いわき
いわき市
新宿区
横浜市
世界基準のICTで産業を前進させるソリューションプロバイダー
株式会社東日本計算センター
理と情の舵をとり組織を進化させる未来志向の知的経営者
経営理念
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企業理念
ICTサービスを通じ『社会とともに』『お客様とともに』『社員とともに』発展していくことを目指す
-
企業ビジョン
ICTプロフェッショナル集団として顧客の期待を大きく超える価値を提供し続ける
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大切な価値観:ミッションコンプリート
社員各々がICT事業活動を通じてプロフェッショナルとしての役割・責任を確実に果たし、社会課題、顧客課題を解決する
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行動指針
お客様の視点で考え、心から感謝と信頼される良きパートナーとなる
社会の変化や課題に対し柔軟性と主体性を持って、自ら改革と改善を行う
単独では実現できない卓越した成果をチームコラボレーションにより生み出す
高い志と夢を持って自己研鑚する
社会人、企業人として法令/規則を遵守し、誇りを持ち誠実に行動する
代表者メッセージ
弊社は1965年、エネルギー革命の波に揺れる福島・いわきの地で産声を上げました。
以来、私たちは金融、鉄道、行政といった社会基盤を支えるシステム開発から、自動車産業、ドローン・水中ロボットといった最先端の研究開発まで、多岐にわたる分野で技術を磨いてまいりました。東日本大震災や幾多の経済危機を乗り越えられたのは、次の時代を捉えようとする未来志向・ベンチャーマインド、リスクを分散するポートフォリオ経営と、何より社員一人ひとりの「情熱」と「知恵」があったからです。
私たちは今、単なる労働集約型のビジネスではなく、社員の知識やノウハウを「知的資産」として蓄積する「知恵のストックビジネス化」を推進しています。その一方で、どんなに技術が進化しても、その中心にあるのは常に「人」です。
創業時からの精神である「Cool Heads, but Warm Hearts(冷静な頭脳、しかし温かい心)」をモットーにし、 プロフェッショナルとしての冷徹な判断力と、人を思いやる温かい人間性。この両輪をもって、真に社会に貢献できる企業であろうとし続けています。
私たちは地域に根ざしながら、世界を見据えた挑戦を続けて、100年企業へと時代を切り開いてまいります。
代表取締役社長 鷺 弘樹
私たちのこだわり
経験も資金もゼロからの起業
弊社は1965年に福島県平市(いわき市が合併で誕生するのが1年後の1966年です)で創業しました。創業者は私の父である鷺佳弘です。父はかつて炭鉱の町として賑わったこの常磐地区で飲食業を営む家に生まれました。東京にある立教大学を卒業後、新聞社にも就職し活動を行っていました。その後、家業を継ぐべく東京にある大手飲食店でマネージャー職に就き、実務的な経営感覚を養います。さらに、モータリゼーションの波に乗ったエンジンオイルの販売に挑戦するなど、高度成長に向かう日本とともにバイタリティ溢れる20代を過ごしました。
しかし、1960年代に入るとエネルギー革命の波が押し寄せ、国策として石油への転換が決定し、郷土の基盤産業であった石炭産業には急ブレーキがかかっていました。この状況を目の当たりにした父は強烈な危機感を持ち、家業にこだわらずゼロから新たな事業を模索し始めました。
父が見出したのは、当時ほとんど知られていなかった電子計算機(=コンピュータ)の可能性でした。米国の状況を詳しく聞く機会を得た父は、「アメリカで起きていることはいずれ日本でも必ず起こる。コンピュータの時代が来る」と確信し、「誰もまだやっていない事業にこそチャンスがある」という情熱を支えに、親会社などがない独立系ベンチャーとして29歳という年齢で未経験のコンピュータ業界に参入し、弊社を創業しました。
創業当初、コンピュータを用いたビジネスは地元では将来性が理解されにくく、ほとんどの金融機関から融資を断られていました。唯一当時の小名浜信用金庫(現在のひまわり信用金庫)の理事長が父の言葉によると「反応してくれた」ため、父は毎朝、理事長の自宅に足を運び門前に立ち声が掛かるのを待ち続けました。最終的に父の熱意に折れた理事長は父を自宅に上げ一時間ほど電子計算機(コンピュータ)の時代が来るという父の必死の説明に耳を傾けてくれました。話を聞き終えた理事長は、「鷺さん、私は年寄りなので電子計算機については失礼ながらあまり理解できなかった。しかし若いあなたの熱心な話を聞いているときっとそういう時代が来るのだろうと思えてきた」と言って、与信すなわち融資を決定してくれました。『時代を先取りし、情熱をもって仕事をする』という弊社の姿勢の始まりとなった出来事でした。
その後父は信用金庫向けの業務によって得た経験から「これからの銀行の金融システムとは」というテーマで昭和40年代前半に業界誌に論文を書き、その論文が国に認められシステム開発が当時の長銀(日本長期信用銀行)融資の対象として採択されることとなりました。またご縁があって伊勢丹百貨店(現在の三越伊勢丹HD)からお仕事のお話を頂き、創業から間もない頃でしたが迷いなく東京に進出して支店を構えることとなります。
また計算センターのビジネスモデルからソフト開発の時代が来ると、いわきに主要拠点をお持ちでソフトウエアの重要性に気づかれたアルパイン株式会社と合弁会社を作り車載組み込み開発にも進出しました。このように弊社はビジネス地域の拡大とともに時代に合わせてビジネス領域も広げていきながら事業を拡大していきました。
