相模原市緑
相模原市
渋谷区
地域から日本、さらに世界へ進出する神奈川の組紐会社
株式会社イノウエ
3代それぞれの異なる想いが100年企業の基盤に
経営理念
お客様の満足、従業員の場合、会社の満足
フィロソフィー
イノウエの「ものづくりクローバー」
- 品質に妥協しないものづくり
- 安全で安心できるものづくり
- 地域と共に歩むものづくり
- 環境に優しいものづくり
イノウエのロゴの「ものづくりクローバー」には、90余年のものづくりに込めた歴史と、イノウエでものづくりをする、すべての人の「想い」が込められています。
「品質」「安心」「地域」「環境」の4つのキーワードをどれひとつとして欠くことなく、いつでも調和のとれた製品作りに励んでまいります。
また、ロゴのリズミカルな動きはヘアゴムのしなやかさと消費者への思いや絆を表現しています。
お客様にとっても、そして私たちにとっても幸せをもたらすクローバーのような存在でありたいと願っています。
代表者メッセージ
弊社は、1928年に創業し、私で3代目となります。創業社長は、組紐業を愛し、戦争で途絶えた事業を再開し基礎を作りました。2代目社長は、独自性を発揮し、自ら組紐技術を応用しヘアゴムを作り上げ、下請けからメーカーへと会社を大きく発展させました。3代目となる私は、自社のインフラだけにこだわらず、自社のオリジナル商品を充実させ、皆様に便利で心に残るものづくりを社員と共に一丸となって取り組んでいます。
もちろん弊社でのものづくりは続け、安全・安心のクオリティーも維持していきます。
しかし、それだけでは、弊社の会社理念にある「お客様の満足」は達成できない時代となったと私は考えています。弊社にこれから必要なのは、お客様に満足していただける商品の企画力であり、企画した商品を作り上げる力だと思います。
多くの人の心に残る商品を作り上げ世界中の人々に愛され続ける商品作りを行っていきたいと思います。
代表取締役社長 井上 毅
私たちのこだわり
「仕事の成果を目の当たりにできる」ことに魅力を感じて入社
弊社は、1928年に私の祖父が創業した「井上芳晴製紐」が前身です。祖父は、郵便局に勤務していましたが、当時の公務員は給料が安かったそうです。家族を養っていくために、相模原市津久井地域の地場産業である組紐作りを地域の人たちとはじめました。創業時は、祖父母と祖父の母親の3人を中心に、住み込みで働いていた人もいたようです。当時は、同じ組紐の会社が地域に30軒ほどあり、浅草や浅草橋の問屋街に商品を卸していました。
2代目が、現在の会長である私の父になります。祖父には子どもがおらず、父は養子です。父は、同業者が皆同じ製品を作り、同じ問屋に販売していることに危機感があったようです。そこで、カラーゴムを生産したり、取引先の幅を広げて小売店にも販売したりと、路線変更を模索していました。その模索が形になったのが1992年に父に代替わりしてからになります。法人化して株式会社イノウエの設立を契機に、下請けからメーカーへと、事業の拡大路線に舵を切りました。父は、特に商品の改善に勝負をかけていたようです。当時のヘアゴムは金属でしめており、髪の毛が挟まりやすい構造でしたが、接着技術を開発して表面を滑らかにする特許を取得しました。
私は、子供の頃から、朝6時半から夜遅くまで工場に入り、土日もなく働いている両親の姿を見て「こんな働き方はしたくない」と考えていました。跡を継ぐ気はありませんでしたし、両親にそう頼まれたこともありません。将来について助言されたのは1度だけです。車が好きで、自動車整備士になりたいと話したところ「車だけだと潰しがきかないから、機械全般を学んでみてはどうか」とアドバイスされました。そこで、高校卒業後は機械工学の専門学校で学び、工場機械のメンテナンスをする会社に就職しました。
就職してしばらく経ってからのことです。客先の機械のメンテナンスが8割ほど終わったところで「井上くん、あとは自分たちでやるから、もういいよ」と、作業を引き取られたことがありました。先方は、親切心のつもりだったのかもしれませんが、自分がメンテナンスした機械の動作確認ができず、私は釈然としない思いを抱きました。
