神奈川・相模原市中央区
神奈川 ・ 相模原市
引継ぎ実績あり
提案型営業で
株式会社ミナミ工機
ラストワンマイルの流通網と製品サービスの価値向上に努める
経営理念
お客様の役に立つ価値ある商品を、深く広い知識と熱意で提供し、従業員がいきいき働く会社に
代表者メッセージ
私たちは、相模原の工具屋として親しまれている機械工具総合商社です。
工場や建設現場などの「ものづくり」の現場に、工具や消耗品(MRO)などをお届けする納入業者であり、コスト削減、作業性upなどの改善につながる商品を提案するセールスマンでもあります。
創業以来「Products get smoothly(ものづくりの仕入れをスムーズに)」をコンセプトに、提案型営業でお客様の「これが欲しかった」をお届けしています。
お困りの方は、長年にわたり支援を行ってきた弊社に、ぜひお気軽にご相談ください。
代表取締役社長 南 篤史
私たちのこだわり
2度の失敗を経て、ものづくりの現場を支える工具屋を創業した祖父
弊社は、1973年に祖父の南三郎によって相模原で設立されましたが、南家のルーツは富山県になります。祖父は戦争から無事帰還すると親戚が営む木型屋を引き継ぐ形で事業を始めました。富山県は鋳物の町ということもあり、木型屋は需要がありました。しかしその木型屋も立ち行かなくなり、1964年に祖父はやむなく家族とともに相模原市に転居し、働きながらお金を工面して1967年の40歳のときには新たに板金屋を創業しました。
ところが板金業もあまり振るわず、1973年に事業をたたみ、同年にミナミ工機を創業することにしました。祖父は、製造業である木型屋と板金業で2度失敗したので、今度は製造業の現場を支える「工具屋」として再挑戦しようと考えたようです。お客様である製造業や建設業は、戦後の経済成長とともに拡大を続けており、ものづくりの周辺事業であれば、会社としても安定できると考えたのかもしれません。
親孝行の気持ちから未経験の商社を承継した父
祖父がミナミ工機を創業した当時は、父は21歳で大学3年生でした。父は親元を離れ、家を出て富山県の大学に行っていました。春夏冬の長期休みには帰省し、仕事を手伝ってはいましたが、家業を継ぐ気はなく、大学卒業後は損害保険会社でサラリーマンとして働いていました。
その後1986年頃に、祖父が倒れ寝たきりになりました。父は、祖母から「ミナミ工機を継いでほしい」と頼まれ、親孝行の気持ちから承継を決意したそうです。祖父は寝たきりで引継ぎが全く出来ない状態でしたが、未経験の商社を経営することとなりました。
父が家業を継いだ1986年はバブル最盛期であり、お客様である製造業も急成長していく中で、主力である工具がどんどん売れるだけでなく、積極的な設備投資需要もあいまって工作機械なども売れ、平時の売上は5億円ほどでしたが、最盛期は10億近くまで売上が伸び、相模原でものづくりを営むお客様とともに、弊社も成長していきました。父は商社の業界や社長の立場は未経験でしたが、代表と営業を兼務し、業界や地域の把握に努めることで、仕入れ先や販売先のお客様との結びつきを強めていったそうです。
就職氷河期に「家業を継ぐ」という選択肢を自ら選び取る
私は、父が福岡でサラリーマンとして働いて時に生まれ、父が家業を継いだ時に家族で神奈川県相模原市に引っ越してきました。父が家業を承継した当時は、私は小学1年生でした。
私が小中学生の時には「継がなくてもいい」と父から言われており、数ある職の一つとして家業をとらえていましたが、将来の選択肢の中には常に家業がありました。
高校の進路選択の時期には、家業を継ぐことになった時に役立つ学部に進もうと考え、大学は商学部に進学しました。しかし、大学で過ごしている間も就職活動の時期も、自分の中で進路が定まらず、就職氷河期であったことも影響して、なかなか就職先は決まりませんでした。
そして、ようやく社長面接まで進んだ企業が1社あり、期待を胸に面接に臨みましたが、応募先の社長からは「会社は、新入社員の時から君に教育という投資をして、3年経ってようやく花開くという時にきっと君はいなくなる。それは困る」という話をされました。家が事業を営んでいることは隠さずに就職活動をしていたのが裏目に出たことで、結局その会社は不採用となりました。その時は腹立たしく思いましたが、少し経ってからふと「選択肢としてずっと家業を残しているということは、私自身が決めかねているだけで、本当は継ぎたいのだな」と気づかされました。
