川崎市川崎
川崎市
富士宮市
引継ぎ実績あり
家電や鉄道車両、自動車に不可欠な高精度な部品を提供する金属加工会社
株式会社山一
社員が生き生きと働き充実した生活を送れる環境を整える
経営理念
社訓
金を失うことは小なる損失なり
信用を失うことは大なる損失なり
意欲を失うことは総てを失うことなり
代表者メッセージ
山一は川崎を発祥の地とし日本国内に4か所、海外に1か所の拠点を有するプレス、大型・精密板金組み立て加工を中心とした金属製品製造業です。私たちは自分で手掛けた製品に責任と誇りを持ち、世界に必要とされるグローバル企業を目指し、地域社会に貢献していきます。
代表取締役 田﨑 浩資
私たちのこだわり
祖父が金属加工の職人を集めて1956年に創業
株式会社山一は、私の祖父が1956年4月に創業した金属加工会社です。創業前の祖父は、京浜工業地帯の様々な工場に職人を派遣する、現代でいう人材派遣業のような仕事を営んでいました。
ある時、取引先である金属加工会社の社長から会社の引き継ぎを打診されたそうです。祖父は、建屋だけを引継ぎ、自分が抱えていた金属加工の職人たちを社員として雇用し、新たに金属加工会社として弊社を創業しました。
創業当初は、エアコンの室外機の中に入っているアキュムレータというタンクをメインに製造していました。その時に培われたのが、プレス加工の中でも、板状の金属をお椀型にする深絞り加工の技術です。さらに「ロウ付け」という溶接方法を自動化する設備を自社で開発し、大量生産できる体制を整えました。取引先からの評価は高く、方々から受注を頂いた結果、1990年代まではアキュムレータの世界シェアの7割を占めるほどでした。
弊社は川崎の中小企業の中では比較的早い段階で海外進出した企業です。バブル経済期を背景に、受注元の企業が各地に工場を新設するタイミングで、弊社も拠点を拡大していきました。現在、弊社の自社工場は静岡とタイの2拠点ですが、かつては静岡、福島、大阪、秋田、海外は中国とマレーシアに工場を構えていました。
しかし、アジア通貨危機やリーマンショックといった経済環境や、タイの大洪水、東日本大震災といった自然災害などに影響を受けて状況は次第に悪化していきました。直近の10年間は特に厳しい経営状態でした。父は、そうした厳しい経営状況で息子に引き継ぐべきではないと、外部コンサルを入れて不採算事業を整理し、経営の健全化に取り組みました。国内および海外の工場を整理し、ある程度再建の目途が立った2021年に私が社長を引き継ぎました。父がいいタイミングでバトンを渡してくれたこともあり、現在の経営状態は非常に良くなっています。
幼少期から会社を引き継ぐ自覚を持って育つ
私は、幼少期から将来は自分が弊社を引き継ぐと思って育ちました。創業者である祖父から、3代目としての期待を一身に受けて育ったからだと思います。私が物心付いた頃には2代目社長となっていた父は、国内外で新たな工場を建てるたびに単身赴任しており、あまり家にいませんでした。父親以上に祖父の存在が身近だったことも大きく関係していると思います。
高校卒業後は情報処理の専門学校に進学しました。インターネットの普及に合わせて、これからの時代はパソコンやプログラミングの知識が必要になると考えたからです。また、専門学校卒業後は、弊社が海外展開していたことから、語学や海外の文化に触れる必要性を感じてニュージーランドで1年間の留学を経験しました。
留学から帰国したタイミングで、弊社に入社しましたが、その後すぐに父の知り合いが経営する樹脂成形の会社に2年間出向しました。いきなり家業に入るよりも、まずは外の世界で下積みを経験してほしいという父の思いがあったのかもしれません。
本格的に家業に入った時期は2004年で、タイ工場を立ち上げた直後でした。出向から戻るとすぐに私はタイ工場の配属となり、言葉も文化も違う環境で弊社の業務を本格的にスタートさせました。最初は戸惑いもありましたが、現地で採用されたタイの社員たちが同年代だったこともあり、楽しく仕事ができました。当時一緒に働いた社員は現在でも残ってくれているので、今では20年以上の付き合いです。
