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「お椀から建物まで」国産材で提供する製販一体の木工会社
オークヴィレッジ株式会社
木の生きた歳月と人の豊かな暮らしが巡る共生のものづくり
経営理念
100年かかって育った木は100年使えるものに
私たちが用いる材料は、永い時間をかけて大きく育った木です。
その木が生きた年月と同じくらい、永く使い続けられるモノ造りを目指しています。
お椀から建物まで
日本に生育する様々な木を用いて、玩具、文具、漆器から家具、そして木造建築まで、暮らしの様々な場面で自然素材を活かす提案をしています。
子ども一人、ドングリ一粒
木を使ったら、100年後に同じ大きさになるドングリを植えて木を山へ返そうと考え、 広葉樹の植林・育林を行っています。
代表者メッセージ
オークヴィレッジは1974年に飛騨高山に工房を構えて以来、「自然との共生」を活動理念に掲げ、持続可能な循環型社会の構築を目指し歩んでまいりました。
今でこそ緑豊かな森に囲まれて活動をしておりますが、創設当初のこの地はススキ野原の荒地で上水道も通っておらず、上流地域での大規模な森林伐採により雨が降る度に泥水が水源地に流れ込み、断水が繰り返されていました。
それから半世紀を迎える今、弊社の森は、広葉樹の植林・育林活動により本来の豊かさを取り戻しています。
樹木が育つまでの期間は長く、加工され製品となるのはほんの一瞬のことです。しかし、人の消費した分の木や資源が回復されるまでには、気が遠くなるほどの時間がかかります。
循環型社会の実現には、樹木が育った年月と同じくらい、永く大切に使われ続ける製品づくりが必要となることを、実感としています。
今改めて、豊かな森づくりと木の持つ魅力、可能性を引き出すモノ造りに磨きをかけていこうと決意を新たにしております。
これからも私たちは、今まで築き上げてきた実績と知見を活かし、豊かな暮らしと自然環境の保全に貢献する活動を続けてまいります。
代表取締役社長 上野 英二
私たちのこだわり
自然との共生を目指す同好会で木工の楽しさに目覚める
オークヴィレッジは、1974年に岐阜県高山市で創業した木工会社です。創業時のメンバーは5人で、社内ではその創業メンバーを「オリジナル・ファイブ」と呼んでいます。
彼らはもともと東京の大学の教職員や学生であり、高度経済成長により物質的な豊かさばかりを追い求める世の中に疑問を抱いていました。大量生産により資源を消費し効率を追求するよりも、自然と共生し人間らしく暮らす方が大事だという意識が、大学教職員・OB・学生の間でも高まり、自然の中の拠点づくりを目指す同好会「山小屋の会」が結成されました。
創業メンバーは、1972年から長野県大町市の山奥でスタートした「山小屋の会」プロジェクトに加わり、200坪ほどの土地を自分たちの手で開拓し、道や敷地の整備、山小屋の建築にあたりました。自然の中での山小屋づくりを通じて、木工やものづくりの楽しさに魅かれた創業メンバーは、やがて仲間とともに木工を生業として暮らしたいと考えるようになりました。
木工職人として生計を立てる決意を固め高山へ移住
そして2年ほどで山小屋は完成し、作業をサポートしてくれた地元の大工の方からの「君たちはセンスがいいから木工職人になれる」という言葉にも後押しされ、木工職人になりたいと真剣に考えるようになったそうです。
しかし、その時点では「プロジェクトに参加した10数名の仲間たちと山小屋を1棟建てた」という経験しかなく、ものづくりで生計を立てていくには木工職人としての技術を改めて学ぶ必要がありました。
検討を重ね、創業メンバーが新拠点として選んだのは、現在本社がある岐阜県高山市でした。高山は、奈良時代から木材の産地とされ、基礎から木工を学べる高等技能専門学校があり、多くの木工関連会社が軒を連ねているため、木材や道具類も入手しやすいという好条件がそろっていたからです。
創業メンバー5人のうち3人は高等技能専門学校で家具職人としての技術を学び、4人目は当時としては珍しかった漆塗りの家具をつくるために、高山の伝統工芸「飛騨春慶」を手がける漆塗りの工房で修業に行きました。そして工房や家を自分たちの手でつくるため、最後の1人は高山の工務店で大工として修行を積み、役割を分担して技術を磨き、弊社の立ち上げに向けて準備を進めていきました。
厳しい環境下でスタートした「製販一体」のビジネスモデル
創業メンバーが移住し、弊社を創業した1974年は、オイルショックの影響による不況の真っただ中でした。木工が盛んな飛騨高山には、当時から多くの家具メーカーが存在していましたが、大規模なリストラが行われるなど大変な時期でした。そんな中、都会から高山のはずれに若者が移住し家具づくりを始めたということで、弊社は注目を集めたものの、「面白そうだけどすぐだめになるだろう」という意見が大半だったそうです。