不景気の最中に時間を割き、学生であった私に経営者としての率直な意見と気づきをくれた社長には、今も感謝しています。
仕入れ先の修業と家業での営業により後継者としての経験を積む
家業を継ぐことを決めた私は、家業には迷惑をかけずに修業や社会勉強をしようと思い、独断で現在の仕入れ先でもあるトラスコ中山株式会社の会社説明会に参加することにしました。しかし、私が説明会に参加していたことが説明会の担当者から父に伝わり、父からは「今の段階ではどの会社に行きたいんだ」とたずねられました。
商社の業界では、仕入れ先や取引先のメーカーに後継者候補の息子を預かってもらう文化があり、修業先を選ぶ以上は後継者としての責任をもつ必要があることや、修業先は今後の取引に支障が出ないように慎重に選ばなければいけないことを、父から教えてもらいました。
後継者になる決意と父への報告は、順番が逆となってしまいましたが、後継者として改めてトラスコ中山に修業を申し入れ、働きながら勉強させてもらえることとなりました。
トラスコ中山での7年半の修業期間を終えた私は、2010年の30歳の時に弊社に戻りました。入社当時から、役職として取締役の肩書がついてはいましたが、特別な役割や業務などはなく、営業として経験を積んでいきました。
その後、入社から11年後の2021年には、父から私への代表のバトンタッチをしました。
2024年現在は、私が代表となり、父は会長として共同代表を務めています。資金繰りや経営の全体的な管理などは会長にサポートしてもらいながら、私は営業の統括を中心とした業務を行っています。
約150社の幅広いチャネルとラストワンマイルが強み
弊社の強みは、仕入れ先のチャネルが大中小と幅広く、地場も含めて取引先が150社ほどあることです。お客様のニーズに応えながら開拓をしていったことで取引先が増え、年間売上も、数十万円ほどから億に近い先まであります。
国内には直販を行うメーカーや大手商社もありますが、メーカーの規模が小さくなるほど、膨大な数のユーザーとの取引や代金回収まで管理することは困難となります。製品販売には、卸業者や商社の営業力や物流網が必要であり、相模原のユーザーのニーズを熟知している弊社だからこそ、大切な製品を任せていただけていると感じています。
仕入れ先のネットワークを駆使して、販売先のお客様の急ぎの案件に対応できることも弊社の強みです。「今日明日中に商品がほしい」というご依頼は、問屋や商社が保有している流通在庫を集めることで、短納期を実現できるようにしています。
商社である弊社の競合は、おそらくネット通販になりますが、物流でいう物流の最終拠点からエンドユーザーまで「ラストワンマイル」に対応し即納できることが、地域密着の弊社にしかできない特徴です。弊社では「短納期で現場に直接届けてほしい」などの日時や場所に指定がある場合も対応し、お客様からの高い評価を得ています。
弊社の課題としては、価格競争力が中の上クラスであり、業界の上位クラスに挑むことも可能な位置にいますが、コストダウンで大手と張り合っても、地域密着の弊社の良さを活かしきれないのが悩みどころです。そのため、ツグナラ専門家でもある税理士法人りんくに協力をあおぎ、中長期計画を策定することで、現状の把握と成長に向けた目標を設定しているところです。目標とする売上や規模感、ビジョンをさらに追究し明確にしていくことで、事業継続と成長の実現を目指したいと考えています。
広く深い知識を得ることで期待値以上の提案力を目指す
地域密着の規模の近い商社の中では、営業マンが若いのも弊社の強みです。弊社の社員8人のうち営業マンは4人で、20代と30代が1人ずつと、40代が2人。その4人にプラスして私も営業として携わっています。商社の事業継続には、仕入れ先や販売先との信頼関係が大切であり、橋渡し役となる営業を育成し続けることで、ステークホルダーの皆様からは長く付き合っていける会社だと思っていただけているようです。社内は日頃から風通しがよく、仕入れ先の営業の方とのコミュニケーションを大事にしています。
