埼玉・さいたま市大宮区
埼玉 ・ さいたま市
地元密着と
株式会社木下製餡
お客様とも契約農家とも対等の関係を築き「みんなが幸せ」を目指す経営
経営理念
私たちは、あんこと共にお客様に感動をお届けします。
- 一、私たちは、お客様に笑顔と感動をお届けする提案型企業を目指します。
- 二、私たちは、お客様のことを第一に考え、いつも感謝と謙虚な気持ちで商品を創ります。
- 三、私たちは、社員を大切な家族と思い、社員とその家族の幸せを追求し社員とともに成長いたします。
代表者メッセージ
木下製餡は1931年(昭和6年)に木下銀作が創業して以来、お客様と共に歩んでまいりました。お客様に笑顔と感動をお届けする「創業の精神」は今も変わりません。
その一方で、創業以来私たちは日々革新を続けています。 同じことを守る伝承ではなく、変わるものと変わらないものを見極め、革新し続けることで、多くのお客様にお喜びいただける「伝統」を築いていけると考えているからです。
衛生管理や品質管理をこれまで以上に徹底しつつ、地域の農家や食品会社とのコラボ、新製品の開発、さらには海外への輸出など新たな試みにも挑戦し続けています。
私たちの「あんこ」づくりも常に見直し続け、これからもお客様にお喜びいただけるよう日々努力してまいります。
私たちのこだわり
長野県上田市で創業し、第二次大戦後に埼玉県大宮市へ移転
木下製餡は1931年(昭和6年)、義理の祖父である木下銀作が長野県上田市で創業しました。義祖父は静岡県出身ですが、全国の製餡所のルーツを辿ると義祖父に限らず静岡県出身の創業者が多いのが特徴です。あんこを作るための煮炊釜や豆皮分離機を発明した北川勇作氏と内藤幾太郎氏が興津(おきつ/静岡県静岡市清水区)出身なので、その影響があるのかもしれません。「製餡業の祖」と言われる両氏を輩出した興津は「あんこのふるさと」と呼ばれています。
祖父も関西の奉公先で働いていた後に長野で創業しました。
しばらくの間は長野で営業していたものの、やがて第二次世界大戦が始まりました。あんこ作りに必要な砂糖などが配球物資となり、あんこ屋の営業が続けられなくなってしまいました。その間は窯を使って麦芽糖の水飴を作ったり、千曲川の漁業権を取得して魚を取って生計を立てていたそうです。
そんな生活を続ける中、たまたま上京する際に立ち寄った大宮を見て「ここで商売がしたい」と思ったそうです。鉄道の町として、戦後も闇市など、すごく活気があるところにひかれたと聞いています。それで1950年(昭和25年)に大宮市に移転し、現在に続く木下製餡がスタートしました。
小売店から製餡業へ。他業種を経験したからこそ見えたもの
私は今から40年前に木下製餡に入社しました。妻が木下家の娘で、私は婿養子です。私の実家は小さなスーパーを営んでおり、結婚するまではそちらで働いていました。
私が入社した当時は今よりもはるかにあんこがたくさん売れている時代でした。例えば葬式饅頭の中身はほとんどあんこです。その配達に杉戸、春日部、岩槻方面を回って帰ってくると、「またお葬式が入った」と再び同じ地区を回り、ようやく帰ってきたと思えば「今度はあっちで入った」と別の地区に向かうということがよくありました。それ以上に昔は節句であったり、季節ごとの慣習であったり、行事の伝統も色濃く残っていましたので美味しいあんこさえ作っていれば売れるという時代でした。ただ他業種から製餡業界に身を投じた立場から見ると、気になる点はいくつかありました。
一つは衛生面です。例えばスーパーの鮮魚コーナーであれば、まな板なり、包丁なり、衛生面に関して非常に気を遣います。それに比べると昔の製餡所は、窯からすごい勢いで蒸気が一斉に噴き出すと「もう密閉なんてしていられない」とばかりに窓を開放していました。当時としては仕方なかったと思いますが、他の加工食品を作っている会社と比べると、当時の製餡所は衛生面に関しては少々意識が低かったと思います。
安定した品質を維持するために社員に伝えたこと
