小美玉
幅広い業種の取引先からの要求に必ず「イエス」と応える金属加工業
有限会社早川金属工業
従業員を一番に考え、大企業並みの福利厚生で彼らをバックアップ
経営理念
お客さまからのあらゆるご要望に対し、
必ず「イエス」と応えために、
常日頃から最新の機械や技術に接する
会社を支えているのは社員。
彼らが働きやすく、働きがいを感じる環境を整備していく。
代表者メッセージ
弊社はお客様の多種多様なニーズに応えられるよう、最新鋭のNC旋盤を取り揃えて、熟練技術を持つスタッフが製作にあたっています。得意とするのは、エアコン部品、建築部品、自動車部品、医療機器、産業機器等で、さまざまな業界の金属加工・NC旋盤加工を手掛けています。対応力、短納期、応用力、融通性を強みにしており、お客様のあらゆる要望に対して「イエス」と応えるために日々技術の研鑽を積んでおります。「早川金属に任せておけば大丈夫だ」「早川金属に相談しよう」と思ってくれるお客様を全国に増やしていく所存です。
代表取締役社長 早川順也
私たちのこだわり
高度経済成長期に東京で創業。その後、埼玉を経て茨城へ
弊社は1964年4月、私の父が東京都葛飾区堀切で創業いたしました。父は福島県のお寺の次男として生まれ、長男が寺を継いだことを契機に東京で金属加工業を営んでいた親戚を頼って上京しています。その当時、日本は高度経済成長期の真っ只中で、20歳を過ぎた父は葛飾区堀切に工場を建てて独立しました。当初は親戚の会社の下請け仕事がメインだったものの、他の会社からの仕事も請け負うようになり、事業は順調に成長していきます。
そのうち従業員も1人、2人と増え、機械が大型化してきたため、1967年4月に同じ葛飾区内西亀有に工場を移転しました。その後、西亀有、埼玉県八潮市と移転を繰り返し、現在の茨城県小美玉市に落ち着きます。小美玉市に移転してきた当時は、常磐道とそれに続く首都高速道路の工事が進められており、福島出身の父にとって、ふるさと・福島へと続く常磐道が通る小美玉市に親近感や縁を感じたのかもしれません。
家業をすぐには継がずに同業種に就職
二代目の私は、葛飾区に工場があった頃に生まれました。家と会社が一体化したような小さな工場で、毎日、大人たちが一生懸命になって仕事しているところを目にしながら子供時代を過ごしました。当時の葛飾区は、小さな町工場を“家業”に持つ家庭が多かったので、特別な思い出というよりは「当たり前」の光景として記憶に残っています。
私には姉が1人いますが、当時は長男が家業を継ぐことが当たり前とされる時代だったので、親は私に家業を継がせたいと思っていたようです。ただ、当の私は家業を継ぐのではなく、違う世界を見てみたいと考えていました。実際に高校卒業後、私はコンピューターや情報技術を学ぶ専門学校に進みました。家業に繋がらないことを学ぶ専門学校に進んだのは、心の奥底にある「いつかは家業を継がなければならない」という義務感のような気持ちにあらがいたかったからなのだと思います。ちなみに高校3年生の時に工場は茨城に移転しましたが、私と姉は埼玉県八潮市に残り、姉は就職、私は新宿の専門学校に2年間通いました。そして専門学校の卒業を控えたタイミングで私は茨城の実家に戻ります。ただし、家業を継ぐためではなく、東京の猛烈な通勤ラッシュを避け、実家から通える範囲で就職をしたいというのが戻った理由でした。
4年間の修行期間を経て家業を継ぐことを決意
茨城での就職先は家業と同業の金属加工会社でした。そこで4年間お世話になる中で、家業と同じ仕事に接し、スキルを学んでいくうちに、家業を継ぐ覚悟が生まれてきました。そして25歳の時に退職し、家業である弊社に入社しました。
私が入社した頃、工場は今よりも小さい建屋で、社員7、8名と家族経営が少し大きくなった程度でした。しばらくして私は専務となり、38歳になった時に父から社長業を引継ぎました。とはいえ、父からの引継ぎの申し出は突然で、正直戸惑うこともありましたが、いつかは社長の交代が必要で、それは可能な限り早い方がいいと思い、そのタイミングで決断しました。
リーマンショックを契機に会社が成長
私が社長に就任して数年後の2008年に、リーマンショックが起こりました。日本でも株価が大暴落し、不況の風が吹き荒れました。この未曾有の大不況が弊社にとっては一大転換期となり、事業拡大のきっかけとなったのです。