弊社の社員は、今のところ全員が中途採用であり、仕入れ先や同業者といった商社に近い業界で働いていました。しかし昔は社員に教育をする文化がなかったため(お客さんに教えてもらいないさいのような人任せOJT)、各人の能力にばらつきがあることが課題です。特に営業は、それぞれのセンスや裁量に任せられていた部分が大きく、これまで携わったことのある業種や製品への深い知識はあっても、他の業種のお客様のところでは理解が及ばず対応力に欠けるのが改善すべき点だと思っています。
新規開拓をする上では、どんなお客様にもご満足いただけるように、広く深く知識を得ながら、関係性を構築のために努力をし続ける必要があります。一般的な商品の知識に加えて、普段は扱わないニッチな商品も覚えておけば、問い合わせが来た時にすぐ対応することができます。一定以上の知識があれば、新規のお客様でも深い信頼関係を築くきっかけになることもあり、社員の知識向上のために、現在はメーカーにお願いをして、定期的に勉強会を開いています。社員はスキルアップに意欲的であり、前向きに取り組んでくれています。お客様の期待値以上の仕事ができるよう社員に働きかけながら、私自身も学び続けたいと思っています。
お客様の悩みや喜びを自分事として受け止められる会社へ
経営理念は、まだ言葉としてはまとめていませんが「従業員がいきいき働く会社」「お客様の役に立つ、素晴らしい商品を世の中に広める」という考えを中核に据えたいと思っています。
「社員がいきいき働く会社」は、お客様の困りごとを自分事として受けとめ、解決に導けるようになってほしいという願いを込めています。例えば、お客様側のトラブルで納期が前倒しになり「どうにかして当日中に商品がほしい」という難しい依頼を、社員には「解決できると期待されているからこそ頼っていただける」と前向きな気持ちで受けとめてもらえたらと思っています。お客様に無事納品できた時には、自分事のようにほっとしたり、喜び合えるような雰囲気を会社全体で常に感じられるようにしていきたいと思っています。
そして「お客様の役に立つ、素晴らしい商品を世の中に広める」は、日本のものづくりの会社が生み出す素晴らしい製品を、工場や建設現場といった別のものづくりの会社が活かせるように弊社が提案・支援し、日本のものづくり力と経済力を底上げしていきたいという強い気持ちから掲げました。
この「ものづくり」への思いは、私が後継者としての修業のために入社した、トラスコ中山での経験や実感がもととなっています。トラスコ中山は大商社であり、メーカーが情熱をもって開発した素晴らしい製品をいくつも扱っていました。ものづくりの現場のために努力を続ける開発者の姿を見続けたことで、製造業や物流といった業種や業界で区分するのではなく「日本のものづくりの現場を支える」という一つの目標に向かって、力を合わせていきたいと考えるようになりました。
流通販売である弊社の使命は、お客様である工場や建設現場の方が、製品特長を最大限に活かせるように把握し提案して、効率化につなげることです。弊社の仕事はものづくりの延長上にあり、サプライチェーンの川上や川下の関係なく国全体の発展を意識して、自社に何ができるかを全社員で考え続けることこそが、持続可能な地域社会での共創の実現につながるだろうと考えています。
だからこそ、社員には世の中にどんな製品があるかを常に把握してもらい、どうしたらお客様に製品を役立ててもらえるか、世の中に価値ある製品を知ってもらえるかを考え続けていってほしいと思っています。
経営難の仕入れ先の支援と引き継ぎをM&Aで実践
今後の規模感としては、相模原の外に商圏を広げたり、事業領域を広げたりすることはあまり考えていません。弊社が地域密着の商社としての良さを発揮し、お客様もベネフィットを得られる範囲は、厚木や八王子、町田などの相模原市近隣の地域です。それは取引先が遠方になると輸送費などの価格を商品に転嫁せざるを得ないからです。