また当時の家具メーカーは、大きな資本で工場を構え、大量にモノをつくって家具問屋に卸し、問屋を通して全国の小売店で売ってもらうのが一般的であり、資本も人手も足りない創業直後の弊社の状況では、大量に家具をつくることは不可能でした。
そこで創業メンバーは、問屋を通さず直接エンドユーザーとやり取りをして家具を販売するという、当時としてはかなり珍しい形で事業を展開しました。ただ、当時の顧客は知人、友人が大半であり、家具をつくってもほとんど売れず、決して順風満帆とはいえない経営状況が続きました。稲作や野菜づくりでの自給自足も試みましたが、高山は日照時間が短く水も冷たいため稲や野菜はうまく育たず、収入源である家具づくりを成功させなければならない状況に追い込まれていったそうです。
新宿・紀伊国國屋書店での家具展示会によりファンの輪が広がる
転機が訪れたのは1978年です。創業メンバーは、もっと自分たちのことを知ってもらい、よりいい仕事を獲得するために、東京での展示会開催を新たな目標として掲げました。偶然取材で訪れた編集者に人を紹介してもらい、関係者に思いをぶつけたところ、その熱意が通じたのか、東京・新宿の紀伊国國屋書店ギャラリーで家具の展示会を開催させてもらえることになりました。
飛騨の山奥で家具づくりをする若者が、都内の書店で展示会を開催するという珍しさが話題となり、メディアにも取り上げられ、展示会当日は多くの来場者で賑わいました。会場では、制作者が木の魅力やものづくりの面白さを伝えるうちにファンが増え、この展示会をきっかけとして、デパートのバイヤーの方や「自分にも家具をつくってほしい」という個人のお客様が全国から訪れるようになりました。
製販一体のビジネスモデルは、ほかに手段がなかったがゆえの、いわば苦肉の策から生まれたものでしたが、お客様の輪が広がったことで売り上げも次第に伸びていきました。
高山を出て違和感の理由を探し求めていた2代目社長
現在2代目社長の私は、本社のある高山で生まれ育ちました。創業メンバーの5人が高山に移住し創業したのは私が高校生の頃です。その時点では彼らとの接点はありませんでしたが、リストラや不況の中で、山奥に移住し家具づくりをしている無謀な若者たちの話はよく耳にしていました。都会に憧れ地元を出ていこうとしている当時の私にとっては、田舎の山奥で家具づくりをする良さはわかりませんでしたが、高校を卒業し名古屋の大学に進学した後も、なぜか彼らの話を忘れることはできせんでした。
そして大学の建築学科を卒業し、設計事務所に就職して働き始めたが、当時流行していたコンクリート打ち放しなどの人工的で無機質な建物づくりがどうも合わず、就職3年目には自分がどんな建物をつくりたいのかがわからなくなっていました。そのため休日には何かヒントになればと建物を見て歩きましたが、足が向くのは奈良や京都の木造建築であり「ひょっとしたら私は木造の建物をつくりたかったのかもしれない」と思うようになりました。
名古屋の展示会での出会いが人生の転機に
そんなある日、名古屋市内の百貨店で飛騨の木工作家たちが展示会を開催することを知り、手づくりの家具は見たことがなかったので行ってみることにしました。
家具を興味深く眺めていたところ、創業メンバーの1人であり先代の稲本から「君は何の仕事をしているのですか」と声をかけられました。「設計事務所で設計の仕事をしています」と答えると、「ちょうどいいところに来た」といわれました。どういうことか尋ねると、喫茶店をつくりたいというお客様の依頼を2件抱えており、その相談に乗ってほしいということでした。
当時は脱サラをして飲食店等を開業する人が増え始めた頃で、オークヴィレッジのメンバーの境遇に親近感を覚え、同じ思いをもつ人たちの手を借りれば面白いものができるのではないかという期待から依頼が寄せられていたようでした。しかし、創業メンバー5人はそれぞれ家具職人・漆職人・大工であり、店舗の内装や建築物の設計に関しては門外漢です。どうしたものかと悩んでいたところへ、建築士として働いていた私がやってきたとのことでした。
さらに私が高山出身と知ると、出会って間もない間柄ながら「じゃあ君が設計してくれ」「飛騨に帰ってくればいいじゃないか」と誘われました。後から聞いたところによると「まさに渡りに船だ」と思ったそうで、私自身も思わぬ形ではありましたが運命的なものを感じ、高山に戻ることを決心しました。
木造建築部門の設立を通じて、仕事の幅とご縁が広がる
名古屋の設計事務所を辞め、高山で木造建築を始めることを周囲の友人に伝えると「これからはコンクリートや高層ビルの時代だ」「木造なんて時代遅れだ、考え直せ」と散々言われました。しかし、これこそが自分の進むべき道だと確信していた私に迷いはありませんでした。