もう一つ気になったのは、あんこ作りが「職人の勘」に大きく左右されるものだったことです。私が20代半ばで入社した当初、周囲は一回り、二回り年上の職人気質の方ばかりでしたが、一泊の社員旅行で「行きの分」「宿の分」「帰りの分」とバッグの中に一升瓶を三本も入れてくるようなとんでもない酒豪揃いでした。
その一方で、仕事が多い時には夜中の二時、三時でも集まって、黙々とあんこを作り始めるような人たちでもありました。皆がすごいパワーがあって、すると決めたら没頭して作業をするものの、とにかく「職人の勘」に頼るのが私としては気になっていました。もちろん温度や糖度の管理において経験に基づく「職人の勘」は非常に重要ですが、それだけでは、職人のコンディションによるブレが確実に出てきます。
一度花見の席で「京浜東北線は午前7時大宮始発の電車なら、だれが運転しても7時に出ていくよね」という話をしたことがあります。例えとして良かったかどうかはともかく、「これは守らなければならない約束事だ、ならば木下製餡で守らなければならないものはなんだろう」という問いかけをしました。
それが時間であり、温度であり、糖度です。せめてそのぐらいは守ろうと言いました。守るつもりでもブレるものですし、湿度や温度であんこのしまり具合も変わってくるだけに、きちんと決めておく必要性を感じていたからです。
もちろん色々反発も受けましたが、そこは地道に話し合っていくしかありませんでした。ある時、私が新規で営業を取ってきた時に、義父が「クレームがあるとせっかく取ってきてくれたお客様を失うんだぞ」と皆の前で言ってくれたこともありました。そうやって、品質を一定に保つことの重要性を説いていくことで、少しずつ皆の意識も変わっていきました。
恐らく最初から中にいたら、それが当たり前だと思って受け入れていたと思います。全く別の業界から来たからこそ「それはおかしくないか」と疑問を抱くことができたのだと思います。日々会社に馴染みつつも、改善すべきところは変えていこうと取り組んでいました。
販路拡大のチャレンジと守るべきもの
そんな中で、入社して5年目のときに、協和醱酵工業株式会社(現:協和キリン株式会社)から「協和醱酵ブランドのあんこを作る」というプロジェクトが弊社に持ちかけられました。その時に導入したのがオリヒロ株式会社のホットパックという食品包装機械です。その機械の導入を契機に販路拡大について色々と取り組むようになったので、この協業は大きな転機となりました。
そしてもう1つ、当時のことで強く記憶に残っていることがあります。協業相手の協和醱酵工業が、弊社の衛生面や使っている水や微生物検査などをチェックするために研究所の方が何人もやってきたことがあります。当時の弊社はスレート屋根で、外から見たらあんこ屋なのか機械の部品工場なのか分からないような建物でした。
そこで先方の部長さんから「木下さん、今度取り引きが決まったら日本橋の老舗のすし屋に連れていきますよ」と言われました。思わぬ言葉に真意をはかりかねていると「古い建物のすし屋だけど、カウンターの白木だけはいつもビシッと磨かれています。御社の工場はそのすし屋に近いものを感じます」と言ってもらえました。「古いものだからといって駄目なわけじゃない、大事なことは、やるべきことをちゃんとやっているかどうか」だと我々の仕事、会社を認めてくれた上での言葉でした。とてもうれしい経験であり、入社後に取り組んできた衛生面の改革が実を結んだという実感を持つことができました。
同じ産地のものにこだわるよりも大切にしている判断基準
私が結婚して弊社に入ったばかりのころ、今はもう亡くなられたお客様に「美味しいあんこを作ることって難しいですよね」と問いかけたことがありました。
するとお客様は「木下さん、そんなことないんだよ。いい原材料を作って心を込めて作ったら、必ず美味しくなるかはわからないけれど、不味いものはできないはずなんだ」と言われました。必ずしも毎年同じ産地の小豆がいいとは限らない、ある年は水害の影響があるかもしれない、乾燥が悪くて縞のような小豆があるかもしれない。そのぐらい原材料の見極めは大事なんだと。色々な産地のものを見極めて、そのとき一番いいものを使うべきだと言われて、その言葉がストンと腹落ちしたんです。
