福島・いわき市
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引継ぎ実績あり
産業機械の
株式会社成栄
20代・30代の若手が多く活躍する福島の金属加工会社
経営理念
〈頭は低く、眼は高く、心は広く〉
私たちは、お客様・地域・社会にとって “真の価値” を生み出すものづくり企業です。
- 常に謙虚に学び(頭は低く)、
- 技術・品質・納期において高みをめざし(眼は高く)、
- 社員・協力・地域とともに、許容・協調・成長の心をもって(心は広く)、
「安心・安全・信頼」そして「挑戦・革新」の両輪をもって、未来を切り拓きます。
― ものづくり日本の礎として ―
代表者メッセージ
私たちは創業以来、金属加工を通じて、エネルギー、航空宇宙、電子機器など、様々な産業の根幹を支える重要な部品を製造してまいりました。私たちの仕事は、単に部品をつくることではありません。社会をより豊かにする未来を描き、その一端を担うことだと考えています。
私たちが何よりも大切にしているのは、長年にわたって磨き上げてきた職人の技と、一切の妥協を許さない品質へのこだわりです。
熟練の職人が持つ確かな技術と、積極的に導入する最新の設備を組み合わせることで、お客様の期待を超える高精度・高品質な製品を追求しています。これは、お客様はもちろん、ともに働く社員、そして地域の皆様との信頼関係を築くための、私たちの揺るぎない約束です。
技術革新が加速する時代だからこそ、私たちは「品質第一」の信念を胸に、社員一人ひとりが誇りを持って働ける会社を目指します。私たちの技術と製品が、お客様の事業の発展に貢献し、ひいては社会全体の進歩に繋がっていくことを信じています。
これからも、未来をともにつくる仲間として、すべてのステークホルダーの皆様と手を取り合い、誠心誠意、努力を続けてまいります。
代表取締役社長 木村 忍
私たちのこだわり
産業用機械の一貫製作を担う
弊社は、1988年に福島県いわき市で鍵の専門店として創業しました。創業者である父は、福島県警で約20年間勤務した元警察官です。故郷である、いわき市に戻った父が新たな仕事として鍵の専門店を選んだのは、「元警察官なら防犯の仕事だろう」という、警察官としての経験に裏打ちされた強い想いがあったためです。自らの知識を活かし、地域の安全を物理的に支えるという仕事に、大きなやりがいを見出したのだと思います。社名である「かぎの家・木村」は、「かぎは家を守るもの。生活の安全を支える存在になりたい」という思いから父が願いを込めて名づけました。
当初は鍵の専門店として、車や家の合鍵作成や鍵開けを主としていました。しかし次第に、お客様から玄関ドア周りの交換や店舗の看板修理など、鍵に限らない相談をいただくようになります。地域の方々の「困った」に応えたい一心で、父は新しく会社を設立し「成栄」と名付け、工場を建て、板金職人を雇い、本格的に看板製作や板金加工事業へと乗り出しました。
さらに建築鉄骨の製作や鉄骨工事などの新たな分野にも参入し、少しずつ会社の礎を築いていきました。
リーマン・ショックや東日本大震災の影響などの経営危機も経験しましたが、それらの教訓を糧に事業構造を強化し、景気の変動にも左右されにくい強固な経営基盤を築いています。
現在は、産業用機械の製造に特化しています。他社では対応が難しい大型製品や重量物の加工に加え、部分製作から機械設備運転まで産業用機械を一貫製作できる体制が弊社の強みです。汎用機械器具からエネルギー関連部品、航空・宇宙開発関連部品まで、幅広く加工・製造を請け負っています。
入社直後に最大の経営危機
私が中学生になる頃まで父は警察官として働いていたため、転勤も多くありました。私も転校を繰り返しましたが、新しい環境でその都度友人関係を築いたことで、人見知りしない社交的な性格になれたのだと思います。
