合える社会、人が好きになれる社会が築かれていくはずです。
日々心身の研鑽に努め、経済活動を通じて、少しでも社会に貢献し必要とされる人、企業が増えていってほしいと願っています。
それがHuman・Spirit・Association、社会的企業としての弊社の在り方だと考えています。
代表取締役 田中 勉
私たちのこだわり
やりがいと生きる喜びを探し仕事に打ち込む
小田原市内で食堂を営む両親の元に生まれた私は、両親が早朝から夜遅くまで働く姿を見ながら育ちました。幼い頃から食堂を手伝っていた私は、何となく自分が食堂を引き継ぐものだと思っていましたが、学生時代から苦労続きだった父は食堂を継がせる気はなく、長男である兄と次男の私に「しっかり勉強をして手に職をつけろ」と口癖のように言い続けていました。長男である兄は、父の言いつけ通り安定した大手の会社に入社して海外勤務をするようになり、私も手に職をつけるため設備系の工業高校に進学し、国家資格や免許を取得していきました。
進路選択にあたっては、父から上場企業への就職を強く勧められ、大手自動車メーカーに入社しました。3年間身を粉にして働くうちに、取得した資格を活かせる会社で自分の力を伸ばしてみたいと思うようになり、父の反対を押し切って大手広告代理店の子会社に転職しました。転職を機に、自分のスキルを活かせる、設備管理・設計の業務に携われるようになったことで、本業に就き、自分が進むべき道を自分で選ぶことができたと思いました。
広告代理店に入社した頃は、全国各地で博覧会等が開催されていました。博覧会やイベントの設備設計や管理を担当していた私は、日本中を飛び回り、準備から撤収まで約10カ月かかるプロジェクト一件一件に力を注ぎ、業績不振の営業所を立て直すなど、昼夜問わず夢中で働きました。1989年には、横浜市政100周年と横浜港開港130周年を記念した「横浜博覧会」が開催され、広大な会場のうち横浜の明治期の街並みを再現した「開港記念村」を担当し、仕上がっていく過程の面白さや充実感を味わいました。
社会学との出会いを機に、人間力と創造力を高める会社の創業を決意
仕事に明け暮れていたある日、飲み会の席で後輩が「これって、いつまで続くんですかね」と素朴な疑問を口にしました。その時は「何言ってるんだ。それが仕事だよ」などと濁しましたが、目の前の仕事に懸命に取り組んだ先に何が残るのか、自分自身が将来的にどうなっていきたいのかというビジョンを持っていないことに気づかされ、漠然としたむなしさを感じました。周りの意見や社会に流されながら生きるのではなく、自分の意志と力で生きていきたいと思うようになり、自己啓発セミナーなどに参加し、自分の考えや生き方を変えようと行動するようになりました。
また、偶然立ち寄った書店の社会学の本も、生き方を考え直すきっかけをくれました。始めは初歩的な本のあらすじを読んでいるだけでしたが、読み進めていくうちに自分が暮らす社会や経済の仕組みを理解できるようになり、知識と現実が結びついていく楽しさに夢中になっていきました。社会人としての在り方や自分の人生は、自分で考え決められると気付かされたこのタイミングが、私にとっての人生の始まりとなりました。
さらに学びを深めていくうちに、今の世の中は、社会をより良いものにしたいという意欲やアイデアを生み出す創造力が失われてしまっていること、心の成長も含めて自己確立ができていない人がとても多いことに気が付きました。将来、未来を創造する力は、生きる喜びや実感にもつながる人間として大事な要素です。創造力を育み人間力を高めていける「社会学校」をつくり、価値観の違いや変化を多様性として大事にできる人と組織を育てていきたいという思いが膨らみ、起業を決意しました。
人と地域の役に立ちやりがいを実感できる医療マッサージ事業を開始
会社員時代は全国各地で仕事をしていたので、創業するなら地元の小田原市に根づくような、地域密着の企業にしたいと考えていました。開業する業種としては製造業も考えましたが多額の設備投資が必要であり、BtoBよりもBtoCの方が、人のために役立ちたいという意識や創造する力も高まるだろうと考え、サービス業でのスタートを考えました。業種を絞り込むため、BtoCサービスを提供する会社や事業所を見て回るうちに、医療マッサージの施術を見る機会を得ました。右半身が不自由になり、回復の希望は薄いとされていた女性が、献身的なリハビリやマッサージによって運動機能を少しずつ取り戻していく過程とともに、患者である女性が、施術者に「この人たちがいなかったら、私の人生は終わっていた」と感謝し涙を流す姿を見て、地域の人の心身に寄り添う医療マッサージの事業を始めようと決意を固めました。
