川崎市川崎
川崎市
児玉郡美里町
エンドユーザーの暮らしを守る土木工事・コンクリート製品製造
岡村建興株式会社
地域インフラを支える街と人想いのダイバーシティ経営
経営理念
エンドユーザーを意識したものづくり
製品や施工力の持つ品質の高さを維持することはもとより、さらにお客様に満足して頂けるサービスを提供し続けています。「エンドユーザーを意識したものづくり」の経営理念に則り、社員一人ひとりが、また会社全体として、豊かで住みよい地域社会づくりに大きく寄与してまいります。
ビジョン
- 地域とお客様に「強く」必要とされる会社になる
- 生き活きとした会社風土と.社員を創る
- ステークホルダーに安心を提供する
代表者メッセージ
弊社は、1947年の戦後間もない時期に現在の川崎市において創業し、今日までプレキャストコンクリート製品、土木工事を軸に「豊かで住みよい街づくり」への確かな足跡を残してまいりました。
『誇りをもち、心をこめて商品に主張をつくる』をテーマとして、お客様に満足いただける仕事の実現に向けて、全員が一致協力してたゆまぬ努力を続けてまいりました。
サステナビリティの一環としては、低炭素型コンクリート製品の開発・生産やペーパーレス等会議等SDGs達成につながる取組を展開しています。
今後も持続可能な社会の実現に向けて、全社員で取り組んでまいります。
代表取締役社長 岡村 清孝
私たちのこだわり
戦後の街づくりを支えたセメント運送とコンクリート二次製品
私の祖父が1935年に神奈川県川崎市で創業した弊社は、当初は「岡村組」という屋号で運送業を行っていたと聞いています。創業から6年後には第二次世界大戦が始まり、軍需工場が集中していた川崎市は、空襲を受け、多くの建物が破壊されました。終戦後の復興期には、川崎市は焼野原から工業都市への再スタートを切り、耐震・耐火に優れた頑丈な建材としてコンクリート構造物の需要が高まっていきました。運送業をしていた岡村組でも、コンクリートの素材となるセメントを工場から都内の建設現場に運ぶ機会が多くなっていったそうです。復興が進むにつれて運送事業のニーズはさらに高まり、1947年には株式会社岡村組として法人化できるまでに成長していきました。
初代から家業を引き継いだ2代目の父は、得意先であった第一セメント株式会社(現株式会社デイ・シイ)との縁を活かし、1964年に横浜工場を設けて、セメントを活用したコンクリート二次製品の製造事業を開始しました。2代目は運送業の傍らコンクリート二次製品の製造にも力を入れ、関連事業である土木事業者との縁が深まったことで道路の排水に使用されるコンクリート製のU字溝や、L型側溝の製造をスタートし、土木工事業にも進出しました。
1967年には、岡村建興株式会社へと組織変更をして、川崎市内を中心とした公道の舗装工事や上下水道工事などの公共工事も手がけるようになりました。公道の工事は地域の社会資本を支える大事な仕事です。建設関連業者の中でも、電気や鋼管といった専門分野に特化した業者との連携に努めることで、多方面から工事の引き合いを受けるようになり、安定的な収益を得られるようになっていきました。事業を発展させることができた2代目経営陣の手腕には、未だに敵わないと思っています。
工場新設に投入した借入金7億円をわずか3年ほどで返済
その後、営業で大手ゼネコンの大成建設株式会社を訪問した2代目は、担当者から「住宅建築用のコンクリートパネルを製造できる工場が見つからず困っている」という相談を受けました。コンクリート建築は、かつて官公庁や公共施設、事業所といった拠点に多く用いられていましたが、2代目が相談を受けた頃には一般の住宅にも普及が進み、人口増加により多くの需要がありました。事業の安定化や拡大を見込んだ2代目は、1974年に埼玉県児玉郡に本庄工場を構えて、コンクリート住宅「パルコン」の製造を開始しました。コンクリート住宅部材を製造する本庄工場の建設には、当時の年間売上と同額の7億円もの資金が必要であり、金融機関から巨額の借り入れをすることとなりました。ところがその矢先にオイルショックが起こり、工事現場では鉄骨などの値段が2週間で倍以上になり、建材が手に入りにくかったと聞いています。工場操業後は順調に推移し、工場建築の借入金7億円はわずか3年ほどで完済できたそうです。2代目にとっては非常に辛く苦しい時期だったと思いますが、国の経済成長や人口増加といった好機に恵まれ、危機を乗り切ることができました。また当時、パルコンを使った住宅は、規格型のシンプルな間取りのものがほとんどであり、同型のコンクリートパネルを効率よく生産できる体制づくりができていたことも業績回復の要因の一つだったのだろうと思います。
