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社会に役立つITソリューションを教育現場で実践
株式会社アルファメディア
ITにプラスαのアイデアと優しさを。人と未来志向のエンジニア
経営理念
経営理念(使命感)
共創と革新で人に優しい社会を実現します。
経営基本方針
顧客への貢献と感謝の経営
利益を上げ社会に貢献し、社員の努力・成果に対して還元する経営をしています。
挑戦と開拓の経営
オンリーワン製品の開発、技術力を生み出す魅力ある企業の経営をしています。
決断力と行動の経営
すばやい決断力と即行動の経営をしています。
共創の経営
共創により価値の向上を目指します。
ビジョン
アルファメディアは社員が将来を託せる企業として、福祉・教育・企業/個人のIT化を中心に仕事を通して社会に貢献していきます。
代表者メッセージ
弊社は「共創と変革で人に優しい社会を実現します」という経営理念の下、ハードウェアの企画・設計・開発からソフトウェアの企画・設計・開発・導入・保守、ならびにIT人材の派遣、PCスクール「富士通オープンカレッジ武蔵小杉校」を軸としたIT教育支援に至るまで、ITに関するあらゆるサービスを提供しながら、「人に優しい」社会の実現に向けて取り組んで参りました。
おかげさまで2022年3月には創立30周年を迎える事が出来ました。これからも皆様方と共に新たな価値創造に向けて「共創」して参りたいと思いますので、引き続きご指導・ご鞭撻のほど宜しくお願い申し上げます。
代表取締役 小湊 宏之
私たちのこだわり
自らの技術力とソフトウェア事業の可能性を信じ創業した先代
弊社の創業者であり先代でもある私の父は、創業以前は富士通株式会社の川崎工場に25年勤め、エンジニアとしてハードウェア開発に力を注いできました。日本語ワードプロセッサ専用機「OASYS(オアシス)100」に採用された「親指シフトキーボード」などのインターフェース設計に携わり、取得した特許は13件、出願まで入れると100件ほどの開発を手がけました。その功績から社長賞に選ばれるなどの実力もあり、アルファメディアを創業したての頃は「日本のビル・ゲイツになる」と話していたそうです。
1982年以降には、マイクロソフト社がパソコン向けOS「MS-DOS(Microsoft Disk Operating System)」をIBM社以外にも提供するようになり、国内各社のパソコンに移植され普及し始めたことから、先代は「これからはソフトウェアの時代が来る」と考えていました。ちょうどその頃、当時プリント基板設計業を営んでいた山勝電子工業株式会社の金究社長から「一緒に起業しないか」と声をかけられたそうです。エンジニアとしての技術力を世の中で試したいと思っていた先代は、金究社長と500万円ずつ出し合い、1992年に資本金1000万円で弊社を創業しました。
弊社は山勝電子工業のソフトウェア部門のような立ち位置でもあったようですが、スタートメンバーは自社の経営もあったため、実質的には先代が一人で切り盛りしていました。立ち上げ当初は、昼は営業、夜はエンジニアとしてプログラムを組むなど年中無休の生活を送っていたそうです。母も会社を支えるために経理を担っていました。「いいものを作れば売れる」という考えでスタートしたものの、信用も実績もないことから取引には繋がらず、収入もごくわずかでした。
創業当時、私は高校生でした。先代である父が社長になったことは知っていましたが、食卓にはおかずが一品あるかないかというくらい我が家は貧しかったという印象が強くあります。先代の元同期や部下が関連会社の社長や役員に昇進したことを聞いていたので、子どもの立場から「残っていれば役職に就いていたかもしれない、父は損な道を選んだのでは」と思ったこともありました。
テクノロジー、技術、想いをかけ合わせ「ムサシα」を開発
当時、コンピュータを使い音声画像処理をすることは「マルチメディア」と表現され、1990年代にはコンピュータの処理能力が飛躍的に向上したことで、より様々な表現が可能になっていきました。先代はマルチメディアというコンテンツが、一般の方の生活を便利にするだけではなく、障がいのある方の身体の一部となり、バリアフリーの役割も果たすだろうと考えました。こうした考えに至ったのは、先代が地域で民生委員をしていて、障がいのある方と接する機会が多くあったことが大きかったといえます。会社の苦しい状況は続いていましたが、先代は自分の技術力を世の中のために役立てたいという強い想いを軸に、障がいのある方向けの製品開発を始めました。
当時の手話の辞書は紙のものしかありませんでした。先代は絵や静止画よりも動きがあった方がわかりやすいだろうと考え、手話の動画をCDにまとめ、多くの方の手に渡るようにしようと開発を始めました。動画はデータ量が多く、当時の技術ではCDに収まらないため、データ圧縮技術を開発して一本一本の動画データを軽量化。わずか640メガバイトのCDに、手話の基本単語の動画コンテンツを収めてパソコン上で見られるようにしました。
創業から4年後の1996年には、日本手話電子辞書「ムサシα」として販売を開始しました。1997年には障がい者雇用促進法が改正され、現在より法定雇用率は低いものの雇用義務の対象に知的障がい者が含まれるようになり、民間企業での障がい者雇用が活発になり始めた時期でもありました。障がいのある方を雇用する際のコミュニケーションの促進になればと、ムサシαを購入される企業が多かったのだと思います。そんな折、当時PCソフトウェアの卸事業をしていたソフトバンクに「ムサシα」500本を卸したことで、全国の民間企業や福祉関係の専門学校に行き渡り、知名度とともに売上も順調に伸びていきました。
販売開始の翌年には、神奈川工業技術開発大賞を受賞し、ソフトウェア部門では初となる大賞を受賞しました。製造業以外の事業者が受賞するのはまだ珍しく、テレビや新聞の取材を受けたことで仕事が舞い込むようになり、さらにIT業界の急成長の波に乗り、弊社のソフトウェア事業全体もまた成長軌道に乗れました。
想いを技術力で形にすることで世の中に貢献できたという経験と実感は、先代にとって会社経営の目的と使命を考える大きな転機となりました。「人に優しいマルチメディアをあなたと共に創造する」という弊社の理念(当時)には、人のために技術と全力を注いだ先代の想いが込められています。
全ての人が技術に触れ、より豊かな生活を営むための「教育」ビジョン
