川崎市中原
川崎市
勝浦市
十日町市
人工衛星や医療機器などの先端産業に寄与するものづくり企業
株式会社スタックス
「誠実で丁寧な仕事」を徹底することで信頼と実績を積み重ねてきた70年間の歩み
経営理念
「不易流行」を理念に
「企業として変えてはいけないもの」
「変わっていかなくてはならないもの」
を見極めながら「自発的な変化」を遂げて進化を続けていきます
代表者メッセージ
「不易流行の精神」 100年企業を目指す
当社は設立から70年を超える歴史の中で時代の変化、業界の変化に対応すべく大小様々な変化を遂げてきました。これらは先達の知恵と努力により成し遂げられたものであり、その全てが現在の人工衛星部品の製造や医療機器部品の製造をはじめとする先端産業への参画を可能にした大きな礎になっています。その礎となったモノの多くが「求めに応じた変化」であったのではないかと思います。
しかし、これからは「求めに応じた変化」だけでは時代の流れに取り残されるでしょう。お取引先のニーズ、技術の進歩、企業の社会的責任等、現在の企業を取り巻く環境は益々スピードを上げながら変わっていく様相です。こういった環境では受け身ではなく「自発的な変化」を遂げて進化を続けていく事が弊社にとって必要になっていくと考えています。
私は株式会社スタックスの代表として当社が現在までに培ってきた様々な技術や文化、考え方の中で
「企業として変えてはいけないもの」
「変わっていかなくてはならないもの」
この2つを「経営理念」「顧客ニーズ」「ものづくりへの姿勢」「将来的に求められるもの」等の要素をもとに見極め、自発的な進化を繰り返し、スタックスを100年企業へと導く事で、全てのステークホルダーにご満足していただく事を目指していきます。
代表取締役社長 星野佳史
私たちのこだわり
入浴剤事業の一部門として金属加工をスタート
スタックスの前身は、約90年前の1933年に私の祖父と曽祖父が共同で立ち上げたエッキス製薬という会社です。当初は業務用の入浴剤の製造や販売を営み、その傍らで細々と金属加工業を行っていました。1953年にエッキス製薬を法人化し、当時の本業である入浴剤事業を事業譲渡した資金を元に金属加工に特化した大星工業株式会社を1958年に設立しました。
金属加工業を始めたのは、祖父がもともと日本電気に勤めていて、製造の現場にいたことがきっかけです。日本電気時代のコネクションを元に受注していたものの、金属加工会社としては後発企業だったため、それほど注文はなかったようです。「明日納品してほしい」「商品を1個だけ作って欲しい」といったような、他の会社が受けたがらないイレギュラーな受注を専門にして、関係性を構築していったと聞いています。大星工業を設立して金属加工を本業にするまでは、赤字を銭湯事業で補填する期間もあったようです。
跡を継ぐことに反発心を覚えた思春期を経て26歳で覚悟を決める
現在の会長である私の母は、3姉妹の長女です。跡取りとして婿養子に入った父と共に、夫婦で家業を手伝っていました。しかし、私が生まれて間もない頃に父が心筋梗塞で急逝してしまったのです。そこで、母が専務として就任しました。ですから、物心がついてからというもの、私にとっての祖父と母は、一般的な「おじいちゃん」「お母さん」というよりは、会社経営者というイメージが強かったです。
私が小学校低学年の頃、ちょうどバブルが崩壊しました。当時は、1階が工場で2階が三世代同居の住居で暮らしていたこともあり、帰宅が遅く、いつも忙しそうにしている2人の姿を見ていました。学校の授業参観や個人面談のお知らせを手渡すのが心苦しく、隠していたこともありました。
祖父からは常日頃「将来はお前が会社を継ぐんだ」と言われていました。それが当たり前だと思っていた時期もありましたが、反発心を覚えたこともあります。特に思春期は、サービス業など、製造業とは真逆の業種に就きたくて仕方がありませんでした。今思えば、「どうしてもやりたいことがあるから、跡を継ぎたくない」というものではなく「跡を継ぎたくないから、やりたいことを見つけよう」というモチベーションでした。工場の2階に住んでいながら、何をしている会社なのかをよく理解しておらず、町工場の地味な印象だけが先行して、単純に「かっこ悪い」「ダサい」と感じていた時期でした。
