那須塩原
那須塩原市
引継ぎ実績あり
木の香りと手のぬくもりで未来への想いを包む経木づくり
島倉産業株式会社
熟練の技術と品質を後続に伝える経木業の可能性
経営理念
納期や約束事を守り、地道に信用を築き、良い製品を提供する
家族のように支え合い、社員が能力を発揮できる環境をつくる
代表者メッセージ
島倉産業は、戦後の困難な時期から始まり今日に至るまで、地域と共に成長してきました。私たちの誇りは、経木製造における熟練の技と、事業を通じて得た地域社会との絆です。同業他社の廃業や、人材・後継者不足、木材流通の問題など、時代の変遷とともに直面する困難は変わり続けていますが、信頼を築き、品質を追求し、新たな可能性を探る弊社の姿勢は変わりません。未来に向けて、経木業界の火を絶やさぬよう技術の継承に力を入れ、これまで以上により良い商品を提供できるように尽力していきます。創業60年を控えた現在は、次世代への世代交代を通じて経木の良さを多くの人に知ってもらい、さらなる成長を遂げたいと考えています。
代表取締役 島倉 彰秀
私たちのこだわり
戦後を生き抜くため経木業をスタートした先代
弊社は終戦から間もない1948年に、先代である父によって創業されました。先代は、戦時中に激戦区のマレーシアに整備兵として出兵していましたが、終戦直前には兵が足りず出撃準備をしていたそうです。先代は生前に「あと1週間でも戦争が長引いていれば、この世にはいなかったかもしれない」と話してくれたことがあり、先代が戦乱の中で生き抜いてくれたからこそ、現在の家業と私があるのだろうと深く感じています。
戦地から1年がかりで栃木に帰郷した先代は、物資の少ない時代ながら需要があり、のこぎりと機械さえあれば始められる経木(きょうぎ)業に商機を見出し、製品づくりを始めました。
経木は、アカマツをはじめとした針葉樹を紙のように薄く削ったものです。古くは紙の代用として用いられ、通気性や吸水性、抗菌力に優れた経木は、戦前から肉や魚、揚げ物、納豆といった食品の包装材として日常的に使われていました。経木には、スギやヒノキに比べて香りが少なく、食材の風味をより引き立てるアカマツが最適であり、先代は1955年頃に、天然のアカマツが多く自生し林業の盛んな現在の栃木県那須塩原市へと移住しました。当時の栃木県内には経木の製造に携わる会社が40社ほどあり、那須塩原にはその約半数である18社が集まっていたと聞いています。
社員想いの家族のような職場で絆を深める
私は那須塩原市で生まれ育ちました。母は祖父とともに農業に専念していたため、家業は先代が中心となって経営していました。先代は配達や顧客先の開拓などで忙しく、身を粉にして働いていたためほとんど家にはいませんでした。その甲斐あって、最盛期には社員20人ほどを雇い、ドライバー3人が配達専用のトラックが3台を使って、毎日交代で配達に出るまでになっていきました。
1966年には工場が火災に見舞われましたが、地域の方々の支えもあって翌年には再建を果たすことができました。早々に復旧できていたことからも、当時は経営的にも余裕があったのだろうと思います。また弊社は、地方の小さな会社であるにも関わらず、社会保険に加入し福利厚生が整えられていました。戦中の混乱を経て自分の手で事業を始めた先代にとっては、職場や社員を大切にしたいという気持ちがあったようで、旅行が好きだった先代は、社員にも一緒に楽しんでもらおうと年に1回は社員旅行を企画していました。九州から北海道、香港やマカオ、最後には香港にも赴き、同じ時間を共に過ごしたことで、社員の絆が深まっていきました。
「納期や約束事を守り、信用を築き、良い製品を提供し続ける」先代の教え
社員と家族のために、必死に働く父の背中を見て育った私は、18歳で商業高校を卒業してから、ずっと弊社で働いてきました。先代から後を継いでほしいと言われたことは特になく、母から「お父さんが頑張っているのだから、手伝ってあげたら」と背中を押され、家業に入ることとなりました。
入社当時の従業員は11、12名ほどでした。創業当時から先代を支えてきたベテランの工場長から技術を学びつつ、1カ月のうち半分は関東一円と東北のお客様のもとへ配送に行き、お客様先や地理を覚えていきました。経木業界は当時から若い人財が入らず、60歳の定年後も働き続けてくれた工場長や社員さんには本当に助けられました。