その後、先代は「人に優しいマルチメディア」の理念を実現するために、1999年8月にはシニア向けの「メディアラボパソコンスクール」を開校しました。さらに同年12月には富士通ラーニングメディアとの提携により、フランチャイズ型のパソコン教室「富士通オープンカレッジ中原校(現武蔵小杉校)」としてリニューアルしました。
この頃にはWindows95に続きWindows98が発売され、国内の通信インフラも整備され始めたことで一般の方にもパソコンが普及していきました。それに伴い学生やサラリーマン向けのパソコンスクールや資格取得講座も活発になっていきました。若い方は新しいテクノロジーも柔軟に吸収していくことができますが、ご年配の方は使いこなせるようになるまでには時間がかかるため、苦手意識が芽生えてしまうこともあります。先代は、シニア層を含めた全ての人が便利なツールに触れ、等しく学ぶ機会を得て、親しみを持ってもらい、より豊かな生活を送れるようになってほしいと考えました。
開校当初はパソコンがシニア層まで普及していなかったこともあり、受講生は少数でしたが、弊社の「教育」というビジョンがこの時に新たに追加されました。
強い風当たりの中で自社の役割と価値を見出す
会社が軌道に乗る一方で、私は次男でありITやエンジニア向きでもなかったことから、会社を継ぐことも先代の元で働くこともないだろうと考えていました。大学卒業後は大手有線放送サービス会社に入社し、営業部に配属。しかし不景気により業績不振となったことからリストラに遭い、入社からほどなく無職になりました。仕方なく求職活動をしていた時に先代から会社を手伝わないかと誘われ、その当時は特にこれをやりたいという明確な目標が無かったこともあり、2000年1月(25歳の時)に入社しました。
当時はエンジニアが営業を兼ねており、営業専門の部署はありませんでした。先代は社員が開発に集中できる体制作りを考えていたようで、私は営業として配属されました。前職が営業職であったことから自分の力が役に立つなら親孝行にもなるだろうと思っていましたが、簡単にはいきませんでした。社内や客先での専門用語が理解できず、パソコンも技術者ほどは使えず、社長の息子という立場もあって社内の風当たりも強いことから辛い日々が続きました。
先代は運転免許を持っていなかったので、仕事で会社に貢献できないならと先代の通勤や商談時の送迎をする運転手に徹し、ITへの理解を深めるため独学で勉強を始めました。商談がある時には同席し、分からないながらもメモをとり、帰社後にネットで調べ、ITセミナーがあれば片端から参加することを2年間続けました。その甲斐もあり、IT業界の役割や自社製品の価値が理解できるようになり、営業の仕事も一通りこなせるようになっていきました。
後継者としての責任の重さを痛感
私には兄がいて、先代からは「お前に会社を継がせる気はない」と言われ続けていました。私自身も社長が務まるとは思っていなかったので、兄が会社を継ぐなら一社員として勤め続けていければと思っていました。しかし27歳頃、先代が体調を崩して入院し、1カ月ほど会社に来られなくなってしまった時期がありました。その間、私は先代と会社の橋渡しをする役割を担いました。先代のノートパソコンにデータを取り込み、病室にいる先代に作業をしてもらい、再び会社のパソコンに繋ぎ直して社内に共有したり、社長代理として振込手続きをするなどの業務を行うようになりました。代理であっても間違いが許されない場面も多く、何千万円というお金がボタンを押す自分の手にかかっているという緊張感を味わい、社長が背負う責任の重さを身をもって実感しました。
先代が体調を崩したことで、金融機関やステークホルダーからも後継者について聞かれるようになり、幹部社員にも会社を引き継げる人財が育っていなかったこともあって、結果的に私が後継者候補となりました。2004年には後継者の立場になったことを対外的に表明するため、専務取締役の肩書がつきました。ただ、同時期に当時役員だった方が優秀な社員を引き抜いて独立し、その後も離職が続いて、2年で20人ほどの社員が会社を去っていくという激動の時期でした。社員の退職の原因は私にあり、何か言葉を発すれば社員は辞めてしまうのではないかと怖くなり、一時期は社員に話しかけることもできない状態が続きました。
また私が専務取締役となった後も、先代は兄に会社を継がせると断言していたため、承継の準備は全く行われておらず、私も先代の意思を尊重して兄が継ぐだろうと思っていました。
専務になり4年後の2008年には先代が再び倒れ、社長業を続けることが困難になったことから、32歳の時に急遽社長に就任することになりました。専務になった時点で、いずれ社長になる可能性を頭では理解していましたが、腹まではくくれておらず、経営のけの字も分からない状態での就任に不安が募るばかりでした。
会社経営の本質を理解できず迷走する日々
社長就任の翌年、先代は体調が回復し始め、ほぼ毎日会社に来られるまでになり、会長に退きはしましたが再び経営の舵とりをするようになりました。しかしリーマンショックの影響で会社は大赤字になり、一歩間違えば存続ができなくなる状態まで経営状態が悪化してしまいました。
経営を回復させるためには新規開拓をして受託開発の案件を得るしかないと思い、経営者仲間や業界団体、お客様からも営業先を紹介してもらい走り回りました。客先では「アルファメディアの強みは?」と聞かれ、ハードからソフトの開発、サポートまで手がけていたことから「何でもできます」と答えていましたが、案件の獲得には繋がらずに迷走する日々が続きました。
リーマンショック後は、他社も軒並み厳しい経営状況となり、同時期にはスズキ株式会社(旧鈴木自動車)の鈴木修会長が、経営立て直しのため会長兼社長として復帰するというニュースが大きく報じられていました。そのような折、先代から「お前、社長を辞めるか?」と問われました。弊社も先代が社長に復帰し、立て直しを図るのだろうと思い了承しましたが、「そんな中途半端な気持ちで社長をしていたのか」と厳しく叱られました。そして「会社の理念とビジョンを言えるか」と聞かれ、「そらで言える」と答えたものの、先代からは「言葉を覚えているだけで会社の理念に沿った経営をしていない」と言われました。その出来事をきっかけに会社の成り立ちを振り返り、先代の想いを想像することで理解に近づくだろうと思い、沿革や理念を読み込み、自分なりに会社経営の本質を探ろうとし始めました。
ものづくりの原点に立ち返り、代返防止版「かいけつ出席」開発