今振り返ると不思議なのですが、小学校の卒業アルバムの将来の夢の欄に、私は「自営業」と書いていました。一時期は芸能人やプロレスラーになりたいと考えていたこともありましたが、心のどこかで、事業というものに興味があったのかもしれません。
父が弊社を創業したのは、私が中学生の頃です。しかし、当時の私には家業を継ぐという考えは全くありませんでした。高校卒業後は建築を学ぶため東京の専門学校へ進学しましたが、それも家業のためというより、一度地元を離れ、日本の中心である東京で視野を広げたいという思いが強かったためでした。
専門学校を卒業後は、両親の希望もあり、いわき市の設計事務所に就職しました。2年ほど勤務した頃、父から「成栄に入ってほしい」と声がかかりました。自分の将来について悩んだ末、父の会社を支える決意を固め、弊社への入社を決意します。入社時の役職は専務という肩書きでしたが、実際には特定の役割に縛られることなく、現場の管理から細かな雑務まで、あらゆる業務をこなしていました。一通りの仕事を経験し、忙しくも充実した日々でした。
しかし、入社から数年が経った2000年代初頭、会社は深刻な経営不振に陥り、15名ほどいた社員は次々と会社を去っていきました。最終的に残ったのは、父と私、わずか2人だけでした。この時期が、弊社にとって最も経営が厳しかった頃です。
鍵屋の店舗2階で24時間運営の託児所を始めたこともありました。日中の子供たちの世話は、基本的に私の担当でした。そして夜は、寝静まった子供たちの横で「少しでも足しになれば」と内職の電球検査をするなど、文字通り、寝る間もない毎日でした。当時の辛さは、今でも鮮明に覚えています。財務的にも精神的にもギリギリの状態が長く続きました。
東日本大震災を機に新工場を設立
もちろん、託児所の運営と並行して本業を立て直すための努力も続けており、私はタウンページの片っ端から電話をかけては「成栄で何かやれることはありませんか」と頭を下げ、必死に営業に回りました。
その地道な努力が実を結び、少しずつ仕事が入るようになりました。さらに、いわき金属工業協同組合に推薦していただいたことで同業者との繋がりが生まれ、事業はようやく安定軌道に乗り始めたのです。しかし、その安堵も束の間でした。東日本大震災が発生し、弊社の工場も大きな被害を受けたのです。原発事故の影響による一時避難も経験しました。半壊した工場をなんとか補修して事業を再開したものの、風評被害による注文減が重なり、苦しい日々が続きました。
この状況を打破するため、私たちは国や県の補助金制度を活用し、いわき四倉中核工業団地に大型の機械加工設備を備えた現在の本社工場を新設しました。しかし、いくら最新の工場と機械があっても、それを使いこなせる人財がいなければ宝の持ち腐れです。補助金の条件として一定数の雇用が必要だったこともあり、新工場の設立に合わせて約20名を新規採用しましたが、その全員が未経験者でした。そこで、新工場の本格稼働までの半年間、費用は全て弊社が負担する形で、彼らを同業他社へ研修をお願いするという、未来への投資を決断したのです。
特定の業界に絞らず景気に左右されない経営を目指す
弊社の最大の強みは、製缶板金から機械加工、焼き付け塗装、組立、そして機内配線に至るまで、すべての工程を自社で完結できる「一貫製作体制」です。お客様にとっては、発注先が1つにまとまることで管理の手間が大幅に軽減され、品質の安定と納期の短縮を実現しています。
この一貫製作体制を確固たるものにしているのが、私たちの持つ2つの柱です。
1つ目の柱は、他社では対応が難しい大型製品や重量物も可能にする「大型の設備と対応力」です。最大60m×30m、高さ22mという広大な工場に30トンクレーンや大型工作機械を備えていることは、お客様から選ばれる大きな理由の1つです。
そして2つ目の柱が、「最後までやり遂げる信頼の技術力」です。どんなに優れた設備も、それを使いこなす「人」がいなければ意味を成しません。難しい案件にも諦めずに挑戦する姿勢と、熟練の職人が持つ高い技術力こそが、お客様からの厚い信頼の源となっています。