培ってきた技術力が新分野への進出を支える
弊社の強みは、職人の技術力です。中でも創業当初からアキュムレータの製造で培ってきた、深絞り加工は今でも弊社を支えてくれています。アキュムレータの製造では、かつて世界で7割のシェアを誇るほど隆盛を極めましたが、外部環境の変化や価格競争で敗れたことで苦しい時期も経験しました。しかし、深絞り加工自体は、アキュムレータの製造以外にも活かせる技術だったことから、タイに進出してから熱交換器部品などの自動車部品の製造という新分野に挑戦しました。その結果、再び弊社が持つ絞り加工の技術が再評価されています。
タイは、自動車産業が栄えている地であり、自動車部品である熱交換器の需要も増加し続けています。その需要に応えられる弊社のタイ工場は、高い稼働率を維持しています。
拠点ごとのトップに任せる独立体制
弊社の社訓は、「金を失うことは小なる損失なり、信用を失うことは大なる損失なり、意欲を失うことは総てを失うことなり」です。祖父が作ったものをそのまま引き継いでおり、海外工場でも英訳して、目立つ場所に掲げています。弊社では、まだ明確に経営理念を定めていませんが、この社訓をベースに検討していくつもりです。
先代の父が穏やかな性格だったこともあり、社内の雰囲気も非常に穏やかです。私自身、良いカルチャーだと思っているので今後も維持していきたいと考えています。
現在、弊社の拠点は川崎の本社、静岡工場が2か所、タイ工場、関連会社である村上製作所の5か所です。社員は、本社が5人で、残りの約200名は工場に勤務しています。祖父と父が時間をかけて、財務以外は全て工場長に権限を委譲する体制にしたため、各工場長のカラーを出しながら操業しています。タイ工場もトップは日本からの駐在社員ですが、現場業務のマネージメント、スタッフのケアなどは、タイ人の優秀な工場長に任せています。穏やかな雰囲気の中で各拠点の工場長に任せるスタイルはうまく回っているので、今後も継続していく考えです。
組織の若返りを図りながら人財育成にも努める
世の中はIT化が進み、技術やシステム、設備も変わってきています。その変化に対応できるよう、組織全体の若返りを図っていくことが現在の課題です。
工場では20代の若手社員が増えてきています。未経験で入社する人財が多く、製造部署では各部門を3か月ごとに一通り回って、適正を見ながら配属を決めているのが現状です。弊社の技術力の要である溶接で一人前になるためには長年の経験を要します。だからこそ、ベテラン社員の溶接技術を若手にしっかりと継承していきたいと考えています。今はまだ、種まきの段階ですが、今後は経営幹部になるような人財も育成していかなければいけません。
また、就業規則や給与体系など、何十年も前から変わっていない部分があるため、時代に合わせて作り直していこうと考えています。
同業他社をM&Aでグループに迎える
M&Aに関しては、2022年6月に神奈川県綾瀬市にある株式会社村上製作所という会社を引継ぎました。医療用分析器や異物検出器の部品を製造している会社です。当初は、まったくM&Aを検討していませんでしたが、たまたま良いタイミングでご縁があり、さらに金融機関から詳細を聞いて考えが変わりました。弊社と同じ金属加工業でありながらも、得意先の業界が異なったり、強みとなる技術が違ったりすることにシナジーを生み出せるのではないかと感じたからです。
お話を頂いた時、村上製作所は絶好調と言えるほどの業績でしたが、50代の社長が1人で営業や見積もりだけでなく、生産管理や受発注などの間接業務までを担わざるを得ない状態でした。社内に間接業務を任せられる人財はおらず、社長は長年続いたそうした状況に疲れきってしまったそうで、早期引退のために会社を引き継いで欲しいというのがM&Aを希望する理由でした。
村上製作所には、他社から転職してきた社員が多くいます。そのような社員たちと面談を行うと、同社の居心地が良く、作業に集中できる労働環境に愛着を持っていることに気づきました。そのため社員が感じている居心地の良さを何よりも大切にしたいと考え、最初の挨拶ではまず、社名はもちろん、給与をはじめとする社内規定などの待遇も一切変えず、村上製作所の良い部分はやり方をそのまま踏襲すると約束しました。