会社理念は全て理解できないながらも、経営の立て直しを図るため模索を続けました。2001年にはSuicaなどの非接触型ICカードのサービスが開始され、ニーズも高まってきていたことから、ICカードを使った勤怠管理システムの開発を企画しました。弊社では2002年に勤怠管理システムを受託開発した実績があり、その知見を製品開発に活かせると考えました。
ICカードを使った勤務管理システム「かいけつ就業」の営業回りをしている時に、ある大学から「勤怠管理ができるなら、学生の出席管理もできるのでは」という相談を受けました。本来1,000万円を超えるような受託案件でしたが、大学側から全てのノウハウを得る代わりに半額で請け負い、2006年に出席管理システム「かいけつ出席」を開発しました。大学側からはアルファメディアの製品として販売する許諾を得たことで他の大学にも販売できるようになり、少しずつ受注を得られるようになっていきました。そうした中で初めに世に出したのがハンディタイプでした。他社製品は壁への据え付け型が多く、価格も高額なものばかり。弊社の製品は持ち運びができて、1台から導入可能であり、安価であることが大きなメリットでした。
2010、11年頃には、この自社製品の価値を見直し、事業強化のためさらに付加価値の高い製品づくりをしていこうと考え「ものづくり」の原点に立ち返ることにしました。先代はメーカーのエンジニアであったことからハードウェア開発チームを作り、手話ソフト以降は自社製品でのヒット製品が出ていなかったので、ハードとソフト両方を使った製品を作りたいと思うようになりました。
その頃には川崎市産業振興財団が、大企業と中小企業の連携促進を図る「知的財産交流会」を開催するようになり、活用する手はないと思い参加を決めました。コーディネーターを通じて、もともと付き合いが長かった富士通が出席管理に関するおもしろい特許を持っていると聞き、交渉を重ね、富士通の特許である「出席管理スキャナ装置」の実施許諾契約を締結。その特許技術を弊社の出席管理システムに実装するとともに、業界初の「代返防止機能」を付けて製品化しました。
この「かいけつ出席(代返防止版)」は、「代返防止」というインパクトが大きかったためか、テレビや新聞にも大きく取り上げられる事となります。中でもインターネットの掲示板「2ちゃんねる」では炎上する事態にまで発展し、結果的に当社の出席管理システム「かいけつ出席」は広く知れ渡ることになりました。ニッチな製品でしたが競争優位性もあり、ニーズをつかむことができました。こうした製品のリリースにより業績が回復し始め、戦略を立て、実践するうちに成長軌道に乗ることができました。現在は全国の約50大学に製品を使っていただき、お客様からは「ハンディタイプならアルファメディアだね」と言っていただけています。
目に見える形での実績づくりに成功したことで、先代も私が社長業を続けた方がいいと考え、2013年頃から少しずつ先代の持ち株を買い受けるようになりました。2014年から2016年頃は先代に業務の相談しながら社長業の引継ぎも進めていきました。
経営者として社員や地域社会の成長を支える
弊社では、働き方改革が浸透する以前の2010年頃から男性社員の育休も推進し、介護や育児で時間調整が必要な場合には時短勤務を認めるなど、臨機応変に個別で対応できるようにしていきました。今年は物価が跳ね上がったので、少しでも生活の足しにしてもらうためにボーナスとは別に臨時支給をすることにしています。
現在、女性社員は3割以上となっています。職場でも家庭内でも男女関係なく分業できるのが理想ではありますが、家庭内においては女性に比重が偏りがちであるのが現状です。そのため、生活と仕事のバランスがとりやすいように個々人に目を配り、声をかけやすい雰囲気にすることで、男女ともに働きやすい環境になるように努めています。
私は強いリーダーシップで社員を巻き込むタイプではありませんが、入社から承継までの苦しい時期を乗り越えた経験があったからこそ、一人ひとりにフラットに接することができるようになれたと感じています。人がいなければ新たなサービスや製品は生まれません。私にはエンジニアのような技術力はありませんが、経営者として意思決定を担い、社員の生活を守り、最終的な責任を負う役割を果たすことが、社員や会社、地域の成長や発展の一端に繋がると思っています。
今は少子化もあってエンジニアの採用は厳しい状況ですが、未経験でもアルファメディアの想いと理念を大事にしながら、弊社の新たな歴史を築いてくれる仲間を募っています。
地域企業とともに子どもたちの可能性を広げる
弊社は川崎市の取り組みと川崎信用金庫の支援によりここまで来られたので、事業を通じて恩返しや貢献ができればと思っています。業績や企業価値を高め、地域に還元していくことこそ本当の恩返しになるだろうと考え、現在は先代がビジョンに掲げた「教育」と「福祉」に焦点を定め、教育事業に力を入れています。
今年は、プロサッカークラブ「川崎フロンターレ」と朝日新聞社とともに、プログラミングとサッカーの技術向上を図り、子どもの可能性を広げる取り組みを実施しました。
小学生は成長の途中であることから、運動能力にも差が出やすいですが、運動で活躍できないことで苦手意識が生まれ、運動や体育が嫌いになってしまう子もいます。それぞれ苦手な部分は違うと思いますが、それに見合った改善方法は必ずあり、プログラミングを通じて論理的な思考を育みながら身体を動かすことで、目的のために自ら考え工夫していくきっかけづくりにもなっていきます。私自身も運動音痴で体育が苦手だったので、子どもたちが苦手なことを楽しみながら克服し、好きになってもらえるお手伝いをしたいと思っています。今後も他企業と協業をしながら教育分野でも貢献していければと思っています。
相互理解を深め組織力でカバーできる会社へ
弊社は2022年で30年の節目を迎えました。先代の時代からソフトウェアやアプリケーションとともにものづくりにも力を注ぎ、パソコンスクールや教育事業により自社の理念や想いを地域にも広げていきました。少子高齢化が進み、ますます厳しくなる世の中ですが「人に優しい」という理念は変えずに行きたいと思っています。
現在の弊社の課題は、社員56人程度の会社ながら、各部門がそれぞれ別のお客様と業務を抱えリソースが分散してしまっていることです。外部環境が厳しい中で成長していくには、部署を超え互いの強みを伸ばし弱みをカバーし合える組織力と、一つの目標に向かい集中できる統率力が必要になります。マーケットや技術分野など、互いにリンクする箇所を基点に相互理解を深めながら、アイデアを発信し合えるようになれば、絶対に負けない強みになっていくはずです。現在は各部署の強みが合わさり太い柱になっていけるように、中長期計画を策定している最中です。幹部社員を中心に全社員が力を一つにできるような環境づくりを行っていくことが、今の私にとって最も大きな仕事だと考えています。