しかし、大学を卒業する前後で考え方が変わりました。我が家の家計は、すべて弊社に頼ってきました。大学卒業を控えて、今働いている従業員の頑張りのおかげで大学にも行かせてもらい、自分はここまで来れたんだ――そういう感覚が自然と芽生えました。同時に「何かできることがあれば、恩返しをしなければ」という思いが少しずつ出てきました。そして社会経験を積むにつれて、「一見華やかそうに見えるものだけがカッコいいわけではない」ということを知り、職業観が変わっていきました。そうした中で「自分がもし入社することがあれば、将来的には社長になる覚悟で入らなければならない」という思いを持つようになり、その覚悟を決めて弊社に入社したのが26歳の時、2009年になります。
取引先の現場から強く支持される「誠実で丁寧な仕事」
スタックスの大きな強みはTQS(Technic,Quality,Service)です。医療やハイテク産業といった、精密さと正確さが求められる加工が得意ですから、そのための技術力と品質の高さは当然のこととして自信を持っています。それに加えて、商品をお客様の手元に届けるまでのすべての責任を持つのがポリシーです。
品質に直接関係がない仕上げの工程も手を抜かずにもう一手間をかけ、可能な限り自社便で納品します。また、検品などを考えて数えやすい荷姿にする、分かりやすくきれいに梱包するなど、取引先の現場で働く方々が仕事をしやすいように心を配っています。
そのため、取引先の現場からは高い評価を頂いています。例えば、経営者や管理部門から「コストカットのために他社への発注を検討できないか」という意見が出たとき、「スタックスの製品でないと、作業コストが逆に高くつく」と、現場から猛反対が起きたこともあったと聞いています。ミスが起きた時は、きちんと調査してつまびらかに報告するため「そこまで正直に言わなくても……」と先方に驚かれたこともあります。その誠実さが最終的に評価につながることも何度も経験しています。取引先への接待は一切行いませんが、現場レベルで強く支持されているという実感があります。
「早く安く」がモットーの会社であれば、海外勢との価格競争に晒されることもあるかもしれません。弊社のお客様が求めているのは、高い技術と品質、現場の仕事のしやすさまで考えたサービスや万が一の対応力まで加えたトータルの部分です。ワンショットでの受注でも、7~8割は再受注に繋がっています。
納品先の現場で気持ちよく作業ができるように、誠実で丁寧な仕事をするという精神のルーツは、祖父にあります。金属加工の仕事がまだ少なかった時代、イレギュラーな受注に真摯な仕事で対応して信頼を得て、次の受注に繋がる関係性を構築していったのがベースにあるからです。祖父が直接教育をしていた従業員が現在指導する立場となり、この姿勢が自然と継承されていっていると感じています。今後は「なぜそうするのか」という言語化にも取り組んでいきたいと考えています。
組織だけではなく、従業員にも「不易流行」の精神を育みたい
2020年に社長に就任したとき「企業として変えてはいけないもの」「変わっていかなくてはならないもの」という理念を新しく打ち出し、その理念を一言で表すために「不易流行」を掲げました。不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず――不変で本質的なものの中にも、新しい変化を取り入れていくという、松尾芭蕉の俳諧信条です。
丁寧で誠実な仕事をするという精神は、「企業として変えてはいけないもの」の代表です。対して、悪しき文化があれば変えなければいけませんし、全くやってないことにトライすることも必要です。そのためには、今までやってきたことの中で捨てるものも出てくるでしょう。そのバランスを見ながら会社として進化していきたいと考えました。