また、無理に遠方に進出したり、価格競争のために安く仕入れたりすることは、自社やお客様、同業のいずれが不利益を被ることとなります。お客様の会社が成長できるようにサポートしていく方が、弊社やステークホルダーの今後のためになるだろうと考えています。
弊社では、2019年頃に経営難で廃業を検討していた仕入れ先の包装資材会社を、M&Aで引き継いでいます。M&Aは、中小企業の成長戦略の手法の一つであるということを、2012年に商工会議所が主催する日本M&Aセンターでの勉強会で学びました。弊社が所属する商工会議所では若手経営者向けの交流会や勉強会が盛んで、引き継ぐこととなる包装資材会社の後継者の方ともそこで知り合いました。包装資材会社の後継者は「経営が苦しい」と話しており、間接的に支援ができればと弊社が資材を仕入れて販売するようになりました。
しかし弊社の支援だけでは経営難を脱することができず、後継者の父である社長は会社の廃業を決め、後継者の方は別の会社に務めることとなりました。弊社としては、事業投資をしていた仕入れ先を失い、販売先のお客様からの信用も失うこととなってしまうため「M&Aで引き継ぎたい」と申し出ました。弊社と包装資材の会社は、商圏やユーザー層が重なっており、互いの仕入れ先や販売先が新たなお客様になり得ることから、親和性が高いと感じ、M&Aに踏み切りました。M&A後からは約5年が立ちましたが、包装資材会社の業績は順調に伸び、弊社の安定にもつながってきています。
ステークホルダーの幸せを追求できるM&Aを模索
外部環境が不安定な世の中でディフェンシブ(防衛的)に構えているままでは、緩やかに上がるか下降するだけあり、企業として余力のある状態まで引き上げていくには、自社を1段階も2段階も高い水域に高められるようにアップデートしていく必要があります。弊社では、安定化のために外部資本を入れて、出資元の得意製品で売上を伸ばせたらと一時期は考えていましたが、包装資材会社の引き継ぎを経て、まずは自社のまわりの幸せを追求していく方が、地域社会にとっても有意義だと感じるようになりました。
初めてのM&Aは仕入れ先で、直接話ができる間柄であったためあまり苦労はしませんでしたが、仲介業者を通じて相手先を探し始めてからは数字しか見えず、企業や事業の独自性や価値が見落とされているように感じました。また、譲渡側の会社を売り手と呼び、買い手と呼ばれる先に何社も当てていくようなM&Aの手法は、あまりいいものとは思えず、頑張ってきた中小企業が報われないまま廃業し、愛情のない買い手へ二束三文で売られてしまうのは、同じ経営者として世知辛いと感じました。
お世話になっている税理士法人りんくに相談したところ、サクシードのツグナラを紹介してもらいました。数字では見えにくい会社の良さを可視化し、会社の価値を上げていくことこそが本来の企業支援だというツグナラの考え方に共感し、参画を決めました。
将来に希望を抱けるM&Aを地域で実践していきたい
2024年現在、弊社は他社を引き継ぐ側であり、私自身も経営者としては44歳と比較的若いため、あと20年以上はビジネスを続けられるだろうと思っています。ただ、あと10年もすれば後継者を考え始めるべき時期になり、現在後継者問題を抱える他社と同じ悩みに直面することとなります。業績が良くとも、後継者が定まらなければ、仕入れ先や販売先のお客様が不安になり、金融機関も困ってしまうかもしれません。経営者の先輩からも、引き継ぎを全くしていない中で親が急に亡くなり、とても苦労したという話をよく聞いています。弊社の2代目である父も「継いでほしいと言われたのが40歳を超えた頃だったら、家業には戻らなかったかもしれない」と話しており、事業や企業の継続は、状況次第で揺らぐ不確実なものだと改めて感じています。
だからこそ、弊社がステークホルダーや地域企業の承継先となり、お互いにwin-winとなれるような承継を実践していくことで、将来に希望がもてる地域社会をつくれると考えています。自社が生き残り、事業や雇用の受け皿となりながら成長していく手段として、今後もM&Aに取り組んでいきたいと考えています。
2度の失敗を経て、ものづくりの現場を支える工具屋を創業した祖父