園児や児童の置き去り防止・見守り装置を開発
ここ最近では、社内の意見も盛り込みながら、幼稚園や保育園などでの園外活動の見守りをサポートするための機器2点を開発しました。
1点目は、降車時確認式の「置き去り防止装置KT-Z01」です。2022年に園バスに置き去りにされた園児が亡くなってしまった事件を受け、ヒューマンエラーによる悲しい事件や事故が二度と起こらないようにと開発に着手しました。「置き去り防止装置」は、降車時の点検をブザー音で促し、園児や児童が装着する専用タグ(小型発信機)の信号を検知し、人数表示ユニットにて視覚的に乗員数を把握することができます。システムは、弊社の勤怠管理や出席管理の製品に使われている、ICカードの認証技術を応用しました。「置き去り防止装置」は、国交省の許可を取得し、補助金の対象製品としても登録されています。
2点目の製品は、園外活動中の子どもの見失いや置き去りを防ぐシステム「見守りMM-AP01~ぜったい一人にしないから~」です。この「見守り」は、専用タグをつけたビブスまたはアームバンドを園児に装着してもらい、園児が一定距離以上を離れると、先生方のもつスマートフォンのアプリにアラートが通知される仕組みです。アプリ上では、どの園児が離れたかが一目でわかるように表示されます。
子育て経験のある女性社員、保育の現場の意見を製品改良に活かす
この「見守り」の機器は、社内から「置き去り防止装置だけではなく、アルファメディアらしい製品をつくりたい」という意見が挙がり、園バスとは別のシーンで使える製品を子育て経験のある女性社員たちに企画してもらいました。「見守り」は「置き去り防止」を開発した2022年から構想と開発にあたり、2023年にリリース後には、数カ所の保育園から要望があり納品しました。「共創と変革」の理念に沿ったわが社らしい製品であり、誇らしく思っています。
また「置き去り防止」と「見守り」機器の開発と発売にあたり、横浜市のオープンプラットフォーム「YOKOHAMA Hack!」の「ICTを活用した子ども見守りサービスに関する実証実験」に応募したところ採択され、支援金をいただきながら横浜市内の保育園などで製品の実証実験を行いました。「YOKOHAMA Hack!」は、民間企業のデジタル技術のマッチングにより事業や行政の課題解決を目指すもので、製品の改善につながればと思い応募しました。
保育の現場で先生方や園児に実際に製品を使っていただき、率直なご意見をいただいたことで、想定よりも電池の消耗が早いなどの課題がより明確になりました。現在は、製品のバージョンアップに向けて改良に取り組んでいるところです。
エンジニアとものづくりの未来を守りたい
現在弊社では、企業価値とともにリーマンショックにより傷ついた自己資本比率をどこまで高めていけるかを追求しているところです。定期的に株価算定や経営分析を行うことで、成績通知表のように経営の改善点を探し、絶えず振り返りをするようにしています。社長就任以降は特にB/Sの改善に力を入れ、現在は借入残高と手持ちのキャッシュがほぼ同額になるまで改善しました。今後は、本当に経営に困っている会社に出会った時のために、資金的な援助や会社を引き継げるような状態にしておきたいと思っています。
この業界でも、外部環境の急激な変化によって業績の良し悪しの差が拡大しつつあります。経営努力はもちろん必要ですが、不況の中でも努力を続けている技術者たちに罪はなく、困っている会社を助けることで、ものづくりやアイデアが生まれる現場を守れるだろうと考えています。私がアルファメディアの歴史を真に理解したように、互いの会社の歴史を受け入れて大事にできる会社に出会えれば、弊社の可能な範囲で引き継ぎたいと思っています。異業種に関しては、アライアンスを組むことでそれぞれの会社の良さを引き出し、新たな価値を創出していきたい考えです。
取引先にはベトナム企業もあり、今後は海外展開も考えていることから、既に海外拠点がある会社から知見を得られたらとも考えています。
自らの技術力とソフトウェア事業の可能性を信じ創業した先代
弊社の創業者であり先代でもある私の父は、創業以前は富士通株式会社の川崎工場に25年勤め、エンジニアとしてハードウェア開発に力を注いできました。日本語ワードプロセッサ専用機「OASYS(オアシス)100」に採用された「親指シフトキーボード」などのインターフェース設計に携わり、取得した特許は13件、出願まで入れると100件ほどの開発を手がけました。その功績から社長賞に選ばれるなどの実力もあり、アルファメディアを創業したての頃は「日本のビル・ゲイツになる」と話していたそうです。
1982年以降には、マイクロソフト社がパソコン向けOS「MS-DOS(Microsoft Disk Operating System)」をIBM社以外にも提供するようになり、国内各社のパソコンに移植され普及し始めたことから、先代は「これからはソフトウェアの時代が来る」と考えていました。ちょうどその頃、当時プリント基板設計業を営んでいた山勝電子工業株式会社の金究社長から「一緒に起業しないか」と声をかけられたそうです。エンジニアとしての技術力を世の中で試したいと思っていた先代は、金究社長と500万円ずつ出し合い、1992年に資本金1000万円で弊社を創業しました。
弊社は山勝電子工業のソフトウェア部門のような立ち位置でもあったようですが、スタートメンバーは自社の経営もあったため、実質的には先代が一人で切り盛りしていました。立ち上げ当初は、昼は営業、夜はエンジニアとしてプログラムを組むなど年中無休の生活を送っていたそうです。母も会社を支えるために経理を担っていました。「いいものを作れば売れる」という考えでスタートしたものの、信用も実績もないことから取引には繋がらず、収入もごくわずかでした。
創業当時、私は高校生でした。先代である父が社長になったことは知っていましたが、食卓にはおかずが一品あるかないかというくらい我が家は貧しかったという印象が強くあります。先代の元同期や部下が関連会社の社長や役員に昇進したことを聞いていたので、子どもの立場から「残っていれば役職に就いていたかもしれない、父は損な道を選んだのでは」と思ったこともありました。
テクノロジー、技術、想いをかけ合わせ「ムサシα」を開発