料理人が一番鮮度のいい食材を選んでいくように、そこを間違えたら確かに最初から勝負にならないなと思いました。よく「腐っても鯛」なんて言いますが、それは確かに鯛かもしれないけど、腐っていたら食べられません。だから原材料にはこだわり続けます。
目指すは京都の老舗料亭とお豆腐屋さんの関係
その頃から抱いていた想いに「京都の老舗料亭と老舗のお豆腐屋さんのような関係になりたい」というものがありました。老舗の料亭の板前さんは皆さん高い技術を持っているので、作ろうと思えば豆腐でもなんでも自分のところで作れます。にもかかわらず、有名な料亭であってもお豆腐屋さんから豆腐を買うそうです。そして「うちはどこどこの豆腐を使っています」と言う、これはお豆腐屋さんからしたらとても誇らしく、うれしいことだと思います。私はあんこ屋もそういう存在にしたいとずっと思っていました。昔はあんこ屋からあんこを仕入れていることを公言してくれる和菓子屋さんはあまりなく、「自家製あんで作っています」といった売り文句ばかりでした。しかし実際には、粒あんは自前で作っていても、こしあんの原料となる生あんは、製餡所が作ったものを使っています。我々はいわば下請けのような扱いでした。私はそこを対等なパートナーの関係に変えて、「木下製餡があるからやっていける」と思ってもらえるような関係にしていきたいと強く持っていました。
農家の困りごとを解決するために誕生したコラボ商品
そしてお客様との関係だけではなく、我々が必要とする小豆などの原材料を作ってくれる農家さんとの関係も、やはり対等のパートナーでありたいと考えています。それもあって前述したような大企業との協業だけではなく、農家さんとのコラボやタイアップのような活動にも数多く取り組んできました。
一番最初は越生町でした。越生は梅とゆずが特産品ですが、中には傷が付いたりして売り物にならないものもあります。昔はそういったもののPRを兼ねて、冬至の時期に池袋の百貨店で配ったりしていたといいます。ただ、手間もお金もかかるばかりなので、やがて自分の畑に穴を掘って埋めるようになったそうです。それを見た当時の越生の町長が、一番の特産品がそんなことになるなんて忍びないと嘆きました。
そこで我々が越生から梅やゆずをもらい、羊羹などに加工して納めるようにしました。さらにどうせなら、ただ製品を納めるだけではなく、我々も販売に協力したり、もっとPRしたいという思いから、ゆずあんをパン屋さんなどに売り込みました。そうした活動をきっかけに、農家の方々と一緒に活動することも増えました。
農家の方々は高齢化が進み、承継されずにやめてしまう方々も少なくありません。そういった方々を支援するというのはおこがましいですが、対等の立場でお互いに盛り上げていきたいと考えています。どちらかだけが得をするような関係ではなく、みんなが幸せになれるような形を目指せるよう、微力ながらもお力になれればと思っています。
私は埼玉が地元なので、やはり埼玉県内のものに愛着があります。人は自分だけで成長したり偉くなるものではありません。住んでいる場所や会社のある地域には、何らかの形で貢献したいと常に考えています。地域のお客様に商品を届けるのと同じように、地元に対してできることをしていきたいという考えです。
「社員は家族」という経営理念
同時に、縁あって弊社に勤めてくれている社員は、私にとってまさに家族だと思っています。一人ひとりがただこの会社で仕事をするだけではなく、仕事を通じて色々な意味で成長していってほしいと強く思っています。そうやって皆の気持ちにゆとりが生まれれば、必然的により良い商品ができると思っています。いくら機械化していても、やはり人が扱い、作るものなので、そこは疎かにしてはいけない部分だと考えます。
弊社の経営理念は、そういったお客様への思いや社員への思いを文章にしています。これは初代や先代から受け継いだものと、日頃からこうありたいと思っていた考えをまとめて私が作成しました。毎日朝礼で唱和したりはしていませんが、時折会話も交えつつ日々の行動で伝えています。「こうするべきだ」と毎日言わなくとも、これを作った私がぶれていなければ、やがては社員に浸透していくものだと思っています。他業種から弊社に入社した40年前に、とにかくやってみよう、とにかく変えていこうと思った気持ちと同じだと思います。