その後2代目は事業所ごとに事業を振り分け、川崎市の本社は現在の主力事業である土木工事業、重機工事業、産廃収集運搬業、横浜工場は道路用のコンクリート二次製品製造、本庄事業所は「パルコン」を中心とした住宅用コンクリート部材の製造として、事業所ごとに特色を深めていきました。
広告代理店から家業に転職し、ものづくりの現場から経営を学ぶ
2代目は私にとって、スポーツから会社経営まで何でもできる自慢の父であり、子ども心に「格好いい」と思っていました。2代目は家庭でもよく会社の話をしていましたが、万能な父だからこそ会社を経営できるのであり、自分にはできないだろうと思い込んでいました。学生時代は流通やプロモーションに興味を持ち始めたことをきっかけに、大学ではマーケティングを専攻して、広告代理店に就職しました。
仕事も楽しくなり自信もついた社会人5年目の頃には、結婚をきっかけに長男としての立場を意識するようになり、弊社への入社を考えるようになりました。私と弟が幼い頃に父から「2人が一緒にここで仕事をしてくれたら、こんなに嬉しいことはない」と言われたことがずっと心の中に残っていたからかもしれません。いずれ家業を引き継ぐのであれば入社は早い方がいいだろうとも思い、実家へ戻ることを決意しました。
1989年に一般の社員として入社してからは、2代目の片腕だった常務のもとでカバン持ちをしながら、工場の生産現場で経験を積みました。今は亡き常務が常駐していた本庄工場では、コンクリート住宅「パルコン」製造しており、常務の指示に従いながら製品や業界の理解を深めていきました。形ある製品を自分の手でつくり上げることは初めてであり、常務の教えを通じてものづくりの奥深さを知ることができました。業務の傍ら、工場生産を行う他社に見学に行かせてもらったり、埼玉県産業振興公社で6カ月ほどの研修を受けたりすることで、経営者としての視野を広げていきました。
会計学のリスキリングと社内刷新により経営者としての素養を養う
本庄工場で業務を中心に学びながら、会社の数字部分を理解するため総務部に所属し、経理についても同時に学び始めました。大学では会計学の授業を受けていたものの、あまり得意ではなく、知識を再習得し業務として実践していくうちに、財務会計の仕組みが理解できるようになり、面白く感じるようになりました。現場の技術者や職人は、現場経験により工事台帳に記載されている金額だけで工事の進捗まで理解できるようですが、経験の浅い私にとっては、経理が現場の動向を知るための手がかりとなりました。財務会計のリスキリング(スキルや知識の再習得)は、経営者になった今も、業績の可視化や適切な原価予測などにとても役に立っています。
入社から6年後、34歳の時には役員に就任しました。弊社は長い歴史がある分、不便を感じながらもルーティンになってしまっていた部分があり、経理事務の合理化や会社案内を作り直すなど、少しずつ社内の刷新を行っていきました。そのうち社員から少しずつ社内環境の改善について声が上がり始め、社員の働きやすい環境づくりへも考えが及ぶようになっていきました。役員を6年間務め、2001年40歳の時に、社長に就任しました。
社内改革に成功
バブル崩壊以降は、建設投資額が減少した影響で業界全体が低迷し、弊社も取引先からの受注数が減り続けていったことで経営不振が続くようになりました。ある程度の経営基盤は2代目が整えてくれていたものの、それでも実質的にはマイナスからのスタートでした。
