川崎市中原
川崎市
引継ぎ実績あり
心を込めた「ねじ切り」「切削加工」を得意とするものづくり企業
株式会社 ナベセイ
逆境を乗り越える良縁を引き寄せた技術者としての姿勢とプライド
経営理念
自らが考え、発信できる新しい町工場のカタチを作る
代表者メッセージ
弊社は1958年の創業以来、親子3世代、半世紀以上に渡り、プレス製品を中心とした部品のタップ加工を主に行ってきました。
2013年に川崎市中原区宮内にある幸伸精機製作所を引継いだことをきっかけに、金属の切削加工も手掛けるようになり、その後、メイン事業へと転換していきました。
2022年には、社名を「株式会社ナベセイ」に変更し、さらなる成長を目指しています。
これからのナベセイは、これまでの歴史とノウハウを大切に受け継ぎながらも、自らが考え、発信できるような、新しい町工場のカタチを作っていくことが目標です。
代表取締役 渡邉 敬太
私たちのこだわり
ねじ切り加工の家内工業から事業をスタート
株式会社ナベセイのルーツは、私の祖父が1958年に立ち上げた渡邉製作所です。祖父は、新潟で食用油を作る事業を営んでいましたが、戦後に廃業せざるを得なくなり、ちゃぶ台ひとつで家族で東京に移住しました。東京で光学レンズを作る会社に勤め、その時に出会った先輩が独立してプレス事業を始めたのをきっかけに、祖父も独立してプレスで製作した製品にねじ切り加工を施す事業を立ち上げたと聞いています。
その後、祖父は川崎市へと拠点を移し、1985年に父が後を継いだタイミングで法人化し、有限会社渡辺製作所を設立しました。会社といっても、当時は木造2階建ての住まいの土間に機械を置き、深夜遅くまで作業をするような小さな工場です。そのため、私は、機械の音を子守唄にして育ちました。
会社員を辞めて家業に入った途端に唯一の取引先が倒産
私は、両親の希望で中学・高校・大学まで一貫教育を行う都内の私立校に通いました。バイクが好きで、バイクの購入や改造の費用を稼ぐため、高校時代は様々なアルバイトに励んでいました。アルバイトの現場では、若くして家庭を持ち、汗水を流して働いている少し年上の職人さんたちの姿が格好よく見えて、大学へは進学せずに就職したいと考えるようになりました。そして、高校卒業後は地元の自動車会社に就職して寮に入り、エンジン組み立てのライン作業に従事していました。
就職して8年目の26歳の時に父親が病気になり、余命宣告を受けるという大きな転機が訪れました。私が家業を継がなければという思いで、慌てて会社に辞表を出し、家業に入ることにしました。病床の父親に報告すると、喜ぶかと思いきや、逆に激怒されました。
その理由は、唯一にして最大の取引先が倒産危機に陥っており、弊社の先行きも非常に厳しい状態にあったからでした。当時の弊社は、その1社を通じた大手企業の孫請けに依存していました。景気が良かった頃は、受注も多く、パート社員も最大15人ほど雇用していて、家にも高級外車が2台あったほどです。しかし、私が家業に入る決意をした時には、パート社員がは5人ほどに減っていて、経営状態も厳しいものがありました。それからしばらくして、父親は亡くなり、経営危機にあった取引先も倒産しました。私は、入社直後に仕事がゼロになるという事態に直面したのです。
地道な実績の積み上げで窮地を脱した矢先のリーマンショック
父が亡くなった後、経理を担当していた母親が代表に就任しましたが、経営および実務は全て、専務取締役に就任した私が行うことになりました。しかし、唯一の取引先が倒産したため、やるべき仕事がありませんでした。運転資金は減っていく一方で、父が残した2台の外車を売却して当座をしのぎました。それからは毎日、名刺を持って様々な工場へ飛び込みの営業を行いましたが、全く相手にしてもらえませんでした。「何のために新卒で入った会社を辞めたんだろう」と、後悔したことは一度や二度ではありません。
