川崎市川崎
川崎市
国内屈指の金属加工技術で特注サイン・モニュメントを製作
日崎工業株式会社
理念経営と社員第一主義で経営を立て直した板金加工会社の新たな挑戦
経営理念
私たちは感動をデザインし、誰もが幸福な世界を実現します
【企業目的】
大切な人の為に、安心安全を提供し続けます
社会発展の為に、豊かな未来を共に創造いたします
【事業目的】
叡智 工匠を編纂し、新たな価値を提供いたします
適正に利益を確保し、社員、社会貢献、企業発展のために有効活用します
【7つの経営方針】
- コミュニケーション能力と安全性を高い次元で実現する
- 多様性を認め、自己成長ビジョンで人生の豊かさを追求する
- 時代の変化に対応した新たな価値創出に挑戦する
- 笑顔溢れる未来の為に、社会問題にも積極的に取り組む
- 独自の知恵と発想で破壊的イノベーションを起こす
- 様々な物件にも対応可能な技術力と組織体制を強化する
- 永続的発展と安定した経営基盤の為に財務体質を強化する
【ヒザキの行動指針】
- 挨拶、大きく、元気よく
- 個性を尊重しチームワークを高める
- 健康を維持し、安全第一で行動する
- 技術力、人間力を高める
- 一流の商品を提供する
- 地域社会に貢献し幸せを創る
- 失敗を恐れず挑戦する
- 整理整頓を心がける
代表者メッセージ
弊社では、「常にその時代に必要とされるニーズを捉え、革新的な進化と共に一歩先の社会から必要とされる企業であり続ける」というポリシーを掲げ、創業時から一環して守り続けてきました。
「人々を感動させるモノづくり」を常に念頭に置き、「100年企業」を目指して着実に歩み続けていきたいと考えております。
現代社会では、人の考え方、価値基準等は数年前とは大きく様変わりすることも珍しくありません。企業に求められる社会的存在意義も同様に変化しております。
まずは2030年を期限に設定し、エネルギーシフトや様々な社会問題の解決に対して積極的に参画して、社会の基盤を構築していく所存です。
今後もこの川崎の地で、世界レベルのオンリーワン企業として、沢山の夢が羽ばたいていけるような企業へと成長していきたいと考えています。
代表取締役 三瓶 修
私たちのこだわり
父との3年越しの約束を果たして家業に就職
弊社は、1967年に私の父が神奈川県川崎市で創業しました。父は、元々は東京都品川区で個人事業主として板金業を営んでいて、工場の拡大に伴い川崎市に移転してきました。屋号の由来は、日本の「日」と川崎の「崎」からとっており、「日崎工業」にしたと聞いています。
私自身は、川崎にある工場兼自宅で遊んだり、家業を手伝ったりしながら育ち、昔からものづくりや機械いじりが好きな子供でした。
その後、工業高校に進学し、卒業後はバイクのキャブレター(エンジンの燃料供給装置の1種)を作る大手メーカーに就職しました。ものづくりとバイクという2つの好きなことを仕事にできるという夢のような就職先でした。
3年ほど働いた頃に、父から「家業を手伝ってほしい」と言われました。長男としていつか家業を継ぐことを考えていたものの、そのタイミングはもう少し先だと思っていました。もし家業を継げば、忙しくなることが想像できたので、父と1週間だけの約束で、私は北海道へのツーリング旅に出かけます。しかし、旅は最終的に1週間では終わりませんでした。最終的に北米大陸縦断旅に発展していきました。日本に帰り、実家で腰を据えて働きはじめたのは父と約束してから3年後のことでした。
提案型営業で事業拡大。サイン事業とイベント関連事業の二本柱に
自由な3年間で一生分遊んだという思いがあったので、実際に働きはじめると仕事に没頭しました。1年くらいで現場の仕事を覚えると、より広範囲な仕事を任せられるようになりました。設計をしたり、営業をしたり、社員のマネージメントするようになると、弊社の仕事の全体像が見えてきて、楽しく、やりがいのある仕事だと気付きます。
また、入社したての頃は板金加工による看板製作などを請け負うサイン事業がメインで、私が営業になり、積極的に新規開拓をしていく中で仕事の幅も広がりました。看板製作だけにとどまらず、イベントや展示会の建屋作りや造作物も請け負うようになり、業務分野の拡大に合わせて業績も急成長していきました。