1999年の創業当時は、かねてから構想していた「社会学校」の理念を明文化して、事業を開始しました。組織づくりをしていくため知人に協力を求めましたが、理念や構想への理解はなかなか得られず、まず採用面で苦労しました。また小田原市内には、医療保険を使ったマッサージ事業者がまだおらず、前例も認知度もなかったため、行政から保険の適用事業所としての許可が下りず、半年ほど無報酬の期間がありました。事業が軌道に乗るまでには時間が必要であることは想定しており、会社員時代からの貯蓄1000万円のほか、家族に迷惑をかけないようにとあらかじめ投資していた不動産の収益によって、家族の生活を守りながら、事業を継続することができました。弊社の創業時にはアパートを10棟所有するまでになっていましたが、事業が安定するまではと蓄えに回すため、社員にはきっちり給料を払いながら、自分自身は無給で3年間を過ごしました。
地域のニーズを捉え24時間365日対応の訪問介護事業をスタート
創業から半年経った2000年には介護保険制度がスタートし、医療マッサージを受けに来る高齢のお客様の間でも訪問介護への関心や需要の声が高まってきていました。少子高齢化により、今後も訪問介護のニーズは増えていくと予想され、地域の声に応えるため、訪問介護事業を開始することにしました。当時、小田原市内の訪問介護施設は、9時から18時までの営業時間のところがほとんどでしたが、ご家族にとっては介護に昼も夜もありません。深夜に起きて体位交換やおむつ交換をするご家族の負担は大きく、介護スタッフからの「日中のみの対応では不十分では」という声もあり、2000年には小田原市初となる24時間365日対応の訪問介護事業を開始しました。介護事業は1年足らずで軌道に乗り、地域のトップシェア事業へと成長することができました。地域のニーズを事業としていち早く実現できたことが成功の鍵だったと思っています。地域が本当に必要としているサービスを事業者として見極めることの大切さを実感しました。
訪問介護事業をスタートした翌年の2001年には、福祉用具の貸与事業と居宅介護支援事業を開始し、2002年には福祉タクシー事業、2003年には身体障がい者、知的障がい者、児童、精神障がい者居宅介護事業を開始しています。各事業とも順調に業績を伸ばし、創業から5年後の2004年には法人化により株式会社エイチ・エス・エーとなりました。
安心して暮らせる地域のため「総合福祉」から「総合生活支援」へ
弊社は神奈川県小田原市の地域で、介護や福祉に関することなら何でも揃い、地域の方に頼られる会社を目指して発展を続けてきました。コロナ禍によりわずかに業績は下がったものの、弊社の事業を必要とする地域の方の支えにより継続することができています。弊社は、弊社の事業を必要とする利用者様や、地域の方の労働力により支えられており、地域社会は企業の経済活動と信頼の循環により成り立っていると実感しています。地域の課題やニーズを吸い上げてビジネス化し、安心して過ごせる地域社会を築き上げていくことこそが、地域で事業を営む者の責務だと思っています。
一方で悪質な業者によるトラブルは後を絶ちません。ここ最近は、水道のトラブルで業者に修理を依頼したところ80万円も請求されたというニュースを耳にして、憤りを感じるとともに、生活上の困りごとをどこに頼めばいいかわからない方が多いことに気付きました。そこで、お困りの方の力となれるよう、一般建設業許可を取得してリフォーム法人部をつくり、住宅改修事業を始めました。お客様が住み慣れたご自宅で快適にお過ごしいただけるように、トイレやキッチンなどの改修工事などのご相談を受け付けるようにしたところ反響があり、2年ほどで黒字化に繋げることができました。さらに「お客様からいただいた相談は全て会社で共有する」というルールを社内で徹底し、生活にまつわる全ての悩み事を電話などで相談できる体制を整えることで、地域のお困り事やニーズを吸い上げられるようにしています。
これまで弊社は、介護や福祉事業を通じて利用者様の生活の一部分を支えてきましたが、住宅改修事業への拡大を機に「総合福祉」から「総合生活支援」へと事業領域を広げ、サポートを必要とする方の生活全般を支えられる企業になっていきたいと考えています。間もなく創業30周年の節目を迎える弊社にとっては新たな挑戦であり、これは誰一人取り残さない地域づくりの実現にも繋がると考えています。地域にとって弊社がなくてはならない存在となり、小田原市に住む全ての方が安心して暮らせる地域を実現していきたいと思います。