帰宅して、父にその話をしたところ「うちの会社で働けば、作った商品が実際に店舗で売られる現場に立ち会える。自分で作ったものが売れるか売れないかを実際に目にすることができて、楽しいぞ」と話してくれました。父が私に対して「跡を継がないか」と打診したのは初めてのことです。いろいろなことを考えた結果「自分の仕事の成果を直接確認できる」という点に魅力を感じて入社を決意しました。27歳の時でした。
営業活動や内職手配など慣れない業務に奮闘
父が取り組んだのは、イノウエの事業を家業から企業にし、そして下請けからメーカーにすることでした。全国には同業他社が5社ほどありますが、メーカーとして商品化まで実現したのは弊社だけです。父は、私が戻って来られる環境を作り、さらに会社を組織化して大きくしたかったのだと思います。現在の専務は私の従兄弟です。大手企業での勤務経験があった従兄弟は、そのノウハウを父に請われて同時期に入社しています。
私が27歳で一般社員として入社した当時の弊社は、パソコンひとつない会社でした。父からはまず「自分は営業があまり強くないから、営業をしてほしい」と言われました。私にとっても営業は初めての仕事です。最初は、お客様を訪問しても何を話したら良いかわからず、10分で話題がなくなるような状態でした。自分でサンプルを作って店舗を回ったり、パッケージングをする内職さんの手配を行ったりと、会社の業務は一通り全てこなしてきました。
「楽して稼ごう」をスローガンに働き方改革に邁進
私が3代目として社長に就任したのが9年ほど前のことです。
私はまず、効率を良くしたいと考えました。父世代の人間は、定時で帰ることに罪悪感があるタイプです。残業していると忙しそうな雰囲気が出るので安心するのでしょうか。父も「残業している部下がいるのに上司が帰宅するとは何事だ」という考え方でした。対して私は「仕事がないなら帰れば良い」と考えるタイプです。そこで「効率よく仕事しよう」と声をかけましたが、なかなか状況が変わりません。
ある時「効率よく」というのは経営者サイドの考え方だと気が付きました。どうすれば社員の皆に伝わるだろうかと考え、掲げたスローガンが「楽して稼ごう」です。「楽して稼ごう」は、社員の心に響き、現場作業の改善が劇的に進みました。材料費が高騰しても、逆に利益が上がったほどです。
仕事の指示の出し方も、目的とゴールを具体的に示すようにしました。後回しにしがちな決算期の棚卸しなら「棚卸しをすることで、会社の業務内容がわかる。業務内容が良ければ決算賞与が出せるから、どうすれば早く棚卸しを進められるか考えて終わらせよう」と、具体的に提示しています。改善したいことがあれば、たとえ初期投資が必要なことでも、長期的にプラスになるのであれば積極的に提案してほしいと伝えています。
また、定時で帰ることに罪悪感がある社員には「残業して稼げる年収と、残業しないで稼げる年収が同じなら、どちらがいい?」と問いを投げかけました。さらに「年収を自分の労働時間で割れば、残業しないほうが自分の時間を高く会社に売れることになる」と、具体的にイメージできる形で伝え続けた結果、社員が残業をしなくなりました。中途入社した社員に「こんなに早く帰っていいのですか?」と驚かれるほどです。
私は、守りたい人がいる方に働いてほしいと考えています。そのために何かあれば会社が社員を助けられる体制にして、アットホームで休みやすい雰囲気づくりにも注力しています。なお、弊社の社員の7割が主婦です。子どもの病気や学校の行事などで、急に休まなければいけないこともあります。いつも定時で帰れるような働き方をしていれば、誰かが休んだときに皆で協力して少し残業することでカバーできます。残業はそういう時に行うものです。産休や育休制度などがなかった頃から働いている女性社員たちにとっては、面白くない思いがあるのも理解しています。そのギャップを埋めるために「親の介護で休まなければいけない時に、皆で協力しながら助け合える体制作りの一環だ」と、彼女たちにもメリットがある取り組みだと伝え続けています。実際に、母親の介護に直面して退職を申し出てきた社員がいました。私は「社労士に相談するから、今すぐ辞めずに、まずは90日間の介護休暇を使って状況を把握し、これからどのような働き方ができるか模索しよう」と、引き止めました。