曾祖母の愛情で育まれた人間力と社員の幸せ
父の類まれなリーダーシップや、逆境を乗り越えるビジネス感覚の基盤は幼少期に受けた曾祖母(父にとっては祖母)からの教育によって形成されました。
曾祖母は生馬の目を抜く炭鉱町での商売を曾祖父亡き後単独で切り盛りし、家業の商売から銀行との折衝そして頼ってくる人の力になるなど、一族と関わる人を全てを背負っていた街の有名人でした。一家の将来を担う大切な長男として曾祖母からの深い愛情と期待を込められた父は、常に曾祖母の側に置かれ、曾祖母の言動、立ち振る舞いを幼少期から目に焼き付けて育ったと語っていました。
そうした経験が父の背骨となり、創業から事業が軌道に乗るまでの苦しい過程でもともに働く仲間や信頼していただける取引先が増え、当社の成長につながったのだと思います。
短期的な利益の最大化ではなく、信頼を重ねて中長期的な利益の最大化と「幸せとはなにか」を目指すこと、これは弊社のステークホルダーの皆様に向けられた思想であるとともに、一緒に働いてくれる社員へ向けられた考え方でもあります。
科学技術に憧れたアポロ世代の転機
私は姉妹に挟まれた長男として生まれました。幼少期は、父が社長であることは子供ながらに知っていましたが、その頃家で仕事の話を聞いた記憶はほとんどありません。 毎日帰りも遅く創業時の苦労は大変なものがあったはずですが、戦前生まれの父はそういった姿や言葉は一切家庭には持ち帰らず、笑顔を絶やさない良き父親として育ててくれました。
私は米国のアポロ11号の月面着陸に影響を受けた世代であり、高度成長期の日本で子供の頃からSFや科学技術に夢を抱いていました。地元の高校卒業後は早稲田大学に進学し理工学部応用物理学科を専攻、ちょうど昭和から平成へと元号が代わる頃に卒業そして三菱総合研究所へ就職し、コンピュータの研究員として、次世代のコンピュータシステムや日本の様々な産業界向けの先進的な研究開発プロジェクトに携わることとなりました。
当時はいわゆるバブル期でものづくり系など日本の産業界が大いに元気だったこともあり、シンクタンクに与えられる課題はまだ答えがない未踏のテーマばかりでした。先輩や上司、そして顧客も皆非常に優秀な人ばかりであったことから、毎日頭を振り絞り気がつけば日付が変わっていたり週末や休日もひたすら答えを求めて考え続ける日々が続きました。現代では許容されないことかと思いますが、日本全体が熱気を持った時代であり、学生時代の友人も皆やりがいのある仕事でハードワークをしていたりして、20代という若さで強引に乗り越えられたのだと思います。難しい課題の解決策や実現方法が閃いた瞬間は神様の啓示にも似た喜びを感じ、達成感とともに自分の成長を実感できました。このシンクタンク時代は振り返れば得難い濃密な日々でした。
そうしたハードワークの中、夏には必ず休暇を取って地元いわきにリゾート地感覚で帰省し、子供のころから馴染みの海水浴場に行ってのんびりリフレッシュし、また東京での戦いに帰るような生活をしていました。
そんなある日、父から家業を継ぐ話を一度だけされたことがありました。私はこの時点では家業を継ぐ気は全くなかったため、「三菱総研という会社で一人前になるために必死で仕事をしている、家業を継ぐことで甘えたくもないし、今は考えていない」と言ってしまいました。その後、父から承継の話は一切出ることはありませんでした。
こうして約10年弱の勤務を経て30代になった頃、長期プロジェクトのリーダーとして声がかかりました。また会社の中でも管理職への研修を受ける世代となりました。そのように仕事への視点が変わった時、父が起業してからの苦労や、これまで築き上げてきた会社や経済人として地域社会で行なっていることの価値にやっと気づきました。そして「自分はなんと恵まれているのか。この三菱総研も大好きだし、いわきに戻って父の跡を継ぐという選択肢もある」と思うようになりました。
熟慮の末、これまで積んできた経験を活かして地元に根を下ろし父の後を継ぐのはやりがいがあり面白いと思い、上司に理由とともに一年後に辞めることを告げました。その後お世話になった三菱総研にできる限りの礼を尽くして2005年に退職、弊社に入社しました。後を継ぐためにいわきに帰ることを告げた際父は無反応でしたが、後に父の友人から「とても喜んでいたよ」と聞きました。
攻めの姿勢で新市場を切り拓き世代交代
入社後はまず新規事業の担当役員としていくつかのプロジェクトを手掛けました。初期の仕事で覚えているのは、現在のスカパーに繋がる衛星放送技術の事業開拓とその後の急展開です。当時、スカイパーフェクTVと競争しながら日本で事業を展開していたディレクTVの放送システム運用監視という極めて専門的な業務を弊社は放送開始から一手に引き受けていました。
そのコンペティターは日本IBM他だったとのことでしたが、News Corporationグループの企業から国の安全対策認定事業所であることも高く評価され、英語・UNIX技術者・365日24時間体制といったチームをゼロから作って受注していたのは父らしい実行力だったと言えます。その仕事が軌道に乗り、自分はその根幹となる海外製の暗号技術を当時ケーブルテレビなど放送事業に進出しようとしていた東京電力などの大手企業に売り込む営業活動を行っていました。
そんな折青天の霹靂でディレクTVが事業終了、吸収されてスカパーとして再出発との情報が入りました。外資系ビジネスの厳しさで「今まで本当にありがとう」との言葉で残り6ヶ月で契約終了、急ぎこのチームの次なる仕事を見つけることが自分のミッションとなりました。いろんなご縁を頼りに東京中を走り回っているなかで、某大手コンサルティングファームのトップが弊社の沿革や理念に共感し父(社長)とのトップ会談を希望、初対面の父との短い会話で重要な業務のアウトソーシングを即決してくれました。その期待に応えるため弊社の東京の拠点を現在の新宿のオフィスに移転し、それが東京地区でのビジネス成長のきっかけとなりました。そのたコンサルティングファームさんとは、25年以上経った今も様々な取引をして頂いています。