弊社は、1973年に祖父の南三郎によって相模原で設立されましたが、南家のルーツは富山県になります。祖父は戦争から無事帰還すると親戚が営む木型屋を引き継ぐ形で事業を始めました。富山県は鋳物の町ということもあり、木型屋は需要がありました。しかしその木型屋も立ち行かなくなり、1964年に祖父はやむなく家族とともに相模原市に転居し、働きながらお金を工面して1967年の40歳のときには新たに板金屋を創業しました。
ところが板金業もあまり振るわず、1973年に事業をたたみ、同年にミナミ工機を創業することにしました。祖父は、製造業である木型屋と板金業で2度失敗したので、今度は製造業の現場を支える「工具屋」として再挑戦しようと考えたようです。お客様である製造業や建設業は、戦後の経済成長とともに拡大を続けており、ものづくりの周辺事業であれば、会社としても安定できると考えたのかもしれません。
親孝行の気持ちから未経験の商社を承継した父
祖父がミナミ工機を創業した当時は、父は21歳で大学3年生でした。父は親元を離れ、家を出て富山県の大学に行っていました。春夏冬の長期休みには帰省し、仕事を手伝ってはいましたが、家業を継ぐ気はなく、大学卒業後は損害保険会社でサラリーマンとして働いていました。
その後1986年頃に、祖父が倒れ寝たきりになりました。父は、祖母から「ミナミ工機を継いでほしい」と頼まれ、親孝行の気持ちから承継を決意したそうです。祖父は寝たきりで引継ぎが全く出来ない状態でしたが、未経験の商社を経営することとなりました。
父が家業を継いだ1986年はバブル最盛期であり、お客様である製造業も急成長していく中で、主力である工具がどんどん売れるだけでなく、積極的な設備投資需要もあいまって工作機械なども売れ、平時の売上は5億円ほどでしたが、最盛期は10億近くまで売上が伸び、相模原でものづくりを営むお客様とともに、弊社も成長していきました。父は商社の業界や社長の立場は未経験でしたが、代表と営業を兼務し、業界や地域の把握に努めることで、仕入れ先や販売先のお客様との結びつきを強めていったそうです。
就職氷河期に「家業を継ぐ」という選択肢を自ら選び取る
私は、父が福岡でサラリーマンとして働いて時に生まれ、父が家業を継いだ時に家族で神奈川県相模原市に引っ越してきました。父が家業を承継した当時は、私は小学1年生でした。
私が小中学生の時には「継がなくてもいい」と父から言われており、数ある職の一つとして家業をとらえていましたが、将来の選択肢の中には常に家業がありました。
高校の進路選択の時期には、家業を継ぐことになった時に役立つ学部に進もうと考え、大学は商学部に進学しました。しかし、大学で過ごしている間も就職活動の時期も、自分の中で進路が定まらず、就職氷河期であったことも影響して、なかなか就職先は決まりませんでした。
そして、ようやく社長面接まで進んだ企業が1社あり、期待を胸に面接に臨みましたが、応募先の社長からは「会社は、新入社員の時から君に教育という投資をして、3年経ってようやく花開くという時にきっと君はいなくなる。それは困る」という話をされました。家が事業を営んでいることは隠さずに就職活動をしていたのが裏目に出たことで、結局その会社は不採用となりました。その時は腹立たしく思いましたが、少し経ってからふと「選択肢としてずっと家業を残しているということは、私自身が決めかねているだけで、本当は継ぎたいのだな」と気づかされました。
不景気の最中に時間を割き、学生であった私に経営者としての率直な意見と気づきをくれた社長には、今も感謝しています。
仕入れ先の修業と家業での営業により後継者としての経験を積む
家業を継ぐことを決めた私は、家業には迷惑をかけずに修業や社会勉強をしようと思い、独断で現在の仕入れ先でもあるトラスコ中山株式会社の会社説明会に参加することにしました。しかし、私が説明会に参加していたことが説明会の担当者から父に伝わり、父からは「今の段階ではどの会社に行きたいんだ」とたずねられました。
商社の業界では、仕入れ先や取引先のメーカーに後継者候補の息子を預かってもらう文化があり、修業先を選ぶ以上は後継者としての責任をもつ必要があることや、修業先は今後の取引に支障が出ないように慎重に選ばなければいけないことを、父から教えてもらいました。