また、入社したての頃から社長代理として銀行に行かされることも多くあり、銀行との関わり方を通じて、ステークホルダーとの向き合い方について学びました。社会に出たばかりで右も左もわからない私に、先代は「銀行からお金を借りる時は、かしこまったり顔色をうかがう必要はない。支払い期日を守り、利息を払って会社と社員のためにお金を借りるのだから、堂々と胸を張って帰ってくればいい。その分、預金する時は銀行が利息を付けて返してくれるのだから、感謝と敬意を払いなさい」と話してくれました。この先代の考えは、私が社長や経営者という立ち位置を意識する第一歩となりました。
また、先代からは「借りた金は期日に返し、取引先や従業員への支払いは何があっても遅れてはいけない」という教えもあり、今でも守り続けています。決済日や支払日を守り、手形を切らないという原則は、社員の生活を守り、企業としての信頼を築いていく上で欠かせない大事な約束事です。先代からは「苦しくとも、社員や取引先への支払いは怠らず、支払後に残れば自分たちの給料、残らなければないものと思え」「信頼は一生かかって築き続けなければいけないが、失うのは一瞬」など、商売をしていく上での心構えを教えられました。小さな会社ではありますが、創業から一度も支払いや納品の遅れがないことが弊社の誇りです。
また、お客様の9割以上が遠方であるにも関わらず、今までに一度も代金の未納などがなかったのは、互いに商売上の約束事を守り、対等な取引を続けて来られたからだと感じています。
先代から受け継いだ「納期や約束事を守り、信用を築き、良い製品を提供し続ける」という理念を、次の世代にも繋いでいけるよう努めていきます。
目測と感覚で経木を削る熟練の職人技
弊社の製品である経木は、現在も天ぷらの敷き紙や盛り付け時の仕切り、包装などに使っていただいています。よく知られるところでは、たこやきの舟皿や崎陽軒のシウマイ弁当の蓋なども経木でできています。弊社の強みは、経木の製造における技術とその品質です。弊社の経木はバリエーションが幅広く、名刺のような厚さから極薄まで作成することができます。
創業当時の職人は、目測と感覚で機械を調整し、0.05mm~0.06mmの厚さに経木を削ることができました。新聞紙の活字が経木越しに透けて見えるほど薄くスライスするには、機械の精度だけではなく、職人の経験と技術が求められます。他社では難しい加工も対応できることが弊社の強みです。
また弊社では、食品用の経木のほか、関西や九州地方の仏具屋やお寺で使われる『経木塔婆(とうば)』の製造も行っています。経木塔婆は水回向(みずえこう)供養に使われるもので、縦はA4サイズ、厚さが1mm以下の経木でできています。弊社では、以前は経木塔婆の加工まで行っていましたが、昨今の墓じまいなどの影響で受注数が減ってきたため、プレス加工ができる同業者との協力により納品しています。奈良には塔婆専門の製造所がありますが、周辺事業者の廃業が進んだこともあって、経木製造業者として塔婆づくりに携わる会社は弊社のみとなっています。
『那須塩原ブランド』の初年度認定品に選ばれる
2010年には、那須塩原市が合併5周年を迎えた記念事業として『那須塩原ブランド』の認定が始まり、弊社の経木は初年度の認定品10品目の1つに選ばれました。ブランド認定品への応募のきっかけは、息子の勧めにより、観光直売所『塩原もの語り館』に経木のはがきやコースター、弁当箱などを置かせていただいたことでした。ちょうど那須塩原ブランドの募集が始まった時期と重なっていたこともあって、商工会の方の目に留まり、応募を進められました。弊社の経木が認定品に選ばれたのは、那須塩原のシンボルである市の木がマツであり、地域資源を活かした製品だったからだろうと思っています。
認定以前は、市内でも経木や弊社のことを知る人はごくわずかでしたが、市の広報やHPで取り上げていただいたことで、市内や県外からも注文が寄せられるようになりました。少し前には、10数年前に観光で那須塩原市を訪れたという北海道の方から問い合わせがあり「直売所で子ども用にと弁当箱を購入したところ、とてもおいしく感じられたので買い足したい」という声をいただきました。商品代よりも配送料が高くなってしまうことを説明しましたが「それでもいいから」とお願いされ、お金以上の価値を弊社の製品に見出していただけていること、10数年前につくった製品を大事に使い続けてくれている方がいたことを心から嬉しく思いました。その後も広島県の方から問い合わせがあり、製品を通じてご縁が広がっていると実感しています。