当時、不況に喘ぐ多くの企業は、優秀な技術者や職人を大量に解雇しました。一方、弊社では、解雇された人たちを積極的にお声がけして、その技術を遺憾なく発揮してもらえる環境を整えました。
その時の私の頭の中にあったのは「従業員全員とその家族全員の生活を守らなくていけない」という責任感でした。一度採用したなら、そこに責任が生じるのは当たり前ですが、どうしたら気持ちよく力を発揮してもらえるかと常に考えていた日々でした。その結果が会社のステップアップです。弊社に働きに来てくれる人たちの能力は高く、それを結集できたことが、リーマンショックを乗り越え、さらなる成長のきっかけにできた理由だと思っています。
私がこのような考えになったのは父や母が従業員を大切にする姿を見ていたからだと思います。その光景を小さい頃から見ていた私には自然と同じ考えが宿っていたのかもしれません。
安定経営を目的に営業部門を立ち上げる
父は創業当時、2社の大口取引先の下請けという形で事業展開をしていましたが、そのうちの1社がある時、不渡りとなりました。私が幼稚園くらいの頃です。数十社の中の1社ならまだ影響は少なかったかもしれませんが、わずか2社の中の1社ということで、弊社の経営は大打撃を受け、倒産寸前の状況まで追い込まれました。結果的にいろいろな支援をいただき、倒産だけは免れることができましたが、その教訓から父はいろいろな業界、会社とお付き合いをするようになりました。
私に代替わりしてからは、営業部門を立ち上げました。約10年前のことで、会社の規模がさらに大きくなったため、取引先を拡大していくためのより強い営業力が必要になったことがその理由です。その時を契機に作り手として腕を磨くだけなく、営業としてお客様にしっかり届けることも重要だということで、製造と営業の双方に力に入れていく方針に切り替えました。
弊社のような中小企業では、社長や専務など経営者が営業を兼ねているのが実情ですが、それではできることも限られてきますので、弊社では営業職を2名配置しています。いわゆる受注目的の営業活動だけでなく、東京ビッグサイトなどで実施される展示会に出展するなどして、積極的に認知度アップに繋がる広報活動と新規顧客の開拓を行っています。
弊社には自社ブランド、オリジナルの商品はありません。オリジナルがないのであれば、どんなオーダーにも応える技術力、対応力でブランディングを図っていきたいと思っています。お客様のご注文あってこそ成り立つ業界ですが、そこから一歩進んで、「こんなことができます」「この技術を使えばこんなことができます」ということを今以上に積極的に発信していくことが営業部門の今後の課題になってくると思います。
社員に新しい技術に触れさせることが次の仕事を呼び込む
営業部門の充実と並行して、現場ではできるだけ最新の設備を導入し、社員に最先端の技術に触れてもらいたいと考えています。機械というのは、基本的に何十年も使えるものではありますが、常に新しい機械に更新され、技術もアップデートされていきます。社員たちには、そうした技術の最前線に身を置いて欲しいと常々考えています。それが社員の育成にも繋がると思いますし、やはり最新の設備を揃えて、最先端の技術に触れ、商品として提供していくことが、新しい仕事を呼ぶと考えています。
会社の規模は小さくても福利厚生は大企業並みに
弊社が特に力を入れているのは福利厚生です。「会社の規模は小さくても、福利厚生は大企業並みにする」をモットーに取り組んでいます。例えば、社員には1年に1回、健康診断ではなく人間ドックを受けてもらっており、希望者には脳ドックや大腸検査も受けてもらっています。もちろん費用は全て会社の負担です。
ボーナスは業績により年3回支給し、最近では物価高騰手当も出しています。「社員が豊かにならないと、会社も伸びていかない」という考えがあるからです。また、弊社は従業員に助けられてここまで来られたと思っているので、経営者としてその気持ちは絶対に忘れてはいけないと肝に銘じています。
社員全員の家庭に1個ずつクリスマスケーキを配るのも毎年の恒例行事です。幹事の社員がサンタクロースとトナカイの格好をして、事前にカタログから選んでもらったケーキを会社で配っていますが、社員のお子さんが「お父さん、お母さん、楽しそうな会社で働いてるなぁ」と思ってもらえたら、こんなに嬉しいことはありません。 社員本人にも「この会社に就職してよかった」「居心地がいい」と思ってもらえたならば私が考える経営の「成功」です。会社の規模は小さくても、社員をしっかりと大切にできる会社であり続けたいと思いっています。