同時期に営業手法を単に仕事をもらいにいくスタイルから、提案型営業に切り替えました。弊社で図面から書き起こし、「こういうものを作ってみませんか?」と先方に企画提案するようになると、任される仕事の規模、業務の範囲も広がり、受注額の桁が変わっていきます。
当時手掛けた中でもっとも大きな仕事は、自動車見本市「東京モーターショー」に出展する大手自動車メーカーの建屋と造作物の製作・設営を一手に引き受けるというものです。50m四方の大きな建屋を作るということで、材料だけでも100トン近くあるものをまず1か月かけてパーツを作り上げました。それをイベント開催2日前に、会場に持ち込んで一気に設営していきます。設営時にうまく設置できないなどのトラブルが起きると、細かな微調整を会場ですべて行い、不眠不休の2日間を過ごすような体験をしました。そうした大きな仕事を受けることが増えていき、売上も数年で3~4倍にまで伸びていきました。
社長就任も東日本大震災の影響で窮地に
業績が急成長したことで、先代社長である父は工場を7か所まで増やして拡大路線に舵を切ります。一方で不動産投資を積極的に行うようになり、社業は専務である私に任せっきりになっていきました。その流れの中で、父が会社を使って私腹を肥やすようになり、最終的に会社のためにならないことが続いたことから、退職してもらいました。
そして拡大路線を引き継ぐ形で2007年に私が代表取締役に就任します。しかし、就任直後の2008年にリーマン・ショックで景気が悪化し、業績が伸び悩みます。リーマン・ショックでも伸び悩みで済んだのはありがたいことですが、拡大路線を目指していた弊社にとってダメージは小さくありませんでした。
2011年には東日本大震災が発生し、イベントが激減します。弊社の急成長を支えたイベント事業が苦境に陥り、売り上げはたちまち半分以下に落ち込みました。
そのためにまず取り組んだのが固定費の削減です。まず7か所あった工場のうち、6か所を閉鎖して、現在の拠点である神奈川県川崎市の工場に集約しました。実は工場の土地、建物は先代社長である父が個人所有しており、毎月家賃を支払っていたからです。急激に悪化した経営状態から脱するための固定費削減策の中ではもっとも大きなインパクトになりました。他にも固定費を抑えるために、約75%の節電効果が得られるということから、照明を水銀灯からLEDに変更しました。
固定費削減の効果もあり赤字は大幅に縮小したものの、さらなる改革が必要でした。そのための施策の一つとして導入したのが業績連動給でした。例えば営業職ならこれまで支払っていた給料の半分を業績に連動させる形にして、業績があがればもらえる額が増え、悪ければ下がるという形です。ただ、大失敗でした。まず社内の人間関係がギクシャクし、そして若手が定着しなくなったからです。結果、業績連動給はすぐにやめることにしました。
当時、私が期待を寄せていた若手社員が退職する際に「社長、これからは社員を大切にしてくださいね」と言われたことが大きな教訓となっています。
経営がどれだけ厳しい状況でも、人を採用して、育てていかなければ明るい未来には繋がっていきません。それならば、今何ができるのかということを考え抜いた結果、たどり着いたのが「理念経営」と「社員第一主義」の実践でした。
理念経営と社員第一主義で経営立て直し
「理念経営」を始めるに当たり、まずは経営理念や事業目的、経営方針を明文化しました。さらに年間計画が記載された経営指針書を社員に配り、「経営指針発表会」という形で社員に共有する会を毎年開催しています。評価制度についても、社員自ら立てたチャレンジ目標に対する達成度で評価する「チャレンジ評価」と、社員としての行動指針に沿った行動を取れているかという「行動評価」の二軸で評価する形にしました。
また、キャリアビジョンに沿った働き方ができるように、自己申告でやりたい仕事にチャレンジできる仕組みを作り、給与テーブルも社員に公開しています。そして決算賞与を導入し、経常利益の30%は社員に還元する形にしました。他にも先輩社員が新人と1on1でペアを組むメンター制度を導入し、月1回の面談で新人が色々と相談できるようになっています。
これらの取り組みが功を奏したのか、理念経営に取り組み始めてからは、若手社員の定着率が劇的に改善されて、50歳近かった社員の平均年齢が今では37歳ぐらいまで下がりました。
理念経営にシフトしたことが企業として活力を取り戻す大きなきっかけになりました。実際に震災直後の危機的な状況から約10年かけて、一歩一歩、改善してきました。