社員の主体性を尊重する「選択制民主主義制度」
事業と組織の拡大に比例して、はじめは3人だったスタッフも、2023年現在は300人を超えるまでになりました。ほぼ毎月新入社員が入社しており、新人研修では私自身が理念の説明を行い、自分の成長が自分の人生に最も大事だということを話しています。研修は、新人社員のほか他社の方が見学に来ることもあり、好評となっています。私個人の意見としては、社会の役に立つ人間に育つのならば、弊社でなくともいいと思っています。どんな人も、せっかく生まれてきたのだから、生かされるのではなく、自分の意志で生きてほしいという想いを研修の際にも正直に伝えており、私の話を聞いて自分が本当に進みたい道に気づき、弊社への入社を辞退してしまう方もいます。役員には注意されますが、自分の人生を見つめ直し、本当に挑戦したいことに気づいてくれたのなら、むしろ喜ばしいことだと思っています。
弊社の社員の中には、私の話を聞いて相談のプロフェッショナルになりたいという自分の夢に気付き、一度弊社を退職してキャリアを積み、また戻ってきた方がいます。弊社で定年を迎えたいと思っていたそうで、相談員として力をつけるだけでなく、人生最後の職場に弊社を選んでもらえたことを嬉しく思っています。
社員には働き方を自分で選択できる力を身につけていってほしいと思っており、20年ほど前から事業計画を各事業部でまとめてもらえるようにしました。事業計画は、全社員が記入する「働き方提案シート」を元につくられており、「働き方提案シート」には自分たちの給与体系や福利厚生、会社や社員の成長のために必要な教育などを、自由に書いてもらっています。事業計画への適用も話し合いによって決めており、自分たちでルールをつくり運用する社内は、一つの共同体のような形態になっています。
弊社では、業務をする上で役職はあっても、議論は平等であり、平等な議論のためには平等な情報が必要だと考え、業績・収益・預金など、会社の数字にまつわる全ての情報は社内のポータルサイトで公開しています。人事評価制度も、以前は自己評価をつけ役職者が査定をする体制でしたが、社内から「1人の上司が複数の部下を平等に評価できるだろうか」「他者を一方的に評価することは理念に反するのでは」といった疑問の声が上がり、希望者が自ら事業長や役職者に立候補する「エントリー制」を導入することにしました。エントリーした社員は、希望する役職ごとに定められた条件をクリアできれば就任できる仕組みになっており、何度でも挑戦できるシステムになっています。新事業を立ち上げ、独立することも認めています。
社内規則や仕組みは社内で毎年ブラッシュアップされ、自分たちで選択し働く場をつくり上げる「選択制民主主義制度」が定着しているのを感じています。
社員が必要に応じて整えつくり上げる社内体制は、居心地の良い職場環境づくりにも繋がり、離職率の低さとしても表れています。介護業界全体の離職率は約14%ですが、弊社では介護事業をスタートした当初から離職率が一桁台で推移しており、現在も3~4%となっています。
社員それぞれの指針を象徴する理念
企業理念は創業以前から設けていますが、会社として理念や組織基準などの思想を浸透させるような働きかけはあえてしていません。理念は制定した当時の経営者の考えを形にしたものであり、社内に理念が浸透しない場合は、方針や考え方が時代の流れや事業、職場環境に合わなくなっていることの方が多いからです。働く社員が、自分たちにとって最も適した理念を見つけ出してもらえるように、理念を変えたかったらいつでも提案してほしいと伝えていますが、改善案が社員から寄せられたことはなく、私が「良道(りょうどう)」と「あるべき姿」が加えたほかは、創業時からほとんど変わっていません。今のところ、社員の目指すものからは大きくかけ離れてはいないのだろうと思っています。
会社には理念がありますが、社員それぞれが自らの指針を持ち、事業サービスだけでなく日常での言葉や行動、生活を通じて互いを尊重し合える人の輪を広げ、自ら環境をつくり上げていってほしいと思っています。
人間力の醸成と一次産業に力を入れ、地域の生活基盤を守る
これまでは、介護福祉の関連事業を通じて「人の支援」にフォーカスした事業に取り組んできました。今後はやや俯瞰的な視野で「人間」と「地域」に関する2事業に取り組んでいきたいと思っています。