その後専務となり父から現場の事業執行を任されるようになりました。そして創業40周年の節目に社長に就任しました。父はその後も会長として残ってくれましたが、新社長の私が手腕を発揮しやすいようにと、苦楽を共にしてきたベテラン役員たちへ「会社の将来のために退いてもらえないだろうか」と父が一人一人に話をしてくれました。すると誰よりも父に尽くしてきた役員から「申し訳ありませんでした。社長(父)にそこまで気を遣っていただくとは…。本来であれば私の方から申し出るべきことでした」という言葉があったとのことです。父との絆の深さに感動するとともに、それほどの信頼関係を私が次の世代で築けるかという大きな責任を改めて感じ、身が引き締まる思いでした。
私が社長になった2005年当時、社員は約280人でした。それまでの約10年間は順調に業績も伸び堅調なビジネスをしてきましたが、その後のビジネス環境は一進一退となりました。2005年から2008年までいざなぎ超えの好景気と言われましたが、別名「実感なき好景気」とも言われ日本経済の本格復活とはなりませんでした。そして2008年には米国にてリーマン・ショックが発生し、世界的な不況と自動車販売不振は、弊社の事業ポートフォリオの中でも大きくなっていた車載組み込み開発事業にとってダメージとなりました。そこから顧客とともに必死に努力を重ねているさなかに2011年3月東日本大震災が発生し、事業の先行きは極めて不透明な状況となりました。
弊社のIT事業は主にBtoBですが、顧客の業務分野は多岐にわたりまた地域密着から首都圏や全国区のビジネスも存在するなど、弊社の事業ポートフォリオには多様性があります。一つの分野に集中していないため、どれか一つが致命的な打撃を受けても全滅することはありません。大震災は大変な災厄ではありましたが、お客様や同業各社、そして地域の応援を受けながら社内で力を合わせて少しずつ復興の道を歩み、よりたくましく成長してこの難局を乗り越えていきました。
「知恵のストックビジネス化」で未来を築く
地方に本社を持つ企業ではありますが、 全国の地方銀行や信用金庫の勘定系データ移行、高い信頼性と安全性が求められる電源系統や鉄鋼の制御系システム、IT 化が一気に進む自動車産業の車載機器組み込み開発、鉄道のダイヤ作成および車上制御装置の開発といったエンジニアリング分野、百貨店業務や自治体の包括的なDX支援まで、公共、民間の幅広い領域をご支援しています。情報技術で社会のあらゆる現場を支えるのが当社の特徴です。
また、単なる受注開発にとどまらず、自社の研究開発拠点を持ち独自の技術を保有しています。いわき市内の廃校を活用した「ながとイノベーションセンター」では、ドローンやロボット制御などの先端技術で研究開発を進めています。また、福島第一原発の廃炉向け水中ロボットや、月面探査車「YAOKI」の群制御システムなど、高度な技術とリスクを伴う分野に挑戦しています。
さらに、福島の復興やスマート農業といった地域特有の社会課題に対して、迅速かつ実効性の高い技術の提供をしています。
このセンターは、「自然に囲まれた環境で産学連携による最先端の研究開発とビジネスチャレンジをしよう」というコンセプトであり、環境を活かした実証実験もできる場として、地域住民の皆さんのご期待とともに全国からも注目を集めています。
さらに、社員が生み出す知識やノウハウを「知的資産」としていかにビジネスに変えるかという知財戦略を積極的に進めています。特許取得はもちろん、社員が「自分たちのやっていることに名前をつけ、客観的な価値を生むこと」を大切にしています。日本のIT業界ではフロー型ビジネスの割合が大きいですが、弊社は「計算センター」として生まれた会社であり、もともとストック型のビジネスモデルを持っています。これからのAI活用の時代を見据えて「先端技術ノウハウ、知恵のストックビジネス化」を進めています。
育成を仕組みで支えアップデートし続ける
現在、社員はおよそ350名です。何より大切にしているのは、「人を育てる」という言葉をスローガンで終わらせず、会社の仕組みとして根づかせることです。
たとえば「KPT(Keep/Problem/Try)」というフレームを使い、他事業部メンバーがアクティブラーニングとして参加し、問いかけに答えることで社員一人ひとりが考え成長できる振り返り会という会議を定着させています。また新人社員には一人一人に先輩として気配りをするエルダーブラザー社員を配置し、新人からの同期の絆は会社として数年間フォローし続けています。
また我々の会社としてのビジョンに加えて、弊社の10の事業分野それぞれが将来ビジョンを持っています。そのビジョンに向けてまず「3年後にこうなりたい」という具体的な姿を自分たちの言葉で描いています。そしてそのための計画を立て、社内外の状況をインプット情報として計画をローリングしながら将来ビジョンを目指して事業を行っています。
お客様に対する姿勢としては「ミッションコンプリート」という商標を取得し「任務を完遂する」という姿勢を企業文化として明確にしました。どんな状況でも責任を持ってやり切り「信頼を裏切らず真面目に価値を生む」ことが、弊社の創業以来の哲学です。