当時、コンピュータを使い音声画像処理をすることは「マルチメディア」と表現され、1990年代にはコンピュータの処理能力が飛躍的に向上したことで、より様々な表現が可能になっていきました。先代はマルチメディアというコンテンツが、一般の方の生活を便利にするだけではなく、障がいのある方の身体の一部となり、バリアフリーの役割も果たすだろうと考えました。こうした考えに至ったのは、先代が地域で民生委員をしていて、障がいのある方と接する機会が多くあったことが大きかったといえます。会社の苦しい状況は続いていましたが、先代は自分の技術力を世の中のために役立てたいという強い想いを軸に、障がいのある方向けの製品開発を始めました。
当時の手話の辞書は紙のものしかありませんでした。先代は絵や静止画よりも動きがあった方がわかりやすいだろうと考え、手話の動画をCDにまとめ、多くの方の手に渡るようにしようと開発を始めました。動画はデータ量が多く、当時の技術ではCDに収まらないため、データ圧縮技術を開発して一本一本の動画データを軽量化。わずか640メガバイトのCDに、手話の基本単語の動画コンテンツを収めてパソコン上で見られるようにしました。
創業から4年後の1996年には、日本手話電子辞書「ムサシα」として販売を開始しました。1997年には障がい者雇用促進法が改正され、現在より法定雇用率は低いものの雇用義務の対象に知的障がい者が含まれるようになり、民間企業での障がい者雇用が活発になり始めた時期でもありました。障がいのある方を雇用する際のコミュニケーションの促進になればと、ムサシαを購入される企業が多かったのだと思います。そんな折、当時PCソフトウェアの卸事業をしていたソフトバンクに「ムサシα」500本を卸したことで、全国の民間企業や福祉関係の専門学校に行き渡り、知名度とともに売上も順調に伸びていきました。
販売開始の翌年には、神奈川工業技術開発大賞を受賞し、ソフトウェア部門では初となる大賞を受賞しました。製造業以外の事業者が受賞するのはまだ珍しく、テレビや新聞の取材を受けたことで仕事が舞い込むようになり、さらにIT業界の急成長の波に乗り、弊社のソフトウェア事業全体もまた成長軌道に乗れました。
想いを技術力で形にすることで世の中に貢献できたという経験と実感は、先代にとって会社経営の目的と使命を考える大きな転機となりました。「人に優しいマルチメディアをあなたと共に創造する」という弊社の理念(当時)には、人のために技術と全力を注いだ先代の想いが込められています。
全ての人が技術に触れ、より豊かな生活を営むための「教育」ビジョン
その後、先代は「人に優しいマルチメディア」の理念を実現するために、1999年8月にはシニア向けの「メディアラボパソコンスクール」を開校しました。さらに同年12月には富士通ラーニングメディアとの提携により、フランチャイズ型のパソコン教室「富士通オープンカレッジ中原校(現武蔵小杉校)」としてリニューアルしました。
この頃にはWindows95に続きWindows98が発売され、国内の通信インフラも整備され始めたことで一般の方にもパソコンが普及していきました。それに伴い学生やサラリーマン向けのパソコンスクールや資格取得講座も活発になっていきました。若い方は新しいテクノロジーも柔軟に吸収していくことができますが、ご年配の方は使いこなせるようになるまでには時間がかかるため、苦手意識が芽生えてしまうこともあります。先代は、シニア層を含めた全ての人が便利なツールに触れ、等しく学ぶ機会を得て、親しみを持ってもらい、より豊かな生活を送れるようになってほしいと考えました。
開校当初はパソコンがシニア層まで普及していなかったこともあり、受講生は少数でしたが、弊社の「教育」というビジョンがこの時に新たに追加されました。
強い風当たりの中で自社の役割と価値を見出す
会社が軌道に乗る一方で、私は次男でありITやエンジニア向きでもなかったことから、会社を継ぐことも先代の元で働くこともないだろうと考えていました。大学卒業後は大手有線放送サービス会社に入社し、営業部に配属。しかし不景気により業績不振となったことからリストラに遭い、入社からほどなく無職になりました。仕方なく求職活動をしていた時に先代から会社を手伝わないかと誘われ、その当時は特にこれをやりたいという明確な目標が無かったこともあり、2000年1月(25歳の時)に入社しました。
当時はエンジニアが営業を兼ねており、営業専門の部署はありませんでした。先代は社員が開発に集中できる体制作りを考えていたようで、私は営業として配属されました。前職が営業職であったことから自分の力が役に立つなら親孝行にもなるだろうと思っていましたが、簡単にはいきませんでした。社内や客先での専門用語が理解できず、パソコンも技術者ほどは使えず、社長の息子という立場もあって社内の風当たりも強いことから辛い日々が続きました。
先代は運転免許を持っていなかったので、仕事で会社に貢献できないならと先代の通勤や商談時の送迎をする運転手に徹し、ITへの理解を深めるため独学で勉強を始めました。商談がある時には同席し、分からないながらもメモをとり、帰社後にネットで調べ、ITセミナーがあれば片端から参加することを2年間続けました。その甲斐もあり、IT業界の役割や自社製品の価値が理解できるようになり、営業の仕事も一通りこなせるようになっていきました。
後継者としての責任の重さを痛感
私には兄がいて、先代からは「お前に会社を継がせる気はない」と言われ続けていました。私自身も社長が務まるとは思っていなかったので、兄が会社を継ぐなら一社員として勤め続けていければと思っていました。しかし27歳頃、先代が体調を崩して入院し、1カ月ほど会社に来られなくなってしまった時期がありました。その間、私は先代と会社の橋渡しをする役割を担いました。先代のノートパソコンにデータを取り込み、病室にいる先代に作業をしてもらい、再び会社のパソコンに繋ぎ直して社内に共有したり、社長代理として振込手続きをするなどの業務を行うようになりました。代理であっても間違いが許されない場面も多く、何千万円というお金がボタンを押す自分の手にかかっているという緊張感を味わい、社長が背負う責任の重さを身をもって実感しました。
先代が体調を崩したことで、金融機関やステークホルダーからも後継者について聞かれるようになり、幹部社員にも会社を引き継げる人財が育っていなかったこともあって、結果的に私が後継者候補となりました。2004年には後継者の立場になったことを対外的に表明するため、専務取締役の肩書がつきました。ただ、同時期に当時役員だった方が優秀な社員を引き抜いて独立し、その後も離職が続いて、2年で20人ほどの社員が会社を去っていくという激動の時期でした。社員の退職の原因は私にあり、何か言葉を発すれば社員は辞めてしまうのではないかと怖くなり、一時期は社員に話しかけることもできない状態が続きました。