そんな時、父親の知人が訪ねてきて、小さな仕事を発注してくれるようになりました。時には一筋縄でいかない難しい案件もありましたが、とにかく会社を潰したくないとの思いで必死で取り組みました。当時の弊社は、技術者が私しかおらず、相談する人もいなければ、仕事を教えてくれる人もいませんでした。父親がやり残していた作業や切り屑などを観察しながら、独学でねじ切り加工を学ぶ日々が続きました。ノウハウやコツを知らずに進めたため、多くの不良品を作りながら、ずいぶんと回り道をして仕事を覚えていきました。
しばらくは売上が月に100万円足らずの状態でしたが、2~3年ほど経って売上は月に200万円ほどに増えました。受注には波があり、不安定だった時期もありましたが、少量でも単価が高い仕事を積極的に受けるようになってからは経営も安定していき、パート社員を継続雇用することができました。
ところが、2008年、今度はリーマンショックのあおりを受け、再び仕事が無くなってしまいました。そのため、家業と運送業のアルバイトとのダブルワークを2年ほど続けて、しのぎきりました。
後継者不在に悩む旋盤工場の事業承継が転機に
弊社の転機は、旋盤工場の事業承継を行ったことです。リーマンショックによる影響から立ち直り、ようやく事業が軌道に乗り、余裕が生まれるようになった2013年に後継者問題を抱える旋盤工場を引継ぎました。当時、弊社の工場に金属屑を定期的に回収に来るスクラップ業者の方がおり、その方の紹介で実現しました。紹介と言っても少々乱暴なもので、その業者さんが突然工場に現れ「宮内(川崎市中原区)にある旋盤工場の社長が引退するから、今すぐ宮内へ行って引き継げ、失敗したら俺が面倒を見てやるから」と半ば命令のように告げられたのがきっかけです。
あまりの急な話に混乱したまま、半信半疑で赴いた先は、80歳を越えた高齢のおじいさんが1人で経営するボロボロの工場でした。おじいさんに「旋盤は未経験だ」と伝えると「話にならない」とその場で断られましたが、その言葉に対して反射的に「教えてください」と言っており、約3か月間、弟子入りして、旋盤技術をゼロから教えてもらいました。その3か月間で信頼関係ができ、「大事にしてきた旋盤機械を処分するなら、きちんと使ってくれる君に託したい」という話になり、事業と旋盤機械を引継ぎました。
この事業承継をきっかけに、ねじ切りだけでなく、金属の切削加工までに担えるようになり、事業領域を広げることができました。さらに数年後には、メイン事業をねじ切りから金属切削へと転換していきました。
最初の3年間は、私が1人で金属切削の加工を行いました。初めて作った切削製品は、川崎市のデザインコンペに出品した鉄アレイになります。そこから経験を積み、技術力を高めていったことで、今では半導体や産業機器の部品、一点ものの特殊なパーツなども手掛けるようになりました。人生も会社も、何がきっかけで大きく変わるか、分からないものです。
例のスクラップ業者さんが、なぜ私に白羽の矢を立てたのかは聞けずじまいでしたが、「うちの息子も、君みたいに跡継ぎとして頑張ってくれる働き者だったら良かったのになぁ」と言われたことを覚えています。当時の私は、ただ無我夢中で家業に打ち込んでいただけだったのですが、責任感がある人間だと評価されていたのかもしれません。
出会いがチャンスに変わり新事業が拡大
私の右腕ともいえる存在が、弊社の専務を務める片山です。出会った頃、彼はバイク販売会社のメカニックでした。事業承継したばかりの旋盤工場で、毎日夜遅くまで工場で作業をしていた私のもとへ、お客さまとして部品製作の相談に来てくれたのが出会いです。私も元々バイク好きだったこともあって、意気投合して仲良くなりました。彼に頼まれていた部品が期日に間に合わなかったときは、自ら弊社の機械を動かして手伝ってくれることもあり、見よう見真似で機械の操作をする姿に、技術者としてのセンスの良さを感じていました。
ところが、ある時、突然姿を見せなくなりました。心配になって電話をすると、バイク販売会社を退職したと言うのです。天啓のようなものを感じ、その場でスカウトして、入社してもらうことになりました。私も1人だけで切削加工の仕事をすることに限界を感じていたこともあり、片山の入社は願ってもない絶好のタイミングでもありました。