あんこの海外展開で見えてきた勝負の仕方
日本国内のあんこや和菓子の市場規模、あるいは今後の人口減少を考えると、やはりマーケットとしての先行きはなかなか厳しい部分があります。どこに可能性があるのかもわからないですし、そうならば、ちょっと日本の外を見てみようという気持ちで海外販売に取り組み始めました。最初は香港でチャレンジしたのですが、向こうも小豆を食べる文化があるにも関わらず、うまくいかず、とにかく難しかったです。
そこで改めて弊社の強みは何だろうと考えたとき、お客様に合わせて色々なものを作ってきた小回りの良さが武器ではないかと考えました。それこそが大手にはできないところであり、その強みは海外でも活かせるのではないかと。それを踏まえて改めて海外を見てみると、大手がたくさん作っている日本のあんこは確かに流通しているけれども、その国の文化には必ずしも合ってはいませんでした。従って大手ができないようなことを小回り良くできるのであれば、そこにチャンスがあるというところからスタートしました。
現在、継続的に輸出している国はフランス、イギリス、ドイツなどがあります。例えばドイツにはデュッセルドルフという日本人が多く住む都市があり、日本人をターゲットにしたパン屋さんがあります。同じパンでも海外と日本ではやはり違う部分があるので、そこで日本人に合ったあんこということでゆずや川越芋をつかったあんこや粒あんなども使っていただいています。まさにそうした日本らしさを出したものを作れるのが弊社の強みを活かせる部分だと思っています。
時代によるビジネスモデルの変化と変わらない役割
昔はあんこがたくさん消費されていたからこそ、あんこ屋という商売が成り立っていました。しかし時代が変わり、和菓子の消費量も変わり、物流の進歩で全国どこでも配送できるようにもなりました。
もしかすると地域ごとのあんこ屋さんは存在意義がなくなり、必要がないものになるのかもしれません。しかし、あんこ屋のルーツはその地域に根差した和菓子の文化を支えるものでした。いわば黒子の存在です。黒子としての役割はこれからも変わらないのではないかとも思っています。一方で今まではお客様といえば和菓子屋さんだけでしたが、パン屋さんになってもいいですし、ケーキ屋さんになってもいいと思っています。あるいはもっと個人のお客様に直接訴えかけるような商品になるかもしれません。対象とするお客様を変えるなどの転換期にいるのかなと感じています。
ただ、まずは何よりも「人」を大事にした経営をしなければならないと思っています。教育もそうですし、働く環境づくりという意味で、製造面も制度面も充実させていこうと考えています。弊社のような小さい会社がそこを充実させることにこそ意味があると思うので、まずは「人」を大事にして、その次のステップで前述のような事業展開を行っていきたいと思っています。2031年には創業100周年を迎えます。その時には木下製餡という一つのブランドとして、何か形にして伝えたいと思っており、それに向けて色々と準備をしているところです。
細いロウソクであっても灯し続けたい
先日ある方に話したのですが、我々のような小規模な企業は、光にに例えるなら細いロウソクです。明るいときにその光を見てもあまり見えないかもしれないけれど、真っ暗闇の中では強く輝いて周りの人をしっかりと照らしてくれる、まさに一隅を照らすものだと思っています。
そういう意味でも先ほどお話しした農家の皆さんも含めて、それぞれの地域の方々が今ある仕事をずっと残していってほしいと願っています。そうすればその町や地域は小さな明かりであっても明かりがずっと灯っていく。本当にその地域が好きで、地域のことを思う人がそこにいるからこそそのロウソクには価値があると思うので、多くの人がそういう思いを持っていてほしいというのが私の気持ちです。
長野県上田市で創業し、第二次大戦後に埼玉県大宮市へ移転