また私が専務取締役となった後も、先代は兄に会社を継がせると断言していたため、承継の準備は全く行われておらず、私も先代の意思を尊重して兄が継ぐだろうと思っていました。
専務になり4年後の2008年には先代が再び倒れ、社長業を続けることが困難になったことから、32歳の時に急遽社長に就任することになりました。専務になった時点で、いずれ社長になる可能性を頭では理解していましたが、腹まではくくれておらず、経営のけの字も分からない状態での就任に不安が募るばかりでした。
会社経営の本質を理解できず迷走する日々
社長就任の翌年、先代は体調が回復し始め、ほぼ毎日会社に来られるまでになり、会長に退きはしましたが再び経営の舵とりをするようになりました。しかしリーマンショックの影響で会社は大赤字になり、一歩間違えば存続ができなくなる状態まで経営状態が悪化してしまいました。
経営を回復させるためには新規開拓をして受託開発の案件を得るしかないと思い、経営者仲間や業界団体、お客様からも営業先を紹介してもらい走り回りました。客先では「アルファメディアの強みは?」と聞かれ、ハードからソフトの開発、サポートまで手がけていたことから「何でもできます」と答えていましたが、案件の獲得には繋がらずに迷走する日々が続きました。
リーマンショック後は、他社も軒並み厳しい経営状況となり、同時期にはスズキ株式会社(旧鈴木自動車)の鈴木修会長が、経営立て直しのため会長兼社長として復帰するというニュースが大きく報じられていました。そのような折、先代から「お前、社長を辞めるか?」と問われました。弊社も先代が社長に復帰し、立て直しを図るのだろうと思い了承しましたが、「そんな中途半端な気持ちで社長をしていたのか」と厳しく叱られました。そして「会社の理念とビジョンを言えるか」と聞かれ、「そらで言える」と答えたものの、先代からは「言葉を覚えているだけで会社の理念に沿った経営をしていない」と言われました。その出来事をきっかけに会社の成り立ちを振り返り、先代の想いを想像することで理解に近づくだろうと思い、沿革や理念を読み込み、自分なりに会社経営の本質を探ろうとし始めました。
ものづくりの原点に立ち返り、代返防止版「かいけつ出席」開発
会社理念は全て理解できないながらも、経営の立て直しを図るため模索を続けました。2001年にはSuicaなどの非接触型ICカードのサービスが開始され、ニーズも高まってきていたことから、ICカードを使った勤怠管理システムの開発を企画しました。弊社では2002年に勤怠管理システムを受託開発した実績があり、その知見を製品開発に活かせると考えました。
ICカードを使った勤務管理システム「かいけつ就業」の営業回りをしている時に、ある大学から「勤怠管理ができるなら、学生の出席管理もできるのでは」という相談を受けました。本来1,000万円を超えるような受託案件でしたが、大学側から全てのノウハウを得る代わりに半額で請け負い、2006年に出席管理システム「かいけつ出席」を開発しました。大学側からはアルファメディアの製品として販売する許諾を得たことで他の大学にも販売できるようになり、少しずつ受注を得られるようになっていきました。そうした中で初めに世に出したのがハンディタイプでした。他社製品は壁への据え付け型が多く、価格も高額なものばかり。弊社の製品は持ち運びができて、1台から導入可能であり、安価であることが大きなメリットでした。
2010、11年頃には、この自社製品の価値を見直し、事業強化のためさらに付加価値の高い製品づくりをしていこうと考え「ものづくり」の原点に立ち返ることにしました。先代はメーカーのエンジニアであったことからハードウェア開発チームを作り、手話ソフト以降は自社製品でのヒット製品が出ていなかったので、ハードとソフト両方を使った製品を作りたいと思うようになりました。
その頃には川崎市産業振興財団が、大企業と中小企業の連携促進を図る「知的財産交流会」を開催するようになり、活用する手はないと思い参加を決めました。コーディネーターを通じて、もともと付き合いが長かった富士通が出席管理に関するおもしろい特許を持っていると聞き、交渉を重ね、富士通の特許である「出席管理スキャナ装置」の実施許諾契約を締結。その特許技術を弊社の出席管理システムに実装するとともに、業界初の「代返防止機能」を付けて製品化しました。
この「かいけつ出席(代返防止版)」は、「代返防止」というインパクトが大きかったためか、テレビや新聞にも大きく取り上げられる事となります。中でもインターネットの掲示板「2ちゃんねる」では炎上する事態にまで発展し、結果的に当社の出席管理システム「かいけつ出席」は広く知れ渡ることになりました。ニッチな製品でしたが競争優位性もあり、ニーズをつかむことができました。こうした製品のリリースにより業績が回復し始め、戦略を立て、実践するうちに成長軌道に乗ることができました。現在は全国の約50大学に製品を使っていただき、お客様からは「ハンディタイプならアルファメディアだね」と言っていただけています。
目に見える形での実績づくりに成功したことで、先代も私が社長業を続けた方がいいと考え、2013年頃から少しずつ先代の持ち株を買い受けるようになりました。2014年から2016年頃は先代に業務の相談しながら社長業の引継ぎも進めていきました。
経営者として社員や地域社会の成長を支える
弊社では、働き方改革が浸透する以前の2010年頃から男性社員の育休も推進し、介護や育児で時間調整が必要な場合には時短勤務を認めるなど、臨機応変に個別で対応できるようにしていきました。今年は物価が跳ね上がったので、少しでも生活の足しにしてもらうためにボーナスとは別に臨時支給をすることにしています。
現在、女性社員は3割以上となっています。職場でも家庭内でも男女関係なく分業できるのが理想ではありますが、家庭内においては女性に比重が偏りがちであるのが現状です。そのため、生活と仕事のバランスがとりやすいように個々人に目を配り、声をかけやすい雰囲気にすることで、男女ともに働きやすい環境になるように努めています。
私は強いリーダーシップで社員を巻き込むタイプではありませんが、入社から承継までの苦しい時期を乗り越えた経験があったからこそ、一人ひとりにフラットに接することができるようになれたと感じています。人がいなければ新たなサービスや製品は生まれません。私にはエンジニアのような技術力はありませんが、経営者として意思決定を担い、社員の生活を守り、最終的な責任を負う役割を果たすことが、社員や会社、地域の成長や発展の一端に繋がると思っています。
