横浜市金沢
横浜市
人とのつながりを大切に62年。確かな技術を持つ鳶・土工建設会社
目黒建設株式会社
人とのつながりを大切にしてきた会社が目指すサステナブルな経営
経営理念
「信用第一に、常に創造性、計画性、積極性をもって行動する」
技術と技能の向上を図り、「最良の作品」づくりに貢献し、時代をリードする技術と技能・安全に優れた企業を目指します。
代表者メッセージ
「お客様に安心、安全を届けて、サステナブルな社会へ貢献する」
私たちは1960年の創業以来、株式会社竹中工務店の一次下請けとして、東京都および神奈川県の建築工事現場で鳶・土工工事を担当している会社です。
1991年からはPC製作工事も手掛け、複合化工法への取り組みも積極的に進めています。
信用第一に、創造性、計画性、積極性をもって行動することを社是に、
社員一同、社業の発展に努力していく所存です。
取締役会長 目黒 桂三
「人のつながりと縁を重視する経営を目指します」
父である現社長がずっと大切にしてきた人との繋がりは、変わらず引き継いでいきたいと思っております。そして今後は、3D CADやBIM(Building Information Modeling)を使った建築設計分野にも参入していきたい考えです。具体的には3年後の事業化に向けて、体制作りと自分自身の勉強を進めています。そのため、M&Aに関しては、そのような技術、ノウハウ、人財を持った会社がいらっしゃればお話を伺いたいと考えています。引継いだ以上は、会社をさらに成長させていけるように営業力もしっかりと高めていきます。
代表取締役 目黒謙二
私たちのこだわり
飯場を抱え大規模工事を請け負っていた創業時代
創業者の父は、土木会社での勤務を経て、1960年に弊社を創業しました。その翌年には、土木会社勤務からの人脈を活かして株式会社竹中工務店(以下:竹中工務店)から仕事を請け負うようになりました。当時はとにかく大人数の職人が必要だったそうです。一つの現場で100人以上の職人を使わないと現場が回らず、ダンプカーに何人もの職人を乗せて、現場に向かうことは日常茶飯事だったと聞いています。現場の中には、飯場と呼ばれる労働者の宿泊所を抱え、職人を住まわせていました。自宅兼事務所にもなっていたため、子どもの頃から家業を手伝う母親の他に、経理事務のスタッフが2、3名おり、常に自宅に人がいる環境で私は育ちました。
竹中工務店での修業期間を経て事業承継
父には、幼少の頃から「会社はお前が継ぐんだぞ」と言われていたものの、正直に言うと私は事業を継ぎたくはありませんでした。父が本当に厳しい性格で、ついていけるかが心配だったからです。
大学では経営学を専攻していましたが、大学3年生の時に休学し、アメリカへ1年間留学しました。そして、卒業後は父親の縁で、修行を目的に竹中工務店に就職しました。有楽町マリオン(有楽町センタービル)の現場で、解体から竣工まで3年半、竹中工務店の制服を着て、現場で働いたというのが私の会社員時代の思い出になります。このような修行は土木会社にはよくあることで、竹中工務店の若い人たちとのコミュニケーションが密になり、家業の会社に戻った時に連携がとりやすいというメリットがあるからです。そして3年半の竹中工務店での修業期間を経て、1990年に私が家業を継ぐことになりました。
社内人財の技術を評価してもらえることが最大の喜び
私たちは建築工事現場で鳶・土工工事を担当している会社です。PC製作工事も手掛け、複合化工法への取り組みも積極的に進めています。PCとはPrecast Concreteの略で、構造体の一部を工場や現場サイトであらかじめ量産し、現地で組み立てる工法のことです。弊社では、そのPCの製作工事を請け負うことが可能で、そこは強みの1つだと言えます。
加えて、うちの強みは人財だと思っています。お客様から発注していただく際は、弊社の職長を指名した上で弊社を選んでもらっています。会社を指名してくれるということは、職長や、職人さんの技術を評価してもらっていることにつながるので、経営者としては一番誇らしく、うれしい瞬間です。