当時、片山も結婚したばかりで、私は、彼のためにもなんとかして切削の仕事をもっと受注したいと営業に力を入れました。川崎市の工業会や同業の友人にも声をかけ続けたところ、「人手が増えたのなら、ぜひ発注したい」と、次々と仕事がもらえるようになりました。
会社のロゴマークと経営理念に込めた思いは「心」
弊社は、2022年に横浜に新工場を作り、社名の変更を行い、「株式会社ナベセイ」としました。旧社名の有限会社渡辺製作所は、同名の会社が近隣に複数あり、間違えて問い合わせがくることが嫌だったことと、外国の方が発音しにくいということが気になっており、オリジナリティを出しつつ、世界中で親しまれる会社になりたいという思いから変更しました。
経営理念と会社のロゴマークに「ハート」を入れているのは、弊社のこだわりの1つです。ハートは「心」を表現しており、誰かの役に立ちたい、誰かに喜んでもらいたい、世の中のためになるものを作りたい、そういう思いを常に持ち続けながら仕事に取り組んでいこうという思いを込めています。言われたからする、仕事だからするというスタンスで臨むよりも、「ハート」を常に持ち続けて取り組む方が、より良いものができると信じています。
強い町工場集団を作ると共に技術の承継にも注力
弊社は、協同組合高津工友会が発足したものづくりの企業ユニット「タカツクラフト」に所属しています。川崎は、様々な製造業が集積した街です。一つひとつの企業ができることはニッチですが、皆が力を合わせれば、様々なものづくりが実現できます。それを体現しているのがタカツクラフトです。地域に根ざし、自ら考えて発信し、自分たちで仕事を作っていくタカツクラフトは、私が理想とする町工場の形です。弊社には自社製品がないのが長年の課題でしたが、このように、様々なプロフェッショナルが協働するスタイルなら、新しいものづくりのスタイルを確立させていくことも可能です。
これまでの町工場は、元請けである大企業の業績に左右されがちな部分がありました。しかし私は、景気がどうだとか、親会社がどうだとか、他責志向ではなく自らが仕事を作り出していく、強い町工場に皆でなっていきたいと願っています。川崎でものづくりをしている中小企業には、その伸びしろがあるはずです。
また、技術者の育成も私のテーマの1つです。私自身もものづくりの技術者ですが、家業を承継した直後は誰も教えてくれる人がおらず、高い技術とは何かを模索し、追求した経験があります。弊社の社員の中には、国際技能競技大会(技能オリンピック)という技能労働者のスキルを競う国際大会に出場する人間もいます。高い技術を持っている人には、その立ち居振る舞いでピンとくるものを感じることがあります。そのような優秀な技術者と接し続けてきた結果、本質的な技術の承継とは、マニュアルではなく、現場で培われるものだと確信しています。そこで、あえて昭和の機械だけを置いた工場を作り、繊細な手加工を「見て覚え、盗む」ことができる環境を作っています。
川崎のものづくり企業として、製造業を次世代に承継したい
川崎市には、多くの意欲あふれるものづくり企業が集結しています。これらの企業の技術力や地域の雇用などを私たちの世代で絶やしてしまうようなことはあってはならないと考えています。しかし、弊社のような中小企業1社で出来ることには限りがあることも事実です。製造業界全体として、どういった形で中小企業の新たな連携体を構築していくのがベストなのか、突き詰めて考えていくことが、川崎に存在する中小企業の経営者としての使命だと思っています。繰り返しになりますが、川崎には多くの製造業が集積しており、各社の連携を図っています。川崎以外のエリアでも、製造業で後継者不在でお困りの方がいらっしゃれば、いつでもご相談ください。川崎のものづくり企業の団結力で解決できることも多いと信じています。
ねじ切り加工の家内工業から事業をスタート
株式会社ナベセイのルーツは、私の祖父が1958年に立ち上げた渡邉製作所です。祖父は、新潟で食用油を作る事業を営んでいましたが、戦後に廃業せざるを得なくなり、ちゃぶ台ひとつで家族で東京に移住しました。東京で光学レンズを作る会社に勤め、その時に出会った先輩が独立してプレス事業を始めたのをきっかけに、祖父も独立してプレスで製作した製品にねじ切り加工を施す事業を立ち上げたと聞いています。