そして私の入社を機に、弊社の木造建築部門が本格的に稼働を開始しました。とはいえ少人数なので、設計だけをしていればいいというわけにもいきません。材木を運ぶトラックを設計士の私が運転して東京の現場に向かうことも珍しくありませんでした。さすがに「刻み」など職人の技術が必要な加工まではできませんでしたが、現場監督や資材の管理など、できることは何でもやりました。
そのうち、建築の打合せの際に家や店舗のデザインに合う家具が欲しいというご要望が増え、徐々に家具のデザインも手がけるようになっていきました。建物のご相談が家具のご依頼に結びつき、また、家具を購入した方が家づくりにも興味をもってくださるようになり、仕事を通じて少しずつご縁が広がっていきました。その頃は生産体制も整っておらず、お客様の要望に合わせて作るオーダーメイドの家具が大半を占めていたため、慌ただしい日々でしたが、若い頃に得た経験は、今もかけがえのない大事なものとなっています。
現場経験を買われ、2代目社長に就任
20代半ばで弊社に入社した私は、入社から7~8年後の30代前半には常務に就任し、その後専務を経て、2015年に2代目の社長に就任しました。
ただ私の場合は、役員に就任してからも経営より建築や家具のデザイン等の仕事がメインであったため、社長として指名された時には会社を牽引していく自信はありませんでした。
しばらくの間は葛藤がありましたが、長年にわたり弊社と弊社の製品を支持してくださるお客様の信頼を裏切らないために、今後もこの会社を続けていけるように最善を尽くそうと決意し、2代目社長に就任しました。
経営の引き継ぎにあたっては、コンサルティンググループでありツグナラ専門家のMMPCさんにご支援いただきました。社長就任後も不安はありましたが、MMPC松井会長からの「今オークヴィレッジは飛騨の重要な会社の一つになっていて、地域のために従業員の雇用を守っていかなければなりません。私たちも応援します。上野さん、頑張ってください」という言葉が今も励みとなっています。
強みは「自然との共生」を共通言語としたエンドユーザーとの密接なつながり
弊社は創業以来、岐阜県高山市の山中に工房を構え、「自然との共生」を活動理念として事業を展開してきました。創業メンバーが掲げた経営理念「100年かかって育った木は100年使えるものに」「お椀から建物まで」「子ども一人、ドングリ一粒」は、いずれも持続可能な循環型社会の構築を目指すための指針です。なお「子ども」とは製品のことで、製品を1つつくるごとに木を1本植えようという意味です。
弊社はこの理念に基づき、国産材を使い、植林・育林を行い環境に配慮しながら長く使い続けられる木工製品をつくり続けてきました。いまでこそSDGsという言葉は世に浸透していますが、弊社は50年前から大きな机や椅子などをつくる際に生じる端材で文具や積み木などの小物をつくり、全国チェーンの小売店とのタッグを組んで販売することで、木の魅力と資源を無駄なく使う大切さを伝え続けています。さらに2023年からは、材木としては使えない小枝や葉から抽出した精油によるアロマ製品の販売も始めました。森の恵みを余すことなく活用し、人々に潤いのある生活を提供できればとスタートした事業で、アロマ製品の製造にはグループ会社の正プラス株式会社が携わっています。
こうした弊社の企業理念や製品づくりに共感してくださるお客様に向けて、弊社では1997年から会員組織「シルヴァンクラブ」を発足し、会員向けサービスを提供しています。会員の皆様には飛騨高山の地で四季折々のイベントに参加していただき、自然を体感し季節の味覚を楽しんでもらえるほか、年4回会報誌をお届けすることで、木や森とともに暮らす楽しさを伝えています。創業時から大切にしているエンドユーザーとのつながりと、「自然との共生」を体現する理念に基づいた事業展開こそが、弊社の大きな強みだと思っています。
職人養成と飛騨高山の人材定着に貢献する「森林たくみ塾」
高山市内には、弊社の創業メンバー2名により1990年に設立された「森林たくみ塾」という教育機関があり、木に関する総合教育をおこなっています。木工職人・作家としての技術だけでなく、「木」という再生産可能な資源をいかに有効活用し、守り育てていくかを学び実践する場となっています。
「森林たくみ塾」設立のきっかけは、木工職人の育成と定着の課題からでした。新聞などで弊社の展示会が取り上げられ、弊社の名前が世間に知られるようになると、家具をつくりたい、大工になりたいという方が全国からやってくるようになりました。
中には憧れだけで職人を目指す方も多く、実際にこの仕事の大変さを体感すると半年もせずに辞めてしまう人が少なくありませんでした。年々受注量が増えていくにも関わらず、職人の数が増えないままでは事業が立ち行かなくなります。しかし、一緒に仕事をしながら未経験の方を教え育てるのは難しく、入社の前段階として木工職人の基礎を一通り、2年間教える教育機関として「森林たくみ塾」は創設されました。