今後は、社員が感じている居心地の良さを担保しながら、マネージメントできる人財を育て、いずれは私が常駐せずとも自立できる体制にしていきたいと考えています。
村上製作所のように社員を大切にしている会社や、弊社が少し手助けすることで社員が心地よく働けるようになる会社からの相談であれば、今後も引き継ぎを検討したいと思います。私自身、社員が生き生きと働き続けられる会社を世の中に残していきたいと考えているからです。
ものづくりの基盤は社員の満足あってこそ
私は現在、川崎市の青年工業経営研究会の会長を務めています。地場である川崎の中小企業で、ものづくりをしている会社の若手経営者や後継者だけが入ることのできる会です。月に1度の定例会のほか、日本各地の工業系の青年会との交流や工場見学会、市長との懇談会などを通してネットワークを広げています。ものづくりを専門にしている川崎の経営者同士との情報交換を密にしながら、地域社会にもより貢献できればと思っています。
地域貢献やものづくり業界の活性化という大きな目標を実現するために、まずは、社員が安心して意欲を持って働いていける環境を時代に応じて整え続けなければいけません。社訓に掲げる「意欲を失うことは総てを失うことなり」ではありませんが、社員たちが待遇に満足し、意欲的に働けるようにするのが経営者としての務めです。社員から「この会社にいて良かった」「ずっと働きたい」と思ってもらえる会社でありつづけられるような経営を行っていきます。
祖父が金属加工の職人を集めて1956年に創業
株式会社山一は、私の祖父が1956年4月に創業した金属加工会社です。創業前の祖父は、京浜工業地帯の様々な工場に職人を派遣する、現代でいう人材派遣業のような仕事を営んでいました。
ある時、取引先である金属加工会社の社長から会社の引き継ぎを打診されたそうです。祖父は、建屋だけを引継ぎ、自分が抱えていた金属加工の職人たちを社員として雇用し、新たに金属加工会社として弊社を創業しました。
創業当初は、エアコンの室外機の中に入っているアキュムレータというタンクをメインに製造していました。その時に培われたのが、プレス加工の中でも、板状の金属をお椀型にする深絞り加工の技術です。さらに「ロウ付け」という溶接方法を自動化する設備を自社で開発し、大量生産できる体制を整えました。取引先からの評価は高く、方々から受注を頂いた結果、1990年代まではアキュムレータの世界シェアの7割を占めるほどでした。
弊社は川崎の中小企業の中では比較的早い段階で海外進出した企業です。バブル経済期を背景に、受注元の企業が各地に工場を新設するタイミングで、弊社も拠点を拡大していきました。現在、弊社の自社工場は静岡とタイの2拠点ですが、かつては静岡、福島、大阪、秋田、海外は中国とマレーシアに工場を構えていました。
しかし、アジア通貨危機やリーマンショックといった経済環境や、タイの大洪水、東日本大震災といった自然災害などに影響を受けて状況は次第に悪化していきました。直近の10年間は特に厳しい経営状態でした。父は、そうした厳しい経営状況で息子に引き継ぐべきではないと、外部コンサルを入れて不採算事業を整理し、経営の健全化に取り組みました。国内および海外の工場を整理し、ある程度再建の目途が立った2021年に私が社長を引き継ぎました。父がいいタイミングでバトンを渡してくれたこともあり、現在の経営状態は非常に良くなっています。
幼少期から会社を引き継ぐ自覚を持って育つ
私は、幼少期から将来は自分が弊社を引き継ぐと思って育ちました。創業者である祖父から、3代目としての期待を一身に受けて育ったからだと思います。私が物心付いた頃には2代目社長となっていた父は、国内外で新たな工場を建てるたびに単身赴任しており、あまり家にいませんでした。父親以上に祖父の存在が身近だったことも大きく関係していると思います。