2013年には、業績不振から脱却するため、専門家の指導のもと、まずは経営体質の改善を掲げてコストダウンに向けた現実的な経営計画と、管理会計に力を入れました。例えば土木工事業では、お客様の意向や現場の都合により工事開始予定日前に施工に入ってしまうことがあり、いわゆるどんぶり勘定の会社も多くありました。個人事業から出発した弊社も、当時は内部統制が行き届いていなかった部分があり、ステークホルダーからの信頼を得ていくためにも体質を見直し、社内の変革へと踏み切ることにしました。3カ月先を予測した計画を立て、予算や工期計画の際には必ず会議を開き、管理者と施工者間の報連相を徹底して、計画の誤差をなくすよう努力しました。また「利益」についても原価をどこまで含むのかさえ曖昧だったため、「営業利益」の改善を目標に定めて、社内の意識統一を行っていきました。
営業利益の目標達成に向けて社員が団結して取り組めるようになってからは、目標数字を達成できるようになりました。土木工事だけではなく、コンクリート製造事業の方でも内部改革が進み、一品ごとの原価や利益率が一目でわかる管理システムを構築して運用できるまでになりました。この期間は、苦しい毎日でしたが、今残っている社員は辛い時期を一緒に戦ってくれた方々ばかりであり、経営改善を経て会社全体の団結力が深まったと思います。支えてくれる仲間がいることのありがたさを実感するとともに、社内改革を急速に進めることができた大事な時期でもあったと思います。
経営理念に込めた社会的使命の意識
現在の弊社の事業は、コンクリート製品の製造と土木、建設残土や産業廃棄物の運搬の3事業が中心となっています。道路の舗装、上下水道工事、景観工事などの公共工事や、建築用のコンクリート部材の製造を通じて街づくりに携わっている弊社は、地域社会に対して大きな責任があると理解しています。
人の暮らしを支える事業を続けていく上では、社員一人ひとりが、自分の仕事や会社の事業が社会にどのような影響を与えているかという意識を持ち続けていくことが大切だと思っています。社員の考えや行動の指針とするため、弊社では「エンドユーザーを意識したものづくり」という経営理念を定めています。弊社が製造する建築用コンクリート部材は、住宅を購入された施主様が家族とともに暮らす生活の場そのものであり、土木工事や道路用コンクリート製品の提供は地域全体のインフラを支える重要な役割を担っており、不良品や事故は許されません。発注先である行政やハウスメーカーが良しとした場合でも、エンドユーザーである地域の方々や施主様の安全安心を追求し続けようとする強い使命感を持ち、内省と改善を続けていってほしいと思っています。
弊社の理念については、入社前の説明会や面接の際にも必ず説明し、朝礼や全国安全週間などの活動強化期間の際にも、挨拶の中で3つのビジョンのうちいずれかを取り上げ、伝えるようにしています。社内改革を機に、社員一人ひとりが地域社会とお客様をより意識し、必要とされる喜びと誇りを持って仕事をするようになりました。理念の浸透を実感するとともに、社員も成長しており、頼もしく思っています。
全社員が理念や方針を共有し理解を深めていくためには、社員をまとめる管理職のマネジメントが重要であり、管理職の社員にはマネジメント理論を学べるセミナーを必ず受講してもらうようにしています。私自身も何度も受講しており、社員が動機付けられた内容について20分ほど話し合う機会を設けて、セミナーの学びを、考えや行動で実践するきっかけづくりとしています。
また弊社では、全事業所で、計画、実行、評価、改善を繰り返すPDCAサイクルに基づいたTQM活動や、整理・整頓・清掃・清潔・しつけの5S活動が根づいており、特徴となっています。弊社は運送業からスタートしましたが、比較的早い時期にコンクリート製品製造や土木といった別事業が加わったことで、社員レベルでのPDCAや5S活動が浸透していきました。この社風は現在も受け継がれており、社員の健康を大事にする「健康経営」の取り組みにも結びついています。
土木建設業の間口を広げるダイバーシティ&インクルージョン