「森林たくみ塾」は弊社の関連会社の教育機関にはなっていますが、卒業後の進路は自由です。卒業後は、高山のほかの家具メーカーや卸業に就職した方や、独立して木工家として活躍している方も多く、職人以外の道を選ぶこともできます。修行期間は大変ではありますが「木や木工が好き」「おもしろいものをつくりたい」という意欲がものづくりの原点であり、その喜びを分かち合える場づくり大切にしていきたいと思っています。また、職人養成の機能に限定せず、森林や山に興味をもったすべての方が学べる場とすることで、木や森、自然にも目を向けてもらえるようにしています。
入塾をきっかけに、飛騨に根付く他府県の方も多く、嬉しく思っています。卒業後にオークヴィレッジを選んでくれた人も多く、弊社の中核社員の中にもたくみ塾の卒業生が数多くいます。
飛騨の匠の木工製品の魅力を世界に向けて発信したい
製販一体のビジネスモデルは、お客様との交流を深める方法として今も大事にしています。現在は、東京・大阪・福岡の直営店に加え、全国各地の取扱店で弊社の製品を販売していますが、自社の展示会を開催し、職人とお客様が交流できる場を設けています。
製造工程や木工の魅力は、職人から語られるからこそ説得力があり、お客様からいただいたお褒めの言葉は、職人の「次は何をつくろう」というやりがいにつながります。展示会を通じファンがついている職人もいて、お客様先を訪問した際に追加依頼をいただいて帰ってきたり、メンテナンス時に指名されたりという好循環にもつながっています。弊社の職人とお客様の距離が近いのは、「木」や「ものづくり」という共通言語があるからであり、ものづくりを通じてお客様に理念が伝わっていると感じています。
また、自信のある製品をつくれたなら、自己満足で終わりにせず、世の中に広め続けていく努力も必要だと実感しています。持続可能なものづくりと弊社の製品を世の中に訴えかけていくため、社内では月1~2回、各部署から社員が集まり「ホームページ改善委員会」を開催しています。サイトの閲覧者やユーザーにいかにわかりやすく伝えるかを話し合い、ホームページを随時改善しています。また、若い社員が中心となってInstagramなどのSNSにも力を入れることで、あらゆるユーザー層にアプローチできるようにしています。
飛騨から日本全国へ、さらには世界に向けて弊社の理念と取り組みを発信し、弊社の製品を使い続けてもらうことで、山や森の魅力を伝えていけるような会社になっていければと思います。
自然との共生を目指す同好会で木工の楽しさに目覚める
オークヴィレッジは、1974年に岐阜県高山市で創業した木工会社です。創業時のメンバーは5人で、社内ではその創業メンバーを「オリジナル・ファイブ」と呼んでいます。
彼らはもともと東京の大学の教職員や学生であり、高度経済成長により物質的な豊かさばかりを追い求める世の中に疑問を抱いていました。大量生産により資源を消費し効率を追求するよりも、自然と共生し人間らしく暮らす方が大事だという意識が、大学教職員・OB・学生の間でも高まり、自然の中の拠点づくりを目指す同好会「山小屋の会」が結成されました。
創業メンバーは、1972年から長野県大町市の山奥でスタートした「山小屋の会」プロジェクトに加わり、200坪ほどの土地を自分たちの手で開拓し、道や敷地の整備、山小屋の建築にあたりました。自然の中での山小屋づくりを通じて、木工やものづくりの楽しさに魅かれた創業メンバーは、やがて仲間とともに木工を生業として暮らしたいと考えるようになりました。
木工職人として生計を立てる決意を固め高山へ移住
そして2年ほどで山小屋は完成し、作業をサポートしてくれた地元の大工の方からの「君たちはセンスがいいから木工職人になれる」という言葉にも後押しされ、木工職人になりたいと真剣に考えるようになったそうです。
しかし、その時点では「プロジェクトに参加した10数名の仲間たちと山小屋を1棟建てた」という経験しかなく、ものづくりで生計を立てていくには木工職人としての技術を改めて学ぶ必要がありました。
検討を重ね、創業メンバーが新拠点として選んだのは、現在本社がある岐阜県高山市でした。高山は、奈良時代から木材の産地とされ、基礎から木工を学べる高等技能専門学校があり、多くの木工関連会社が軒を連ねているため、木材や道具類も入手しやすいという好条件がそろっていたからです。
創業メンバー5人のうち3人は高等技能専門学校で家具職人としての技術を学び、4人目は当時としては珍しかった漆塗りの家具をつくるために、高山の伝統工芸「飛騨春慶」を手がける漆塗りの工房で修業に行きました。そして工房や家を自分たちの手でつくるため、最後の1人は高山の工務店で大工として修行を積み、役割を分担して技術を磨き、弊社の立ち上げに向けて準備を進めていきました。