なお、この取り組みは年々進化していき、現在では環境保護の観点から「2030年までの完全脱炭素化」を目指した取り組みになっています。そうした弊社の姿勢を評価いただいて、神奈川県から「かながわ地球環境賞」、川崎市から「スマートライフスタイル大賞2021 奨励賞」などの表彰を受けています。
社会課題の解決に繋がる新事業への挑戦
そのような好循環が生まれてきた矢先に起きたのがコロナ禍です。再び売り上げが落ち込む事態となりました。今後、安定した経営基盤の構築のためにも新たな事業を始める必要があると考え、弊社の技術や設備を活かせる新事業の検討を開始しています。
その中で生まれたアイデアが、キッチンカーやトレーラーハウスなどの、特装車・架装車の製造事業です。特定の目的のために特別な機械・装置を取り付けたものを特装車といい、より広義の意味で装備や改造を加えたものを架装車といいます。
市場に出回っているキッチンカーやトレーラーハウスを分析していくうちに、弊社の高い技術力を活かして、丈夫で、軽く、精密な製品を作れるのではないかと考えたからです。そしてコロナ禍になる前から導入を決めていた、パイプを高精度に切断できるパイプレーザーという機械を活用できそうだったことも決断を後押ししました。
さらに特装車についての需要をいろいろと調べたり、ヒアリングをする中で、ひょんなことから鳥獣被害対策支援センターと繋がりができました。そこで知ったのは鳥獣被害の多さと「ジビエ」(野生の鳥やけもの、またその肉のこと)を巡る諸問題です。
狩った獣を「ジビエ」として活用するなら、迅速かつ衛生的な一次処理が必要になります。しかし、実際には、処理施設の不足、捕獲現場と処理施設の距離、人手の少なさ、個体温度や気温による痛みなどの問題から、十分な利活用ができていませんでした。その問題を解決するために考案されたのが、移動式解体処理車、通称「ジビエカー」で、キッチンカーをより大型にしたもので、トラックの後ろに調理室、冷蔵室、解体室が付いた特装車になります。
「ジビエカー」の製造は、特装車・架装車の製造新事業の枠から外れませんし、何より社会課題への貢献にもなります。さらに、ジビエを使った飲食事業を以前から考えていたこともあり、シナジーを生み出し、ゆくゆくは飲食と連携した「ジビエ事業」へと成長させたいという青写真を描いています。
既に特装車・架装車の製造を事業化するために定款を変更し、事業化に必要な「自動車商」の資格も取得済みです。また、本格的に事業化すれば今の工場では手狭になってくるため、新工場設立を計画し始めています。
サイン事業での競争優位性は「高い技術力」
コロナ禍でイベント事業が停滞して、新事業に期待を込めている半面、元々の主要事業であるサイン事業の業績は安定しています。弊社のように製造・工事のみでなく、企画・設計からできる企業はあまり多くないからです。さらに、形にするための高い技術力もあるので、弊社の強みになっています。
例えば、弊社の設計部署なら、お客様が書いた簡単なイメージイラストを元に図面化して、形にすることも可能です。3D CADを導入しているのでどれほど複雑な形状であっても作成できますし、街角などに設置されている特殊な形をしたアート系モニュメントの製作も可能です。モニュメントに関しては、製作に高い技術力を求められるため、他社が参入しにくく、価格競争に巻き込まれないというメリットがあります。コロナ禍が落ち着き、再びイベント事業が回復してくるまでは、新事業とサイン事業で盛り上げていければと考えています。
「社員を第一に考える」に共感できるお相手とのM&Aを希望
M&Aについては、新事業に注力していく今のタイミングでは積極的には考えておりません。ただ、新事業が軌道になった後には、前向きに検討していきたいと思いっています。引継ぎ先としては、弊社が社員30人の会社なので、2、3人などの少人数の会社をイメージしています。業種は、サイン事業とシナジーを生みやすい広告系の営業会社または塗装業、そして新事業である特装車・架装車の製造を補強するための自動車整備を希望します。
とりわけ塗装業を希望するのは、サイン事業だけでなく、どの事業でも塗装をアウトソーシングしており、それがボトルネックになっていることが多いからです。そうしたこともあり、お互いにないものを補い合い、新たな強みにしていけるご縁があれば前向きに検討いたします。ただし、もっとも重視したいのが、弊社が掲げる経営理念、とりわけ「社員を第一に考える」という方針に賛同してくれるかどうかです。同じ思いを持つ会社に出会えれば、弊社の経営理念の通り「誰もが幸福な世界」を実現していきたいと考えています。