現在の社員数は130名を超え、ベテランの現場スタッフが25人いることも弊社の強みです。しかし少子化により建設業界の人財不足は深刻化しており、弊社も新たな人財の採用に苦労しているところです。後続に技術を教え、地域のインフラを整備し続けるためにも、技術者や現場スタッフ、マネジメント人財をいかに獲得していくかが大きな課題です。弊社では、業界の間口を広げ、より多くの人に土木建設事業に携わっていただけるようにと、会社組織として多様性を受け入れる「ダイバーシティ&インクルージョン」に取り組み、障がいのある方や外国の方も雇用しています。ポジティブな方が多いので、社内は明るく楽しい雰囲気となっています。建設業界というとどうしても男性社会に見られがちですが、弊社では管理職として女性が活躍しています。障がいをもつ社員は、計画や設計図に基づき建設工事にかかる費用を算出する「積算業務」を受け持っており、個性や能力を活かしながら働いています。
また横浜工場では、近隣の障がい者就労生活支援施設に作業を委託しています。作業の委託のきっかけは、ダイバーシティに取り組む経営者の方からの障がい者就労支援についての相談でした。弊社の事業はいずれも危険が伴う現場作業が多いため、通所者の方がけがをしないようにと、コンクリート製造工程のうち、施設内でも取り組めるスペーサーの取り付けをお願いすることにしました。作業の委託をしている就労生活支援施設は横浜工場の近隣にあるので、施設側が弊社工場に材料を取りに来られて、取り付けが終わったら納入してもらっています。スペーサー取り付けの委託を始めてからは4年が経ちますが、施設と連携し、障がいのある方が生きがいをもって働く基盤を地域の中に創出できたことを嬉しく思っています。性別や国籍を問わず精一杯仕事に取り組める環境をつくり、フォローし合えるチームワークの良さ、懐の深さが弊社の強みだと思います。
地域の雇用を守り土木事業者の未来を育てる
77期現在の売上は間もなく30億円程度ではありますが、営業利益にこだわった仕組づくり等3代目経営者としての役割は果たせたと思っています。今後は、後続が安心して弊社を引き継ぎ、発展させていけるように、100周年には売上100億円を達成できるよう計画を策定中です。売上100億円達成のためには、事業拡大と担い手となる人財の育成が必要であり、後継者不在でお困りの会社様の事業を承継することで、雇用の受け皿になりながら、弊社の事業も充実させていきたいと考えています。
今後弊社では、人財が不足している土木事業で人を育てていきたいと思っています。特に、公共事業に携わっている事業者様は小規模のところが多く、人や技術が引き継がれないまま廃業となってしまうことは地域にとっても大きな損失となってしまいます。各エリアに根づく事業者様との協業や事業の引き継ぎにより、社内に新たな風を入れ、エリア拡大によって神奈川県横浜市や東京都をカバーできるようになっていきたい考えです。地域によっては、現場の段取りやお客様のニーズが異なるため、地元の事業者様の知見が得られればスムーズなエリア展開ができると予測しています。協業先との現場の行き来ができれば、現場作業のスピードアップにもなり、新たな案件にも繋がる可能性が生まれるはずです。高齢化や後継者不足で悩む事業者様のお役に立てればと思っています。
戦後の街づくりを支えたセメント運送とコンクリート二次製品
私の祖父が1935年に神奈川県川崎市で創業した弊社は、当初は「岡村組」という屋号で運送業を行っていたと聞いています。創業から6年後には第二次世界大戦が始まり、軍需工場が集中していた川崎市は、空襲を受け、多くの建物が破壊されました。終戦後の復興期には、川崎市は焼野原から工業都市への再スタートを切り、耐震・耐火に優れた頑丈な建材としてコンクリート構造物の需要が高まっていきました。運送業をしていた岡村組でも、コンクリートの素材となるセメントを工場から都内の建設現場に運ぶ機会が多くなっていったそうです。復興が進むにつれて運送事業のニーズはさらに高まり、1947年には株式会社岡村組として法人化できるまでに成長していきました。
初代から家業を引き継いだ2代目の父は、得意先であった第一セメント株式会社(現株式会社デイ・シイ)との縁を活かし、1964年に横浜工場を設けて、セメントを活用したコンクリート二次製品の製造事業を開始しました。2代目は運送業の傍らコンクリート二次製品の製造にも力を入れ、関連事業である土木事業者との縁が深まったことで道路の排水に使用されるコンクリート製のU字溝や、L型側溝の製造をスタートし、土木工事業にも進出しました。