厳しい環境下でスタートした「製販一体」のビジネスモデル
創業メンバーが移住し、弊社を創業した1974年は、オイルショックの影響による不況の真っただ中でした。木工が盛んな飛騨高山には、当時から多くの家具メーカーが存在していましたが、大規模なリストラが行われるなど大変な時期でした。そんな中、都会から高山のはずれに若者が移住し家具づくりを始めたということで、弊社は注目を集めたものの、「面白そうだけどすぐだめになるだろう」という意見が大半だったそうです。
また当時の家具メーカーは、大きな資本で工場を構え、大量にモノをつくって家具問屋に卸し、問屋を通して全国の小売店で売ってもらうのが一般的であり、資本も人手も足りない創業直後の弊社の状況では、大量に家具をつくることは不可能でした。
そこで創業メンバーは、問屋を通さず直接エンドユーザーとやり取りをして家具を販売するという、当時としてはかなり珍しい形で事業を展開しました。ただ、当時の顧客は知人、友人が大半であり、家具をつくってもほとんど売れず、決して順風満帆とはいえない経営状況が続きました。稲作や野菜づくりでの自給自足も試みましたが、高山は日照時間が短く水も冷たいため稲や野菜はうまく育たず、収入源である家具づくりを成功させなければならない状況に追い込まれていったそうです。
新宿・紀伊国國屋書店での家具展示会によりファンの輪が広がる
転機が訪れたのは1978年です。創業メンバーは、もっと自分たちのことを知ってもらい、よりいい仕事を獲得するために、東京での展示会開催を新たな目標として掲げました。偶然取材で訪れた編集者に人を紹介してもらい、関係者に思いをぶつけたところ、その熱意が通じたのか、東京・新宿の紀伊国國屋書店ギャラリーで家具の展示会を開催させてもらえることになりました。
飛騨の山奥で家具づくりをする若者が、都内の書店で展示会を開催するという珍しさが話題となり、メディアにも取り上げられ、展示会当日は多くの来場者で賑わいました。会場では、制作者が木の魅力やものづくりの面白さを伝えるうちにファンが増え、この展示会をきっかけとして、デパートのバイヤーの方や「自分にも家具をつくってほしい」という個人のお客様が全国から訪れるようになりました。
製販一体のビジネスモデルは、ほかに手段がなかったがゆえの、いわば苦肉の策から生まれたものでしたが、お客様の輪が広がったことで売り上げも次第に伸びていきました。
高山を出て違和感の理由を探し求めていた2代目社長
現在2代目社長の私は、本社のある高山で生まれ育ちました。創業メンバーの5人が高山に移住し創業したのは私が高校生の頃です。その時点では彼らとの接点はありませんでしたが、リストラや不況の中で、山奥に移住し家具づくりをしている無謀な若者たちの話はよく耳にしていました。都会に憧れ地元を出ていこうとしている当時の私にとっては、田舎の山奥で家具づくりをする良さはわかりませんでしたが、高校を卒業し名古屋の大学に進学した後も、なぜか彼らの話を忘れることはできせんでした。
そして大学の建築学科を卒業し、設計事務所に就職して働き始めたが、当時流行していたコンクリート打ち放しなどの人工的で無機質な建物づくりがどうも合わず、就職3年目には自分がどんな建物をつくりたいのかがわからなくなっていました。そのため休日には何かヒントになればと建物を見て歩きましたが、足が向くのは奈良や京都の木造建築であり「ひょっとしたら私は木造の建物をつくりたかったのかもしれない」と思うようになりました。
名古屋の展示会での出会いが人生の転機に
そんなある日、名古屋市内の百貨店で飛騨の木工作家たちが展示会を開催することを知り、手づくりの家具は見たことがなかったので行ってみることにしました。
家具を興味深く眺めていたところ、創業メンバーの1人であり先代の稲本から「君は何の仕事をしているのですか」と声をかけられました。「設計事務所で設計の仕事をしています」と答えると、「ちょうどいいところに来た」といわれました。どういうことか尋ねると、喫茶店をつくりたいというお客様の依頼を2件抱えており、その相談に乗ってほしいということでした。
当時は脱サラをして飲食店等を開業する人が増え始めた頃で、オークヴィレッジのメンバーの境遇に親近感を覚え、同じ思いをもつ人たちの手を借りれば面白いものができるのではないかという期待から依頼が寄せられていたようでした。しかし、創業メンバー5人はそれぞれ家具職人・漆職人・大工であり、店舗の内装や建築物の設計に関しては門外漢です。どうしたものかと悩んでいたところへ、建築士として働いていた私がやってきたとのことでした。