高校卒業後は情報処理の専門学校に進学しました。インターネットの普及に合わせて、これからの時代はパソコンやプログラミングの知識が必要になると考えたからです。また、専門学校卒業後は、弊社が海外展開していたことから、語学や海外の文化に触れる必要性を感じてニュージーランドで1年間の留学を経験しました。
留学から帰国したタイミングで、弊社に入社しましたが、その後すぐに父の知り合いが経営する樹脂成形の会社に2年間出向しました。いきなり家業に入るよりも、まずは外の世界で下積みを経験してほしいという父の思いがあったのかもしれません。
本格的に家業に入った時期は2004年で、タイ工場を立ち上げた直後でした。出向から戻るとすぐに私はタイ工場の配属となり、言葉も文化も違う環境で弊社の業務を本格的にスタートさせました。最初は戸惑いもありましたが、現地で採用されたタイの社員たちが同年代だったこともあり、楽しく仕事ができました。当時一緒に働いた社員は現在でも残ってくれているので、今では20年以上の付き合いです。
培ってきた技術力が新分野への進出を支える
弊社の強みは、職人の技術力です。中でも創業当初からアキュムレータの製造で培ってきた、深絞り加工は今でも弊社を支えてくれています。アキュムレータの製造では、かつて世界で7割のシェアを誇るほど隆盛を極めましたが、外部環境の変化や価格競争で敗れたことで苦しい時期も経験しました。しかし、深絞り加工自体は、アキュムレータの製造以外にも活かせる技術だったことから、タイに進出してから熱交換器部品などの自動車部品の製造という新分野に挑戦しました。その結果、再び弊社が持つ絞り加工の技術が再評価されています。
タイは、自動車産業が栄えている地であり、自動車部品である熱交換器の需要も増加し続けています。その需要に応えられる弊社のタイ工場は、高い稼働率を維持しています。
拠点ごとのトップに任せる独立体制
弊社の社訓は、「金を失うことは小なる損失なり、信用を失うことは大なる損失なり、意欲を失うことは総てを失うことなり」です。祖父が作ったものをそのまま引き継いでおり、海外工場でも英訳して、目立つ場所に掲げています。弊社では、まだ明確に経営理念を定めていませんが、この社訓をベースに検討していくつもりです。
先代の父が穏やかな性格だったこともあり、社内の雰囲気も非常に穏やかです。私自身、良いカルチャーだと思っているので今後も維持していきたいと考えています。
現在、弊社の拠点は川崎の本社、静岡工場が2か所、タイ工場、関連会社である村上製作所の5か所です。社員は、本社が5人で、残りの約200名は工場に勤務しています。祖父と父が時間をかけて、財務以外は全て工場長に権限を委譲する体制にしたため、各工場長のカラーを出しながら操業しています。タイ工場もトップは日本からの駐在社員ですが、現場業務のマネージメント、スタッフのケアなどは、タイ人の優秀な工場長に任せています。穏やかな雰囲気の中で各拠点の工場長に任せるスタイルはうまく回っているので、今後も継続していく考えです。
組織の若返りを図りながら人財育成にも努める
世の中はIT化が進み、技術やシステム、設備も変わってきています。その変化に対応できるよう、組織全体の若返りを図っていくことが現在の課題です。
工場では20代の若手社員が増えてきています。未経験で入社する人財が多く、製造部署では各部門を3か月ごとに一通り回って、適正を見ながら配属を決めているのが現状です。弊社の技術力の要である溶接で一人前になるためには長年の経験を要します。だからこそ、ベテラン社員の溶接技術を若手にしっかりと継承していきたいと考えています。今はまだ、種まきの段階ですが、今後は経営幹部になるような人財も育成していかなければいけません。
また、就業規則や給与体系など、何十年も前から変わっていない部分があるため、時代に合わせて作り直していこうと考えています。
同業他社をM&Aでグループに迎える
M&Aに関しては、2022年6月に神奈川県綾瀬市にある株式会社村上製作所という会社を引継ぎました。医療用分析器や異物検出器の部品を製造している会社です。当初は、まったくM&Aを検討していませんでしたが、たまたま良いタイミングでご縁があり、さらに金融機関から詳細を聞いて考えが変わりました。弊社と同じ金属加工業でありながらも、得意先の業界が異なったり、強みとなる技術が違ったりすることにシナジーを生み出せるのではないかと感じたからです。