協業から生まれた『曲げわっぱ弁当箱』がとちぎ国体で好評に
また最近では、名古屋で曲げわっぱを専門につくり続けている老舗企業との協業により、アカマツ材を使った曲げわっぱの弁当箱の製造を始めました。協業のきっかけは、東京で佃煮を製造している会社様からの問い合わせでした。経木のサンプルを納めたところ、アカマツの抗菌力を活かした曲げわっぱの弁当箱をつくろうという共同企画が立ち上がりました。
曲げわっぱは伝統工芸品のイメージがあり、日常使いには向かないと思う人がいるかもしれませんが、協業により生まれた弁当箱は、電子レンジで温めても接着剤が剥がれないなど、現代の生活に合わせて細部まで工夫されています。
また、この曲げわっぱは、2022年に栃木県内で開催された『いちご一会とちぎ国体』で出場選手や大会関係者の弁当に使用され、量産品にはない自然な風合いがいいと大変好評でした。弊社の製品を使っていただいた方から届く声からは、経木の良さやものづくりの喜びを改めて感じる良い機会となっています。
適正な流通と管理が国産木材の価値、品質を守る
弊社としては、経木に使用しているアカマツを今後どのように確保していくかが課題となっています。アカマツは、夏季には変色やマツクイムシなどによる虫害のリスクが高まることから、原木を切り出してから3~4週間分ほどしか保管できないため、品質管理や仕入れのタイミングが大変難しい素材です。市場に出回る数も大変少ないため、10年ほど前から『千本松牧場』で知られるホウライ株式会社様をはじめ、福島県南会津町の商工会議所や林業業者に協力をあおぎ、マツ材を提供していただいています。現在は全国規模で松枯れが広がり、那須塩原市内のマツにも影響が出始めている中で、地域企業から協力いただけることは大変ありがたいと感じています。林業全体としては、原木と流通の保全が課題だと感じています。昔は住宅用建材などに国産のマツが使用されていましたが、近年は安い輸入材木が使われるようになり、マツは市場に出回らなくなりました。スギやヒノキは、国が戦後から植林を進めてきましたが、マツは新たに植林されず、さらに全国で松枯れ被害が拡大しているため、流通量が激減しています。
また、木材の供給が安定しない理由の一つには、山林の整備に林業以外の事業者の手が入るようになったことも少なからず関係しています。近年、個人が所有する山には太陽光パネルが設置されるようになりましたが、パネルを設置する際の山林の伐採は、林業関係者ではなく設置業者や建築関連事業者が行うことが多く、伐採された原木は、不要なものとしてまとめて処分されてしまうこともあります。本来は価値ある『資材』『資源』として製材加工業者に行き渡るはずの原木や木材が、適切な評価が得られず、最安値のパルプとなってしまうこともあり、林業に関わる事業者にとっては大変な損失です。
地域の製材所や林業組合、商工会議所などの関連事業者を中心に連携力を強め、ネットワークを築いていくことこそが、課題解決にも繋がるだろうと考えています。
林業周辺事業は、木材調達や流通の安定のみならず、木材を使った伝統産業の存続をはじめ、地域の土壌保全や環境保護にも繋がっています。今後も家業を続けていくことで、持続可能な地域の発展を支援していきたい考えです。原木や山林の管理保全のためにも、業種を超えてできる限り情報を共有していくことが国産木材の価値や品質を守る上でも必要だろうと考えています。
同業2社の想いと取引先を引き継ぎ、3代目にバトンを繋ぐ
業界全体では職人の高齢化が進み、現在関東で経木業を営む会社は、弊社と群馬県の2社のみとなってしまっています。後継者不足が課題となる中で、弊社では、幸いなことに息子が3代目として跡目を継いでくれることになっています。数年前には、弊社がNHKで取り上げられたことがきっかけとなり、後継者のいない関東の同業2社から、取引先の引き継ぎについて相談が寄せられました。弊社も、息子が継いでくれなければ私の代で家業が途絶えていたかもしれず、困っているならばと2社の取引先を引き継ぐことにしました。