コロナ禍をきっかけにWebサイトを改修し、オンラインでもある程度の見積もりや製作の可否をお答えできるようにしたのは、「変わっていかなくてはならないもの」のひとつです。Webサイトをきっかけに取引を始めた10数社のうち、8割は1度もお会いしていません。そのうちの半分は電話すらせず、メールだけのやり取りで済んでいることもあります。これまでの慣習では考えられないことですが、受注の入り口としてオンラインの重要性は高まっていくでしょう。
また、スタックスは現在、千葉と新潟に製造工場があります。それぞれで得意先が異なり、製品に求められるものも異なります。千葉・勝浦市の工場は、人工衛星やH2ロケットなど高い技術力を求められる薄板板金加工に特化していて、エンドユーザーは国の機関などが主流です。同じものを製造しながら精度を上げ、リスク低減を図っていく仕事が多いです。一方、新潟・十日市の工場は、ファイバーレーザーなどの大規模な設備が整っています。医療機器の筐体の製造など民間からの単発の受注が多く、同じ製品でも目まぐるしくシリーズ変更するなど、スピーディーで革新的な仕事が多いです。社内で常に「不易流行」が起きている状態なのです。
片方で足場を固めながら、片方で新しいことにも果敢に取り組む。これは、会社という組織だけのことではありません。従業員一人ひとりも「不易流行」であってほしいという思いもあります。業務に直接関係のないことでも、学ぶ意欲があれば、会社としてサポートする体制を整えました。製造の現場にいて、デザインの勉強をしたい人には学費を支援したり、何かしらの資格を取ったら手当をつけたりと、向上心に対しては会社として応援します。様々なことにチャレンジしてほしいです。
事業承継で、川崎の「もったいない」を無くしたい
26歳で入社したタイミングで、横浜から川崎に戻ってきました。川崎は弊社が創業以来、事業を営んできた場所であり、自分自身も幼少期に住んでいた感慨深い土地です。ものづくりの町である川崎で、ものづくりの仕事ができることに喜びを感じています。
小規模な仕入先や協力会社などと話をしていて、歯痒い思いをすることがあります。それは、素晴らしい技術やサービス、実績を持っている中小企業がたくさんあるにも関わらず、経営者も従業員もその強みに気が付いていないことです。当人たちは「それが当たり前」と思っているため、わざわざPRする価値を見出せていないのです。ふとした会話の中でそれを知って、驚くと同時に、後世に引き継ぐ価値のある素晴らしい商品や技術、サービスが、世に知られないまま失われていくことは地域にとって重大な損失だと感じます。「後継者がいない」という状況はその最たるものです。
川崎でもの作りをしている会社が、事業承継の問題で減っていくことに歯止めをかけていきたいです。そのような会社があれば、スタックスに預けてもらえないかという思いがあります。弊社の十日町事業所は、増設の際に廃校になった旧六箇小学校の校舎と体育館を引き取って活かしたものです。今あるものを活用して未来に繋げていく姿勢が、弊社にはあります。川崎に生産拠点がある会社をM&Aのような形で支え、弊社も有効に事業として活用する、そんなことができればと思っています。M&Aをするにあたって、仮に横浜と川崎で条件が同じ2社があれば、絶対に川崎の会社を選びます。
人が介在したものづくりで100年企業を目指す
創業70年を迎え、100年企業が見えてきました。しかし「ただ100年やればいい」というわけではないと私は思っています。目指している方向性は、製造業というものづくりの事業であること、そして、必ず「人」が介在するものづくりで「100年周年を迎えること」です。
弊社は代々、人を大事にしています。社員の向上心を刺激しながら、取引先の現場の人が仕事しやすいように丁寧な一手間を施してきました。気がついたら、全部ロボットで自動化しているような姿でものづくりをしている100年目は迎えたくありません。ここも「企業として変えてはいけないもの」のひとつです。