このような一貫製作体制があるからこそ、私たちは、「常に下請けに徹する」という独自の事業戦略を貫くことができます。
自社製品を持たず、特定の業種にこだわらないことで、プラント系、エネルギー関連、航空・宇宙開発関連まで、昨年1年間で50社に上るお客様の多様なニーズにお応えしてきました。これにより、景気の変動に左右されにくい安定した経営基盤を築いています。
無意味な怒りを避けるキーワード「それって儲かるの?」
明確な企業理念として掲げているわけではありませんが、私の経営の根底には「それって儲かるの?」という極めてシンプルな指針があります。仕事上で物事が思い通りに進まずに腹が立ったり、社員がミスをしたりした時に、感情のまま叱りつけたところで会社の利益には一切繋がりません。「利益になるか」という基準で判断すれば、そうした無駄な言動は自ずと減っていくのです。
そのため、社員のミスに対しては叱責するのではなく、ケアと対策に心を砕いてきました。ミスをした本人が一番落ち込んでいるのですから、そこで追い打ちをかけても何も生まれません。大切なのは、本人をフォローしつつ、同じミスが2度と起きない仕組みを組織として考えることです。この長期的な視点で社員と向き合うことこそが、結果的に会社を「儲かる」組織にしていくのだと確信しています。
何よりも社員が長く働き続けられる環境を重視
上記の考え方の根幹には、東日本大震災の後に経験した人財育成の道のりがあります。先ほども申し上げましたが、新工場の設立時、私たちは未経験者20名を採用しました。しかし、社内体制が未熟で、設立時の混乱も重なり、彼らの大半が退職してしまったのです。この苦い経験から、原因は辞めた本人たちではなく、環境を整えられなかった我々にあると痛感しました。
そこから、残ってくれた社員たちと真摯に向き合い、教える側も共に成長することで、ゼロからの人財育成を少しずつ形にしていきました。システムや文化を構築することに、実に10年という歳月がかかりましたが、この経験こそが「社員の成長を辛抱強く待つ」という現在の弊社の文化を築いたのだと思います。今では、社員たちが自ら考え行動できる人財に育ってくれたおかげで、安心して仕事を任せられるようになりました。希望すれば部署異動も認めるなど、多様なキャリアパスを支援し、社員が長く働き続けられる会社でありたいと考えています。
こうして築かれた弊社の社風は、父の世代の経営者仲間からは「ぬるい会社だ」とよく言われます。しかし、私はそれで良いと心から思っています。現在の社員の平均年齢は約35歳と若いですが、彼らは一人ひとりが自分の考えを持つ、頼りになる社員ばかりです。彼らが働きやすいと感じる環境こそが、会社の未来にとって最も重要です。
社員同士の仲は非常に良く、仕事終わりに飲みに行ったり、会社に集まって話したりすることも珍しくありません。飲み屋の店主から「社長の会社の子たちは本当に仲がいいね」と褒められるほどです。私も彼らとのコミュニケーションを大切にしており、ゲームなど若い世代の趣味にも触れ、共通の話題を見つけるように心がけています。プライベートの充実が、仕事への良い影響に繋がると信じているからです。
M&Aでグループを拡大しながら、オーナー社長を増やしていきたい
弊社が推進するM&Aは、事業拡大という側面を持つと同時に、その根底には「日本の経済、特に中小企業の未来を形作る」という、より大きな目的意識があります。
その一番の動機は、「日本の中小企業のオーナー社長を減らさない」という強い想いです。一般的なM&Aでは買収されるとオーナー社長が減ってしまいがちですが、地域の経済にとって、迅速な意思決定と長期的な視野で経営に臨むオーナー社長の活力は不可欠だと確信しています。
現在、「グループ全体で20社、年間売上高50億」という目標を掲げていますが、これは私が20社の社長になるためではなく、「20人のオーナー社長を作る」ための目標です。