父との3年越しの約束を果たして家業に就職
弊社は、1967年に私の父が神奈川県川崎市で創業しました。父は、元々は東京都品川区で個人事業主として板金業を営んでいて、工場の拡大に伴い川崎市に移転してきました。屋号の由来は、日本の「日」と川崎の「崎」からとっており、「日崎工業」にしたと聞いています。
私自身は、川崎にある工場兼自宅で遊んだり、家業を手伝ったりしながら育ち、昔からものづくりや機械いじりが好きな子供でした。
その後、工業高校に進学し、卒業後はバイクのキャブレター(エンジンの燃料供給装置の1種)を作る大手メーカーに就職しました。ものづくりとバイクという2つの好きなことを仕事にできるという夢のような就職先でした。
3年ほど働いた頃に、父から「家業を手伝ってほしい」と言われました。長男としていつか家業を継ぐことを考えていたものの、そのタイミングはもう少し先だと思っていました。もし家業を継げば、忙しくなることが想像できたので、父と1週間だけの約束で、私は北海道へのツーリング旅に出かけます。しかし、旅は最終的に1週間では終わりませんでした。最終的に北米大陸縦断旅に発展していきました。日本に帰り、実家で腰を据えて働きはじめたのは父と約束してから3年後のことでした。
提案型営業で事業拡大。サイン事業とイベント関連事業の二本柱に
自由な3年間で一生分遊んだという思いがあったので、実際に働きはじめると仕事に没頭しました。1年くらいで現場の仕事を覚えると、より広範囲な仕事を任せられるようになりました。設計をしたり、営業をしたり、社員のマネージメントするようになると、弊社の仕事の全体像が見えてきて、楽しく、やりがいのある仕事だと気付きます。
また、入社したての頃は板金加工による看板製作などを請け負うサイン事業がメインで、私が営業になり、積極的に新規開拓をしていく中で仕事の幅も広がりました。看板製作だけにとどまらず、イベントや展示会の建屋作りや造作物も請け負うようになり、業務分野の拡大に合わせて業績も急成長していきました。
同時期に営業手法を単に仕事をもらいにいくスタイルから、提案型営業に切り替えました。弊社で図面から書き起こし、「こういうものを作ってみませんか?」と先方に企画提案するようになると、任される仕事の規模、業務の範囲も広がり、受注額の桁が変わっていきます。
当時手掛けた中でもっとも大きな仕事は、自動車見本市「東京モーターショー」に出展する大手自動車メーカーの建屋と造作物の製作・設営を一手に引き受けるというものです。50m四方の大きな建屋を作るということで、材料だけでも100トン近くあるものをまず1か月かけてパーツを作り上げました。それをイベント開催2日前に、会場に持ち込んで一気に設営していきます。設営時にうまく設置できないなどのトラブルが起きると、細かな微調整を会場ですべて行い、不眠不休の2日間を過ごすような体験をしました。そうした大きな仕事を受けることが増えていき、売上も数年で3~4倍にまで伸びていきました。
社長就任も東日本大震災の影響で窮地に
業績が急成長したことで、先代社長である父は工場を7か所まで増やして拡大路線に舵を切ります。一方で不動産投資を積極的に行うようになり、社業は専務である私に任せっきりになっていきました。その流れの中で、父が会社を使って私腹を肥やすようになり、最終的に会社のためにならないことが続いたことから、退職してもらいました。
そして拡大路線を引き継ぐ形で2007年に私が代表取締役に就任します。しかし、就任直後の2008年にリーマン・ショックで景気が悪化し、業績が伸び悩みます。リーマン・ショックでも伸び悩みで済んだのはありがたいことですが、拡大路線を目指していた弊社にとってダメージは小さくありませんでした。
2011年には東日本大震災が発生し、イベントが激減します。弊社の急成長を支えたイベント事業が苦境に陥り、売り上げはたちまち半分以下に落ち込みました。