一方で社内課題として最重要かつ永続的に取り組んでいかなければならないのが、「安全への意識」です。鳶という仕事は建築の中でも非常に危険が伴う仕事なので、安全であることが至上命令です。そこに関しては、とにかくコツコツ現場を回って注意していくなど、積み重ねが大切です。「リスクアセスメント」という言葉がありますが、細かいリスクをどれだけ拾い、リスクに対する対処方法を構築しているかは、非常に重要になってきます。
会社のピンチを救ってくれた人のつながりと事業承継
実は、会社を継いだ時点で3億円という大きな借入がありました。さらに会社を引継いだ1990年はちょうどバブル崩壊時期と重なります。売上が下がるなか、利息を返済するだけでも毎月200万円近くの資金が必要でした。そのため弊社の敷地内にあった職人用の宿舎を全て売却し、借入の返済を最優先しました。それでも返済しきれなかったため、最終的には、世田谷にある関都建設株式会社(以下:関都建設)に株を一部買っていただくことで危機的な状況を脱すことができました。関都建設とはその時のいきさつから業務提携という形でお付き合いが始まりました。
引継ぎ当初の苦境を脱し、弊社の業績が向上するきっかけとなったのは、廃業する同業者の職人を引継いだことでした。この話を持ちかけてくれたのが、当時の竹中工務店の調達部長で、私の竹中工務店修行時代、現場で一緒に仕事をしていた方になります。弊社が職人たちを引き取ったことで商圏や顧客も一緒に引き継ぐ形となり、新たな縁により東京の仕事も入りはじめ、経営的にも売上的にも上向いていきました。
このように弊社の転機となったできごとには、常に人と人とのつながりがあります。これから、弊社がM&Aを検討していく上では、人と人の縁がつながっていく結果として、会社の規模が大きくなればと考えております。特に鳶・土工事などに携る同業種では、経営面や後継者の問題でお悩みの方も多いので、弊社を相談先の1つとしてご検討いただければと思います。
コミュニケーション重視の人のつながりを大切にする会社
現在の弊社では、いわゆるコンクリート土工の職人の老齢化が進んでいます。採用募集はさまざまなメディアを使って行っているものの、若手が入ってきづらい状況です。どうやったら若い人を集められるのか、そこを考えているところになります。
また、社内の教育も整備をしていかなければいけません。廃業する同業者の職人を弊社で受け入れた時も同様でしたが、新しく入ってくる方には社内の色に馴染んでもらうことはとても重要です。その際に大切にしているのが、とにかくコミュニケーションを取ることです。特に会社を引継いだ当初は、現場に赴き、仕事の話から雑談まで私から率先して話せればと思っています。
また、福利厚生の一環になりますが、毎年1回行っている社員旅行も重要なコミュニケーションの場です。協力会社の親方にも参加してもらい、伊豆や草津に行ってきました。今年は飛行機で広島に行こうと話が出ています。社内の人財はもちろんのこと、私たちの仕事は下請けしてくれている協力会社が不可欠なので、今後も継続していきたい社内行事です。
新たな時代への対応としてSDGsへの取り組み、そして他社との差別化を行うために
今後の弊社は、私が3月いっぱいで社長職を退き、4月から2人の息子たちに託していく予定です。双子の次男・謙二には社長職を、長男・悠一には経理周りのことを任せたいと思っております。当初は労働時間などの観点から、息子たちには継がせたくなかったのですが、働き方改革を進めたことで、弊社も働きやすくなっていると感じております。さらに、会社の業績も上向きになってきているので、本人了承の上、会社を任せることにしました。
これからの時代はサステナブルな経営が不可欠だと思っています。息子たちにはその辺りの取り組みも引き継いでほしいと思っております。現在、私自身も勉強を進め、横浜市のSDGs登録認証制度で認定をいただきました。それに伴い、ペーパーレス化の推進、不要になったヘルメットを廃棄せずに再利用する取り組みへの参画を行っています。今後は植物原料を使ったユニフォームの製作も検討しております。社業の発展、継続もさることながら、環境面にも配慮できる会社経営を目指してもらいたいと思っています。
飯場を抱え大規模工事を請け負っていた創業時代