1967年には、岡村建興株式会社へと組織変更をして、川崎市内を中心とした公道の舗装工事や上下水道工事などの公共工事も手がけるようになりました。公道の工事は地域の社会資本を支える大事な仕事です。建設関連業者の中でも、電気や鋼管といった専門分野に特化した業者との連携に努めることで、多方面から工事の引き合いを受けるようになり、安定的な収益を得られるようになっていきました。事業を発展させることができた2代目経営陣の手腕には、未だに敵わないと思っています。
工場新設に投入した借入金7億円をわずか3年ほどで返済
その後、営業で大手ゼネコンの大成建設株式会社を訪問した2代目は、担当者から「住宅建築用のコンクリートパネルを製造できる工場が見つからず困っている」という相談を受けました。コンクリート建築は、かつて官公庁や公共施設、事業所といった拠点に多く用いられていましたが、2代目が相談を受けた頃には一般の住宅にも普及が進み、人口増加により多くの需要がありました。事業の安定化や拡大を見込んだ2代目は、1974年に埼玉県児玉郡に本庄工場を構えて、コンクリート住宅「パルコン」の製造を開始しました。コンクリート住宅部材を製造する本庄工場の建設には、当時の年間売上と同額の7億円もの資金が必要であり、金融機関から巨額の借り入れをすることとなりました。ところがその矢先にオイルショックが起こり、工事現場では鉄骨などの値段が2週間で倍以上になり、建材が手に入りにくかったと聞いています。工場操業後は順調に推移し、工場建築の借入金7億円はわずか3年ほどで完済できたそうです。2代目にとっては非常に辛く苦しい時期だったと思いますが、国の経済成長や人口増加といった好機に恵まれ、危機を乗り切ることができました。また当時、パルコンを使った住宅は、規格型のシンプルな間取りのものがほとんどであり、同型のコンクリートパネルを効率よく生産できる体制づくりができていたことも業績回復の要因の一つだったのだろうと思います。
その後2代目は事業所ごとに事業を振り分け、川崎市の本社は現在の主力事業である土木工事業、重機工事業、産廃収集運搬業、横浜工場は道路用のコンクリート二次製品製造、本庄事業所は「パルコン」を中心とした住宅用コンクリート部材の製造として、事業所ごとに特色を深めていきました。
広告代理店から家業に転職し、ものづくりの現場から経営を学ぶ
2代目は私にとって、スポーツから会社経営まで何でもできる自慢の父であり、子ども心に「格好いい」と思っていました。2代目は家庭でもよく会社の話をしていましたが、万能な父だからこそ会社を経営できるのであり、自分にはできないだろうと思い込んでいました。学生時代は流通やプロモーションに興味を持ち始めたことをきっかけに、大学ではマーケティングを専攻して、広告代理店に就職しました。
仕事も楽しくなり自信もついた社会人5年目の頃には、結婚をきっかけに長男としての立場を意識するようになり、弊社への入社を考えるようになりました。私と弟が幼い頃に父から「2人が一緒にここで仕事をしてくれたら、こんなに嬉しいことはない」と言われたことがずっと心の中に残っていたからかもしれません。いずれ家業を引き継ぐのであれば入社は早い方がいいだろうとも思い、実家へ戻ることを決意しました。
1989年に一般の社員として入社してからは、2代目の片腕だった常務のもとでカバン持ちをしながら、工場の生産現場で経験を積みました。今は亡き常務が常駐していた本庄工場では、コンクリート住宅「パルコン」製造しており、常務の指示に従いながら製品や業界の理解を深めていきました。形ある製品を自分の手でつくり上げることは初めてであり、常務の教えを通じてものづくりの奥深さを知ることができました。業務の傍ら、工場生産を行う他社に見学に行かせてもらったり、埼玉県産業振興公社で6カ月ほどの研修を受けたりすることで、経営者としての視野を広げていきました。
会計学のリスキリングと社内刷新により経営者としての素養を養う