「人間」に関わる事業では、弊社の「社会学校」の取り組みを、社内から地域に発信する機会をつくりたいと思っています。戦後における日本の教育は、答えのある問題を解くばかりで、クリエイティブな力が育まれず、人生がつまらないと感じている人も多いように感じます。まずは自社で人間力を育む基盤をつくり、社員を通じて、少しずつ弊社や地域に志を持った方が育ち、集まるようになっていけばと思っています。
「地域」に関する事業としては、一次産業に力を入れていきたい考えです。近年は気候変動や戦争などにより物資が高騰するとともに円安が進んでおり、国家が累積債務を返済できなくなる「デフォルト」に突然陥る可能性もないとは言い切れません。万が一の事態に備えて、最低限の生活を維持し自給自足ができるように、地域に食糧の生産拠点を確保し備蓄をしておきたいと考えています。この取り組みの根幹には、持続可能な街づくりを目指す「地域循環型経済」の考え方があり、中期経営計画として取り組んでいる総合生活支援事業もその一環となっています。
日本の企業風土に合う独自の事業型ファンド設立を志向
現在は中小企業でもM&Aが盛んに行われるようになってきていますが、いわゆる売った買ったのビジネスライクな取り引きではなく、互いの事業領域を活かしながら、継続的に関わり合える関係性を目指したいと考えています。実利を重んじる海外では、M&Aを不採算事業の切り離しに使うことも多いようですが、人との連携や関係性を大切にする日本人にはあまり馴染まない方法だと思っています。日本の企業風土に合った独自のシステムを構築し、地域経済の循環を促進していくには、コンサルティングの領域から多くの企業にアプローチをしていく必要があります。弊社がファンド会社へと成長することにより、日本らしい新たな事業型ファンドの形を開拓していきたい考えです。
構想としては、クラウドファンディングのように、大きな資本をもつ企業から投資を募って魅力ある事業や企業の成長を促し、新事業にも挑戦しやすい基盤をつくり上げていきたいと思っています。事業者の半数以上を占める中小企業にこそ挑戦し協力していただきたい事業であり、地域活性化のためにも力を合わせて取り組んでいきたいと考えています。
企業の連携強化を図るには、相手先がどういうビジョンを持っているか、働く社員とどれだけビジョンを共有できているか、協業先とどうやってビジョンをかが重要になります。協業の先には地域があり、地域の人に必要とされ、ともに成長していくには、各社員の自律と共生への意識、協働が不可欠です。
M&Aの先にある協働や挑戦にこそ、想像以上の付加価値があると思っており、協力企業やその社員と新領域の開拓を進めていくことで、地域の新たな側面や企業の可能性を発見できるのではと期待しています。
やりがいと生きる喜びを探し仕事に打ち込む
小田原市内で食堂を営む両親の元に生まれた私は、両親が早朝から夜遅くまで働く姿を見ながら育ちました。幼い頃から食堂を手伝っていた私は、何となく自分が食堂を引き継ぐものだと思っていましたが、学生時代から苦労続きだった父は食堂を継がせる気はなく、長男である兄と次男の私に「しっかり勉強をして手に職をつけろ」と口癖のように言い続けていました。長男である兄は、父の言いつけ通り安定した大手の会社に入社して海外勤務をするようになり、私も手に職をつけるため設備系の工業高校に進学し、国家資格や免許を取得していきました。
進路選択にあたっては、父から上場企業への就職を強く勧められ、大手自動車メーカーに入社しました。3年間身を粉にして働くうちに、取得した資格を活かせる会社で自分の力を伸ばしてみたいと思うようになり、父の反対を押し切って大手広告代理店の子会社に転職しました。転職を機に、自分のスキルを活かせる、設備管理・設計の業務に携われるようになったことで、本業に就き、自分が進むべき道を自分で選ぶことができたと思いました。
広告代理店に入社した頃は、全国各地で博覧会等が開催されていました。博覧会やイベントの設備設計や管理を担当していた私は、日本中を飛び回り、準備から撤収まで約10カ月かかるプロジェクト一件一件に力を注ぎ、業績不振の営業所を立て直すなど、昼夜問わず夢中で働きました。1989年には、横浜市政100周年と横浜港開港130周年を記念した「横浜博覧会」が開催され、広大な会場のうち横浜の明治期の街並みを再現した「開港記念村」を担当し、仕上がっていく過程の面白さや充実感を味わいました。
社会学との出会いを機に、人間力と創造力を高める会社の創業を決意