後継者になる決意と父への報告は、順番が逆となってしまいましたが、後継者として改めてトラスコ中山に修業を申し入れ、働きながら勉強させてもらえることとなりました。
トラスコ中山での7年半の修業期間を終えた私は、2010年の30歳の時に弊社に戻りました。入社当時から、役職として取締役の肩書がついてはいましたが、特別な役割や業務などはなく、営業として経験を積んでいきました。
その後、入社から11年後の2021年には、父から私への代表のバトンタッチをしました。
2024年現在は、私が代表となり、父は会長として共同代表を務めています。資金繰りや経営の全体的な管理などは会長にサポートしてもらいながら、私は営業の統括を中心とした業務を行っています。
約150社の幅広いチャネルとラストワンマイルが強み
弊社の強みは、仕入れ先のチャネルが大中小と幅広く、地場も含めて取引先が150社ほどあることです。お客様のニーズに応えながら開拓をしていったことで取引先が増え、年間売上も、数十万円ほどから億に近い先まであります。
国内には直販を行うメーカーや大手商社もありますが、メーカーの規模が小さくなるほど、膨大な数のユーザーとの取引や代金回収まで管理することは困難となります。製品販売には、卸業者や商社の営業力や物流網が必要であり、相模原のユーザーのニーズを熟知している弊社だからこそ、大切な製品を任せていただけていると感じています。
仕入れ先のネットワークを駆使して、販売先のお客様の急ぎの案件に対応できることも弊社の強みです。「今日明日中に商品がほしい」というご依頼は、問屋や商社が保有している流通在庫を集めることで、短納期を実現できるようにしています。
商社である弊社の競合は、おそらくネット通販になりますが、物流でいう物流の最終拠点からエンドユーザーまで「ラストワンマイル」に対応し即納できることが、地域密着の弊社にしかできない特徴です。弊社では「短納期で現場に直接届けてほしい」などの日時や場所に指定がある場合も対応し、お客様からの高い評価を得ています。
弊社の課題としては、価格競争力が中の上クラスであり、業界の上位クラスに挑むことも可能な位置にいますが、コストダウンで大手と張り合っても、地域密着の弊社の良さを活かしきれないのが悩みどころです。そのため、ツグナラ専門家でもある税理士法人りんくに協力をあおぎ、中長期計画を策定することで、現状の把握と成長に向けた目標を設定しているところです。目標とする売上や規模感、ビジョンをさらに追究し明確にしていくことで、事業継続と成長の実現を目指したいと考えています。
広く深い知識を得ることで期待値以上の提案力を目指す
地域密着の規模の近い商社の中では、営業マンが若いのも弊社の強みです。弊社の社員8人のうち営業マンは4人で、20代と30代が1人ずつと、40代が2人。その4人にプラスして私も営業として携わっています。商社の事業継続には、仕入れ先や販売先との信頼関係が大切であり、橋渡し役となる営業を育成し続けることで、ステークホルダーの皆様からは長く付き合っていける会社だと思っていただけているようです。社内は日頃から風通しがよく、仕入れ先の営業の方とのコミュニケーションを大事にしています。
弊社の社員は、今のところ全員が中途採用であり、仕入れ先や同業者といった商社に近い業界で働いていました。しかし昔は社員に教育をする文化がなかったため(お客さんに教えてもらいないさいのような人任せOJT)、各人の能力にばらつきがあることが課題です。特に営業は、それぞれのセンスや裁量に任せられていた部分が大きく、これまで携わったことのある業種や製品への深い知識はあっても、他の業種のお客様のところでは理解が及ばず対応力に欠けるのが改善すべき点だと思っています。