そして最近では、私自身や幹部社員から「コーチング」を導入しています。日本では学校でも企業でも長らく「ティーチング」文化で後進を指導してきましたが、先人の知恵を分け与えるという「ティーチング」的指導では、おそらく生成AIがさらに進化する今後の社会では競争力や成長には限界があると考えています。社員が内発的そして自発的動機でいかに潜在的な力を発揮できるか、そのような成長を導く「コーチング」文化をを備えた企業を目指しています。
見えない脅威に挑むサイバー防衛の最前線
BCP的な観点からも、サイバー攻撃は想定外では済まされない時代になりました。ひとたび障害が起きれば、企業活動そのものが止まってしまいます。お客様のシステムを支える立場にある私たちにとっても、決して他人事ではありません。2025年の日本の大企業へのサイバー攻撃の事案を受け、弊社はすぐに「社内サイバーセキュリティ総点検プロジェクト」を立ち上げました。形式的な点検ではなく、徹底的に洗い直すことが目的です。以前から対策は取っていますが近年の攻撃日々進化しており守る側も常にアップデートしなければなりません。
現在のサイバー攻撃は、3か月以上前から内部に侵入し、バックアップデータまで汚染する可能性がある「潜伏型」が主流であり、完全防御は不可能と言われています。日本では地震や台風など「目に見えるリスク」に注目が集まりがちな一方、サイバーセキュリティは後回しにされがちです。弊社は、この状況を「自分たちの問題」として受け止め、顧客の資産を預かるプロフェッショナルとして、支える側が揺るがないよう、最善の努力を継続する責任と覚悟をもって、BCP支援や情報セキュリティ教育を強化していきます。
ありがたいことに、当社は経済産業省の外郭団体IPA(情報処理推進機構)の元サイバーセキュリティセンター長を顧問として迎えています。彼は国のサイバー政策を担っていた人物であり、東京か地方か、大企業か中小企業かはもはや関係なく狙われる時代だという危機意識を持って、最新情報を収集するとともにアドバイスや指導をしてくれています。
人が主役のM&Aで企業の未来を紡ぐ
これまで、弊社ではいわゆる企業買収のようなM&Aは行っていませんでした。いわきで事業を続けてこられた企業から「社員を引き受けてほしい」と相談を受けたことがあり、その方々の「地元で働き続けたい」という思いに応えてお迎えしたことはあります。
会社の持続性を考えるうえで、外部との提携や資源の引き受けは有力な選択肢だと考えています。人財不足の時代だからこそ、互いの強みを生かし、シナジーを生む関係であれば積極的に検討したいと思っています。
ただし、数字だけを追うM&Aには関わりません。会社は「人」で成り立つものです。どちらか一方が不幸になるようなやり方では長続きしません。特にIT業界は、人財こそが最大の財産です。人が辞めてしまえば中身は空洞化してしまいます。社員が「ここで働き続けたい」と心から思えるような、人の想いが続くM&Aであることが条件です。
100億を通過点に100年企業を目指す
61期のスタートに当たって、弊社は100年企業を目指すことを掲げました。また中小企業庁の施策である「100億企業宣言」を掲げるつもりです。中堅企業の底上げを重視する国の方針にも共感しており、「100年企業を目指す会社が100億を掲げる」のは自然な流れです。もちろん、100年後の姿を私自身が見ることはできませんが、「100億を超える瞬間」はこの目で見届けたい。それが次の世代への橋渡しになると考えています。
また、創業者がよく口にしていた「Cool Heads, but Warm Hearts」という言葉をあらためて会社の文化として大切にしようと思っています。弊社がこれまで多くのピンチを乗り越えるためには冷静、ときには冷徹なまでの頭脳と判断が必要だったと思います。しかしそこに温かい心を忘れなかったからこそ、多くのお客様と50年にもおよぶご縁が続き、多くの社員が当社で永年勤続そして定年を迎え、徒手空拳で始まった我々の会社が現在の姿に成長できたのだと思っています。
「仕事は厳しいもの、責任が伴うもの」という現実を踏まえた上で、「冷静冷徹な判断」と「温かい心」を両立させるプロフェッショナルな姿勢を持ち、社員が誇りを持って働ける会社を未来に残すことが私の使命です。
経験も資金もゼロからの起業
弊社は1965年に福島県平市(いわき市が合併で誕生するのが1年後の1966年です)で創業しました。創業者は私の父である鷺佳弘です。父はかつて炭鉱の町として賑わったこの常磐地区で飲食業を営む家に生まれました。東京にある立教大学を卒業後、新聞社にも就職し活動を行っていました。その後、家業を継ぐべく東京にある大手飲食店でマネージャー職に就き、実務的な経営感覚を養います。さらに、モータリゼーションの波に乗ったエンジンオイルの販売に挑戦するなど、高度成長に向かう日本とともにバイタリティ溢れる20代を過ごしました。
しかし、1960年代に入るとエネルギー革命の波が押し寄せ、国策として石油への転換が決定し、郷土の基盤産業であった石炭産業には急ブレーキがかかっていました。この状況を目の当たりにした父は強烈な危機感を持ち、家業にこだわらずゼロから新たな事業を模索し始めました。
父が見出したのは、当時ほとんど知られていなかった電子計算機(=コンピュータ)の可能性でした。米国の状況を詳しく聞く機会を得た父は、「アメリカで起きていることはいずれ日本でも必ず起こる。コンピュータの時代が来る」と確信し、「誰もまだやっていない事業にこそチャンスがある」という情熱を支えに、親会社などがない独立系ベンチャーとして29歳という年齢で未経験のコンピュータ業界に参入し、弊社を創業しました。