さらに私が高山出身と知ると、出会って間もない間柄ながら「じゃあ君が設計してくれ」「飛騨に帰ってくればいいじゃないか」と誘われました。後から聞いたところによると「まさに渡りに船だ」と思ったそうで、私自身も思わぬ形ではありましたが運命的なものを感じ、高山に戻ることを決心しました。
木造建築部門の設立を通じて、仕事の幅とご縁が広がる
名古屋の設計事務所を辞め、高山で木造建築を始めることを周囲の友人に伝えると「これからはコンクリートや高層ビルの時代だ」「木造なんて時代遅れだ、考え直せ」と散々言われました。しかし、これこそが自分の進むべき道だと確信していた私に迷いはありませんでした。
そして私の入社を機に、弊社の木造建築部門が本格的に稼働を開始しました。とはいえ少人数なので、設計だけをしていればいいというわけにもいきません。材木を運ぶトラックを設計士の私が運転して東京の現場に向かうことも珍しくありませんでした。さすがに「刻み」など職人の技術が必要な加工まではできませんでしたが、現場監督や資材の管理など、できることは何でもやりました。
そのうち、建築の打合せの際に家や店舗のデザインに合う家具が欲しいというご要望が増え、徐々に家具のデザインも手がけるようになっていきました。建物のご相談が家具のご依頼に結びつき、また、家具を購入した方が家づくりにも興味をもってくださるようになり、仕事を通じて少しずつご縁が広がっていきました。その頃は生産体制も整っておらず、お客様の要望に合わせて作るオーダーメイドの家具が大半を占めていたため、慌ただしい日々でしたが、若い頃に得た経験は、今もかけがえのない大事なものとなっています。
現場経験を買われ、2代目社長に就任
20代半ばで弊社に入社した私は、入社から7~8年後の30代前半には常務に就任し、その後専務を経て、2015年に2代目の社長に就任しました。
ただ私の場合は、役員に就任してからも経営より建築や家具のデザイン等の仕事がメインであったため、社長として指名された時には会社を牽引していく自信はありませんでした。
しばらくの間は葛藤がありましたが、長年にわたり弊社と弊社の製品を支持してくださるお客様の信頼を裏切らないために、今後もこの会社を続けていけるように最善を尽くそうと決意し、2代目社長に就任しました。
経営の引き継ぎにあたっては、コンサルティンググループでありツグナラ専門家のMMPCさんにご支援いただきました。社長就任後も不安はありましたが、MMPC松井会長からの「今オークヴィレッジは飛騨の重要な会社の一つになっていて、地域のために従業員の雇用を守っていかなければなりません。私たちも応援します。上野さん、頑張ってください」という言葉が今も励みとなっています。
強みは「自然との共生」を共通言語としたエンドユーザーとの密接なつながり
弊社は創業以来、岐阜県高山市の山中に工房を構え、「自然との共生」を活動理念として事業を展開してきました。創業メンバーが掲げた経営理念「100年かかって育った木は100年使えるものに」「お椀から建物まで」「子ども一人、ドングリ一粒」は、いずれも持続可能な循環型社会の構築を目指すための指針です。なお「子ども」とは製品のことで、製品を1つつくるごとに木を1本植えようという意味です。
弊社はこの理念に基づき、国産材を使い、植林・育林を行い環境に配慮しながら長く使い続けられる木工製品をつくり続けてきました。いまでこそSDGsという言葉は世に浸透していますが、弊社は50年前から大きな机や椅子などをつくる際に生じる端材で文具や積み木などの小物をつくり、全国チェーンの小売店とのタッグを組んで販売することで、木の魅力と資源を無駄なく使う大切さを伝え続けています。さらに2023年からは、材木としては使えない小枝や葉から抽出した精油によるアロマ製品の販売も始めました。森の恵みを余すことなく活用し、人々に潤いのある生活を提供できればとスタートした事業で、アロマ製品の製造にはグループ会社の正プラス株式会社が携わっています。
こうした弊社の企業理念や製品づくりに共感してくださるお客様に向けて、弊社では1997年から会員組織「シルヴァンクラブ」を発足し、会員向けサービスを提供しています。会員の皆様には飛騨高山の地で四季折々のイベントに参加していただき、自然を体感し季節の味覚を楽しんでもらえるほか、年4回会報誌をお届けすることで、木や森とともに暮らす楽しさを伝えています。創業時から大切にしているエンドユーザーとのつながりと、「自然との共生」を体現する理念に基づいた事業展開こそが、弊社の大きな強みだと思っています。
職人養成と飛騨高山の人材定着に貢献する「森林たくみ塾」
高山市内には、弊社の創業メンバー2名により1990年に設立された「森林たくみ塾」という教育機関があり、木に関する総合教育をおこなっています。木工職人・作家としての技術だけでなく、「木」という再生産可能な資源をいかに有効活用し、守り育てていくかを学び実践する場となっています。