木下製餡は1931年(昭和6年)、義理の祖父である木下銀作が長野県上田市で創業しました。義祖父は静岡県出身ですが、全国の製餡所のルーツを辿ると義祖父に限らず静岡県出身の創業者が多いのが特徴です。あんこを作るための煮炊釜や豆皮分離機を発明した北川勇作氏と内藤幾太郎氏が興津(おきつ/静岡県静岡市清水区)出身なので、その影響があるのかもしれません。「製餡業の祖」と言われる両氏を輩出した興津は「あんこのふるさと」と呼ばれています。
祖父も関西の奉公先で働いていた後に長野で創業しました。
しばらくの間は長野で営業していたものの、やがて第二次世界大戦が始まりました。あんこ作りに必要な砂糖などが配球物資となり、あんこ屋の営業が続けられなくなってしまいました。その間は窯を使って麦芽糖の水飴を作ったり、千曲川の漁業権を取得して魚を取って生計を立てていたそうです。
そんな生活を続ける中、たまたま上京する際に立ち寄った大宮を見て「ここで商売がしたい」と思ったそうです。鉄道の町として、戦後も闇市など、すごく活気があるところにひかれたと聞いています。それで1950年(昭和25年)に大宮市に移転し、現在に続く木下製餡がスタートしました。
小売店から製餡業へ。他業種を経験したからこそ見えたもの
私は今から40年前に木下製餡に入社しました。妻が木下家の娘で、私は婿養子です。私の実家は小さなスーパーを営んでおり、結婚するまではそちらで働いていました。
私が入社した当時は今よりもはるかにあんこがたくさん売れている時代でした。例えば葬式饅頭の中身はほとんどあんこです。その配達に杉戸、春日部、岩槻方面を回って帰ってくると、「またお葬式が入った」と再び同じ地区を回り、ようやく帰ってきたと思えば「今度はあっちで入った」と別の地区に向かうということがよくありました。それ以上に昔は節句であったり、季節ごとの慣習であったり、行事の伝統も色濃く残っていましたので美味しいあんこさえ作っていれば売れるという時代でした。ただ他業種から製餡業界に身を投じた立場から見ると、気になる点はいくつかありました。
一つは衛生面です。例えばスーパーの鮮魚コーナーであれば、まな板なり、包丁なり、衛生面に関して非常に気を遣います。それに比べると昔の製餡所は、窯からすごい勢いで蒸気が一斉に噴き出すと「もう密閉なんてしていられない」とばかりに窓を開放していました。当時としては仕方なかったと思いますが、他の加工食品を作っている会社と比べると、当時の製餡所は衛生面に関しては少々意識が低かったと思います。
安定した品質を維持するために社員に伝えたこと
もう一つ気になったのは、あんこ作りが「職人の勘」に大きく左右されるものだったことです。私が20代半ばで入社した当初、周囲は一回り、二回り年上の職人気質の方ばかりでしたが、一泊の社員旅行で「行きの分」「宿の分」「帰りの分」とバッグの中に一升瓶を三本も入れてくるようなとんでもない酒豪揃いでした。
その一方で、仕事が多い時には夜中の二時、三時でも集まって、黙々とあんこを作り始めるような人たちでもありました。皆がすごいパワーがあって、すると決めたら没頭して作業をするものの、とにかく「職人の勘」に頼るのが私としては気になっていました。もちろん温度や糖度の管理において経験に基づく「職人の勘」は非常に重要ですが、それだけでは、職人のコンディションによるブレが確実に出てきます。
一度花見の席で「京浜東北線は午前7時大宮始発の電車なら、だれが運転しても7時に出ていくよね」という話をしたことがあります。例えとして良かったかどうかはともかく、「これは守らなければならない約束事だ、ならば木下製餡で守らなければならないものはなんだろう」という問いかけをしました。
それが時間であり、温度であり、糖度です。せめてそのぐらいは守ろうと言いました。守るつもりでもブレるものですし、湿度や温度であんこのしまり具合も変わってくるだけに、きちんと決めておく必要性を感じていたからです。
もちろん色々反発も受けましたが、そこは地道に話し合っていくしかありませんでした。ある時、私が新規で営業を取ってきた時に、義父が「クレームがあるとせっかく取ってきてくれたお客様を失うんだぞ」と皆の前で言ってくれたこともありました。そうやって、品質を一定に保つことの重要性を説いていくことで、少しずつ皆の意識も変わっていきました。