本庄工場で業務を中心に学びながら、会社の数字部分を理解するため総務部に所属し、経理についても同時に学び始めました。大学では会計学の授業を受けていたものの、あまり得意ではなく、知識を再習得し業務として実践していくうちに、財務会計の仕組みが理解できるようになり、面白く感じるようになりました。現場の技術者や職人は、現場経験により工事台帳に記載されている金額だけで工事の進捗まで理解できるようですが、経験の浅い私にとっては、経理が現場の動向を知るための手がかりとなりました。財務会計のリスキリング(スキルや知識の再習得)は、経営者になった今も、業績の可視化や適切な原価予測などにとても役に立っています。
入社から6年後、34歳の時には役員に就任しました。弊社は長い歴史がある分、不便を感じながらもルーティンになってしまっていた部分があり、経理事務の合理化や会社案内を作り直すなど、少しずつ社内の刷新を行っていきました。そのうち社員から少しずつ社内環境の改善について声が上がり始め、社員の働きやすい環境づくりへも考えが及ぶようになっていきました。役員を6年間務め、2001年40歳の時に、社長に就任しました。
社内改革に成功
バブル崩壊以降は、建設投資額が減少した影響で業界全体が低迷し、弊社も取引先からの受注数が減り続けていったことで経営不振が続くようになりました。ある程度の経営基盤は2代目が整えてくれていたものの、それでも実質的にはマイナスからのスタートでした。
2013年には、業績不振から脱却するため、専門家の指導のもと、まずは経営体質の改善を掲げてコストダウンに向けた現実的な経営計画と、管理会計に力を入れました。例えば土木工事業では、お客様の意向や現場の都合により工事開始予定日前に施工に入ってしまうことがあり、いわゆるどんぶり勘定の会社も多くありました。個人事業から出発した弊社も、当時は内部統制が行き届いていなかった部分があり、ステークホルダーからの信頼を得ていくためにも体質を見直し、社内の変革へと踏み切ることにしました。3カ月先を予測した計画を立て、予算や工期計画の際には必ず会議を開き、管理者と施工者間の報連相を徹底して、計画の誤差をなくすよう努力しました。また「利益」についても原価をどこまで含むのかさえ曖昧だったため、「営業利益」の改善を目標に定めて、社内の意識統一を行っていきました。
営業利益の目標達成に向けて社員が団結して取り組めるようになってからは、目標数字を達成できるようになりました。土木工事だけではなく、コンクリート製造事業の方でも内部改革が進み、一品ごとの原価や利益率が一目でわかる管理システムを構築して運用できるまでになりました。この期間は、苦しい毎日でしたが、今残っている社員は辛い時期を一緒に戦ってくれた方々ばかりであり、経営改善を経て会社全体の団結力が深まったと思います。支えてくれる仲間がいることのありがたさを実感するとともに、社内改革を急速に進めることができた大事な時期でもあったと思います。
経営理念に込めた社会的使命の意識
現在の弊社の事業は、コンクリート製品の製造と土木、建設残土や産業廃棄物の運搬の3事業が中心となっています。道路の舗装、上下水道工事、景観工事などの公共工事や、建築用のコンクリート部材の製造を通じて街づくりに携わっている弊社は、地域社会に対して大きな責任があると理解しています。
人の暮らしを支える事業を続けていく上では、社員一人ひとりが、自分の仕事や会社の事業が社会にどのような影響を与えているかという意識を持ち続けていくことが大切だと思っています。社員の考えや行動の指針とするため、弊社では「エンドユーザーを意識したものづくり」という経営理念を定めています。弊社が製造する建築用コンクリート部材は、住宅を購入された施主様が家族とともに暮らす生活の場そのものであり、土木工事や道路用コンクリート製品の提供は地域全体のインフラを支える重要な役割を担っており、不良品や事故は許されません。発注先である行政やハウスメーカーが良しとした場合でも、エンドユーザーである地域の方々や施主様の安全安心を追求し続けようとする強い使命感を持ち、内省と改善を続けていってほしいと思っています。