お話を頂いた時、村上製作所は絶好調と言えるほどの業績でしたが、50代の社長が1人で営業や見積もりだけでなく、生産管理や受発注などの間接業務までを担わざるを得ない状態でした。社内に間接業務を任せられる人財はおらず、社長は長年続いたそうした状況に疲れきってしまったそうで、早期引退のために会社を引き継いで欲しいというのがM&Aを希望する理由でした。
村上製作所には、他社から転職してきた社員が多くいます。そのような社員たちと面談を行うと、同社の居心地が良く、作業に集中できる労働環境に愛着を持っていることに気づきました。そのため社員が感じている居心地の良さを何よりも大切にしたいと考え、最初の挨拶ではまず、社名はもちろん、給与をはじめとする社内規定などの待遇も一切変えず、村上製作所の良い部分はやり方をそのまま踏襲すると約束しました。
今後は、社員が感じている居心地の良さを担保しながら、マネージメントできる人財を育て、いずれは私が常駐せずとも自立できる体制にしていきたいと考えています。
村上製作所のように社員を大切にしている会社や、弊社が少し手助けすることで社員が心地よく働けるようになる会社からの相談であれば、今後も引き継ぎを検討したいと思います。私自身、社員が生き生きと働き続けられる会社を世の中に残していきたいと考えているからです。
ものづくりの基盤は社員の満足あってこそ
私は現在、川崎市の青年工業経営研究会の会長を務めています。地場である川崎の中小企業で、ものづくりをしている会社の若手経営者や後継者だけが入ることのできる会です。月に1度の定例会のほか、日本各地の工業系の青年会との交流や工場見学会、市長との懇談会などを通してネットワークを広げています。ものづくりを専門にしている川崎の経営者同士との情報交換を密にしながら、地域社会にもより貢献できればと思っています。
地域貢献やものづくり業界の活性化という大きな目標を実現するために、まずは、社員が安心して意欲を持って働いていける環境を時代に応じて整え続けなければいけません。社訓に掲げる「意欲を失うことは総てを失うことなり」ではありませんが、社員たちが待遇に満足し、意欲的に働けるようにするのが経営者としての務めです。社員から「この会社にいて良かった」「ずっと働きたい」と思ってもらえる会社でありつづけられるような経営を行っていきます。
ツグナラコンサルタントによる紹介
電化製品や自動車などに必要不可欠な部品を製造する金属加工の企業様です。社長は、地元川崎市の工業経営研究会の会長を務めており、業界の活性化や地域貢献にも取り組んでいます。会社を引き継がれた経験もあり、マネジメント人財の育成に取り組まれています。
会社概要
社名 | 株式会社山一 |
創立年 | 1956年 |
代表者名 | 代表取締役 田﨑 浩資 |
資本金 | 8500万円 |
事業エリア | 富士宮工場 |
富士宮第二工場 | |
株式会社 村上製作所
神奈川県綾瀬市 |
|
山一タイランド
タイ アユタヤ県バンパイン工業団地 |
|
本社住所 |
210-0024 神奈川県川崎市川崎区日進町7-1 川崎日進町ビルディング12階 |
事業内容 | プレス加工、大型・精密板金加工 |
URL |
http://www.yamaichi-corp.co.jp/
|
会社沿革
1956年 | 会社設立 |
1972年 | 静岡県富士宮市に富士宮工場建設 |
1985年 | 静岡県富士宮市に山一精工設立(後に株式会社山一に吸収合併) |
1994年 | 株式会社山一本社ビル・竣工(川崎区本町) |
2004年 | タイ工場・山一タイランドが操業開始 |
2022年 | 株式会社村上製作所が山一グループに加入 株式会社山一本社川崎市川崎区日進町へ移転 |
株式会社山一の経営資源引継ぎ募集情報
公開日:2023/09/12
※本記事の内容および所属名称は2023年9月現在のものです。現在の情報とは異なる場合があります。