恐らく最初から中にいたら、それが当たり前だと思って受け入れていたと思います。全く別の業界から来たからこそ「それはおかしくないか」と疑問を抱くことができたのだと思います。日々会社に馴染みつつも、改善すべきところは変えていこうと取り組んでいました。
販路拡大のチャレンジと守るべきもの
そんな中で、入社して5年目のときに、協和醱酵工業株式会社(現:協和キリン株式会社)から「協和醱酵ブランドのあんこを作る」というプロジェクトが弊社に持ちかけられました。その時に導入したのがオリヒロ株式会社のホットパックという食品包装機械です。その機械の導入を契機に販路拡大について色々と取り組むようになったので、この協業は大きな転機となりました。
そしてもう1つ、当時のことで強く記憶に残っていることがあります。協業相手の協和醱酵工業が、弊社の衛生面や使っている水や微生物検査などをチェックするために研究所の方が何人もやってきたことがあります。当時の弊社はスレート屋根で、外から見たらあんこ屋なのか機械の部品工場なのか分からないような建物でした。
そこで先方の部長さんから「木下さん、今度取り引きが決まったら日本橋の老舗のすし屋に連れていきますよ」と言われました。思わぬ言葉に真意をはかりかねていると「古い建物のすし屋だけど、カウンターの白木だけはいつもビシッと磨かれています。御社の工場はそのすし屋に近いものを感じます」と言ってもらえました。「古いものだからといって駄目なわけじゃない、大事なことは、やるべきことをちゃんとやっているかどうか」だと我々の仕事、会社を認めてくれた上での言葉でした。とてもうれしい経験であり、入社後に取り組んできた衛生面の改革が実を結んだという実感を持つことができました。
同じ産地のものにこだわるよりも大切にしている判断基準
私が結婚して弊社に入ったばかりのころ、今はもう亡くなられたお客様に「美味しいあんこを作ることって難しいですよね」と問いかけたことがありました。
するとお客様は「木下さん、そんなことないんだよ。いい原材料を作って心を込めて作ったら、必ず美味しくなるかはわからないけれど、不味いものはできないはずなんだ」と言われました。必ずしも毎年同じ産地の小豆がいいとは限らない、ある年は水害の影響があるかもしれない、乾燥が悪くて縞のような小豆があるかもしれない。そのぐらい原材料の見極めは大事なんだと。色々な産地のものを見極めて、そのとき一番いいものを使うべきだと言われて、その言葉がストンと腹落ちしたんです。
料理人が一番鮮度のいい食材を選んでいくように、そこを間違えたら確かに最初から勝負にならないなと思いました。よく「腐っても鯛」なんて言いますが、それは確かに鯛かもしれないけど、腐っていたら食べられません。だから原材料にはこだわり続けます。
目指すは京都の老舗料亭とお豆腐屋さんの関係
その頃から抱いていた想いに「京都の老舗料亭と老舗のお豆腐屋さんのような関係になりたい」というものがありました。老舗の料亭の板前さんは皆さん高い技術を持っているので、作ろうと思えば豆腐でもなんでも自分のところで作れます。にもかかわらず、有名な料亭であってもお豆腐屋さんから豆腐を買うそうです。そして「うちはどこどこの豆腐を使っています」と言う、これはお豆腐屋さんからしたらとても誇らしく、うれしいことだと思います。私はあんこ屋もそういう存在にしたいとずっと思っていました。昔はあんこ屋からあんこを仕入れていることを公言してくれる和菓子屋さんはあまりなく、「自家製あんで作っています」といった売り文句ばかりでした。しかし実際には、粒あんは自前で作っていても、こしあんの原料となる生あんは、製餡所が作ったものを使っています。我々はいわば下請けのような扱いでした。私はそこを対等なパートナーの関係に変えて、「木下製餡があるからやっていける」と思ってもらえるような関係にしていきたいと強く持っていました。
農家の困りごとを解決するために誕生したコラボ商品
そしてお客様との関係だけではなく、我々が必要とする小豆などの原材料を作ってくれる農家さんとの関係も、やはり対等のパートナーでありたいと考えています。それもあって前述したような大企業との協業だけではなく、農家さんとのコラボやタイアップのような活動にも数多く取り組んできました。