そのためにまず取り組んだのが固定費の削減です。まず7か所あった工場のうち、6か所を閉鎖して、現在の拠点である神奈川県川崎市の工場に集約しました。実は工場の土地、建物は先代社長である父が個人所有しており、毎月家賃を支払っていたからです。急激に悪化した経営状態から脱するための固定費削減策の中ではもっとも大きなインパクトになりました。他にも固定費を抑えるために、約75%の節電効果が得られるということから、照明を水銀灯からLEDに変更しました。
固定費削減の効果もあり赤字は大幅に縮小したものの、さらなる改革が必要でした。そのための施策の一つとして導入したのが業績連動給でした。例えば営業職ならこれまで支払っていた給料の半分を業績に連動させる形にして、業績があがればもらえる額が増え、悪ければ下がるという形です。ただ、大失敗でした。まず社内の人間関係がギクシャクし、そして若手が定着しなくなったからです。結果、業績連動給はすぐにやめることにしました。
当時、私が期待を寄せていた若手社員が退職する際に「社長、これからは社員を大切にしてくださいね」と言われたことが大きな教訓となっています。
経営がどれだけ厳しい状況でも、人を採用して、育てていかなければ明るい未来には繋がっていきません。それならば、今何ができるのかということを考え抜いた結果、たどり着いたのが「理念経営」と「社員第一主義」の実践でした。
理念経営と社員第一主義で経営立て直し
「理念経営」を始めるに当たり、まずは経営理念や事業目的、経営方針を明文化しました。さらに年間計画が記載された経営指針書を社員に配り、「経営指針発表会」という形で社員に共有する会を毎年開催しています。評価制度についても、社員自ら立てたチャレンジ目標に対する達成度で評価する「チャレンジ評価」と、社員としての行動指針に沿った行動を取れているかという「行動評価」の二軸で評価する形にしました。
また、キャリアビジョンに沿った働き方ができるように、自己申告でやりたい仕事にチャレンジできる仕組みを作り、給与テーブルも社員に公開しています。そして決算賞与を導入し、経常利益の30%は社員に還元する形にしました。他にも先輩社員が新人と1on1でペアを組むメンター制度を導入し、月1回の面談で新人が色々と相談できるようになっています。
これらの取り組みが功を奏したのか、理念経営に取り組み始めてからは、若手社員の定着率が劇的に改善されて、50歳近かった社員の平均年齢が今では37歳ぐらいまで下がりました。
理念経営にシフトしたことが企業として活力を取り戻す大きなきっかけになりました。実際に震災直後の危機的な状況から約10年かけて、一歩一歩、改善してきました。
なお、この取り組みは年々進化していき、現在では環境保護の観点から「2030年までの完全脱炭素化」を目指した取り組みになっています。そうした弊社の姿勢を評価いただいて、神奈川県から「かながわ地球環境賞」、川崎市から「スマートライフスタイル大賞2021 奨励賞」などの表彰を受けています。
社会課題の解決に繋がる新事業への挑戦
そのような好循環が生まれてきた矢先に起きたのがコロナ禍です。再び売り上げが落ち込む事態となりました。今後、安定した経営基盤の構築のためにも新たな事業を始める必要があると考え、弊社の技術や設備を活かせる新事業の検討を開始しています。
その中で生まれたアイデアが、キッチンカーやトレーラーハウスなどの、特装車・架装車の製造事業です。特定の目的のために特別な機械・装置を取り付けたものを特装車といい、より広義の意味で装備や改造を加えたものを架装車といいます。
市場に出回っているキッチンカーやトレーラーハウスを分析していくうちに、弊社の高い技術力を活かして、丈夫で、軽く、精密な製品を作れるのではないかと考えたからです。そしてコロナ禍になる前から導入を決めていた、パイプを高精度に切断できるパイプレーザーという機械を活用できそうだったことも決断を後押ししました。
さらに特装車についての需要をいろいろと調べたり、ヒアリングをする中で、ひょんなことから鳥獣被害対策支援センターと繋がりができました。そこで知ったのは鳥獣被害の多さと「ジビエ」(野生の鳥やけもの、またその肉のこと)を巡る諸問題です。
狩った獣を「ジビエ」として活用するなら、迅速かつ衛生的な一次処理が必要になります。しかし、実際には、処理施設の不足、捕獲現場と処理施設の距離、人手の少なさ、個体温度や気温による痛みなどの問題から、十分な利活用ができていませんでした。その問題を解決するために考案されたのが、移動式解体処理車、通称「ジビエカー」で、キッチンカーをより大型にしたもので、トラックの後ろに調理室、冷蔵室、解体室が付いた特装車になります。