特に、弊社はサービスに重きを置いているので、細やかな気遣いが必要です。工場というと力仕事が多いイメージがありますが、弊社の製品が小さく、材料が薄いものもあるので、女性も活躍しやすい現場です。また、検査部門では障害者の短時間雇用を導入してその能力を発揮してもらい、非常に助かっています。製造している製品の性格上、慎重かつ堅実な従業員が多いですが、スピード感と勢いのある人材も登用して、新しい風を取り込んでいきたいです。
入浴剤事業の一部門として金属加工をスタート
スタックスの前身は、約90年前の1933年に私の祖父と曽祖父が共同で立ち上げたエッキス製薬という会社です。当初は業務用の入浴剤の製造や販売を営み、その傍らで細々と金属加工業を行っていました。1953年にエッキス製薬を法人化し、当時の本業である入浴剤事業を事業譲渡した資金を元に金属加工に特化した大星工業株式会社を1958年に設立しました。
金属加工業を始めたのは、祖父がもともと日本電気に勤めていて、製造の現場にいたことがきっかけです。日本電気時代のコネクションを元に受注していたものの、金属加工会社としては後発企業だったため、それほど注文はなかったようです。「明日納品してほしい」「商品を1個だけ作って欲しい」といったような、他の会社が受けたがらないイレギュラーな受注を専門にして、関係性を構築していったと聞いています。大星工業を設立して金属加工を本業にするまでは、赤字を銭湯事業で補填する期間もあったようです。
跡を継ぐことに反発心を覚えた思春期を経て26歳で覚悟を決める
現在の会長である私の母は、3姉妹の長女です。跡取りとして婿養子に入った父と共に、夫婦で家業を手伝っていました。しかし、私が生まれて間もない頃に父が心筋梗塞で急逝してしまったのです。そこで、母が専務として就任しました。ですから、物心がついてからというもの、私にとっての祖父と母は、一般的な「おじいちゃん」「お母さん」というよりは、会社経営者というイメージが強かったです。
私が小学校低学年の頃、ちょうどバブルが崩壊しました。当時は、1階が工場で2階が三世代同居の住居で暮らしていたこともあり、帰宅が遅く、いつも忙しそうにしている2人の姿を見ていました。学校の授業参観や個人面談のお知らせを手渡すのが心苦しく、隠していたこともありました。
祖父からは常日頃「将来はお前が会社を継ぐんだ」と言われていました。それが当たり前だと思っていた時期もありましたが、反発心を覚えたこともあります。特に思春期は、サービス業など、製造業とは真逆の業種に就きたくて仕方がありませんでした。今思えば、「どうしてもやりたいことがあるから、跡を継ぎたくない」というものではなく「跡を継ぎたくないから、やりたいことを見つけよう」というモチベーションでした。工場の2階に住んでいながら、何をしている会社なのかをよく理解しておらず、町工場の地味な印象だけが先行して、単純に「かっこ悪い」「ダサい」と感じていた時期でした。
しかし、大学を卒業する前後で考え方が変わりました。我が家の家計は、すべて弊社に頼ってきました。大学卒業を控えて、今働いている従業員の頑張りのおかげで大学にも行かせてもらい、自分はここまで来れたんだ――そういう感覚が自然と芽生えました。同時に「何かできることがあれば、恩返しをしなければ」という思いが少しずつ出てきました。そして社会経験を積むにつれて、「一見華やかそうに見えるものだけがカッコいいわけではない」ということを知り、職業観が変わっていきました。そうした中で「自分がもし入社することがあれば、将来的には社長になる覚悟で入らなければならない」という思いを持つようになり、その覚悟を決めて弊社に入社したのが26歳の時、2009年になります。
取引先の現場から強く支持される「誠実で丁寧な仕事」
スタックスの大きな強みはTQS(Technic,Quality,Service)です。医療やハイテク産業といった、精密さと正確さが求められる加工が得意ですから、そのための技術力と品質の高さは当然のこととして自信を持っています。それに加えて、商品をお客様の手元に届けるまでのすべての責任を持つのがポリシーです。
品質に直接関係がない仕上げの工程も手を抜かずにもう一手間をかけ、可能な限り自社便で納品します。また、検品などを考えて数えやすい荷姿にする、分かりやすくきれいに梱包するなど、取引先の現場で働く方々が仕事をしやすいように心を配っています。