取引先を引き継いだうちの1社からは、経木製造用の機械を譲っていただくことができました。弊社では、3代目に技術を教えながら、引き継いだ2社分の取引先の納品数をこなしていくためにはあと1台の機械が必要でしたが、1枚数円の経木の利益で大変高価な機械はなかなか購入できず、困っていました。事情を話したところ譲っていただくことができましたが、製造業にとって機械設備は資産であり、修繕を重ねながら使われてきた機械を手放し廃業するのは、とても辛い選択だったと思います。会社の歴史とともに引き継いだ機械は今後も大事に使い続けていきます。現在は、3代目に機械の操作を少しずつ教えながら、少人数でも効率よく生産できるように努めているところです。材料の見極め方や製材方法など、経木の製造に欠かせない技術を3代目に引き継ぎつつ、私自身もまだまだ学ぶべきことがあるため、元気でいる限りは製造に携わり続けたいと思っています。
技術と信頼に新たな価値を加える若手世代への期待
経木産業の未来を考える上では、地域の若い人たちにも経木の魅力や可能性を伝えていきたいと思っています。3代目はSNSを通じて経木産業の情報を発信し、群馬県の同業者などと交流を深めることで、経木産業を盛り上げようとしてくれています。若手が携わることで、私たちが築き上げてきた技術に、また新たな価値が加わっていくだろうと期待しています。
創業から57年目を迎えた弊社としては、3年後の60周年に向けて、うまく世代交代をしていけたらと考えています。信頼と責任を根本とする経営を続けながら、未来の経木産業を築いていくことが私たちの使命であり、3代目には、私が先代から引き継いだように「納期や約束事を守り、信用を築き、良い製品を提供し続ける」ことが価値に繋がっていくと、次の世代に伝えていってほしいと思っています。
この会社は、私にとっての人生そのものです。ここで過ごした時間、得た経験、そして築き上げてきた関係は、私の人生を豊かにしてくれました。経木業の火を絶やさず、これからもこの会社が私たち家族、従業員、そして社会にとって価値ある存在であり続けたいと願っています。
戦後を生き抜くため経木業をスタートした先代
弊社は終戦から間もない1948年に、先代である父によって創業されました。先代は、戦時中に激戦区のマレーシアに整備兵として出兵していましたが、終戦直前には兵が足りず出撃準備をしていたそうです。先代は生前に「あと1週間でも戦争が長引いていれば、この世にはいなかったかもしれない」と話してくれたことがあり、先代が戦乱の中で生き抜いてくれたからこそ、現在の家業と私があるのだろうと深く感じています。
戦地から1年がかりで栃木に帰郷した先代は、物資の少ない時代ながら需要があり、のこぎりと機械さえあれば始められる経木(きょうぎ)業に商機を見出し、製品づくりを始めました。
経木は、アカマツをはじめとした針葉樹を紙のように薄く削ったものです。古くは紙の代用として用いられ、通気性や吸水性、抗菌力に優れた経木は、戦前から肉や魚、揚げ物、納豆といった食品の包装材として日常的に使われていました。経木には、スギやヒノキに比べて香りが少なく、食材の風味をより引き立てるアカマツが最適であり、先代は1955年頃に、天然のアカマツが多く自生し林業の盛んな現在の栃木県那須塩原市へと移住しました。当時の栃木県内には経木の製造に携わる会社が40社ほどあり、那須塩原にはその約半数である18社が集まっていたと聞いています。
社員想いの家族のような職場で絆を深める
私は那須塩原市で生まれ育ちました。母は祖父とともに農業に専念していたため、家業は先代が中心となって経営していました。先代は配達や顧客先の開拓などで忙しく、身を粉にして働いていたためほとんど家にはいませんでした。その甲斐あって、最盛期には社員20人ほどを雇い、ドライバー3人が配達専用のトラックが3台を使って、毎日交代で配達に出るまでになっていきました。
1966年には工場が火災に見舞われましたが、地域の方々の支えもあって翌年には再建を果たすことができました。早々に復旧できていたことからも、当時は経営的にも余裕があったのだろうと思います。また弊社は、地方の小さな会社であるにも関わらず、社会保険に加入し福利厚生が整えられていました。戦中の混乱を経て自分の手で事業を始めた先代にとっては、職場や社員を大切にしたいという気持ちがあったようで、旅行が好きだった先代は、社員にも一緒に楽しんでもらおうと年に1回は社員旅行を企画していました。九州から北海道、香港やマカオ、最後には香港にも赴き、同じ時間を共に過ごしたことで、社員の絆が深まっていきました。