創業当初、コンピュータを用いたビジネスは地元では将来性が理解されにくく、ほとんどの金融機関から融資を断られていました。唯一当時の小名浜信用金庫(現在のひまわり信用金庫)の理事長が父の言葉によると「反応してくれた」ため、父は毎朝、理事長の自宅に足を運び門前に立ち声が掛かるのを待ち続けました。最終的に父の熱意に折れた理事長は父を自宅に上げ一時間ほど電子計算機(コンピュータ)の時代が来るという父の必死の説明に耳を傾けてくれました。話を聞き終えた理事長は、「鷺さん、私は年寄りなので電子計算機については失礼ながらあまり理解できなかった。しかし若いあなたの熱心な話を聞いているときっとそういう時代が来るのだろうと思えてきた」と言って、与信すなわち融資を決定してくれました。『時代を先取りし、情熱をもって仕事をする』という弊社の姿勢の始まりとなった出来事でした。
その後父は信用金庫向けの業務によって得た経験から「これからの銀行の金融システムとは」というテーマで昭和40年代前半に業界誌に論文を書き、その論文が国に認められシステム開発が当時の長銀(日本長期信用銀行)融資の対象として採択されることとなりました。またご縁があって伊勢丹百貨店(現在の三越伊勢丹HD)からお仕事のお話を頂き、創業から間もない頃でしたが迷いなく東京に進出して支店を構えることとなります。
また計算センターのビジネスモデルからソフト開発の時代が来ると、いわきに主要拠点をお持ちでソフトウエアの重要性に気づかれたアルパイン株式会社と合弁会社を作り車載組み込み開発にも進出しました。このように弊社はビジネス地域の拡大とともに時代に合わせてビジネス領域も広げていきながら事業を拡大していきました。
曾祖母の愛情で育まれた人間力と社員の幸せ
父の類まれなリーダーシップや、逆境を乗り越えるビジネス感覚の基盤は幼少期に受けた曾祖母(父にとっては祖母)からの教育によって形成されました。
曾祖母は生馬の目を抜く炭鉱町での商売を曾祖父亡き後単独で切り盛りし、家業の商売から銀行との折衝そして頼ってくる人の力になるなど、一族と関わる人を全てを背負っていた街の有名人でした。一家の将来を担う大切な長男として曾祖母からの深い愛情と期待を込められた父は、常に曾祖母の側に置かれ、曾祖母の言動、立ち振る舞いを幼少期から目に焼き付けて育ったと語っていました。
そうした経験が父の背骨となり、創業から事業が軌道に乗るまでの苦しい過程でもともに働く仲間や信頼していただける取引先が増え、当社の成長につながったのだと思います。
短期的な利益の最大化ではなく、信頼を重ねて中長期的な利益の最大化と「幸せとはなにか」を目指すこと、これは弊社のステークホルダーの皆様に向けられた思想であるとともに、一緒に働いてくれる社員へ向けられた考え方でもあります。
科学技術に憧れたアポロ世代の転機
私は姉妹に挟まれた長男として生まれました。幼少期は、父が社長であることは子供ながらに知っていましたが、その頃家で仕事の話を聞いた記憶はほとんどありません。 毎日帰りも遅く創業時の苦労は大変なものがあったはずですが、戦前生まれの父はそういった姿や言葉は一切家庭には持ち帰らず、笑顔を絶やさない良き父親として育ててくれました。
私は米国のアポロ11号の月面着陸に影響を受けた世代であり、高度成長期の日本で子供の頃からSFや科学技術に夢を抱いていました。地元の高校卒業後は早稲田大学に進学し理工学部応用物理学科を専攻、ちょうど昭和から平成へと元号が代わる頃に卒業そして三菱総合研究所へ就職し、コンピュータの研究員として、次世代のコンピュータシステムや日本の様々な産業界向けの先進的な研究開発プロジェクトに携わることとなりました。
当時はいわゆるバブル期でものづくり系など日本の産業界が大いに元気だったこともあり、シンクタンクに与えられる課題はまだ答えがない未踏のテーマばかりでした。先輩や上司、そして顧客も皆非常に優秀な人ばかりであったことから、毎日頭を振り絞り気がつけば日付が変わっていたり週末や休日もひたすら答えを求めて考え続ける日々が続きました。現代では許容されないことかと思いますが、日本全体が熱気を持った時代であり、学生時代の友人も皆やりがいのある仕事でハードワークをしていたりして、20代という若さで強引に乗り越えられたのだと思います。難しい課題の解決策や実現方法が閃いた瞬間は神様の啓示にも似た喜びを感じ、達成感とともに自分の成長を実感できました。このシンクタンク時代は振り返れば得難い濃密な日々でした。
そうしたハードワークの中、夏には必ず休暇を取って地元いわきにリゾート地感覚で帰省し、子供のころから馴染みの海水浴場に行ってのんびりリフレッシュし、また東京での戦いに帰るような生活をしていました。
そんなある日、父から家業を継ぐ話を一度だけされたことがありました。私はこの時点では家業を継ぐ気は全くなかったため、「三菱総研という会社で一人前になるために必死で仕事をしている、家業を継ぐことで甘えたくもないし、今は考えていない」と言ってしまいました。その後、父から承継の話は一切出ることはありませんでした。
こうして約10年弱の勤務を経て30代になった頃、長期プロジェクトのリーダーとして声がかかりました。また会社の中でも管理職への研修を受ける世代となりました。そのように仕事への視点が変わった時、父が起業してからの苦労や、これまで築き上げてきた会社や経済人として地域社会で行なっていることの価値にやっと気づきました。そして「自分はなんと恵まれているのか。この三菱総研も大好きだし、いわきに戻って父の跡を継ぐという選択肢もある」と思うようになりました。
熟慮の末、これまで積んできた経験を活かして地元に根を下ろし父の後を継ぐのはやりがいがあり面白いと思い、上司に理由とともに一年後に辞めることを告げました。その後お世話になった三菱総研にできる限りの礼を尽くして2005年に退職、弊社に入社しました。後を継ぐためにいわきに帰ることを告げた際父は無反応でしたが、後に父の友人から「とても喜んでいたよ」と聞きました。