新規開拓をする上では、どんなお客様にもご満足いただけるように、広く深く知識を得ながら、関係性を構築のために努力をし続ける必要があります。一般的な商品の知識に加えて、普段は扱わないニッチな商品も覚えておけば、問い合わせが来た時にすぐ対応することができます。一定以上の知識があれば、新規のお客様でも深い信頼関係を築くきっかけになることもあり、社員の知識向上のために、現在はメーカーにお願いをして、定期的に勉強会を開いています。社員はスキルアップに意欲的であり、前向きに取り組んでくれています。お客様の期待値以上の仕事ができるよう社員に働きかけながら、私自身も学び続けたいと思っています。
お客様の悩みや喜びを自分事として受け止められる会社へ
経営理念は、まだ言葉としてはまとめていませんが「従業員がいきいき働く会社」「お客様の役に立つ、素晴らしい商品を世の中に広める」という考えを中核に据えたいと思っています。
「社員がいきいき働く会社」は、お客様の困りごとを自分事として受けとめ、解決に導けるようになってほしいという願いを込めています。例えば、お客様側のトラブルで納期が前倒しになり「どうにかして当日中に商品がほしい」という難しい依頼を、社員には「解決できると期待されているからこそ頼っていただける」と前向きな気持ちで受けとめてもらえたらと思っています。お客様に無事納品できた時には、自分事のようにほっとしたり、喜び合えるような雰囲気を会社全体で常に感じられるようにしていきたいと思っています。
そして「お客様の役に立つ、素晴らしい商品を世の中に広める」は、日本のものづくりの会社が生み出す素晴らしい製品を、工場や建設現場といった別のものづくりの会社が活かせるように弊社が提案・支援し、日本のものづくり力と経済力を底上げしていきたいという強い気持ちから掲げました。
この「ものづくり」への思いは、私が後継者としての修業のために入社した、トラスコ中山での経験や実感がもととなっています。トラスコ中山は大商社であり、メーカーが情熱をもって開発した素晴らしい製品をいくつも扱っていました。ものづくりの現場のために努力を続ける開発者の姿を見続けたことで、製造業や物流といった業種や業界で区分するのではなく「日本のものづくりの現場を支える」という一つの目標に向かって、力を合わせていきたいと考えるようになりました。
流通販売である弊社の使命は、お客様である工場や建設現場の方が、製品特長を最大限に活かせるように把握し提案して、効率化につなげることです。弊社の仕事はものづくりの延長上にあり、サプライチェーンの川上や川下の関係なく国全体の発展を意識して、自社に何ができるかを全社員で考え続けることこそが、持続可能な地域社会での共創の実現につながるだろうと考えています。
だからこそ、社員には世の中にどんな製品があるかを常に把握してもらい、どうしたらお客様に製品を役立ててもらえるか、世の中に価値ある製品を知ってもらえるかを考え続けていってほしいと思っています。
経営難の仕入れ先の支援と引き継ぎをM&Aで実践
今後の規模感としては、相模原の外に商圏を広げたり、事業領域を広げたりすることはあまり考えていません。弊社が地域密着の商社としての良さを発揮し、お客様もベネフィットを得られる範囲は、厚木や八王子、町田などの相模原市近隣の地域です。それは取引先が遠方になると輸送費などの価格を商品に転嫁せざるを得ないからです。
また、無理に遠方に進出したり、価格競争のために安く仕入れたりすることは、自社やお客様、同業のいずれが不利益を被ることとなります。お客様の会社が成長できるようにサポートしていく方が、弊社やステークホルダーの今後のためになるだろうと考えています。
弊社では、2019年頃に経営難で廃業を検討していた仕入れ先の包装資材会社を、M&Aで引き継いでいます。M&Aは、中小企業の成長戦略の手法の一つであるということを、2012年に商工会議所が主催する日本M&Aセンターでの勉強会で学びました。弊社が所属する商工会議所では若手経営者向けの交流会や勉強会が盛んで、引き継ぐこととなる包装資材会社の後継者の方ともそこで知り合いました。包装資材会社の後継者は「経営が苦しい」と話しており、間接的に支援ができればと弊社が資材を仕入れて販売するようになりました。