仕事に明け暮れていたある日、飲み会の席で後輩が「これって、いつまで続くんですかね」と素朴な疑問を口にしました。その時は「何言ってるんだ。それが仕事だよ」などと濁しましたが、目の前の仕事に懸命に取り組んだ先に何が残るのか、自分自身が将来的にどうなっていきたいのかというビジョンを持っていないことに気づかされ、漠然としたむなしさを感じました。周りの意見や社会に流されながら生きるのではなく、自分の意志と力で生きていきたいと思うようになり、自己啓発セミナーなどに参加し、自分の考えや生き方を変えようと行動するようになりました。
また、偶然立ち寄った書店の社会学の本も、生き方を考え直すきっかけをくれました。始めは初歩的な本のあらすじを読んでいるだけでしたが、読み進めていくうちに自分が暮らす社会や経済の仕組みを理解できるようになり、知識と現実が結びついていく楽しさに夢中になっていきました。社会人としての在り方や自分の人生は、自分で考え決められると気付かされたこのタイミングが、私にとっての人生の始まりとなりました。
さらに学びを深めていくうちに、今の世の中は、社会をより良いものにしたいという意欲やアイデアを生み出す創造力が失われてしまっていること、心の成長も含めて自己確立ができていない人がとても多いことに気が付きました。将来、未来を創造する力は、生きる喜びや実感にもつながる人間として大事な要素です。創造力を育み人間力を高めていける「社会学校」をつくり、価値観の違いや変化を多様性として大事にできる人と組織を育てていきたいという思いが膨らみ、起業を決意しました。
人と地域の役に立ちやりがいを実感できる医療マッサージ事業を開始
会社員時代は全国各地で仕事をしていたので、創業するなら地元の小田原市に根づくような、地域密着の企業にしたいと考えていました。開業する業種としては製造業も考えましたが多額の設備投資が必要であり、BtoBよりもBtoCの方が、人のために役立ちたいという意識や創造する力も高まるだろうと考え、サービス業でのスタートを考えました。業種を絞り込むため、BtoCサービスを提供する会社や事業所を見て回るうちに、医療マッサージの施術を見る機会を得ました。右半身が不自由になり、回復の希望は薄いとされていた女性が、献身的なリハビリやマッサージによって運動機能を少しずつ取り戻していく過程とともに、患者である女性が、施術者に「この人たちがいなかったら、私の人生は終わっていた」と感謝し涙を流す姿を見て、地域の人の心身に寄り添う医療マッサージの事業を始めようと決意を固めました。
1999年の創業当時は、かねてから構想していた「社会学校」の理念を明文化して、事業を開始しました。組織づくりをしていくため知人に協力を求めましたが、理念や構想への理解はなかなか得られず、まず採用面で苦労しました。また小田原市内には、医療保険を使ったマッサージ事業者がまだおらず、前例も認知度もなかったため、行政から保険の適用事業所としての許可が下りず、半年ほど無報酬の期間がありました。事業が軌道に乗るまでには時間が必要であることは想定しており、会社員時代からの貯蓄1000万円のほか、家族に迷惑をかけないようにとあらかじめ投資していた不動産の収益によって、家族の生活を守りながら、事業を継続することができました。弊社の創業時にはアパートを10棟所有するまでになっていましたが、事業が安定するまではと蓄えに回すため、社員にはきっちり給料を払いながら、自分自身は無給で3年間を過ごしました。
地域のニーズを捉え24時間365日対応の訪問介護事業をスタート
創業から半年経った2000年には介護保険制度がスタートし、医療マッサージを受けに来る高齢のお客様の間でも訪問介護への関心や需要の声が高まってきていました。少子高齢化により、今後も訪問介護のニーズは増えていくと予想され、地域の声に応えるため、訪問介護事業を開始することにしました。当時、小田原市内の訪問介護施設は、9時から18時までの営業時間のところがほとんどでしたが、ご家族にとっては介護に昼も夜もありません。深夜に起きて体位交換やおむつ交換をするご家族の負担は大きく、介護スタッフからの「日中のみの対応では不十分では」という声もあり、2000年には小田原市初となる24時間365日対応の訪問介護事業を開始しました。介護事業は1年足らずで軌道に乗り、地域のトップシェア事業へと成長することができました。地域のニーズを事業としていち早く実現できたことが成功の鍵だったと思っています。地域が本当に必要としているサービスを事業者として見極めることの大切さを実感しました。