「ジビエカー」の製造は、特装車・架装車の製造新事業の枠から外れませんし、何より社会課題への貢献にもなります。さらに、ジビエを使った飲食事業を以前から考えていたこともあり、シナジーを生み出し、ゆくゆくは飲食と連携した「ジビエ事業」へと成長させたいという青写真を描いています。
既に特装車・架装車の製造を事業化するために定款を変更し、事業化に必要な「自動車商」の資格も取得済みです。また、本格的に事業化すれば今の工場では手狭になってくるため、新工場設立を計画し始めています。
サイン事業での競争優位性は「高い技術力」
コロナ禍でイベント事業が停滞して、新事業に期待を込めている半面、元々の主要事業であるサイン事業の業績は安定しています。弊社のように製造・工事のみでなく、企画・設計からできる企業はあまり多くないからです。さらに、形にするための高い技術力もあるので、弊社の強みになっています。
例えば、弊社の設計部署なら、お客様が書いた簡単なイメージイラストを元に図面化して、形にすることも可能です。3D CADを導入しているのでどれほど複雑な形状であっても作成できますし、街角などに設置されている特殊な形をしたアート系モニュメントの製作も可能です。モニュメントに関しては、製作に高い技術力を求められるため、他社が参入しにくく、価格競争に巻き込まれないというメリットがあります。コロナ禍が落ち着き、再びイベント事業が回復してくるまでは、新事業とサイン事業で盛り上げていければと考えています。
「社員を第一に考える」に共感できるお相手とのM&Aを希望
M&Aについては、新事業に注力していく今のタイミングでは積極的には考えておりません。ただ、新事業が軌道になった後には、前向きに検討していきたいと思いっています。引継ぎ先としては、弊社が社員30人の会社なので、2、3人などの少人数の会社をイメージしています。業種は、サイン事業とシナジーを生みやすい広告系の営業会社または塗装業、そして新事業である特装車・架装車の製造を補強するための自動車整備を希望します。
とりわけ塗装業を希望するのは、サイン事業だけでなく、どの事業でも塗装をアウトソーシングしており、それがボトルネックになっていることが多いからです。そうしたこともあり、お互いにないものを補い合い、新たな強みにしていけるご縁があれば前向きに検討いたします。ただし、もっとも重視したいのが、弊社が掲げる経営理念、とりわけ「社員を第一に考える」という方針に賛同してくれるかどうかです。同じ思いを持つ会社に出会えれば、弊社の経営理念の通り「誰もが幸福な世界」を実現していきたいと考えています。
会社概要
社名 | 日崎工業株式会社 |
創立年 | 1967年 |
代表者名 | 代表取締役 三瓶 修 |
資本金 | 2070万円 |
本社住所 |
210-0858 神奈川県川崎市川崎区大川町7−2 |
事業内容 | サイン・モニュメント・店舗什器・イベント造作等の設計・製作・施工 自社アウトドア製品の製造・販売 キッチンカーの製造・販売 トレーラーハウスの製造・販売 |
URL |
https://www.hizaki.jp/
|
会社沿革
2013年 | 神奈川県優良工場表彰 受賞 かわさきマイスター 認定(比屋根 卓) |
2018年 | かながわ中小企業モデル工場の指定 |
2019年 | 川崎市男女共同参画センター 地域女性活躍推進事業所認定 |
2020年 | 神奈川県エネルギー地産地消推進事業者 認定 川崎市生産性向上・働き方改革推進事業者認定 |
2021年 | かながわ地球環境賞 受賞 かながわ女性の活躍応援サポーターの登録 かながわ健康企業宣言証の取得 スマートライフスタイル大賞2021 奨励賞受賞 かわさきSDGsゴールドパートナー 認証 |
2022年 | かわさき起業家オーディション 主催者賞受賞 かわさき☆えるぼし 認証 かながわ治療と仕事の両立推進企業 ゴールド企業 認定 かわさき起業家オーディション 主催者賞受賞 健康経営優良法人2022 認定 かながわ健康企業宣言 健康優良企業 認定 |
日崎工業株式会社の経営資源引継ぎ募集情報
公開日:2023/02/15 (2023/02/20修正)
※本記事の内容および所属名称は2023年2月現在のものです。現在の情報とは異なる場合があります。