今は少子化もあってエンジニアの採用は厳しい状況ですが、未経験でもアルファメディアの想いと理念を大事にしながら、弊社の新たな歴史を築いてくれる仲間を募っています。
地域企業とともに子どもたちの可能性を広げる
弊社は川崎市の取り組みと川崎信用金庫の支援によりここまで来られたので、事業を通じて恩返しや貢献ができればと思っています。業績や企業価値を高め、地域に還元していくことこそ本当の恩返しになるだろうと考え、現在は先代がビジョンに掲げた「教育」と「福祉」に焦点を定め、教育事業に力を入れています。
今年は、プロサッカークラブ「川崎フロンターレ」と朝日新聞社とともに、プログラミングとサッカーの技術向上を図り、子どもの可能性を広げる取り組みを実施しました。
小学生は成長の途中であることから、運動能力にも差が出やすいですが、運動で活躍できないことで苦手意識が生まれ、運動や体育が嫌いになってしまう子もいます。それぞれ苦手な部分は違うと思いますが、それに見合った改善方法は必ずあり、プログラミングを通じて論理的な思考を育みながら身体を動かすことで、目的のために自ら考え工夫していくきっかけづくりにもなっていきます。私自身も運動音痴で体育が苦手だったので、子どもたちが苦手なことを楽しみながら克服し、好きになってもらえるお手伝いをしたいと思っています。今後も他企業と協業をしながら教育分野でも貢献していければと思っています。
相互理解を深め組織力でカバーできる会社へ
弊社は2022年で30年の節目を迎えました。先代の時代からソフトウェアやアプリケーションとともにものづくりにも力を注ぎ、パソコンスクールや教育事業により自社の理念や想いを地域にも広げていきました。少子高齢化が進み、ますます厳しくなる世の中ですが「人に優しい」という理念は変えずに行きたいと思っています。
現在の弊社の課題は、社員56人程度の会社ながら、各部門がそれぞれ別のお客様と業務を抱えリソースが分散してしまっていることです。外部環境が厳しい中で成長していくには、部署を超え互いの強みを伸ばし弱みをカバーし合える組織力と、一つの目標に向かい集中できる統率力が必要になります。マーケットや技術分野など、互いにリンクする箇所を基点に相互理解を深めながら、アイデアを発信し合えるようになれば、絶対に負けない強みになっていくはずです。現在は各部署の強みが合わさり太い柱になっていけるように、中長期計画を策定している最中です。幹部社員を中心に全社員が力を一つにできるような環境づくりを行っていくことが、今の私にとって最も大きな仕事だと考えています。
園児や児童の置き去り防止・見守り装置を開発
ここ最近では、社内の意見も盛り込みながら、幼稚園や保育園などでの園外活動の見守りをサポートするための機器2点を開発しました。
1点目は、降車時確認式の「置き去り防止装置KT-Z01」です。2022年に園バスに置き去りにされた園児が亡くなってしまった事件を受け、ヒューマンエラーによる悲しい事件や事故が二度と起こらないようにと開発に着手しました。「置き去り防止装置」は、降車時の点検をブザー音で促し、園児や児童が装着する専用タグ(小型発信機)の信号を検知し、人数表示ユニットにて視覚的に乗員数を把握することができます。システムは、弊社の勤怠管理や出席管理の製品に使われている、ICカードの認証技術を応用しました。「置き去り防止装置」は、国交省の許可を取得し、補助金の対象製品としても登録されています。
2点目の製品は、園外活動中の子どもの見失いや置き去りを防ぐシステム「見守りMM-AP01~ぜったい一人にしないから~」です。この「見守り」は、専用タグをつけたビブスまたはアームバンドを園児に装着してもらい、園児が一定距離以上を離れると、先生方のもつスマートフォンのアプリにアラートが通知される仕組みです。アプリ上では、どの園児が離れたかが一目でわかるように表示されます。
子育て経験のある女性社員、保育の現場の意見を製品改良に活かす
この「見守り」の機器は、社内から「置き去り防止装置だけではなく、アルファメディアらしい製品をつくりたい」という意見が挙がり、園バスとは別のシーンで使える製品を子育て経験のある女性社員たちに企画してもらいました。「見守り」は「置き去り防止」を開発した2022年から構想と開発にあたり、2023年にリリース後には、数カ所の保育園から要望があり納品しました。「共創と変革」の理念に沿ったわが社らしい製品であり、誇らしく思っています。
また「置き去り防止」と「見守り」機器の開発と発売にあたり、横浜市のオープンプラットフォーム「YOKOHAMA Hack!」の「ICTを活用した子ども見守りサービスに関する実証実験」に応募したところ採択され、支援金をいただきながら横浜市内の保育園などで製品の実証実験を行いました。「YOKOHAMA Hack!」は、民間企業のデジタル技術のマッチングにより事業や行政の課題解決を目指すもので、製品の改善につながればと思い応募しました。
保育の現場で先生方や園児に実際に製品を使っていただき、率直なご意見をいただいたことで、想定よりも電池の消耗が早いなどの課題がより明確になりました。現在は、製品のバージョンアップに向けて改良に取り組んでいるところです。
エンジニアとものづくりの未来を守りたい
現在弊社では、企業価値とともにリーマンショックにより傷ついた自己資本比率をどこまで高めていけるかを追求しているところです。定期的に株価算定や経営分析を行うことで、成績通知表のように経営の改善点を探し、絶えず振り返りをするようにしています。社長就任以降は特にB/Sの改善に力を入れ、現在は借入残高と手持ちのキャッシュがほぼ同額になるまで改善しました。今後は、本当に経営に困っている会社に出会った時のために、資金的な援助や会社を引き継げるような状態にしておきたいと思っています。
この業界でも、外部環境の急激な変化によって業績の良し悪しの差が拡大しつつあります。経営努力はもちろん必要ですが、不況の中でも努力を続けている技術者たちに罪はなく、困っている会社を助けることで、ものづくりやアイデアが生まれる現場を守れるだろうと考えています。私がアルファメディアの歴史を真に理解したように、互いの会社の歴史を受け入れて大事にできる会社に出会えれば、弊社の可能な範囲で引き継ぎたいと思っています。異業種に関しては、アライアンスを組むことでそれぞれの会社の良さを引き出し、新たな価値を創出していきたい考えです。