そのため、取引先の現場からは高い評価を頂いています。例えば、経営者や管理部門から「コストカットのために他社への発注を検討できないか」という意見が出たとき、「スタックスの製品でないと、作業コストが逆に高くつく」と、現場から猛反対が起きたこともあったと聞いています。ミスが起きた時は、きちんと調査してつまびらかに報告するため「そこまで正直に言わなくても……」と先方に驚かれたこともあります。その誠実さが最終的に評価につながることも何度も経験しています。取引先への接待は一切行いませんが、現場レベルで強く支持されているという実感があります。
「早く安く」がモットーの会社であれば、海外勢との価格競争に晒されることもあるかもしれません。弊社のお客様が求めているのは、高い技術と品質、現場の仕事のしやすさまで考えたサービスや万が一の対応力まで加えたトータルの部分です。ワンショットでの受注でも、7~8割は再受注に繋がっています。
納品先の現場で気持ちよく作業ができるように、誠実で丁寧な仕事をするという精神のルーツは、祖父にあります。金属加工の仕事がまだ少なかった時代、イレギュラーな受注に真摯な仕事で対応して信頼を得て、次の受注に繋がる関係性を構築していったのがベースにあるからです。祖父が直接教育をしていた従業員が現在指導する立場となり、この姿勢が自然と継承されていっていると感じています。今後は「なぜそうするのか」という言語化にも取り組んでいきたいと考えています。
組織だけではなく、従業員にも「不易流行」の精神を育みたい
2020年に社長に就任したとき「企業として変えてはいけないもの」「変わっていかなくてはならないもの」という理念を新しく打ち出し、その理念を一言で表すために「不易流行」を掲げました。不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず――不変で本質的なものの中にも、新しい変化を取り入れていくという、松尾芭蕉の俳諧信条です。
丁寧で誠実な仕事をするという精神は、「企業として変えてはいけないもの」の代表です。対して、悪しき文化があれば変えなければいけませんし、全くやってないことにトライすることも必要です。そのためには、今までやってきたことの中で捨てるものも出てくるでしょう。そのバランスを見ながら会社として進化していきたいと考えました。
コロナ禍をきっかけにWebサイトを改修し、オンラインでもある程度の見積もりや製作の可否をお答えできるようにしたのは、「変わっていかなくてはならないもの」のひとつです。Webサイトをきっかけに取引を始めた10数社のうち、8割は1度もお会いしていません。そのうちの半分は電話すらせず、メールだけのやり取りで済んでいることもあります。これまでの慣習では考えられないことですが、受注の入り口としてオンラインの重要性は高まっていくでしょう。
また、スタックスは現在、千葉と新潟に製造工場があります。それぞれで得意先が異なり、製品に求められるものも異なります。千葉・勝浦市の工場は、人工衛星やH2ロケットなど高い技術力を求められる薄板板金加工に特化していて、エンドユーザーは国の機関などが主流です。同じものを製造しながら精度を上げ、リスク低減を図っていく仕事が多いです。一方、新潟・十日市の工場は、ファイバーレーザーなどの大規模な設備が整っています。医療機器の筐体の製造など民間からの単発の受注が多く、同じ製品でも目まぐるしくシリーズ変更するなど、スピーディーで革新的な仕事が多いです。社内で常に「不易流行」が起きている状態なのです。
片方で足場を固めながら、片方で新しいことにも果敢に取り組む。これは、会社という組織だけのことではありません。従業員一人ひとりも「不易流行」であってほしいという思いもあります。業務に直接関係のないことでも、学ぶ意欲があれば、会社としてサポートする体制を整えました。製造の現場にいて、デザインの勉強をしたい人には学費を支援したり、何かしらの資格を取ったら手当をつけたりと、向上心に対しては会社として応援します。様々なことにチャレンジしてほしいです。