しかし弊社の支援だけでは経営難を脱することができず、後継者の父である社長は会社の廃業を決め、後継者の方は別の会社に務めることとなりました。弊社としては、事業投資をしていた仕入れ先を失い、販売先のお客様からの信用も失うこととなってしまうため「M&Aで引き継ぎたい」と申し出ました。弊社と包装資材の会社は、商圏やユーザー層が重なっており、互いの仕入れ先や販売先が新たなお客様になり得ることから、親和性が高いと感じ、M&Aに踏み切りました。M&A後からは約5年が立ちましたが、包装資材会社の業績は順調に伸び、弊社の安定にもつながってきています。
ステークホルダーの幸せを追求できるM&Aを模索
外部環境が不安定な世の中でディフェンシブ(防衛的)に構えているままでは、緩やかに上がるか下降するだけあり、企業として余力のある状態まで引き上げていくには、自社を1段階も2段階も高い水域に高められるようにアップデートしていく必要があります。弊社では、安定化のために外部資本を入れて、出資元の得意製品で売上を伸ばせたらと一時期は考えていましたが、包装資材会社の引き継ぎを経て、まずは自社のまわりの幸せを追求していく方が、地域社会にとっても有意義だと感じるようになりました。
初めてのM&Aは仕入れ先で、直接話ができる間柄であったためあまり苦労はしませんでしたが、仲介業者を通じて相手先を探し始めてからは数字しか見えず、企業や事業の独自性や価値が見落とされているように感じました。また、譲渡側の会社を売り手と呼び、買い手と呼ばれる先に何社も当てていくようなM&Aの手法は、あまりいいものとは思えず、頑張ってきた中小企業が報われないまま廃業し、愛情のない買い手へ二束三文で売られてしまうのは、同じ経営者として世知辛いと感じました。
お世話になっている税理士法人りんくに相談したところ、サクシードのツグナラを紹介してもらいました。数字では見えにくい会社の良さを可視化し、会社の価値を上げていくことこそが本来の企業支援だというツグナラの考え方に共感し、参画を決めました。
将来に希望を抱けるM&Aを地域で実践していきたい
2024年現在、弊社は他社を引き継ぐ側であり、私自身も経営者としては44歳と比較的若いため、あと20年以上はビジネスを続けられるだろうと思っています。ただ、あと10年もすれば後継者を考え始めるべき時期になり、現在後継者問題を抱える他社と同じ悩みに直面することとなります。業績が良くとも、後継者が定まらなければ、仕入れ先や販売先のお客様が不安になり、金融機関も困ってしまうかもしれません。経営者の先輩からも、引き継ぎを全くしていない中で親が急に亡くなり、とても苦労したという話をよく聞いています。弊社の2代目である父も「継いでほしいと言われたのが40歳を超えた頃だったら、家業には戻らなかったかもしれない」と話しており、事業や企業の継続は、状況次第で揺らぐ不確実なものだと改めて感じています。
だからこそ、弊社がステークホルダーや地域企業の承継先となり、お互いにwin-winとなれるような承継を実践していくことで、将来に希望がもてる地域社会をつくれると考えています。自社が生き残り、事業や雇用の受け皿となりながら成長していく手段として、今後もM&Aに取り組んでいきたいと考えています。
会社概要
社名 | 株式会社ミナミ工機 |
創立年 | 1973年 |
代表者名 | 代表取締役社長 南 篤史 / 代表取締役会長 南 毅之 |
資本金 | 1,000万円 |
URL |
http://www.minamikouki.co.jp/index.html
|
本社住所 |
〒252-0237 |
事業内容 | 機械工具販売 |
関連会社 |
会社沿革
1973年 | 南 三郎が神奈川県相模原市(共和)において創業 |
1987年 | 南 毅之が代表取締役社長に就任 |
1991年 | 現在地(中央区千代田)に移転 |
2021年 | 南 篤史が代表取締役社長に就任 |
株式会社ミナミ工機の経営資源引継ぎ募集情報
人的資本引継ぎ
神奈川県
価値ある製品を熱意と知見でご提案する営業を募集しています
公開日:2024/10/24
※本記事の内容および所属名称は2024年10月現在のものです。現在の情報とは異なる場合があります。
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