親子3代のそれぞれの思いを理念に込めさらにその先へ
私は、経営理念に「お客様の満足、従業員の場合、会社の満足」を挙げています。これには、祖父と父と私がそれぞれ取り組んできたエッセンスを込めました。
まず、お客様の満足とは、お客様を念頭に置いた商品作りをしていくことです。下請けから小売へと転換して販路を広げることができたのは、2代目の父が愚直に商品の品質改善を行っていったからです。接待で仕事を取るようなことは一切していません。使う人の立場に立った商品作りが、弊社のものづくりの基本です。
従業員の満足とは、「楽して稼ごう」を筆頭に、私が取り組んできたエッセンスになります。
会社の満足とは、創業者である祖父の精神を永続させたいというものです。先の大戦では、金属供出で機械を取り上げられて会社が傾きかけたこともあり、祖父は苦労を重ねました。会社を大きくしたい父と、「継続できていればそれでいい」と考える祖父とで、意見の相違があったのも理解できます。90年を越えて100年企業が見えてくるまでになったのは、祖父が事業を継続してきてくれたからだとの思いから、その意志を尊重しています。
とは言っても、弊社は同族企業ではありません。井上家に依存しなくても回るような「放牧の様な経営」の仕組みに変えてきました。例えば、経理は親族でない社員に任せています。営業では、理念という柵さえ超えなければ、自分の価値観で自由に営業をしてもらうというスタイルです。
また、商品の検査は派遣社員に任せています。社内で検査すると、同じ社員同士で「あなたが作ったものにミスがありました」とは指摘しにくいのです。誰が行っても同じ結果が出るように、効率のいい仕組みづくりに注力してきました。
効率化に長けた「イノウエイズム」でM&Aの展開も
M&Aについては、会社の規模が小さく、現状しっかりと経営されている会社を選択肢に考えています。以前は組紐と親和性のある業界とご一緒することのみを考えていましたが、今は全く違う業種と組み、新事業を展開していくことにも可能性を感じています。
その一例がカフェのような飲食業です。現在は、SNSで自由な発信ができる時代ということもあり、そのカフェで親子向けのワークショップを開くというアイデアを持っています。父親は子どもとワークショップに参加し、母親はカフェでのんびりとした時間を過ごすというような、付加価値のあるサービスを提供できるのではないかと考えています。
弊社単独で新規事業として行う場合にはリスクが高くなるものの、既に事業をされている会社と組めればお互いの持ち味を活かせるでしょう。さらに弊社の効率化の仕組みを熟知している「イノウエイズム」を持った社員が先導すれば、他業種と組んだとしてもより発展させられるはずです。
弊社をホールディングス化して、各会社の社長は今いる社員に担ってもらい、私はホールディングスのトップとして組織化を進めていくといった構想もあります。
組紐という主力事業で地域から海外までフレキシブルに展開したい
地域産業の再興という形でスタートした弊社は、内職や外注といった形で地域の方々の就労機会に貢献してきました。現在では様々な働き方ができるようになり、内職需要も減っています。新しい形での地域貢献として、スポーツチームやお祭りへの協賛をはじめました。
弊社の主力商品であるヘアゴムは、日本市場において80%のシェアがあります。オセロで言えば、盤上に空いたマスがない状態です。今後は、海外にも販路を展開していきたいと考えています。改善を重ねてきた弊社のへアゴムは、接着力が強くて切れにくいという特長があります。弊社では、これまで「長く使える」ことをPRポイントにしていました。ところが、環境問題への意識が高い海外では、その利点を応用して「ゴミが増えない」ことがPRポイントにできるとわかりました。現在、ニューヨークでの展示会への出展が決まっています。フランスの展示会にも出展していく予定です。海外マーケットに展開していくときにはその国の国民性や価値観などを熟考し、世界中の人々に愛される商品を提供していきたいと考えています。