一番最初は越生町でした。越生は梅とゆずが特産品ですが、中には傷が付いたりして売り物にならないものもあります。昔はそういったもののPRを兼ねて、冬至の時期に池袋の百貨店で配ったりしていたといいます。ただ、手間もお金もかかるばかりなので、やがて自分の畑に穴を掘って埋めるようになったそうです。それを見た当時の越生の町長が、一番の特産品がそんなことになるなんて忍びないと嘆きました。
そこで我々が越生から梅やゆずをもらい、羊羹などに加工して納めるようにしました。さらにどうせなら、ただ製品を納めるだけではなく、我々も販売に協力したり、もっとPRしたいという思いから、ゆずあんをパン屋さんなどに売り込みました。そうした活動をきっかけに、農家の方々と一緒に活動することも増えました。
農家の方々は高齢化が進み、承継されずにやめてしまう方々も少なくありません。そういった方々を支援するというのはおこがましいですが、対等の立場でお互いに盛り上げていきたいと考えています。どちらかだけが得をするような関係ではなく、みんなが幸せになれるような形を目指せるよう、微力ながらもお力になれればと思っています。
私は埼玉が地元なので、やはり埼玉県内のものに愛着があります。人は自分だけで成長したり偉くなるものではありません。住んでいる場所や会社のある地域には、何らかの形で貢献したいと常に考えています。地域のお客様に商品を届けるのと同じように、地元に対してできることをしていきたいという考えです。
「社員は家族」という経営理念
同時に、縁あって弊社に勤めてくれている社員は、私にとってまさに家族だと思っています。一人ひとりがただこの会社で仕事をするだけではなく、仕事を通じて色々な意味で成長していってほしいと強く思っています。そうやって皆の気持ちにゆとりが生まれれば、必然的により良い商品ができると思っています。いくら機械化していても、やはり人が扱い、作るものなので、そこは疎かにしてはいけない部分だと考えます。
弊社の経営理念は、そういったお客様への思いや社員への思いを文章にしています。これは初代や先代から受け継いだものと、日頃からこうありたいと思っていた考えをまとめて私が作成しました。毎日朝礼で唱和したりはしていませんが、時折会話も交えつつ日々の行動で伝えています。「こうするべきだ」と毎日言わなくとも、これを作った私がぶれていなければ、やがては社員に浸透していくものだと思っています。他業種から弊社に入社した40年前に、とにかくやってみよう、とにかく変えていこうと思った気持ちと同じだと思います。
あんこの海外展開で見えてきた勝負の仕方
日本国内のあんこや和菓子の市場規模、あるいは今後の人口減少を考えると、やはりマーケットとしての先行きはなかなか厳しい部分があります。どこに可能性があるのかもわからないですし、そうならば、ちょっと日本の外を見てみようという気持ちで海外販売に取り組み始めました。最初は香港でチャレンジしたのですが、向こうも小豆を食べる文化があるにも関わらず、うまくいかず、とにかく難しかったです。
そこで改めて弊社の強みは何だろうと考えたとき、お客様に合わせて色々なものを作ってきた小回りの良さが武器ではないかと考えました。それこそが大手にはできないところであり、その強みは海外でも活かせるのではないかと。それを踏まえて改めて海外を見てみると、大手がたくさん作っている日本のあんこは確かに流通しているけれども、その国の文化には必ずしも合ってはいませんでした。従って大手ができないようなことを小回り良くできるのであれば、そこにチャンスがあるというところからスタートしました。
現在、継続的に輸出している国はフランス、イギリス、ドイツなどがあります。例えばドイツにはデュッセルドルフという日本人が多く住む都市があり、日本人をターゲットにしたパン屋さんがあります。同じパンでも海外と日本ではやはり違う部分があるので、そこで日本人に合ったあんこということでゆずや川越芋をつかったあんこや粒あんなども使っていただいています。まさにそうした日本らしさを出したものを作れるのが弊社の強みを活かせる部分だと思っています。