「納期や約束事を守り、信用を築き、良い製品を提供し続ける」先代の教え
社員と家族のために、必死に働く父の背中を見て育った私は、18歳で商業高校を卒業してから、ずっと弊社で働いてきました。先代から後を継いでほしいと言われたことは特になく、母から「お父さんが頑張っているのだから、手伝ってあげたら」と背中を押され、家業に入ることとなりました。
入社当時の従業員は11、12名ほどでした。創業当時から先代を支えてきたベテランの工場長から技術を学びつつ、1カ月のうち半分は関東一円と東北のお客様のもとへ配送に行き、お客様先や地理を覚えていきました。経木業界は当時から若い人財が入らず、60歳の定年後も働き続けてくれた工場長や社員さんには本当に助けられました。
また、入社したての頃から社長代理として銀行に行かされることも多くあり、銀行との関わり方を通じて、ステークホルダーとの向き合い方について学びました。社会に出たばかりで右も左もわからない私に、先代は「銀行からお金を借りる時は、かしこまったり顔色をうかがう必要はない。支払い期日を守り、利息を払って会社と社員のためにお金を借りるのだから、堂々と胸を張って帰ってくればいい。その分、預金する時は銀行が利息を付けて返してくれるのだから、感謝と敬意を払いなさい」と話してくれました。この先代の考えは、私が社長や経営者という立ち位置を意識する第一歩となりました。
また、先代からは「借りた金は期日に返し、取引先や従業員への支払いは何があっても遅れてはいけない」という教えもあり、今でも守り続けています。決済日や支払日を守り、手形を切らないという原則は、社員の生活を守り、企業としての信頼を築いていく上で欠かせない大事な約束事です。先代からは「苦しくとも、社員や取引先への支払いは怠らず、支払後に残れば自分たちの給料、残らなければないものと思え」「信頼は一生かかって築き続けなければいけないが、失うのは一瞬」など、商売をしていく上での心構えを教えられました。小さな会社ではありますが、創業から一度も支払いや納品の遅れがないことが弊社の誇りです。
また、お客様の9割以上が遠方であるにも関わらず、今までに一度も代金の未納などがなかったのは、互いに商売上の約束事を守り、対等な取引を続けて来られたからだと感じています。
先代から受け継いだ「納期や約束事を守り、信用を築き、良い製品を提供し続ける」という理念を、次の世代にも繋いでいけるよう努めていきます。
目測と感覚で経木を削る熟練の職人技
弊社の製品である経木は、現在も天ぷらの敷き紙や盛り付け時の仕切り、包装などに使っていただいています。よく知られるところでは、たこやきの舟皿や崎陽軒のシウマイ弁当の蓋なども経木でできています。弊社の強みは、経木の製造における技術とその品質です。弊社の経木はバリエーションが幅広く、名刺のような厚さから極薄まで作成することができます。
創業当時の職人は、目測と感覚で機械を調整し、0.05mm~0.06mmの厚さに経木を削ることができました。新聞紙の活字が経木越しに透けて見えるほど薄くスライスするには、機械の精度だけではなく、職人の経験と技術が求められます。他社では難しい加工も対応できることが弊社の強みです。
また弊社では、食品用の経木のほか、関西や九州地方の仏具屋やお寺で使われる『経木塔婆(とうば)』の製造も行っています。経木塔婆は水回向(みずえこう)供養に使われるもので、縦はA4サイズ、厚さが1mm以下の経木でできています。弊社では、以前は経木塔婆の加工まで行っていましたが、昨今の墓じまいなどの影響で受注数が減ってきたため、プレス加工ができる同業者との協力により納品しています。奈良には塔婆専門の製造所がありますが、周辺事業者の廃業が進んだこともあって、経木製造業者として塔婆づくりに携わる会社は弊社のみとなっています。
『那須塩原ブランド』の初年度認定品に選ばれる