弊社の理念については、入社前の説明会や面接の際にも必ず説明し、朝礼や全国安全週間などの活動強化期間の際にも、挨拶の中で3つのビジョンのうちいずれかを取り上げ、伝えるようにしています。社内改革を機に、社員一人ひとりが地域社会とお客様をより意識し、必要とされる喜びと誇りを持って仕事をするようになりました。理念の浸透を実感するとともに、社員も成長しており、頼もしく思っています。
全社員が理念や方針を共有し理解を深めていくためには、社員をまとめる管理職のマネジメントが重要であり、管理職の社員にはマネジメント理論を学べるセミナーを必ず受講してもらうようにしています。私自身も何度も受講しており、社員が動機付けられた内容について20分ほど話し合う機会を設けて、セミナーの学びを、考えや行動で実践するきっかけづくりとしています。
また弊社では、全事業所で、計画、実行、評価、改善を繰り返すPDCAサイクルに基づいたTQM活動や、整理・整頓・清掃・清潔・しつけの5S活動が根づいており、特徴となっています。弊社は運送業からスタートしましたが、比較的早い時期にコンクリート製品製造や土木といった別事業が加わったことで、社員レベルでのPDCAや5S活動が浸透していきました。この社風は現在も受け継がれており、社員の健康を大事にする「健康経営」の取り組みにも結びついています。
土木建設業の間口を広げるダイバーシティ&インクルージョン
現在の社員数は130名を超え、ベテランの現場スタッフが25人いることも弊社の強みです。しかし少子化により建設業界の人財不足は深刻化しており、弊社も新たな人財の採用に苦労しているところです。後続に技術を教え、地域のインフラを整備し続けるためにも、技術者や現場スタッフ、マネジメント人財をいかに獲得していくかが大きな課題です。弊社では、業界の間口を広げ、より多くの人に土木建設事業に携わっていただけるようにと、会社組織として多様性を受け入れる「ダイバーシティ&インクルージョン」に取り組み、障がいのある方や外国の方も雇用しています。ポジティブな方が多いので、社内は明るく楽しい雰囲気となっています。建設業界というとどうしても男性社会に見られがちですが、弊社では管理職として女性が活躍しています。障がいをもつ社員は、計画や設計図に基づき建設工事にかかる費用を算出する「積算業務」を受け持っており、個性や能力を活かしながら働いています。
また横浜工場では、近隣の障がい者就労生活支援施設に作業を委託しています。作業の委託のきっかけは、ダイバーシティに取り組む経営者の方からの障がい者就労支援についての相談でした。弊社の事業はいずれも危険が伴う現場作業が多いため、通所者の方がけがをしないようにと、コンクリート製造工程のうち、施設内でも取り組めるスペーサーの取り付けをお願いすることにしました。作業の委託をしている就労生活支援施設は横浜工場の近隣にあるので、施設側が弊社工場に材料を取りに来られて、取り付けが終わったら納入してもらっています。スペーサー取り付けの委託を始めてからは4年が経ちますが、施設と連携し、障がいのある方が生きがいをもって働く基盤を地域の中に創出できたことを嬉しく思っています。性別や国籍を問わず精一杯仕事に取り組める環境をつくり、フォローし合えるチームワークの良さ、懐の深さが弊社の強みだと思います。
地域の雇用を守り土木事業者の未来を育てる
77期現在の売上は間もなく30億円程度ではありますが、営業利益にこだわった仕組づくり等3代目経営者としての役割は果たせたと思っています。今後は、後続が安心して弊社を引き継ぎ、発展させていけるように、100周年には売上100億円を達成できるよう計画を策定中です。売上100億円達成のためには、事業拡大と担い手となる人財の育成が必要であり、後継者不在でお困りの会社様の事業を承継することで、雇用の受け皿になりながら、弊社の事業も充実させていきたいと考えています。