創業者の父は、土木会社での勤務を経て、1960年に弊社を創業しました。その翌年には、土木会社勤務からの人脈を活かして株式会社竹中工務店(以下:竹中工務店)から仕事を請け負うようになりました。当時はとにかく大人数の職人が必要だったそうです。一つの現場で100人以上の職人を使わないと現場が回らず、ダンプカーに何人もの職人を乗せて、現場に向かうことは日常茶飯事だったと聞いています。現場の中には、飯場と呼ばれる労働者の宿泊所を抱え、職人を住まわせていました。自宅兼事務所にもなっていたため、子どもの頃から家業を手伝う母親の他に、経理事務のスタッフが2、3名おり、常に自宅に人がいる環境で私は育ちました。
竹中工務店での修業期間を経て事業承継
父には、幼少の頃から「会社はお前が継ぐんだぞ」と言われていたものの、正直に言うと私は事業を継ぎたくはありませんでした。父が本当に厳しい性格で、ついていけるかが心配だったからです。
大学では経営学を専攻していましたが、大学3年生の時に休学し、アメリカへ1年間留学しました。そして、卒業後は父親の縁で、修行を目的に竹中工務店に就職しました。有楽町マリオン(有楽町センタービル)の現場で、解体から竣工まで3年半、竹中工務店の制服を着て、現場で働いたというのが私の会社員時代の思い出になります。このような修行は土木会社にはよくあることで、竹中工務店の若い人たちとのコミュニケーションが密になり、家業の会社に戻った時に連携がとりやすいというメリットがあるからです。そして3年半の竹中工務店での修業期間を経て、1990年に私が家業を継ぐことになりました。
社内人財の技術を評価してもらえることが最大の喜び
私たちは建築工事現場で鳶・土工工事を担当している会社です。PC製作工事も手掛け、複合化工法への取り組みも積極的に進めています。PCとはPrecast Concreteの略で、構造体の一部を工場や現場サイトであらかじめ量産し、現地で組み立てる工法のことです。弊社では、そのPCの製作工事を請け負うことが可能で、そこは強みの1つだと言えます。
加えて、うちの強みは人財だと思っています。お客様から発注していただく際は、弊社の職長を指名した上で弊社を選んでもらっています。会社を指名してくれるということは、職長や、職人さんの技術を評価してもらっていることにつながるので、経営者としては一番誇らしく、うれしい瞬間です。
一方で社内課題として最重要かつ永続的に取り組んでいかなければならないのが、「安全への意識」です。鳶という仕事は建築の中でも非常に危険が伴う仕事なので、安全であることが至上命令です。そこに関しては、とにかくコツコツ現場を回って注意していくなど、積み重ねが大切です。「リスクアセスメント」という言葉がありますが、細かいリスクをどれだけ拾い、リスクに対する対処方法を構築しているかは、非常に重要になってきます。
会社のピンチを救ってくれた人のつながりと事業承継
実は、会社を継いだ時点で3億円という大きな借入がありました。さらに会社を引継いだ1990年はちょうどバブル崩壊時期と重なります。売上が下がるなか、利息を返済するだけでも毎月200万円近くの資金が必要でした。そのため弊社の敷地内にあった職人用の宿舎を全て売却し、借入の返済を最優先しました。それでも返済しきれなかったため、最終的には、世田谷にある関都建設株式会社(以下:関都建設)に株を一部買っていただくことで危機的な状況を脱すことができました。関都建設とはその時のいきさつから業務提携という形でお付き合いが始まりました。
引継ぎ当初の苦境を脱し、弊社の業績が向上するきっかけとなったのは、廃業する同業者の職人を引継いだことでした。この話を持ちかけてくれたのが、当時の竹中工務店の調達部長で、私の竹中工務店修行時代、現場で一緒に仕事をしていた方になります。弊社が職人たちを引き取ったことで商圏や顧客も一緒に引き継ぐ形となり、新たな縁により東京の仕事も入りはじめ、経営的にも売上的にも上向いていきました。
このように弊社の転機となったできごとには、常に人と人とのつながりがあります。これから、弊社がM&Aを検討していく上では、人と人の縁がつながっていく結果として、会社の規模が大きくなればと考えております。特に鳶・土工事などに携る同業種では、経営面や後継者の問題でお悩みの方も多いので、弊社を相談先の1つとしてご検討いただければと思います。