最終的には、M&Aによって共に事業を成長させた人財に会社を引き継ぎ、買い取ってもらう未来を想定しています。
この私たちの哲学を実践した最初の事例が、2023年にグループに迎えた、山形県の株式会社三浦エンジニアリングです。三浦エンジニアリングは創業者の高齢化などを理由に新たなパートナーを探していました。大きく重厚な製品が得意な弊社に対し、三浦エンジニアリングは軽くて薄い製品を得意としており、事業上のシナジー効果は明らかでした。加えて、両社ともに若い社員が多く、必ずうまくいくと考えM&Aを決断しました。
もちろん、交渉は簡単ではありませんでしたが、M&A仲介会社の力も借りながら両社にとって最良の形での統合を実現でき、順調に進んでいます。そして何より、このM&Aは私たちの哲学が単なる理想論ではないことの証明でもあります。現在、三浦エンジニアリングに元々在籍していた役員の1人を将来の社長候補として育成しており、今後もM&Aと並行して経営人財の育成を着実に進めていく方針です。
こうしたM&A戦略と並行して、私たちは自社の事業基盤そのものの強化にも取り組んでいます。
協力企業のネットワークも最大限に活用しながら、さらに会社の規模を大きくしていくことを目指しています。現状では一つに注力せざるを得ない大規模な案件も、将来的には複数同時に動かせるような強固な体制を整えていくことが目標です。
一方で、半導体や脱炭素といった成長分野の需要を捉えたい思いはありつつも、市場トレンドの変化が非常に早く、多大な開発投資を伴う一つに絞って深掘りすることの難しさも感じています。世の中の流れに柔軟に対応しながらも、どこに注力すべきかを見極めていくことが、これからの課題です。
M&Aによる外部との連携と自社の内部強化という両輪で進んだ先に、私たちが描いているのは巨大なピラミッド型の組織ではありません。
グループ各社がそれぞれ独立したオーナー社長のもとで自律的な経営を行い、同時にお互いを支え合いながら共に成長するという、新しい形のグループ組織を作り上げていきます。
産業用機械の一貫製作を担う
弊社は、1988年に福島県いわき市で鍵の専門店として創業しました。創業者である父は、福島県警で約20年間勤務した元警察官です。故郷である、いわき市に戻った父が新たな仕事として鍵の専門店を選んだのは、「元警察官なら防犯の仕事だろう」という、警察官としての経験に裏打ちされた強い想いがあったためです。自らの知識を活かし、地域の安全を物理的に支えるという仕事に、大きなやりがいを見出したのだと思います。社名である「かぎの家・木村」は、「かぎは家を守るもの。生活の安全を支える存在になりたい」という思いから父が願いを込めて名づけました。
当初は鍵の専門店として、車や家の合鍵作成や鍵開けを主としていました。しかし次第に、お客様から玄関ドア周りの交換や店舗の看板修理など、鍵に限らない相談をいただくようになります。地域の方々の「困った」に応えたい一心で、父は新しく会社を設立し「成栄」と名付け、工場を建て、板金職人を雇い、本格的に看板製作や板金加工事業へと乗り出しました。
さらに建築鉄骨の製作や鉄骨工事などの新たな分野にも参入し、少しずつ会社の礎を築いていきました。
リーマン・ショックや東日本大震災の影響などの経営危機も経験しましたが、それらの教訓を糧に事業構造を強化し、景気の変動にも左右されにくい強固な経営基盤を築いています。
現在は、産業用機械の製造に特化しています。他社では対応が難しい大型製品や重量物の加工に加え、部分製作から機械設備運転まで産業用機械を一貫製作できる体制が弊社の強みです。汎用機械器具からエネルギー関連部品、航空・宇宙開発関連部品まで、幅広く加工・製造を請け負っています。
入社直後に最大の経営危機
私が中学生になる頃まで父は警察官として働いていたため、転勤も多くありました。私も転校を繰り返しましたが、新しい環境でその都度友人関係を築いたことで、人見知りしない社交的な性格になれたのだと思います。