「仕事の成果を目の当たりにできる」ことに魅力を感じて入社
弊社は、1928年に私の祖父が創業した「井上芳晴製紐」が前身です。祖父は、郵便局に勤務していましたが、当時の公務員は給料が安かったそうです。家族を養っていくために、相模原市津久井地域の地場産業である組紐作りを地域の人たちとはじめました。創業時は、祖父母と祖父の母親の3人を中心に、住み込みで働いていた人もいたようです。当時は、同じ組紐の会社が地域に30軒ほどあり、浅草や浅草橋の問屋街に商品を卸していました。
2代目が、現在の会長である私の父になります。祖父には子どもがおらず、父は養子です。父は、同業者が皆同じ製品を作り、同じ問屋に販売していることに危機感があったようです。そこで、カラーゴムを生産したり、取引先の幅を広げて小売店にも販売したりと、路線変更を模索していました。その模索が形になったのが1992年に父に代替わりしてからになります。法人化して株式会社イノウエの設立を契機に、下請けからメーカーへと、事業の拡大路線に舵を切りました。父は、特に商品の改善に勝負をかけていたようです。当時のヘアゴムは金属でしめており、髪の毛が挟まりやすい構造でしたが、接着技術を開発して表面を滑らかにする特許を取得しました。
私は、子供の頃から、朝6時半から夜遅くまで工場に入り、土日もなく働いている両親の姿を見て「こんな働き方はしたくない」と考えていました。跡を継ぐ気はありませんでしたし、両親にそう頼まれたこともありません。将来について助言されたのは1度だけです。車が好きで、自動車整備士になりたいと話したところ「車だけだと潰しがきかないから、機械全般を学んでみてはどうか」とアドバイスされました。そこで、高校卒業後は機械工学の専門学校で学び、工場機械のメンテナンスをする会社に就職しました。
就職してしばらく経ってからのことです。客先の機械のメンテナンスが8割ほど終わったところで「井上くん、あとは自分たちでやるから、もういいよ」と、作業を引き取られたことがありました。先方は、親切心のつもりだったのかもしれませんが、自分がメンテナンスした機械の動作確認ができず、私は釈然としない思いを抱きました。
帰宅して、父にその話をしたところ「うちの会社で働けば、作った商品が実際に店舗で売られる現場に立ち会える。自分で作ったものが売れるか売れないかを実際に目にすることができて、楽しいぞ」と話してくれました。父が私に対して「跡を継がないか」と打診したのは初めてのことです。いろいろなことを考えた結果「自分の仕事の成果を直接確認できる」という点に魅力を感じて入社を決意しました。27歳の時でした。
営業活動や内職手配など慣れない業務に奮闘
父が取り組んだのは、イノウエの事業を家業から企業にし、そして下請けからメーカーにすることでした。全国には同業他社が5社ほどありますが、メーカーとして商品化まで実現したのは弊社だけです。父は、私が戻って来られる環境を作り、さらに会社を組織化して大きくしたかったのだと思います。現在の専務は私の従兄弟です。大手企業での勤務経験があった従兄弟は、そのノウハウを父に請われて同時期に入社しています。
私が27歳で一般社員として入社した当時の弊社は、パソコンひとつない会社でした。父からはまず「自分は営業があまり強くないから、営業をしてほしい」と言われました。私にとっても営業は初めての仕事です。最初は、お客様を訪問しても何を話したら良いかわからず、10分で話題がなくなるような状態でした。自分でサンプルを作って店舗を回ったり、パッケージングをする内職さんの手配を行ったりと、会社の業務は一通り全てこなしてきました。
「楽して稼ごう」をスローガンに働き方改革に邁進
私が3代目として社長に就任したのが9年ほど前のことです。
私はまず、効率を良くしたいと考えました。父世代の人間は、定時で帰ることに罪悪感があるタイプです。残業していると忙しそうな雰囲気が出るので安心するのでしょうか。父も「残業している部下がいるのに上司が帰宅するとは何事だ」という考え方でした。対して私は「仕事がないなら帰れば良い」と考えるタイプです。そこで「効率よく仕事しよう」と声をかけましたが、なかなか状況が変わりません。