攻めの姿勢で新市場を切り拓き世代交代
入社後はまず新規事業の担当役員としていくつかのプロジェクトを手掛けました。初期の仕事で覚えているのは、現在のスカパーに繋がる衛星放送技術の事業開拓とその後の急展開です。当時、スカイパーフェクTVと競争しながら日本で事業を展開していたディレクTVの放送システム運用監視という極めて専門的な業務を弊社は放送開始から一手に引き受けていました。
そのコンペティターは日本IBM他だったとのことでしたが、News Corporationグループの企業から国の安全対策認定事業所であることも高く評価され、英語・UNIX技術者・365日24時間体制といったチームをゼロから作って受注していたのは父らしい実行力だったと言えます。その仕事が軌道に乗り、自分はその根幹となる海外製の暗号技術を当時ケーブルテレビなど放送事業に進出しようとしていた東京電力などの大手企業に売り込む営業活動を行っていました。
そんな折青天の霹靂でディレクTVが事業終了、吸収されてスカパーとして再出発との情報が入りました。外資系ビジネスの厳しさで「今まで本当にありがとう」との言葉で残り6ヶ月で契約終了、急ぎこのチームの次なる仕事を見つけることが自分のミッションとなりました。いろんなご縁を頼りに東京中を走り回っているなかで、某大手コンサルティングファームのトップが弊社の沿革や理念に共感し父(社長)とのトップ会談を希望、初対面の父との短い会話で重要な業務のアウトソーシングを即決してくれました。その期待に応えるため弊社の東京の拠点を現在の新宿のオフィスに移転し、それが東京地区でのビジネス成長のきっかけとなりました。そのたコンサルティングファームさんとは、25年以上経った今も様々な取引をして頂いています。
その後専務となり父から現場の事業執行を任されるようになりました。そして創業40周年の節目に社長に就任しました。父はその後も会長として残ってくれましたが、新社長の私が手腕を発揮しやすいようにと、苦楽を共にしてきたベテラン役員たちへ「会社の将来のために退いてもらえないだろうか」と父が一人一人に話をしてくれました。すると誰よりも父に尽くしてきた役員から「申し訳ありませんでした。社長(父)にそこまで気を遣っていただくとは…。本来であれば私の方から申し出るべきことでした」という言葉があったとのことです。父との絆の深さに感動するとともに、それほどの信頼関係を私が次の世代で築けるかという大きな責任を改めて感じ、身が引き締まる思いでした。
私が社長になった2005年当時、社員は約280人でした。それまでの約10年間は順調に業績も伸び堅調なビジネスをしてきましたが、その後のビジネス環境は一進一退となりました。2005年から2008年までいざなぎ超えの好景気と言われましたが、別名「実感なき好景気」とも言われ日本経済の本格復活とはなりませんでした。そして2008年には米国にてリーマン・ショックが発生し、世界的な不況と自動車販売不振は、弊社の事業ポートフォリオの中でも大きくなっていた車載組み込み開発事業にとってダメージとなりました。そこから顧客とともに必死に努力を重ねているさなかに2011年3月東日本大震災が発生し、事業の先行きは極めて不透明な状況となりました。
弊社のIT事業は主にBtoBですが、顧客の業務分野は多岐にわたりまた地域密着から首都圏や全国区のビジネスも存在するなど、弊社の事業ポートフォリオには多様性があります。一つの分野に集中していないため、どれか一つが致命的な打撃を受けても全滅することはありません。大震災は大変な災厄ではありましたが、お客様や同業各社、そして地域の応援を受けながら社内で力を合わせて少しずつ復興の道を歩み、よりたくましく成長してこの難局を乗り越えていきました。
「知恵のストックビジネス化」で未来を築く
地方に本社を持つ企業ではありますが、 全国の地方銀行や信用金庫の勘定系データ移行、高い信頼性と安全性が求められる電源系統や鉄鋼の制御系システム、IT 化が一気に進む自動車産業の車載機器組み込み開発、鉄道のダイヤ作成および車上制御装置の開発といったエンジニアリング分野、百貨店業務や自治体の包括的なDX支援まで、公共、民間の幅広い領域をご支援しています。情報技術で社会のあらゆる現場を支えるのが当社の特徴です。
また、単なる受注開発にとどまらず、自社の研究開発拠点を持ち独自の技術を保有しています。いわき市内の廃校を活用した「ながとイノベーションセンター」では、ドローンやロボット制御などの先端技術で研究開発を進めています。また、福島第一原発の廃炉向け水中ロボットや、月面探査車「YAOKI」の群制御システムなど、高度な技術とリスクを伴う分野に挑戦しています。
さらに、福島の復興やスマート農業といった地域特有の社会課題に対して、迅速かつ実効性の高い技術の提供をしています。
このセンターは、「自然に囲まれた環境で産学連携による最先端の研究開発とビジネスチャレンジをしよう」というコンセプトであり、環境を活かした実証実験もできる場として、地域住民の皆さんのご期待とともに全国からも注目を集めています。
さらに、社員が生み出す知識やノウハウを「知的資産」としていかにビジネスに変えるかという知財戦略を積極的に進めています。特許取得はもちろん、社員が「自分たちのやっていることに名前をつけ、客観的な価値を生むこと」を大切にしています。日本のIT業界ではフロー型ビジネスの割合が大きいですが、弊社は「計算センター」として生まれた会社であり、もともとストック型のビジネスモデルを持っています。これからのAI活用の時代を見据えて「先端技術ノウハウ、知恵のストックビジネス化」を進めています。
育成を仕組みで支えアップデートし続ける