2010年には、那須塩原市が合併5周年を迎えた記念事業として『那須塩原ブランド』の認定が始まり、弊社の経木は初年度の認定品10品目の1つに選ばれました。ブランド認定品への応募のきっかけは、息子の勧めにより、観光直売所『塩原もの語り館』に経木のはがきやコースター、弁当箱などを置かせていただいたことでした。ちょうど那須塩原ブランドの募集が始まった時期と重なっていたこともあって、商工会の方の目に留まり、応募を進められました。弊社の経木が認定品に選ばれたのは、那須塩原のシンボルである市の木がマツであり、地域資源を活かした製品だったからだろうと思っています。
認定以前は、市内でも経木や弊社のことを知る人はごくわずかでしたが、市の広報やHPで取り上げていただいたことで、市内や県外からも注文が寄せられるようになりました。少し前には、10数年前に観光で那須塩原市を訪れたという北海道の方から問い合わせがあり「直売所で子ども用にと弁当箱を購入したところ、とてもおいしく感じられたので買い足したい」という声をいただきました。商品代よりも配送料が高くなってしまうことを説明しましたが「それでもいいから」とお願いされ、お金以上の価値を弊社の製品に見出していただけていること、10数年前につくった製品を大事に使い続けてくれている方がいたことを心から嬉しく思いました。その後も広島県の方から問い合わせがあり、製品を通じてご縁が広がっていると実感しています。
協業から生まれた『曲げわっぱ弁当箱』がとちぎ国体で好評に
また最近では、名古屋で曲げわっぱを専門につくり続けている老舗企業との協業により、アカマツ材を使った曲げわっぱの弁当箱の製造を始めました。協業のきっかけは、東京で佃煮を製造している会社様からの問い合わせでした。経木のサンプルを納めたところ、アカマツの抗菌力を活かした曲げわっぱの弁当箱をつくろうという共同企画が立ち上がりました。
曲げわっぱは伝統工芸品のイメージがあり、日常使いには向かないと思う人がいるかもしれませんが、協業により生まれた弁当箱は、電子レンジで温めても接着剤が剥がれないなど、現代の生活に合わせて細部まで工夫されています。
また、この曲げわっぱは、2022年に栃木県内で開催された『いちご一会とちぎ国体』で出場選手や大会関係者の弁当に使用され、量産品にはない自然な風合いがいいと大変好評でした。弊社の製品を使っていただいた方から届く声からは、経木の良さやものづくりの喜びを改めて感じる良い機会となっています。
適正な流通と管理が国産木材の価値、品質を守る
弊社としては、経木に使用しているアカマツを今後どのように確保していくかが課題となっています。アカマツは、夏季には変色やマツクイムシなどによる虫害のリスクが高まることから、原木を切り出してから3~4週間分ほどしか保管できないため、品質管理や仕入れのタイミングが大変難しい素材です。市場に出回る数も大変少ないため、10年ほど前から『千本松牧場』で知られるホウライ株式会社様をはじめ、福島県南会津町の商工会議所や林業業者に協力をあおぎ、マツ材を提供していただいています。現在は全国規模で松枯れが広がり、那須塩原市内のマツにも影響が出始めている中で、地域企業から協力いただけることは大変ありがたいと感じています。林業全体としては、原木と流通の保全が課題だと感じています。昔は住宅用建材などに国産のマツが使用されていましたが、近年は安い輸入材木が使われるようになり、マツは市場に出回らなくなりました。スギやヒノキは、国が戦後から植林を進めてきましたが、マツは新たに植林されず、さらに全国で松枯れ被害が拡大しているため、流通量が激減しています。
また、木材の供給が安定しない理由の一つには、山林の整備に林業以外の事業者の手が入るようになったことも少なからず関係しています。近年、個人が所有する山には太陽光パネルが設置されるようになりましたが、パネルを設置する際の山林の伐採は、林業関係者ではなく設置業者や建築関連事業者が行うことが多く、伐採された原木は、不要なものとしてまとめて処分されてしまうこともあります。本来は価値ある『資材』『資源』として製材加工業者に行き渡るはずの原木や木材が、適切な評価が得られず、最安値のパルプとなってしまうこともあり、林業に関わる事業者にとっては大変な損失です。
地域の製材所や林業組合、商工会議所などの関連事業者を中心に連携力を強め、ネットワークを築いていくことこそが、課題解決にも繋がるだろうと考えています。