今振り返ると不思議なのですが、小学校の卒業アルバムの将来の夢の欄に、私は「自営業」と書いていました。一時期は芸能人やプロレスラーになりたいと考えていたこともありましたが、心のどこかで、事業というものに興味があったのかもしれません。
父が弊社を創業したのは、私が中学生の頃です。しかし、当時の私には家業を継ぐという考えは全くありませんでした。高校卒業後は建築を学ぶため東京の専門学校へ進学しましたが、それも家業のためというより、一度地元を離れ、日本の中心である東京で視野を広げたいという思いが強かったためでした。
専門学校を卒業後は、両親の希望もあり、いわき市の設計事務所に就職しました。2年ほど勤務した頃、父から「成栄に入ってほしい」と声がかかりました。自分の将来について悩んだ末、父の会社を支える決意を固め、弊社への入社を決意します。入社時の役職は専務という肩書きでしたが、実際には特定の役割に縛られることなく、現場の管理から細かな雑務まで、あらゆる業務をこなしていました。一通りの仕事を経験し、忙しくも充実した日々でした。
しかし、入社から数年が経った2000年代初頭、会社は深刻な経営不振に陥り、15名ほどいた社員は次々と会社を去っていきました。最終的に残ったのは、父と私、わずか2人だけでした。この時期が、弊社にとって最も経営が厳しかった頃です。
鍵屋の店舗2階で24時間運営の託児所を始めたこともありました。日中の子供たちの世話は、基本的に私の担当でした。そして夜は、寝静まった子供たちの横で「少しでも足しになれば」と内職の電球検査をするなど、文字通り、寝る間もない毎日でした。当時の辛さは、今でも鮮明に覚えています。財務的にも精神的にもギリギリの状態が長く続きました。
東日本大震災を機に新工場を設立
もちろん、託児所の運営と並行して本業を立て直すための努力も続けており、私はタウンページの片っ端から電話をかけては「成栄で何かやれることはありませんか」と頭を下げ、必死に営業に回りました。
その地道な努力が実を結び、少しずつ仕事が入るようになりました。さらに、いわき金属工業協同組合に推薦していただいたことで同業者との繋がりが生まれ、事業はようやく安定軌道に乗り始めたのです。しかし、その安堵も束の間でした。東日本大震災が発生し、弊社の工場も大きな被害を受けたのです。原発事故の影響による一時避難も経験しました。半壊した工場をなんとか補修して事業を再開したものの、風評被害による注文減が重なり、苦しい日々が続きました。
この状況を打破するため、私たちは国や県の補助金制度を活用し、いわき四倉中核工業団地に大型の機械加工設備を備えた現在の本社工場を新設しました。しかし、いくら最新の工場と機械があっても、それを使いこなせる人財がいなければ宝の持ち腐れです。補助金の条件として一定数の雇用が必要だったこともあり、新工場の設立に合わせて約20名を新規採用しましたが、その全員が未経験者でした。そこで、新工場の本格稼働までの半年間、費用は全て弊社が負担する形で、彼らを同業他社へ研修をお願いするという、未来への投資を決断したのです。
特定の業界に絞らず景気に左右されない経営を目指す
弊社の最大の強みは、製缶板金から機械加工、焼き付け塗装、組立、そして機内配線に至るまで、すべての工程を自社で完結できる「一貫製作体制」です。お客様にとっては、発注先が1つにまとまることで管理の手間が大幅に軽減され、品質の安定と納期の短縮を実現しています。
この一貫製作体制を確固たるものにしているのが、私たちの持つ2つの柱です。
1つ目の柱は、他社では対応が難しい大型製品や重量物も可能にする「大型の設備と対応力」です。最大60m×30m、高さ22mという広大な工場に30トンクレーンや大型工作機械を備えていることは、お客様から選ばれる大きな理由の1つです。