「森林たくみ塾」設立のきっかけは、木工職人の育成と定着の課題からでした。新聞などで弊社の展示会が取り上げられ、弊社の名前が世間に知られるようになると、家具をつくりたい、大工になりたいという方が全国からやってくるようになりました。
中には憧れだけで職人を目指す方も多く、実際にこの仕事の大変さを体感すると半年もせずに辞めてしまう人が少なくありませんでした。年々受注量が増えていくにも関わらず、職人の数が増えないままでは事業が立ち行かなくなります。しかし、一緒に仕事をしながら未経験の方を教え育てるのは難しく、入社の前段階として木工職人の基礎を一通り、2年間教える教育機関として「森林たくみ塾」は創設されました。
「森林たくみ塾」は弊社の関連会社の教育機関にはなっていますが、卒業後の進路は自由です。卒業後は、高山のほかの家具メーカーや卸業に就職した方や、独立して木工家として活躍している方も多く、職人以外の道を選ぶこともできます。修行期間は大変ではありますが「木や木工が好き」「おもしろいものをつくりたい」という意欲がものづくりの原点であり、その喜びを分かち合える場づくり大切にしていきたいと思っています。また、職人養成の機能に限定せず、森林や山に興味をもったすべての方が学べる場とすることで、木や森、自然にも目を向けてもらえるようにしています。
入塾をきっかけに、飛騨に根付く他府県の方も多く、嬉しく思っています。卒業後にオークヴィレッジを選んでくれた人も多く、弊社の中核社員の中にもたくみ塾の卒業生が数多くいます。
飛騨の匠の木工製品の魅力を世界に向けて発信したい
製販一体のビジネスモデルは、お客様との交流を深める方法として今も大事にしています。現在は、東京・大阪・福岡の直営店に加え、全国各地の取扱店で弊社の製品を販売していますが、自社の展示会を開催し、職人とお客様が交流できる場を設けています。
製造工程や木工の魅力は、職人から語られるからこそ説得力があり、お客様からいただいたお褒めの言葉は、職人の「次は何をつくろう」というやりがいにつながります。展示会を通じファンがついている職人もいて、お客様先を訪問した際に追加依頼をいただいて帰ってきたり、メンテナンス時に指名されたりという好循環にもつながっています。弊社の職人とお客様の距離が近いのは、「木」や「ものづくり」という共通言語があるからであり、ものづくりを通じてお客様に理念が伝わっていると感じています。
また、自信のある製品をつくれたなら、自己満足で終わりにせず、世の中に広め続けていく努力も必要だと実感しています。持続可能なものづくりと弊社の製品を世の中に訴えかけていくため、社内では月1~2回、各部署から社員が集まり「ホームページ改善委員会」を開催しています。サイトの閲覧者やユーザーにいかにわかりやすく伝えるかを話し合い、ホームページを随時改善しています。また、若い社員が中心となってInstagramなどのSNSにも力を入れることで、あらゆるユーザー層にアプローチできるようにしています。
飛騨から日本全国へ、さらには世界に向けて弊社の理念と取り組みを発信し、弊社の製品を使い続けてもらうことで、山や森の魅力を伝えていけるような会社になっていければと思います。
会社概要
社名 | オークヴィレッジ株式会社 |
創立年 | 1974年 |
代表者名 | 代表取締役社長 上野 英二 |
資本金 | 3000万円 |
事業エリア |
東京オフィス
152-0035 東京都目黒区自由が丘2-17-11 丸元ビル301号室 |
オークヴィレッジ自由が丘(2025年2月2日閉店)
152-0035 東京都目黒区自由が丘2-15-22 |
|
オークヴィレッジ青山
107-0061 東京都港区北青山三丁目4番3号 ののあおやま1階 |
|
オークヴィレッジ大阪
530-8350 大阪府大阪市北区角田町8-7 阪急うめだ本店10階『うめだスーク』北街区 オークヴィレッジ |
|
オークヴィレッジ博多
812-0012 福岡県福岡市博多区博多駅中央街1番1号 博多阪急7階 |
|
本社住所 |
506-0101 岐阜県高山市清見町牧ヶ洞846 |
事業内容 | 木製家具・文具・玩具の製造・販売 木製漆器の製造・販売 木造建築の設計・施工 アロマ製品の製造・販売 |
URL |
https://www.oakv.co.jp/
|
会社沿革
1974年 | 岐阜県高山市内の農家の納屋を拠点に、国産のナラ材を使った受注生産の家具工房として「オークヴィレッジ」を立ち上げ |
1976年 | 本拠地を岐阜県大野郡清見村(現・高山市清見町)の現在地に移し、工芸村「オークヴィレッジ」の建設を開始 |
1978年 | 一般の方を対象にした木工の楽しさを伝えるサマーセミナーを開催 紀伊國屋書店 新宿本店で初の展示会を開催、展示作品が完売する |