訪問介護事業をスタートした翌年の2001年には、福祉用具の貸与事業と居宅介護支援事業を開始し、2002年には福祉タクシー事業、2003年には身体障がい者、知的障がい者、児童、精神障がい者居宅介護事業を開始しています。各事業とも順調に業績を伸ばし、創業から5年後の2004年には法人化により株式会社エイチ・エス・エーとなりました。
安心して暮らせる地域のため「総合福祉」から「総合生活支援」へ
弊社は神奈川県小田原市の地域で、介護や福祉に関することなら何でも揃い、地域の方に頼られる会社を目指して発展を続けてきました。コロナ禍によりわずかに業績は下がったものの、弊社の事業を必要とする地域の方の支えにより継続することができています。弊社は、弊社の事業を必要とする利用者様や、地域の方の労働力により支えられており、地域社会は企業の経済活動と信頼の循環により成り立っていると実感しています。地域の課題やニーズを吸い上げてビジネス化し、安心して過ごせる地域社会を築き上げていくことこそが、地域で事業を営む者の責務だと思っています。
一方で悪質な業者によるトラブルは後を絶ちません。ここ最近は、水道のトラブルで業者に修理を依頼したところ80万円も請求されたというニュースを耳にして、憤りを感じるとともに、生活上の困りごとをどこに頼めばいいかわからない方が多いことに気付きました。そこで、お困りの方の力となれるよう、一般建設業許可を取得してリフォーム法人部をつくり、住宅改修事業を始めました。お客様が住み慣れたご自宅で快適にお過ごしいただけるように、トイレやキッチンなどの改修工事などのご相談を受け付けるようにしたところ反響があり、2年ほどで黒字化に繋げることができました。さらに「お客様からいただいた相談は全て会社で共有する」というルールを社内で徹底し、生活にまつわる全ての悩み事を電話などで相談できる体制を整えることで、地域のお困り事やニーズを吸い上げられるようにしています。
これまで弊社は、介護や福祉事業を通じて利用者様の生活の一部分を支えてきましたが、住宅改修事業への拡大を機に「総合福祉」から「総合生活支援」へと事業領域を広げ、サポートを必要とする方の生活全般を支えられる企業になっていきたいと考えています。間もなく創業30周年の節目を迎える弊社にとっては新たな挑戦であり、これは誰一人取り残さない地域づくりの実現にも繋がると考えています。地域にとって弊社がなくてはならない存在となり、小田原市に住む全ての方が安心して暮らせる地域を実現していきたいと思います。
社員の主体性を尊重する「選択制民主主義制度」
事業と組織の拡大に比例して、はじめは3人だったスタッフも、2023年現在は300人を超えるまでになりました。ほぼ毎月新入社員が入社しており、新人研修では私自身が理念の説明を行い、自分の成長が自分の人生に最も大事だということを話しています。研修は、新人社員のほか他社の方が見学に来ることもあり、好評となっています。私個人の意見としては、社会の役に立つ人間に育つのならば、弊社でなくともいいと思っています。どんな人も、せっかく生まれてきたのだから、生かされるのではなく、自分の意志で生きてほしいという想いを研修の際にも正直に伝えており、私の話を聞いて自分が本当に進みたい道に気づき、弊社への入社を辞退してしまう方もいます。役員には注意されますが、自分の人生を見つめ直し、本当に挑戦したいことに気づいてくれたのなら、むしろ喜ばしいことだと思っています。
弊社の社員の中には、私の話を聞いて相談のプロフェッショナルになりたいという自分の夢に気付き、一度弊社を退職してキャリアを積み、また戻ってきた方がいます。弊社で定年を迎えたいと思っていたそうで、相談員として力をつけるだけでなく、人生最後の職場に弊社を選んでもらえたことを嬉しく思っています。
社員には働き方を自分で選択できる力を身につけていってほしいと思っており、20年ほど前から事業計画を各事業部でまとめてもらえるようにしました。事業計画は、全社員が記入する「働き方提案シート」を元につくられており、「働き方提案シート」には自分たちの給与体系や福利厚生、会社や社員の成長のために必要な教育などを、自由に書いてもらっています。事業計画への適用も話し合いによって決めており、自分たちでルールをつくり運用する社内は、一つの共同体のような形態になっています。