ある時「効率よく」というのは経営者サイドの考え方だと気が付きました。どうすれば社員の皆に伝わるだろうかと考え、掲げたスローガンが「楽して稼ごう」です。「楽して稼ごう」は、社員の心に響き、現場作業の改善が劇的に進みました。材料費が高騰しても、逆に利益が上がったほどです。
仕事の指示の出し方も、目的とゴールを具体的に示すようにしました。後回しにしがちな決算期の棚卸しなら「棚卸しをすることで、会社の業務内容がわかる。業務内容が良ければ決算賞与が出せるから、どうすれば早く棚卸しを進められるか考えて終わらせよう」と、具体的に提示しています。改善したいことがあれば、たとえ初期投資が必要なことでも、長期的にプラスになるのであれば積極的に提案してほしいと伝えています。
また、定時で帰ることに罪悪感がある社員には「残業して稼げる年収と、残業しないで稼げる年収が同じなら、どちらがいい?」と問いを投げかけました。さらに「年収を自分の労働時間で割れば、残業しないほうが自分の時間を高く会社に売れることになる」と、具体的にイメージできる形で伝え続けた結果、社員が残業をしなくなりました。中途入社した社員に「こんなに早く帰っていいのですか?」と驚かれるほどです。
私は、守りたい人がいる方に働いてほしいと考えています。そのために何かあれば会社が社員を助けられる体制にして、アットホームで休みやすい雰囲気づくりにも注力しています。なお、弊社の社員の7割が主婦です。子どもの病気や学校の行事などで、急に休まなければいけないこともあります。いつも定時で帰れるような働き方をしていれば、誰かが休んだときに皆で協力して少し残業することでカバーできます。残業はそういう時に行うものです。産休や育休制度などがなかった頃から働いている女性社員たちにとっては、面白くない思いがあるのも理解しています。そのギャップを埋めるために「親の介護で休まなければいけない時に、皆で協力しながら助け合える体制作りの一環だ」と、彼女たちにもメリットがある取り組みだと伝え続けています。実際に、母親の介護に直面して退職を申し出てきた社員がいました。私は「社労士に相談するから、今すぐ辞めずに、まずは90日間の介護休暇を使って状況を把握し、これからどのような働き方ができるか模索しよう」と、引き止めました。
親子3代のそれぞれの思いを理念に込めさらにその先へ
私は、経営理念に「お客様の満足、従業員の場合、会社の満足」を挙げています。これには、祖父と父と私がそれぞれ取り組んできたエッセンスを込めました。
まず、お客様の満足とは、お客様を念頭に置いた商品作りをしていくことです。下請けから小売へと転換して販路を広げることができたのは、2代目の父が愚直に商品の品質改善を行っていったからです。接待で仕事を取るようなことは一切していません。使う人の立場に立った商品作りが、弊社のものづくりの基本です。
従業員の満足とは、「楽して稼ごう」を筆頭に、私が取り組んできたエッセンスになります。
会社の満足とは、創業者である祖父の精神を永続させたいというものです。先の大戦では、金属供出で機械を取り上げられて会社が傾きかけたこともあり、祖父は苦労を重ねました。会社を大きくしたい父と、「継続できていればそれでいい」と考える祖父とで、意見の相違があったのも理解できます。90年を越えて100年企業が見えてくるまでになったのは、祖父が事業を継続してきてくれたからだとの思いから、その意志を尊重しています。
とは言っても、弊社は同族企業ではありません。井上家に依存しなくても回るような「放牧の様な経営」の仕組みに変えてきました。例えば、経理は親族でない社員に任せています。営業では、理念という柵さえ超えなければ、自分の価値観で自由に営業をしてもらうというスタイルです。
また、商品の検査は派遣社員に任せています。社内で検査すると、同じ社員同士で「あなたが作ったものにミスがありました」とは指摘しにくいのです。誰が行っても同じ結果が出るように、効率のいい仕組みづくりに注力してきました。
効率化に長けた「イノウエイズム」でM&Aの展開も