事業承継で、川崎の「もったいない」を無くしたい
26歳で入社したタイミングで、横浜から川崎に戻ってきました。川崎は弊社が創業以来、事業を営んできた場所であり、自分自身も幼少期に住んでいた感慨深い土地です。ものづくりの町である川崎で、ものづくりの仕事ができることに喜びを感じています。
小規模な仕入先や協力会社などと話をしていて、歯痒い思いをすることがあります。それは、素晴らしい技術やサービス、実績を持っている中小企業がたくさんあるにも関わらず、経営者も従業員もその強みに気が付いていないことです。当人たちは「それが当たり前」と思っているため、わざわざPRする価値を見出せていないのです。ふとした会話の中でそれを知って、驚くと同時に、後世に引き継ぐ価値のある素晴らしい商品や技術、サービスが、世に知られないまま失われていくことは地域にとって重大な損失だと感じます。「後継者がいない」という状況はその最たるものです。
川崎でもの作りをしている会社が、事業承継の問題で減っていくことに歯止めをかけていきたいです。そのような会社があれば、スタックスに預けてもらえないかという思いがあります。弊社の十日町事業所は、増設の際に廃校になった旧六箇小学校の校舎と体育館を引き取って活かしたものです。今あるものを活用して未来に繋げていく姿勢が、弊社にはあります。川崎に生産拠点がある会社をM&Aのような形で支え、弊社も有効に事業として活用する、そんなことができればと思っています。M&Aをするにあたって、仮に横浜と川崎で条件が同じ2社があれば、絶対に川崎の会社を選びます。
人が介在したものづくりで100年企業を目指す
創業70年を迎え、100年企業が見えてきました。しかし「ただ100年やればいい」というわけではないと私は思っています。目指している方向性は、製造業というものづくりの事業であること、そして、必ず「人」が介在するものづくりで「100年周年を迎えること」です。
弊社は代々、人を大事にしています。社員の向上心を刺激しながら、取引先の現場の人が仕事しやすいように丁寧な一手間を施してきました。気がついたら、全部ロボットで自動化しているような姿でものづくりをしている100年目は迎えたくありません。ここも「企業として変えてはいけないもの」のひとつです。
特に、弊社はサービスに重きを置いているので、細やかな気遣いが必要です。工場というと力仕事が多いイメージがありますが、弊社の製品が小さく、材料が薄いものもあるので、女性も活躍しやすい現場です。また、検査部門では障害者の短時間雇用を導入してその能力を発揮してもらい、非常に助かっています。製造している製品の性格上、慎重かつ堅実な従業員が多いですが、スピード感と勢いのある人材も登用して、新しい風を取り込んでいきたいです。
会社概要
社名 | 株式会社スタックス |
創立年 | 1953年 |
代表者名 | 代表取締役社長 星野佳史 |
資本金 | 3300万円 |
事業エリア |
スタックス勝浦
299-5253 千葉県勝浦市名木85-1 |
スタックス十日町
948-0000 新潟県十日町丁60番地 |
|
本社住所 |
211-0011 神奈川県川崎市中原区下沼部1750 |
事業内容 | 主業:精密板金業 従業:貸間業 |
URL |
http://stax-tqs.co.jp/index.html
|
会社沿革
1933年 | スタックスの前身創業(入浴剤の製造販売) |
1953年 | 法人化し、エッキス製薬株式会社設立 |
1958年 | 大星工業株式会社に社名変更し、エッキスの板金事業を譲りうける形で板金部門を設立 |
1992年 | 株式会社スタックスに社名変更 星野妃世子社長に就任、星野重夫会長に就任 |
2020年 | 星野佳史社長に就任、星野妃世子会長に就任 |
株式会社スタックスの経営資源引継ぎ募集情報
公開日:2023/01/26 (2023/09/04修正)
※本記事の内容および所属名称は2023年9月現在のものです。現在の情報とは異なる場合があります。