弊社では、業務をする上で役職はあっても、議論は平等であり、平等な議論のためには平等な情報が必要だと考え、業績・収益・預金など、会社の数字にまつわる全ての情報は社内のポータルサイトで公開しています。人事評価制度も、以前は自己評価をつけ役職者が査定をする体制でしたが、社内から「1人の上司が複数の部下を平等に評価できるだろうか」「他者を一方的に評価することは理念に反するのでは」といった疑問の声が上がり、希望者が自ら事業長や役職者に立候補する「エントリー制」を導入することにしました。エントリーした社員は、希望する役職ごとに定められた条件をクリアできれば就任できる仕組みになっており、何度でも挑戦できるシステムになっています。新事業を立ち上げ、独立することも認めています。
社内規則や仕組みは社内で毎年ブラッシュアップされ、自分たちで選択し働く場をつくり上げる「選択制民主主義制度」が定着しているのを感じています。
社員が必要に応じて整えつくり上げる社内体制は、居心地の良い職場環境づくりにも繋がり、離職率の低さとしても表れています。介護業界全体の離職率は約14%ですが、弊社では介護事業をスタートした当初から離職率が一桁台で推移しており、現在も3~4%となっています。
社員それぞれの指針を象徴する理念
企業理念は創業以前から設けていますが、会社として理念や組織基準などの思想を浸透させるような働きかけはあえてしていません。理念は制定した当時の経営者の考えを形にしたものであり、社内に理念が浸透しない場合は、方針や考え方が時代の流れや事業、職場環境に合わなくなっていることの方が多いからです。働く社員が、自分たちにとって最も適した理念を見つけ出してもらえるように、理念を変えたかったらいつでも提案してほしいと伝えていますが、改善案が社員から寄せられたことはなく、私が「良道(りょうどう)」と「あるべき姿」が加えたほかは、創業時からほとんど変わっていません。今のところ、社員の目指すものからは大きくかけ離れてはいないのだろうと思っています。
会社には理念がありますが、社員それぞれが自らの指針を持ち、事業サービスだけでなく日常での言葉や行動、生活を通じて互いを尊重し合える人の輪を広げ、自ら環境をつくり上げていってほしいと思っています。
人間力の醸成と一次産業に力を入れ、地域の生活基盤を守る
これまでは、介護福祉の関連事業を通じて「人の支援」にフォーカスした事業に取り組んできました。今後はやや俯瞰的な視野で「人間」と「地域」に関する2事業に取り組んでいきたいと思っています。
「人間」に関わる事業では、弊社の「社会学校」の取り組みを、社内から地域に発信する機会をつくりたいと思っています。戦後における日本の教育は、答えのある問題を解くばかりで、クリエイティブな力が育まれず、人生がつまらないと感じている人も多いように感じます。まずは自社で人間力を育む基盤をつくり、社員を通じて、少しずつ弊社や地域に志を持った方が育ち、集まるようになっていけばと思っています。
「地域」に関する事業としては、一次産業に力を入れていきたい考えです。近年は気候変動や戦争などにより物資が高騰するとともに円安が進んでおり、国家が累積債務を返済できなくなる「デフォルト」に突然陥る可能性もないとは言い切れません。万が一の事態に備えて、最低限の生活を維持し自給自足ができるように、地域に食糧の生産拠点を確保し備蓄をしておきたいと考えています。この取り組みの根幹には、持続可能な街づくりを目指す「地域循環型経済」の考え方があり、中期経営計画として取り組んでいる総合生活支援事業もその一環となっています。
日本の企業風土に合う独自の事業型ファンド設立を志向
現在は中小企業でもM&Aが盛んに行われるようになってきていますが、いわゆる売った買ったのビジネスライクな取り引きではなく、互いの事業領域を活かしながら、継続的に関わり合える関係性を目指したいと考えています。実利を重んじる海外では、M&Aを不採算事業の切り離しに使うことも多いようですが、人との連携や関係性を大切にする日本人にはあまり馴染まない方法だと思っています。日本の企業風土に合った独自のシステムを構築し、地域経済の循環を促進していくには、コンサルティングの領域から多くの企業にアプローチをしていく必要があります。弊社がファンド会社へと成長することにより、日本らしい新たな事業型ファンドの形を開拓していきたい考えです。
構想としては、クラウドファンディングのように、大きな資本をもつ企業から投資を募って魅力ある事業や企業の成長を促し、新事業にも挑戦しやすい基盤をつくり上げていきたいと思っています。事業者の半数以上を占める中小企業にこそ挑戦し協力していただきたい事業であり、地域活性化のためにも力を合わせて取り組んでいきたいと考えています。