M&Aについては、会社の規模が小さく、現状しっかりと経営されている会社を選択肢に考えています。以前は組紐と親和性のある業界とご一緒することのみを考えていましたが、今は全く違う業種と組み、新事業を展開していくことにも可能性を感じています。
その一例がカフェのような飲食業です。現在は、SNSで自由な発信ができる時代ということもあり、そのカフェで親子向けのワークショップを開くというアイデアを持っています。父親は子どもとワークショップに参加し、母親はカフェでのんびりとした時間を過ごすというような、付加価値のあるサービスを提供できるのではないかと考えています。
弊社単独で新規事業として行う場合にはリスクが高くなるものの、既に事業をされている会社と組めればお互いの持ち味を活かせるでしょう。さらに弊社の効率化の仕組みを熟知している「イノウエイズム」を持った社員が先導すれば、他業種と組んだとしてもより発展させられるはずです。
弊社をホールディングス化して、各会社の社長は今いる社員に担ってもらい、私はホールディングスのトップとして組織化を進めていくといった構想もあります。
組紐という主力事業で地域から海外までフレキシブルに展開したい
地域産業の再興という形でスタートした弊社は、内職や外注といった形で地域の方々の就労機会に貢献してきました。現在では様々な働き方ができるようになり、内職需要も減っています。新しい形での地域貢献として、スポーツチームやお祭りへの協賛をはじめました。
弊社の主力商品であるヘアゴムは、日本市場において80%のシェアがあります。オセロで言えば、盤上に空いたマスがない状態です。今後は、海外にも販路を展開していきたいと考えています。改善を重ねてきた弊社のへアゴムは、接着力が強くて切れにくいという特長があります。弊社では、これまで「長く使える」ことをPRポイントにしていました。ところが、環境問題への意識が高い海外では、その利点を応用して「ゴミが増えない」ことがPRポイントにできるとわかりました。現在、ニューヨークでの展示会への出展が決まっています。フランスの展示会にも出展していく予定です。海外マーケットに展開していくときにはその国の国民性や価値観などを熟考し、世界中の人々に愛される商品を提供していきたいと考えています。
ツグナラコンサルタントによる紹介
時代の中で柔軟に変化してきた創業100年目前の老舗企業様です。戦争で途絶えた事業を再開、会社の基礎を築いた創業社長。カラーゴムの生産に着手し、小売店へと販路を広げた2代目社長。「楽して稼ごう」をスローガンに働き方改革を進める3代目社長。3代の異なる想いが繋がり、発展されてきた企業様です。品質に妥協しない・安全で安心できる・地域と共に歩む・環境に優しいものづくりをされていらっしゃいます。
会社概要
社名 | 株式会社イノウエ |
創立年 | 1928年 |
代表者名 | 代表取締役社長 井上 毅 |
資本金 | 4680万円 |
事業エリア |
工場
252-0155 神奈川県相模原市緑区鳥屋750 |
本社住所 |
252-0155 神奈川県相模原市緑区鳥屋750 |
事業内容 | ゴムひも・手芸用組みひも製造販売、産業資材、衣料、装粧品、装飾、包装 |
URL |
https://www.inoue-braid.co.jp/index.html
|
会社沿革
1928年 | 井上芳晴製紐創業 |
1967年 | 井上製紐工場と改名 |
1986年 | 工場増設 イノ設立(企画・販売部門設立) |
1992年 | 株式会社イノウエ設立 |
1996年 | リングゴム特許取得 |
2003年 | ISO 9001認証取得 |
2007年 | 神奈川県優良工場表彰 |
2008年 | 本社新社屋完成 |
2009年 | エコテックス規格100取得 |
2010年 | 神奈川県モデル工場指定 |
2022年 | 健康経営有料法人認定 |
株式会社イノウエの経営資源引継ぎ募集情報
公開日:2023/03/10 (2023/07/03修正)
※本記事の内容および所属名称は2023年7月現在のものです。現在の情報とは異なる場合があります。