今後弊社では、人財が不足している土木事業で人を育てていきたいと思っています。特に、公共事業に携わっている事業者様は小規模のところが多く、人や技術が引き継がれないまま廃業となってしまうことは地域にとっても大きな損失となってしまいます。各エリアに根づく事業者様との協業や事業の引き継ぎにより、社内に新たな風を入れ、エリア拡大によって神奈川県横浜市や東京都をカバーできるようになっていきたい考えです。地域によっては、現場の段取りやお客様のニーズが異なるため、地元の事業者様の知見が得られればスムーズなエリア展開ができると予測しています。協業先との現場の行き来ができれば、現場作業のスピードアップにもなり、新たな案件にも繋がる可能性が生まれるはずです。高齢化や後継者不足で悩む事業者様のお役に立てればと思っています。
ツグナラコンサルタントによる紹介
戦後間もない1947年創業の老舗企業様です。「豊かで住みよい街づくり」をテーマに、エンドユーザーを意識した事業を展開しています。サステナビリティやダイバーシティなど、時代に応じた社会課題についても、社員の皆様が一丸となって取り組んでいます。
会社概要
社名 | 岡村建興株式会社 |
創立年 | 1947年 |
代表者名 | 代表取締役社長 岡村 清孝 |
資本金 | 5962万円 |
事業エリア |
本社事業所(工事部・機工部)
210-0852 神奈川県川崎市川崎区鋼管通4-5-3 044-344-5441 |
横浜事業所(製品部横浜工場)
241-0005 神奈川県横浜市旭区白根7-12-1 045-951-2921 |
|
本庄事業所(住宅部本庄工場)
367-0108 埼玉県児玉郡美里町下児玉1095 0495-76-1211 |
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小倉モータープール 残土受入れセンター(御幸営業所)
212-0054 神奈川県川崎市幸区小倉3-23-20 044-588-4642 |
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本社住所 |
210-0852 神奈川県川崎市川崎区鋼管通4-5-3 044-344-5441 |
事業内容 | 土木工事・舗装工事・水道施設工事・解体工事 とび・土工工事・石工事・しゆんせつ工事・電気工事 建設用重機械工事・産業廃棄物収集運搬 残土受入れ 一般区域貨物自動車運送 コンクリート二次製品(道路用・公共下水道用品)の製造・販売 コンクリート個人住宅「パルコン」製造販売 建築用コンクリート部材の製造 SMD-70(コンクリート型枠剥離剤)の販売 |
URL |
https://okamurakenkoh.jp/
|
会社沿革
1935年 | 岡村組、神奈川県川崎市川崎区において創業 |
1947年 | 株式会社岡村組誕生 |
1964年 | 横浜工場(製品部)建設 コンクリート二次製品製造 |
1965年 | 横浜工場、JIS(日本工業規格)マーク 表示許可 |
1967年 | 株式会社岡村組から岡村建興株式会社に組織変更 資本金2000万円 |
1974年 | 本庄工場(住宅部)建設 建設省認定工場 大成建設(株)指定工場 |
1991年 | 本庄工場、通産省品質管理優良認定工場となる/資本金5,500万円 |
1993年 | 資本金5,962万円 |
1996年 | 建設機械リース部門稼動 |
1997年 | JISの改正により横浜工場日本工業規格表示認定工場と呼称変更 |
1999年 | リース部門別会社(株)コンファックスとして独立 |
2001年 | 本社 現社屋竣工 本庄工場パルコンISO-9002認証取得 水道用品販売事業拠点、「建材営業部門として」川越営業所、美里営業所開設 |
2003年 | 本庄工場パルコンISO-9001認証取得 |
2005年 | 本社事業所ISO-9001認証取得 |
2008年 | 横浜工場新JIS認証取得 |
2013年 | 建材営業部廃止 |
2021年 | プレ協認定(N認定)JPA-NJ2109取得 |
2022年 | かわさきSDGsゴールドパートナー認証取得 |
岡村建興株式会社の経営資源引継ぎ募集情報
公開日:2023/08/08 (2023/08/09修正)
※本記事の内容および所属名称は2023年8月現在のものです。現在の情報とは異なる場合があります。