企業の連携強化を図るには、相手先がどういうビジョンを持っているか、働く社員とどれだけビジョンを共有できているか、協業先とどうやってビジョンをかが重要になります。協業の先には地域があり、地域の人に必要とされ、ともに成長していくには、各社員の自律と共生への意識、協働が不可欠です。
M&Aの先にある協働や挑戦にこそ、想像以上の付加価値があると思っており、協力企業やその社員と新領域の開拓を進めていくことで、地域の新たな側面や企業の可能性を発見できるのではと期待しています。
会社概要
社名 | 株式会社エイチ・エス・エー |
創立年 | 1999年 |
代表者名 | 代表取締役 田中 勉 |
資本金 | 1,000万円 |
URL |
https://www.hsa-w.co.jp/
|
本社住所 |
〒250-0001 |
事業内容 | 訪問介護 訪問看護 リハビリ 高齢者デイサービス(リハビリ特化) 有料老人ホーム 介護タクシー 居宅介護支援 放課後等デイサービス 障害者訪問介護 訪問マッサージなど |
事業エリア |
本社・訪問介護・障がい者訪問介護・居宅介護支援センター・放課後等デイサービス 秘密基地 〒250-0001 |
訪問看護リハビリステーション 花はな 〒250-0862 |
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めだかの学校五百羅漢 〒250-0001 |
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めだかの学校飯泉・放課後等デイサービスひまわりの家 〒250-0863 |
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めだかの学校桑原・放課後等デイサービスぐれーぷ 〒250-0861 |
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住宅型有料老人ホーム ひなた飯田岡 〒350-0854 |
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住宅型有料老人ホーム ひなた飯泉 〒250-0863 |
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住宅型有料老人ホーム ひなた曽比(オープン前) 〒250-0851 |
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放課後等デイサービス 笑っこ 〒259-0312 |
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放課後等デイサービス りんごの木 〒250-0054 |
会社沿革
1999年 | 有限会社エイチ・エス・エー設立 医療マッサージ事業開始、住宅改修業開始 |
2000年 | 訪問介護業務開始 |
2001年 | 福祉用具貸与事業開始 居宅介護支援事業開始 |
2002年 | 福祉タクシー事業開始 |
2003年 | 身体障碍者居宅介護事業開始 知的障害者居宅介護事業開始 児童居宅介護事業開始 精神障害者居宅介護事業開始 |
2004年 | 有限会社エイチ・エス・エーを組織改編し、株式会社エイチ・エス・エーとする |
2005年 | 建築業の許可取得(般-16)第069683号 |
2007年 | 本社移転 通所介護事業「めだかの学校五百羅漢」を開設 鍼灸マッサージ治療鷣「アールイー」開設 児童デイサービス「秘密基地」を開設 |
2009年 | ヘルパー養成口座開校 児童デイサービス「ひまわりの家」を開設 通所介護事業「めだかの学校桑原」を開設 児童デイサービス「ぐれーぷ」を開設 |
2011年 | 児童デイサービス「笑っこ」を開設 |
2012年 | 住宅型有料老人ホーム「ひなた飯田岡」を開設 |
2013年 | 通所介護事業「めだかの学校飯泉」を開設 住宅型有料老人ホーム「ひなた飯泉」を開設 |
2015年 | 訪問介護ステーション「花はな」を開設 |
2016年 | デイリーヤマザキ鴨宮北口店を開店 |
2018年 | 児童デイサービス「りんごの木」を開設 神奈川医療介護人材センターを開設 |
公開日:2023/09/20
※本記事の内容および所属名称は2023年9月現在のものです。現在の情報とは異なる場合があります。
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