時代によるビジネスモデルの変化と変わらない役割
昔はあんこがたくさん消費されていたからこそ、あんこ屋という商売が成り立っていました。しかし時代が変わり、和菓子の消費量も変わり、物流の進歩で全国どこでも配送できるようにもなりました。
もしかすると地域ごとのあんこ屋さんは存在意義がなくなり、必要がないものになるのかもしれません。しかし、あんこ屋のルーツはその地域に根差した和菓子の文化を支えるものでした。いわば黒子の存在です。黒子としての役割はこれからも変わらないのではないかとも思っています。一方で今まではお客様といえば和菓子屋さんだけでしたが、パン屋さんになってもいいですし、ケーキ屋さんになってもいいと思っています。あるいはもっと個人のお客様に直接訴えかけるような商品になるかもしれません。対象とするお客様を変えるなどの転換期にいるのかなと感じています。
ただ、まずは何よりも「人」を大事にした経営をしなければならないと思っています。教育もそうですし、働く環境づくりという意味で、製造面も制度面も充実させていこうと考えています。弊社のような小さい会社がそこを充実させることにこそ意味があると思うので、まずは「人」を大事にして、その次のステップで前述のような事業展開を行っていきたいと思っています。2031年には創業100周年を迎えます。その時には木下製餡という一つのブランドとして、何か形にして伝えたいと思っており、それに向けて色々と準備をしているところです。
細いロウソクであっても灯し続けたい
先日ある方に話したのですが、我々のような小規模な企業は、光にに例えるなら細いロウソクです。明るいときにその光を見てもあまり見えないかもしれないけれど、真っ暗闇の中では強く輝いて周りの人をしっかりと照らしてくれる、まさに一隅を照らすものだと思っています。
そういう意味でも先ほどお話しした農家の皆さんも含めて、それぞれの地域の方々が今ある仕事をずっと残していってほしいと願っています。そうすればその町や地域は小さな明かりであっても明かりがずっと灯っていく。本当にその地域が好きで、地域のことを思う人がそこにいるからこそそのロウソクには価値があると思うので、多くの人がそういう思いを持っていてほしいというのが私の気持ちです。
会社概要
社名 | 株式会社木下製餡 |
創立年 | 1954年 |
代表者名 | 代表取締役 木下 信次 |
資本金 | 997万円 |
URL |
https://kinoshitaseian.com/index.php
|
本社住所 |
〒330-0854 |
事業内容 | 各種製餡 羊羹製造 その他加工 |
事業エリア |
工場 〒330-0854 |
倉庫 〒330-0854 |
|
関連会社 |
会社沿革
1931年 | 長野県上田市で木下銀作が創業 |
1950年 | 木下製餡所として大宮市宮町5-131に移転 |
1954年 | 有限会社木下製餡所に会社組織を変更 |
1967年 | 大宮市桜木町4-392に工場移転 |
1972年 | 木下眞吉が代表取締役(二代目社長)就任 |
1994年 | 株式会社木下製餡に会社組織を変更 |
1998年 | 都市計画により新工場に移転(現住所に移転) |
2000年 | 微生物分析を自社で開始 |
2006年 | 埼玉県経営革新計画承認 |
2008年 | 三代目社長に木下信次就任 |
2015年 | さいたま市CSRチャレンジ企業認証 |
2016年 | 平成27年度補正ものづくり・商業・サービス新展開支援補助金採択 |
2017年 | 埼玉県彩の国優良ブランド品認証 さいたま市CSR再認証 |
2018年 | 経営力向上計画変更に係る認定 平成29年度省エネルギー投資促進に向けた支援補助金採択 |
公開日:2022/12/22 (2023/01/25修正)
※本記事の内容および所属名称は2023年1月現在のものです。現在の情報とは異なる場合があります。
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