現在、社員はおよそ350名です。何より大切にしているのは、「人を育てる」という言葉をスローガンで終わらせず、会社の仕組みとして根づかせることです。
たとえば「KPT(Keep/Problem/Try)」というフレームを使い、他事業部メンバーがアクティブラーニングとして参加し、問いかけに答えることで社員一人ひとりが考え成長できる振り返り会という会議を定着させています。また新人社員には一人一人に先輩として気配りをするエルダーブラザー社員を配置し、新人からの同期の絆は会社として数年間フォローし続けています。
また我々の会社としてのビジョンに加えて、弊社の10の事業分野それぞれが将来ビジョンを持っています。そのビジョンに向けてまず「3年後にこうなりたい」という具体的な姿を自分たちの言葉で描いています。そしてそのための計画を立て、社内外の状況をインプット情報として計画をローリングしながら将来ビジョンを目指して事業を行っています。
お客様に対する姿勢としては「ミッションコンプリート」という商標を取得し「任務を完遂する」という姿勢を企業文化として明確にしました。どんな状況でも責任を持ってやり切り「信頼を裏切らず真面目に価値を生む」ことが、弊社の創業以来の哲学です。
そして最近では、私自身や幹部社員から「コーチング」を導入しています。日本では学校でも企業でも長らく「ティーチング」文化で後進を指導してきましたが、先人の知恵を分け与えるという「ティーチング」的指導では、おそらく生成AIがさらに進化する今後の社会では競争力や成長には限界があると考えています。社員が内発的そして自発的動機でいかに潜在的な力を発揮できるか、そのような成長を導く「コーチング」文化をを備えた企業を目指しています。
見えない脅威に挑むサイバー防衛の最前線
BCP的な観点からも、サイバー攻撃は想定外では済まされない時代になりました。ひとたび障害が起きれば、企業活動そのものが止まってしまいます。お客様のシステムを支える立場にある私たちにとっても、決して他人事ではありません。2025年の日本の大企業へのサイバー攻撃の事案を受け、弊社はすぐに「社内サイバーセキュリティ総点検プロジェクト」を立ち上げました。形式的な点検ではなく、徹底的に洗い直すことが目的です。以前から対策は取っていますが近年の攻撃日々進化しており守る側も常にアップデートしなければなりません。
現在のサイバー攻撃は、3か月以上前から内部に侵入し、バックアップデータまで汚染する可能性がある「潜伏型」が主流であり、完全防御は不可能と言われています。日本では地震や台風など「目に見えるリスク」に注目が集まりがちな一方、サイバーセキュリティは後回しにされがちです。弊社は、この状況を「自分たちの問題」として受け止め、顧客の資産を預かるプロフェッショナルとして、支える側が揺るがないよう、最善の努力を継続する責任と覚悟をもって、BCP支援や情報セキュリティ教育を強化していきます。
ありがたいことに、当社は経済産業省の外郭団体IPA(情報処理推進機構)の元サイバーセキュリティセンター長を顧問として迎えています。彼は国のサイバー政策を担っていた人物であり、東京か地方か、大企業か中小企業かはもはや関係なく狙われる時代だという危機意識を持って、最新情報を収集するとともにアドバイスや指導をしてくれています。
人が主役のM&Aで企業の未来を紡ぐ
これまで、弊社ではいわゆる企業買収のようなM&Aは行っていませんでした。いわきで事業を続けてこられた企業から「社員を引き受けてほしい」と相談を受けたことがあり、その方々の「地元で働き続けたい」という思いに応えてお迎えしたことはあります。
会社の持続性を考えるうえで、外部との提携や資源の引き受けは有力な選択肢だと考えています。人財不足の時代だからこそ、互いの強みを生かし、シナジーを生む関係であれば積極的に検討したいと思っています。
ただし、数字だけを追うM&Aには関わりません。会社は「人」で成り立つものです。どちらか一方が不幸になるようなやり方では長続きしません。特にIT業界は、人財こそが最大の財産です。人が辞めてしまえば中身は空洞化してしまいます。社員が「ここで働き続けたい」と心から思えるような、人の想いが続くM&Aであることが条件です。
100億を通過点に100年企業を目指す
61期のスタートに当たって、弊社は100年企業を目指すことを掲げました。また中小企業庁の施策である「100億企業宣言」を掲げるつもりです。中堅企業の底上げを重視する国の方針にも共感しており、「100年企業を目指す会社が100億を掲げる」のは自然な流れです。もちろん、100年後の姿を私自身が見ることはできませんが、「100億を超える瞬間」はこの目で見届けたい。それが次の世代への橋渡しになると考えています。
また、創業者がよく口にしていた「Cool Heads, but Warm Hearts」という言葉をあらためて会社の文化として大切にしようと思っています。弊社がこれまで多くのピンチを乗り越えるためには冷静、ときには冷徹なまでの頭脳と判断が必要だったと思います。しかしそこに温かい心を忘れなかったからこそ、多くのお客様と50年にもおよぶご縁が続き、多くの社員が当社で永年勤続そして定年を迎え、徒手空拳で始まった我々の会社が現在の姿に成長できたのだと思っています。
「仕事は厳しいもの、責任が伴うもの」という現実を踏まえた上で、「冷静冷徹な判断」と「温かい心」を両立させるプロフェッショナルな姿勢を持ち、社員が誇りを持って働ける会社を未来に残すことが私の使命です。
会社概要
| 社名 | 株式会社東日本計算センター |
| 創立年 | 1965年 |
| 代表者名 | 代表取締役社長 鷺 弘樹 |
| 資本金 | 4000万円 |