そして2つ目の柱が、「最後までやり遂げる信頼の技術力」です。どんなに優れた設備も、それを使いこなす「人」がいなければ意味を成しません。難しい案件にも諦めずに挑戦する姿勢と、熟練の職人が持つ高い技術力こそが、お客様からの厚い信頼の源となっています。
このような一貫製作体制があるからこそ、私たちは、「常に下請けに徹する」という独自の事業戦略を貫くことができます。
自社製品を持たず、特定の業種にこだわらないことで、プラント系、エネルギー関連、航空・宇宙開発関連まで、昨年1年間で50社に上るお客様の多様なニーズにお応えしてきました。これにより、景気の変動に左右されにくい安定した経営基盤を築いています。
無意味な怒りを避けるキーワード「それって儲かるの?」
明確な企業理念として掲げているわけではありませんが、私の経営の根底には「それって儲かるの?」という極めてシンプルな指針があります。仕事上で物事が思い通りに進まずに腹が立ったり、社員がミスをしたりした時に、感情のまま叱りつけたところで会社の利益には一切繋がりません。「利益になるか」という基準で判断すれば、そうした無駄な言動は自ずと減っていくのです。
そのため、社員のミスに対しては叱責するのではなく、ケアと対策に心を砕いてきました。ミスをした本人が一番落ち込んでいるのですから、そこで追い打ちをかけても何も生まれません。大切なのは、本人をフォローしつつ、同じミスが2度と起きない仕組みを組織として考えることです。この長期的な視点で社員と向き合うことこそが、結果的に会社を「儲かる」組織にしていくのだと確信しています。
何よりも社員が長く働き続けられる環境を重視
上記の考え方の根幹には、東日本大震災の後に経験した人財育成の道のりがあります。先ほども申し上げましたが、新工場の設立時、私たちは未経験者20名を採用しました。しかし、社内体制が未熟で、設立時の混乱も重なり、彼らの大半が退職してしまったのです。この苦い経験から、原因は辞めた本人たちではなく、環境を整えられなかった我々にあると痛感しました。
そこから、残ってくれた社員たちと真摯に向き合い、教える側も共に成長することで、ゼロからの人財育成を少しずつ形にしていきました。システムや文化を構築することに、実に10年という歳月がかかりましたが、この経験こそが「社員の成長を辛抱強く待つ」という現在の弊社の文化を築いたのだと思います。今では、社員たちが自ら考え行動できる人財に育ってくれたおかげで、安心して仕事を任せられるようになりました。希望すれば部署異動も認めるなど、多様なキャリアパスを支援し、社員が長く働き続けられる会社でありたいと考えています。
こうして築かれた弊社の社風は、父の世代の経営者仲間からは「ぬるい会社だ」とよく言われます。しかし、私はそれで良いと心から思っています。現在の社員の平均年齢は約35歳と若いですが、彼らは一人ひとりが自分の考えを持つ、頼りになる社員ばかりです。彼らが働きやすいと感じる環境こそが、会社の未来にとって最も重要です。
社員同士の仲は非常に良く、仕事終わりに飲みに行ったり、会社に集まって話したりすることも珍しくありません。飲み屋の店主から「社長の会社の子たちは本当に仲がいいね」と褒められるほどです。私も彼らとのコミュニケーションを大切にしており、ゲームなど若い世代の趣味にも触れ、共通の話題を見つけるように心がけています。プライベートの充実が、仕事への良い影響に繋がると信じているからです。
M&Aでグループを拡大しながら、オーナー社長を増やしていきたい
弊社が推進するM&Aは、事業拡大という側面を持つと同時に、その根底には「日本の経済、特に中小企業の未来を形作る」という、より大きな目的意識があります。
その一番の動機は、「日本の中小企業のオーナー社長を減らさない」という強い想いです。一般的なM&Aでは買収されるとオーナー社長が減ってしまいがちですが、地域の経済にとって、迅速な意思決定と長期的な視野で経営に臨むオーナー社長の活力は不可欠だと確信しています。