その後、祖父は川崎市へと拠点を移し、1985年に父が後を継いだタイミングで法人化し、有限会社渡辺製作所を設立しました。会社といっても、当時は木造2階建ての住まいの土間に機械を置き、深夜遅くまで作業をするような小さな工場です。そのため、私は、機械の音を子守唄にして育ちました。
会社員を辞めて家業に入った途端に唯一の取引先が倒産
私は、両親の希望で中学・高校・大学まで一貫教育を行う都内の私立校に通いました。バイクが好きで、バイクの購入や改造の費用を稼ぐため、高校時代は様々なアルバイトに励んでいました。アルバイトの現場では、若くして家庭を持ち、汗水を流して働いている少し年上の職人さんたちの姿が格好よく見えて、大学へは進学せずに就職したいと考えるようになりました。そして、高校卒業後は地元の自動車会社に就職して寮に入り、エンジン組み立てのライン作業に従事していました。
就職して8年目の26歳の時に父親が病気になり、余命宣告を受けるという大きな転機が訪れました。私が家業を継がなければという思いで、慌てて会社に辞表を出し、家業に入ることにしました。病床の父親に報告すると、喜ぶかと思いきや、逆に激怒されました。
その理由は、唯一にして最大の取引先が倒産危機に陥っており、弊社の先行きも非常に厳しい状態にあったからでした。当時の弊社は、その1社を通じた大手企業の孫請けに依存していました。景気が良かった頃は、受注も多く、パート社員も最大15人ほど雇用していて、家にも高級外車が2台あったほどです。しかし、私が家業に入る決意をした時には、パート社員がは5人ほどに減っていて、経営状態も厳しいものがありました。それからしばらくして、父親は亡くなり、経営危機にあった取引先も倒産しました。私は、入社直後に仕事がゼロになるという事態に直面したのです。
地道な実績の積み上げで窮地を脱した矢先のリーマンショック
父が亡くなった後、経理を担当していた母親が代表に就任しましたが、経営および実務は全て、専務取締役に就任した私が行うことになりました。しかし、唯一の取引先が倒産したため、やるべき仕事がありませんでした。運転資金は減っていく一方で、父が残した2台の外車を売却して当座をしのぎました。それからは毎日、名刺を持って様々な工場へ飛び込みの営業を行いましたが、全く相手にしてもらえませんでした。「何のために新卒で入った会社を辞めたんだろう」と、後悔したことは一度や二度ではありません。
そんな時、父親の知人が訪ねてきて、小さな仕事を発注してくれるようになりました。時には一筋縄でいかない難しい案件もありましたが、とにかく会社を潰したくないとの思いで必死で取り組みました。当時の弊社は、技術者が私しかおらず、相談する人もいなければ、仕事を教えてくれる人もいませんでした。父親がやり残していた作業や切り屑などを観察しながら、独学でねじ切り加工を学ぶ日々が続きました。ノウハウやコツを知らずに進めたため、多くの不良品を作りながら、ずいぶんと回り道をして仕事を覚えていきました。
しばらくは売上が月に100万円足らずの状態でしたが、2~3年ほど経って売上は月に200万円ほどに増えました。受注には波があり、不安定だった時期もありましたが、少量でも単価が高い仕事を積極的に受けるようになってからは経営も安定していき、パート社員を継続雇用することができました。
ところが、2008年、今度はリーマンショックのあおりを受け、再び仕事が無くなってしまいました。そのため、家業と運送業のアルバイトとのダブルワークを2年ほど続けて、しのぎきりました。
後継者不在に悩む旋盤工場の事業承継が転機に
弊社の転機は、旋盤工場の事業承継を行ったことです。リーマンショックによる影響から立ち直り、ようやく事業が軌道に乗り、余裕が生まれるようになった2013年に後継者問題を抱える旋盤工場を引継ぎました。当時、弊社の工場に金属屑を定期的に回収に来るスクラップ業者の方がおり、その方の紹介で実現しました。紹介と言っても少々乱暴なもので、その業者さんが突然工場に現れ「宮内(川崎市中原区)にある旋盤工場の社長が引退するから、今すぐ宮内へ行って引き継げ、失敗したら俺が面倒を見てやるから」と半ば命令のように告げられたのがきっかけです。