| 事業エリア |
東京統括事業所
160-0022 東京都新宿区新宿3-1-1 世界堂ビル8F |
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横浜事業所
230-0051 神奈川県横浜市鶴見区鶴見中央4-36-17 セントラルメゾン3F |
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日立事業所
319-1221 茨城県日立市大みか町1−8−8 第2ミナミビル2F |
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郡山事業所
963-8001 福島県郡山市大町2丁目12-13 宝栄郡山ビル3F |
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会津オフィス
965-8580 福島県会津若松市一箕町鶴賀 会津大学先端ICTラボ プロジェクトルーム8 |
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ながとイノベーションセンター
970-1261 福島県いわき市三和町渡戸字弓張木95 |
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| 本社住所 |
970-8026 福島県いわき市平字研町2 |
| 事業内容 | 【 トータルシステムインテグレーション事業 】 ■情報処理システムのコンサルティング・設計・開発・運用・保守 ■ネットワークサービス ■データベースサービス ■ソフトウェアプロダクト販売 ■アウトソーシングサービス ■デスクトップサービス ■カスタマー教育サービス ■データエントリーサービス など |
| URL |
https://www.eac-inc.co.jp/
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会社沿革
| 1965年 | 福島県平市大町20番地に、株式会社東日本計算センター(EAC)設立 |
| 1966年 | 日本ユニバック株式会社(現BIPROGY株式会社)より電子計算機を購入・設置 地方自治体、金融機関、民間企業等の業務受託を開始 14市町村合併により、福島県いわき市平字大町20番地に地名変更 |
| 1973年 | 東京都文京区本郷一丁目に東京支店を開設 |
| 1978年 | 東京都新宿区新宿五丁目の伊勢丹第2別館に東京支店を移転 |
| 1982年 | 福島県いわき市平字研町2番地に、本社社屋を新築 同敷地内に新館を増築し、社内全部門の移転完了 株式会社東日本システムエンジニアリング(ESE)を設立 仙台通商産業局(現東北経済産業局)第1号情報処理サービス業電子計算機システム安全対策実施事業所に認定 |
| 1983年 | 株式会社東日本ソフトウェアビジネス(ESB)を設立 |
| 1988年 | 株式会社アルパインソフトウェア(ASI)を設立 東京都台東区下谷に上野統合事業所を開設 |
| 1993年 | 東京都新宿区西落合二丁目の伊勢丹落合センターに東京支店を移転 |
| 1996年 | 神奈川県横浜市鶴見区鶴見市場に横浜事業所を開設 |
| 1998年 | 東京都新宿区新宿二丁目に東京支店を移転 |
| 2001年 | 新宿区新宿三丁目に上野統合事業所を移転し、東京統括事業所として開設 東京統括事業所にて、データセンター業務を開始 |
| 2003年 | 情報セキュリティマネジメントシステム(ISMS)の認証取得 |
| 2004年 | 情報セキュリティマネジメントシステム(ISMS)の認証範囲拡大 |
| 2005年 | 日本セキュリティ監査協会(JASA)入会 情報セキュリティマネジメントシステム(BS 7799)の認証取得 |
| 2006年 | 創立40周年記念式典 新事業部制に移行 |
| 2007年 | 情報セキュリティマネジメントシステム(ISO/IEC 27001)の認証取得 |
| 2009年 | 東京支店を、東京都新宿三丁目の東京統括事業所に統合 |
| 2011年 | 東日本大震災発生、福島第一原子力発電所事故 BCP発動 |
| 2013年 | 神奈川県横浜市鶴見区鶴見中央四丁目に横浜事業所を移転 |
| 2014年 | プライバシーマークの認証取得 情報セキュリティマネジメントシステム(ISO/IEC 27001)規格改定に伴うバージョンアップ |
| 2015年 | 50周年記念感謝の会開催 会津大学先端ICTラボに会津オフィスを開設 |
| 2016年 | 品質マネジメントシステム(ISO 9001)の認証取得 2016年度福島イノベーション・コースト構想ロボット分野採択 |
| 2017年 | 2017年度福島イノベーション・コースト構想ロボット分野2案件採択 茨城県日立市大みか町一丁目に日立事業所を移転 経済産業省「地域未来牽引企業」に選定 |
| 2019年 | いわき市三和町に「ながとイノベーションセンター」開設 |
| 2021年 | 福島県郡山市に「郡山オフィス」開設 |
| 2024年 | クラウドサービスのための情報セキュリティマネジメントシステム(ISO/IEC 27017)の認証取得 |
| 2024年 | 「郡山オフィス」を「郡山事業所」に名称変更 情報セキュリティマネジメントシステム(ISO/IEC 27001)の認証範囲拡大と規格改定に伴うバージョンアップ |
公開日:2026/06/01
※本記事の内容および所属名称は2026年6月現在のものです。現在の情報とは異なる場合があります。