林業周辺事業は、木材調達や流通の安定のみならず、木材を使った伝統産業の存続をはじめ、地域の土壌保全や環境保護にも繋がっています。今後も家業を続けていくことで、持続可能な地域の発展を支援していきたい考えです。原木や山林の管理保全のためにも、業種を超えてできる限り情報を共有していくことが国産木材の価値や品質を守る上でも必要だろうと考えています。
同業2社の想いと取引先を引き継ぎ、3代目にバトンを繋ぐ
業界全体では職人の高齢化が進み、現在関東で経木業を営む会社は、弊社と群馬県の2社のみとなってしまっています。後継者不足が課題となる中で、弊社では、幸いなことに息子が3代目として跡目を継いでくれることになっています。数年前には、弊社がNHKで取り上げられたことがきっかけとなり、後継者のいない関東の同業2社から、取引先の引き継ぎについて相談が寄せられました。弊社も、息子が継いでくれなければ私の代で家業が途絶えていたかもしれず、困っているならばと2社の取引先を引き継ぐことにしました。
取引先を引き継いだうちの1社からは、経木製造用の機械を譲っていただくことができました。弊社では、3代目に技術を教えながら、引き継いだ2社分の取引先の納品数をこなしていくためにはあと1台の機械が必要でしたが、1枚数円の経木の利益で大変高価な機械はなかなか購入できず、困っていました。事情を話したところ譲っていただくことができましたが、製造業にとって機械設備は資産であり、修繕を重ねながら使われてきた機械を手放し廃業するのは、とても辛い選択だったと思います。会社の歴史とともに引き継いだ機械は今後も大事に使い続けていきます。現在は、3代目に機械の操作を少しずつ教えながら、少人数でも効率よく生産できるように努めているところです。材料の見極め方や製材方法など、経木の製造に欠かせない技術を3代目に引き継ぎつつ、私自身もまだまだ学ぶべきことがあるため、元気でいる限りは製造に携わり続けたいと思っています。
技術と信頼に新たな価値を加える若手世代への期待
経木産業の未来を考える上では、地域の若い人たちにも経木の魅力や可能性を伝えていきたいと思っています。3代目はSNSを通じて経木産業の情報を発信し、群馬県の同業者などと交流を深めることで、経木産業を盛り上げようとしてくれています。若手が携わることで、私たちが築き上げてきた技術に、また新たな価値が加わっていくだろうと期待しています。
創業から57年目を迎えた弊社としては、3年後の60周年に向けて、うまく世代交代をしていけたらと考えています。信頼と責任を根本とする経営を続けながら、未来の経木産業を築いていくことが私たちの使命であり、3代目には、私が先代から引き継いだように「納期や約束事を守り、信用を築き、良い製品を提供し続ける」ことが価値に繋がっていくと、次の世代に伝えていってほしいと思っています。
この会社は、私にとっての人生そのものです。ここで過ごした時間、得た経験、そして築き上げてきた関係は、私の人生を豊かにしてくれました。経木業の火を絶やさず、これからもこの会社が私たち家族、従業員、そして社会にとって価値ある存在であり続けたいと願っています。
ツグナラコンサルタントによる紹介
那須塩原市に根差した特産品として、ブランド認定もされているアカマツの経木を製造されています。全国各地の同業他社との繋がりを大切にし、日本の伝統産業である経木の文化や製造を絶やさないために後継者の育成にも取り組まれています。長年にわたって顧客や取引先との信頼関係を丁寧に構築してこられた企業様です。
会社概要
社名 | 島倉産業株式会社 |
創立年 | 1967年 |
代表者名 | 代表取締役 島倉 彰秀 |
資本金 | 1000万円 |
本社住所 |
329-2745 栃木県那須塩原市三区町633 |
事業内容 | 天然材の赤松を使った経木の製造 |
URL |
https://r.goope.jp/sr-09-0940910028/
|
会社沿革
1948年 | 創業 |
1950年 | 那須塩原に工場を移転 |
1966年 | 工場の火災により再建 |
1967年 | 島倉産業株式会社を設立 |
1987年 | 島倉彰秀が代表就任 |
公開日:2023/12/07
※本記事の内容および所属名称は2023年12月現在のものです。現在の情報とは異なる場合があります。