あまりの急な話に混乱したまま、半信半疑で赴いた先は、80歳を越えた高齢のおじいさんが1人で経営するボロボロの工場でした。おじいさんに「旋盤は未経験だ」と伝えると「話にならない」とその場で断られましたが、その言葉に対して反射的に「教えてください」と言っており、約3か月間、弟子入りして、旋盤技術をゼロから教えてもらいました。その3か月間で信頼関係ができ、「大事にしてきた旋盤機械を処分するなら、きちんと使ってくれる君に託したい」という話になり、事業と旋盤機械を引継ぎました。
この事業承継をきっかけに、ねじ切りだけでなく、金属の切削加工までに担えるようになり、事業領域を広げることができました。さらに数年後には、メイン事業をねじ切りから金属切削へと転換していきました。
最初の3年間は、私が1人で金属切削の加工を行いました。初めて作った切削製品は、川崎市のデザインコンペに出品した鉄アレイになります。そこから経験を積み、技術力を高めていったことで、今では半導体や産業機器の部品、一点ものの特殊なパーツなども手掛けるようになりました。人生も会社も、何がきっかけで大きく変わるか、分からないものです。
例のスクラップ業者さんが、なぜ私に白羽の矢を立てたのかは聞けずじまいでしたが、「うちの息子も、君みたいに跡継ぎとして頑張ってくれる働き者だったら良かったのになぁ」と言われたことを覚えています。当時の私は、ただ無我夢中で家業に打ち込んでいただけだったのですが、責任感がある人間だと評価されていたのかもしれません。
出会いがチャンスに変わり新事業が拡大
私の右腕ともいえる存在が、弊社の専務を務める片山です。出会った頃、彼はバイク販売会社のメカニックでした。事業承継したばかりの旋盤工場で、毎日夜遅くまで工場で作業をしていた私のもとへ、お客さまとして部品製作の相談に来てくれたのが出会いです。私も元々バイク好きだったこともあって、意気投合して仲良くなりました。彼に頼まれていた部品が期日に間に合わなかったときは、自ら弊社の機械を動かして手伝ってくれることもあり、見よう見真似で機械の操作をする姿に、技術者としてのセンスの良さを感じていました。
ところが、ある時、突然姿を見せなくなりました。心配になって電話をすると、バイク販売会社を退職したと言うのです。天啓のようなものを感じ、その場でスカウトして、入社してもらうことになりました。私も1人だけで切削加工の仕事をすることに限界を感じていたこともあり、片山の入社は願ってもない絶好のタイミングでもありました。
当時、片山も結婚したばかりで、私は、彼のためにもなんとかして切削の仕事をもっと受注したいと営業に力を入れました。川崎市の工業会や同業の友人にも声をかけ続けたところ、「人手が増えたのなら、ぜひ発注したい」と、次々と仕事がもらえるようになりました。
会社のロゴマークと経営理念に込めた思いは「心」
弊社は、2022年に横浜に新工場を作り、社名の変更を行い、「株式会社ナベセイ」としました。旧社名の有限会社渡辺製作所は、同名の会社が近隣に複数あり、間違えて問い合わせがくることが嫌だったことと、外国の方が発音しにくいということが気になっており、オリジナリティを出しつつ、世界中で親しまれる会社になりたいという思いから変更しました。
経営理念と会社のロゴマークに「ハート」を入れているのは、弊社のこだわりの1つです。ハートは「心」を表現しており、誰かの役に立ちたい、誰かに喜んでもらいたい、世の中のためになるものを作りたい、そういう思いを常に持ち続けながら仕事に取り組んでいこうという思いを込めています。言われたからする、仕事だからするというスタンスで臨むよりも、「ハート」を常に持ち続けて取り組む方が、より良いものができると信じています。
強い町工場集団を作ると共に技術の承継にも注力