1981年 | 広葉樹の植樹・育林、環境教育を行う市民参加型のNPO「ドングリの会」を発足(2001年よりNPO法人) 紀伊國屋書店 新宿本店にショールームスペース「オークヴィレッジ東京コーナー」(のちのオークヴィレッジ東京)を開設 |
1982年 | 永六輔さんを中心に「飛騨の夏祭り」を開始。地元の人たちとの交流の場となる |
1985年 | 【創立10周年】木造建築の設計・施工を行う建築部が始動 |
1986年 | NHKテレビにてオークヴィレッジをモデルにした銀河テレビ小説「故郷はみどり」が放送 |
1991年 | 木の文化の担い手の後継者育成を目的とした総合教育機関「森林たくみ塾」を創立 |
1994年 | 建築士事務所登録を「オークヴィレッジ木造建築研究所」に改称 |
1995年 | 【創立20周年】高山本社ショールーム「ハート・オブ・オーク」を開設 |
1997年 | 大阪・阪急百貨店内に「オークヴィレッジ大阪」開店 “森の再生”というテーマのもとウィスキーの使用済樽材を活用し家具・小物の制作に挑む |
1999年 | フランス・パリで開催された国際家具見本市に出品、その家具はエルメス本社のデュマ社長の元に納めた |
2004年 | 10月20日夜に飛騨地方を襲った台風23号は記録的な大雨となり、工房や事務所に土砂が流れ込む その後、行政の理解を得て生態系や自然景観に配慮したオークヴィレッジ内の谷川修復が行われた |
2005年 | 【創立30周年】浅葉克己さんデザインの新ロゴマーク発表、有限会社から株式会社に変更 株式会社ミズノと協働で野球のバット不適格材を活用した製品の制作とバットの素材になる木を育てる「バットの森づくり」を開始 |
2006年 | 制作部 第二工房を増設し、生産体制を拡大 |
2008年 | ジェイアール名古屋タカシマヤ内に「オークヴィレッジ名古屋」開店 「Swallowチェア」が2008年グッドデザイン賞を受賞 |
2009年 | 「森の合唱団」がグッド・トイ2009を受賞 「椀」が2009年グッドデザイン賞を受賞 |
2011年 | 宮城県気仙沼市にて仮設住宅「合掌の家」を建設 |
2012年 | 「オークヴィレッジ東京」が紀伊國屋書店 新宿本店内から自由が丘に移転 「寄木の積木(木箱入り)」がグッド・トイ2012を受賞 |
2013年 | 「森のどうぶつみき」がグッド・トイ2013 林野庁長官賞を受賞 「地産地"生"の家」が第9回木の建築賞を受賞 |
2014年 | ペンケース「TANTO:」がreddot award 2014 を受賞 |
2015年 | 【創立40周年】林業事業者等と連携して造林過程で伐り出される夏伐り規格外広葉樹の素材化に取り組む「Neoプロジェクト」を開始 名刺ケース「INRO:」がiF Design Award 2015 を受賞 |
2016年 | 島根県浜田市と連携協定を締結し、「HamadaWoods の100年構想~100%地域産材による林業6次産業化プロジェクト~」を開始 東京おもちゃ美術館と協働で「日本の森の木育キャラバン」を開始 乳幼児用玩具「ファーストトイあのまとぺ」発売、シリーズ商品の一つ「ぐるぐるからん」がグッド・トイを受賞(2017年) 高山本社敷地内に材料倉庫を拡大 |
2017年 | 明治神宮内に日本の伝統的な木組みと明治神宮内の材を活用した喫茶「cafè杜のテラス」を建築 スターバックスコーヒー高山岡本店で「JIMOTO made漆ウッドマグ」の販売開始 |
2018年 | 群馬県・みなかみ町と包括的連携協定を締結し、「森林(もり)を育む広葉樹産業化プロジェクト」を開始 JVCケンウッドのビクターブランドより、当社制作のハウジングを採用したWOOD シリーズ10周年イヤホン「HA-FWIOOOO」が発売 |
2020年 | 「オークヴィレッジ緑の国2020 環境経営宣言」を発表 「オークヴィレッジ大阪」がリニューアルオープン 当社が遊具製作を担当した「岐阜県立ぎふ木遊館」が開館 群馬県・みなかみ町の小径広葉樹を有効活用した「Mori:toチェア」がウッドデザイン賞を受賞 グループ会社である職人養成の総合教育機関「森林たくみ塾」が創立30周年を迎える |
2021年 | 北青山「ののあおやま」に「オークヴィレッジ青山」を開店 「コロコロ パトカー」と「しずくの森あそび」がグッド・トイ2021を受賞 |
2024年 | 【創立50周年】 前年8月より高山・東京・大阪の各所にて創立50周年イベントを開催 福岡・阪急百貨店内に「オークヴィレッジ博多」を開店 |
公開日:2025/01/23
※本記事の内容および所属名称は2025年1月現在のものです。現在の情報とは異なる場合があります。