現在、「グループ全体で20社、年間売上高50億」という目標を掲げていますが、これは私が20社の社長になるためではなく、「20人のオーナー社長を作る」ための目標です。
最終的には、M&Aによって共に事業を成長させた人財に会社を引き継ぎ、買い取ってもらう未来を想定しています。
この私たちの哲学を実践した最初の事例が、2023年にグループに迎えた、山形県の株式会社三浦エンジニアリングです。三浦エンジニアリングは創業者の高齢化などを理由に新たなパートナーを探していました。大きく重厚な製品が得意な弊社に対し、三浦エンジニアリングは軽くて薄い製品を得意としており、事業上のシナジー効果は明らかでした。加えて、両社ともに若い社員が多く、必ずうまくいくと考えM&Aを決断しました。
もちろん、交渉は簡単ではありませんでしたが、M&A仲介会社の力も借りながら両社にとって最良の形での統合を実現でき、順調に進んでいます。そして何より、このM&Aは私たちの哲学が単なる理想論ではないことの証明でもあります。現在、三浦エンジニアリングに元々在籍していた役員の1人を将来の社長候補として育成しており、今後もM&Aと並行して経営人財の育成を着実に進めていく方針です。
こうしたM&A戦略と並行して、私たちは自社の事業基盤そのものの強化にも取り組んでいます。
協力企業のネットワークも最大限に活用しながら、さらに会社の規模を大きくしていくことを目指しています。現状では一つに注力せざるを得ない大規模な案件も、将来的には複数同時に動かせるような強固な体制を整えていくことが目標です。
一方で、半導体や脱炭素といった成長分野の需要を捉えたい思いはありつつも、市場トレンドの変化が非常に早く、多大な開発投資を伴う一つに絞って深掘りすることの難しさも感じています。世の中の流れに柔軟に対応しながらも、どこに注力すべきかを見極めていくことが、これからの課題です。
M&Aによる外部との連携と自社の内部強化という両輪で進んだ先に、私たちが描いているのは巨大なピラミッド型の組織ではありません。
グループ各社がそれぞれ独立したオーナー社長のもとで自律的な経営を行い、同時にお互いを支え合いながら共に成長するという、新しい形のグループ組織を作り上げていきます。
会社概要
| 社名 | 株式会社成栄 |
| 創立年 | 1992年 |
| 代表者名 | 代表取締役社長 木村 忍 |
| 資本金 | 1,000万円 |
| URL |
https://mc.metalproc.jp/
|
| 本社住所 |
〒979-0201 |
| 事業内容 | 産業用機械の一貫製作(製缶板金、機械加工、焼き付け塗装、組立、機内配線) エネルギー関連部品、航空関連部品、宇宙開発関連部品、電子機械関連部品等の製造 |
| 関連会社 |
|
会社沿革
| 1988年 | 創業者の木村辰夫が有限会社かぎの家・木村を設立 |
| 1992年 | 株式会社成栄を設立 |
| 2011年 | 東日本大震災で被災。工場や機械に影響が出たが、約20日で事業を再開 |
| 2013年 | 県の企業立地補助金などを活用し、現在のいわき四倉中核工業団地内に本社工場(大型機械の加工工場)を設立 |
| 2023年 | 株式会社三浦エンジニアリング(山形県長井市)をM&Aで傘下に収める |
| 2025年 | LeaderX(リーダックス)株式会社を設立 理工産業株式会社(埼玉県鴻巣市)をM&Aで傘下に収める |
株式会社成栄の経営資源引継ぎ募集情報
事業引継ぎ
全国
独立性を尊重し、共に未来を創る事業承継を目指します
人的資本引継ぎ
福島県
温かい社風の会社で、日本のものづくりに挑戦しませんか
公開日:2025/10/27
※本記事の内容および所属名称は2025年10月現在のものです。現在の情報とは異なる場合があります。
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