取引先にはベトナム企業もあり、今後は海外展開も考えていることから、既に海外拠点がある会社から知見を得られたらとも考えています。
会社概要
社名 | 株式会社アルファメディア |
創立年 | 1992年 |
代表者名 | 代表取締役社長 小湊 宏之 |
資本金 | 5000万円 |
事業エリア |
本社・富士通オープンカレッジ武蔵小杉校
211-0063 神奈川県川崎市中原区小杉町3-264-3 ユニオンビル1F・3F |
神戸支社
650-0012 兵庫県神戸市中央区北長狭通4-3-8 NRビル3F(神戸綜合速記ビル3F) |
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名古屋事業所
460-0002 愛知県名古屋市中区丸の内2-15-12 丸の内オークビル5F |
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本社住所 |
211-0063 神奈川県川崎市中原区小杉町3-264-3 ユニオンビル1F・3F |
事業内容 | ハードウェア・ソフトウェアの自社製品、受託開発 技術者・業務派遣 ICT教育 |
URL |
https://www.alphamedia.co.jp/
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会社沿革
1992年 | 資本金1,000万円で株式会社アルファメディアを設立 川崎市高津区に事務所を置く |
1993年 | 事務所を川崎市中原区の武蔵新城に移転 |
1996年 | 事務所を川崎市中原区上丸子山王町に移転 世界初の日本手話電子辞書(ムサシα)を開発・販売 |
1997年 | 日本手話電子辞書が「神奈川工業技術開発大賞」を受賞 |
1998年 | Be OS上で動くアルファメール(日本語版)を開発・販売 |
1999年 | 株式会社富士通ラーニングメディアとの提携により、メディアラボパソコンスクールを富士通オープンカレッジ中原校として開校 |
2000年 | 神戸市中央区に神戸テクニカルセンターを設置(ハードウェア・ファームウェアの事業展開) 資本金を2,000万円に増資 |
2001年 | 神奈川県創造法の認定を受ける アルファメディアラボラトリを川崎市中原区の武蔵小杉に移転 富士通オープンカレッジ中原校を同武蔵小杉校に名称変更 人材派遣事業を開始(一般労働者派遣事業 許可番号 般14-14-0025) |
2002年 | 神奈川県優良企業に選ばれる 神奈川県経営革新法企業の認定を受ける |
2003年 | 株式会社タジマよりコンピテンシーマスターの営業譲渡を受ける 中小企業IT化支援事業「IT COMPASS®」を商標登録(登録第4685738号) 勤怠管理システム「かいけつ就業®」(登録第4745488号)を開発・販売 |
2004年 | ASSE(有限責任中間法人 中小企業経営支援協議会)の設立に参画 資本金を3,000万円に増資 |
2005年 | 資本金を3,500万円に増資 |
2006年 | 出席管理システム「かいけつ出席」を開発・販売 |
2007年 | 事業拡大に伴い名古屋市中区栄に名古屋営業所を開設 |
2008年 | 神戸テクニカルセンターを神戸市中央区北長狭通に移転 神戸支社とする 名古屋営業所を名古屋市中区丸の内に移転 名古屋事業所とする 資本金を3,600万円に増資 |
2009年 | 本社を移転、アルファメディアラボラトリと統合 プライバシーマークを取得 一般労働者派遣事業を特定労働者派遣事業に変更 (届出受理番号 特14-303830) |
2010年 | コンピテンシーマスターの販売を終了 富士通オープンカレッジ武蔵小杉校が株式会社富士通ラーニングメディアより長期功労賞を受賞 資本金を4,000万円に増資 |
2011年 | 富士通株式会社と同社所有特許「出席管理スキャナ装置」を活用するための実施許諾契約を締結 出席管理システム「かいけつ出席」に富士通株式会社所有特許 「出席管理スキャナ装置」を活用した「かいけつ出席(代返防止版)」を開発・販売 |
2012年 | 「ステレオカメラ画像による視覚障碍者の歩行支援システムの開発」が神奈川県より創造的新技術研究開発の認定を受ける 川崎ものづくりブランド推進協議会(事務局 川崎市/川崎商工会議所)より第9回川崎ものづくりブランドに当社製品「かいけつ出席」が認定される |
2013年 | 子会社 株式会社アルファメディアテクノロジーを設立 本社の特定労働者派遣事業を一般労働者派遣事業に変更(許可番号 般14-301027) |
2014年 | 「視覚障害者歩行支援装置」 特許取得(特許第5461486号) |
2015年 | 資本金を5,000万円に増資 |
2017年 | 富士通オープンカレッジ武蔵小杉校にて子ども向けプログラミング教室「F@IT Kids Club」を開始 |
2018年 | 有料職業紹介事業を開始(許可番号 14 ユ 301222) |
2019年 | 当社で開発・構築したIoT野菜無人販売機を導入した川崎市高津区にある木所農園が「川崎市働き方改革・生産性向上モデル創出事業」に採択 |
2020年 | 当社と川崎フロンターレ、朝日新聞社の3者にて、プログラミング教育とサッカーのコラボレーション教育プログラム「Scratch×Soccer」業務提携契約を締結 |
2022年 | 川崎市より「かわさきSDGsゴールドパートナー」に認証される 「令和4年度高津区市民提案型協働事業」に当社が提案した「『Scratch×Soccer』スポーツとプログラミングで子ども達の未来を育む」事業が採択 当社と湘南ベルマーレ、朝日新聞社、エフ・プロジェクトの4者にて、プログラミング教育とサッカーのコラボレーション教育プログラム「Scratch×Soccer」業務提携契約を締結 「画像処理装置および移動支援装置」特許取得(特許第7101350号) 当社とF・マリノススポーツクラブ、朝日新聞社、エフ・プロジェクトの4者にて、プログラミング教育とサッカーのコラボレーション教育プログラム「Scratch×Soccer」業務提携契約を締結 |
株式会社アルファメディアの縁結び・成功事例
株式会社アルファメディアの経営資源引継ぎ募集情報
公開日:2023/02/06 (2024/05/30修正)
※本記事の内容および所属名称は2024年5月現在のものです。現在の情報とは異なる場合があります。