弊社は、協同組合高津工友会が発足したものづくりの企業ユニット「タカツクラフト」に所属しています。川崎は、様々な製造業が集積した街です。一つひとつの企業ができることはニッチですが、皆が力を合わせれば、様々なものづくりが実現できます。それを体現しているのがタカツクラフトです。地域に根ざし、自ら考えて発信し、自分たちで仕事を作っていくタカツクラフトは、私が理想とする町工場の形です。弊社には自社製品がないのが長年の課題でしたが、このように、様々なプロフェッショナルが協働するスタイルなら、新しいものづくりのスタイルを確立させていくことも可能です。
これまでの町工場は、元請けである大企業の業績に左右されがちな部分がありました。しかし私は、景気がどうだとか、親会社がどうだとか、他責志向ではなく自らが仕事を作り出していく、強い町工場に皆でなっていきたいと願っています。川崎でものづくりをしている中小企業には、その伸びしろがあるはずです。
また、技術者の育成も私のテーマの1つです。私自身もものづくりの技術者ですが、家業を承継した直後は誰も教えてくれる人がおらず、高い技術とは何かを模索し、追求した経験があります。弊社の社員の中には、国際技能競技大会(技能オリンピック)という技能労働者のスキルを競う国際大会に出場する人間もいます。高い技術を持っている人には、その立ち居振る舞いでピンとくるものを感じることがあります。そのような優秀な技術者と接し続けてきた結果、本質的な技術の承継とは、マニュアルではなく、現場で培われるものだと確信しています。そこで、あえて昭和の機械だけを置いた工場を作り、繊細な手加工を「見て覚え、盗む」ことができる環境を作っています。
川崎のものづくり企業として、製造業を次世代に承継したい
川崎市には、多くの意欲あふれるものづくり企業が集結しています。これらの企業の技術力や地域の雇用などを私たちの世代で絶やしてしまうようなことはあってはならないと考えています。しかし、弊社のような中小企業1社で出来ることには限りがあることも事実です。製造業界全体として、どういった形で中小企業の新たな連携体を構築していくのがベストなのか、突き詰めて考えていくことが、川崎に存在する中小企業の経営者としての使命だと思っています。繰り返しになりますが、川崎には多くの製造業が集積しており、各社の連携を図っています。川崎以外のエリアでも、製造業で後継者不在でお困りの方がいらっしゃれば、いつでもご相談ください。川崎のものづくり企業の団結力で解決できることも多いと信じています。
ツグナラコンサルタントによる紹介
時代に合わせて進化し続ける、三世代にもわたる町工場です。心をこめた仕事が多くの縁を呼び、新たなチャレンジにも積極的に取り組まれています。川崎市のものづくり企業の連携を推し進める地域づくりにも貢献されている企業様です。
会社概要
社名 | 株式会社 ナベセイ |
創立年 | 1985年 |
代表者名 | 代表取締役 渡邉 敬太 |
資本金 | 1000万円 |
事業エリア |
横浜工場
神奈川県横浜市都筑区東山田町1583 |
本社住所 |
211-0035 神奈川県川崎市中原区井田1-1-26 |
事業内容 | 《本社・川崎工場》 タッピング加工 カシメ加工 穴あけ加工 各種部品組立 《横浜工場》 旋盤加工 マシニング加工 各種機械加工 《協力工場》 プレス加工 板金加工 表面処理 研削 へら絞り加工 放電ワイヤカット 等 |
URL |
https://www.nabesei.jp/
|
会社沿革
1958年 | 初代創立者・渡邉昇が川崎市中原区井田1-1-26に拠点を移し事業を続ける |
1985年 | 有限会社渡辺製作所を設立し2代目代表取締役に渡邉敏康が就任 |
2001年 | 渡邉眞理子が3代目代表取締役に就任 |
2013年 | 川崎市中原区宮内にある有限会社幸伸精機製作所を引継ぎ、弊社第2工場として業務開始 金属切削事業をスタート |
2015年 | 4代目代表取締役に渡邉敬太が就任 |
2020年 | 5軸マシニングセンタ導入 |
2022年 | 横浜市都筑区東山田町1583 に横浜工場を新設 「株式会社ナベセイ」に社名および組織変更 |
株式会社 ナベセイの経営資源引継ぎ募集情報
公開日:2023/09/25
※本記事の内容および所属名称は2023年9月現在のものです。現在の情報とは異なる場合があります。