コミュニケーション重視の人のつながりを大切にする会社
現在の弊社では、いわゆるコンクリート土工の職人の老齢化が進んでいます。採用募集はさまざまなメディアを使って行っているものの、若手が入ってきづらい状況です。どうやったら若い人を集められるのか、そこを考えているところになります。
また、社内の教育も整備をしていかなければいけません。廃業する同業者の職人を弊社で受け入れた時も同様でしたが、新しく入ってくる方には社内の色に馴染んでもらうことはとても重要です。その際に大切にしているのが、とにかくコミュニケーションを取ることです。特に会社を引継いだ当初は、現場に赴き、仕事の話から雑談まで私から率先して話せればと思っています。
また、福利厚生の一環になりますが、毎年1回行っている社員旅行も重要なコミュニケーションの場です。協力会社の親方にも参加してもらい、伊豆や草津に行ってきました。今年は飛行機で広島に行こうと話が出ています。社内の人財はもちろんのこと、私たちの仕事は下請けしてくれている協力会社が不可欠なので、今後も継続していきたい社内行事です。
新たな時代への対応としてSDGsへの取り組み、そして他社との差別化を行うために
今後の弊社は、私が3月いっぱいで社長職を退き、4月から2人の息子たちに託していく予定です。双子の次男・謙二には社長職を、長男・悠一には経理周りのことを任せたいと思っております。当初は労働時間などの観点から、息子たちには継がせたくなかったのですが、働き方改革を進めたことで、弊社も働きやすくなっていると感じております。さらに、会社の業績も上向きになってきているので、本人了承の上、会社を任せることにしました。
これからの時代はサステナブルな経営が不可欠だと思っています。息子たちにはその辺りの取り組みも引き継いでほしいと思っております。現在、私自身も勉強を進め、横浜市のSDGs登録認証制度で認定をいただきました。それに伴い、ペーパーレス化の推進、不要になったヘルメットを廃棄せずに再利用する取り組みへの参画を行っています。今後は植物原料を使ったユニフォームの製作も検討しております。社業の発展、継続もさることながら、環境面にも配慮できる会社経営を目指してもらいたいと思っています。
ツグナラコンサルタントによる紹介
1960年創業。東京都および神奈川県の建築工事現場で鳶・土工工事を担当している企業様です。時代に合わせた技術の向上や、サステナブルな経営を目指していらっしゃいます。人との繋がりや人脈も大切にされており、M&Aについてもお相手のお人柄重視で検討されたいとのご意向です。
会社概要
社名 | 目黒建設株式会社 |
創立年 | 1960年 |
代表者名 | 代表取締役 目黒 謙二 |
資本金 | 4000万円 |
本社住所 |
236-0051 神奈川県横浜市金沢区富岡東2-1-22 県漁連ビル1階 |
事業内容 | 鳶工事:建物現場の鉄骨建方足場の組立て・解体・仮設工事の請負い 土工工事:建築現場のコンクリート工事、 仮設設備工事の請負い PC工事(プレキャスト・コンクリート製作):建築現場のあらゆる部位をPC化の検討から製作・取付までを請負い |
URL |
https://www.meguro-kensetsu.jp/index.html
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会社沿革
1960年 | 東京都足立区に目黒建設株式会社設立 |
1962年 | 東京竹和会(竹中工務店パートナー)に入会 |
1990年 | 本社を神奈川県横浜市に移 |
1997年 | 本社を港南区より磯子区へ移転 |
2005年 | 関都建設株式会社と業務提携契約締結 |
2018年 | 本社を磯子区より金沢区へ移転 |
目黒建設株式会社の経営資源引継ぎ募集情報
関連リンク
公開日:2023/04/01 (2023/07/07修正)
※本記事の内容および所属名称は2023年7月現在のものです。現在の情報とは異なる場合があります。