求められるのは個の力とチームワーク。特に後輩を育てる力が大事
弊社の特徴であり、強みといえるのが、現場社員のジョブローテーションです。現場で使うすべての機械の加工プログラムから、操作まで、全社員ができるようになっています。一般的な工場では、機械の操作は全員ができたとしても、加工プログラムまでは出来ないことが大半で、さらに機械によっては操作自体ができないということも珍しくありません。弊社では入社した時から、全員が加工プログラムまでできるように教育しており、現場の仕事を1から10まで一通り出来る人材が社員の数だけいるので、大きな強みとなっています。そしてもう1つ大切にしているのが、チームワークです。個の力も大事ですが、やはりチームワークが育める人材になってほしいと考えています。中でも後輩を育てる力、もっといえば、自分自身の優れた技術を後輩に伝えられるような人材に育っていってほしいと思っています。
障がい者と共に働き、彼らと一緒に時を過ごせるようにする
今後、考えているのは事業を通じた地域貢献になります。現在の社員は全員、地元採用で、地域の雇用創出を担っているという見方もできますが、まだまだできることはもっとたくさんあると考えています。
社員のお子さんが、職場見学で来社した時には、お子さんからのインタビューに答えたり、一緒に工場の中を見学したりしています。その際、お子さんにはお父さんやお母さんの担っているお仕事一つ一つが社会にどう貢献しているかを伝えるようにしています。今後は地元の小学生や中学生の工場見学の受け入れも積極的に行っていきたいと考えています。
過去にはろう学校の生徒と先生が、職場体験をさせてもらいたいとお見えになった事があります。常々私もそういう社会貢献をしたいと思っていたので、喜んでお呼びしました。 知的障害や体の障害のある方が、弊社でいろいろ経験され、それが人生にプラスになってくれたらいいなと思っています。過去には一週間の職場体験を社員のサポートの元、実施したこともあります。将来的なビジョンとしては、障がい者の方が社員として働ける会社にもしていきたいと考えています。もちろん茨城の最低賃金以上の給料を保障し、きちんとボーナスもお支払いし、さらに福利厚生も他の社員と変わらずに雇用したいと思っています。そういう人たちと仕事を通じて一緒の時間を過ごせることは、とても素晴らしいことだと思っているからです。
「出来ますか?」の投げかけに「イエス」と必ず応えたい
東京進出も現在検討中の経営課題です。ただし、「工場は茨城」という部分にはこだわっていきたいと思っています。進出するのはあくまでも「営業拠点」と考えています。やはり東京はマーケットが茨城よりもずっと大きいので、もっと大きく展開していきたいと思っています。それから取引の件数をもっともっと増やしていくことも必要だと考えています。一件、一件の売上は高くなくて構わないので、取引の件数を増やしていきたいです。
「特定のお客様への依存体質をなくす」ことや「リスク分散」という意味合いもありますが、それ以上に、いろいろなお客様をお相手にしていくことこそが、成長の最短ルートだと考えているからです。お相手となる業界ごとに求められるものが違ってきますし、知識や意識を高めていかねばならなくなります。そして最終的には取引先からの「これできますか?」という投げかけに「ノー」ではなく「イエス」と答えられる会社にしていきたいと考えています。 「これは早川金属に任せておけば大丈夫だ」「早川金属に相談しよう」といった声が全国的に広がって欲しいと考えています。
後継者不在の同業者の「技術」を受け継ぎます
M&Aについては、同じ業種からの要望には応えていきたいと考えています。私の周りでも、後継者不在のために廃業したというケースを見聞きします。豊富な経験と高い技術を持っていた人が別の職を探さなければならなくなるのは、すごくもったいないと思います。それが今の時代だと言えばそれまでですが、弊社としてできることはしていきたいという思いがあります。後継者がいなくて、廃業を検討されているものづくりを行う会社があれば、弊社はすぐにでも手を挙げます。
高度経済成長期に東京で創業。その後、埼玉を経て茨城へ
弊社は1964年4月、私の父が東京都葛飾区堀切で創業いたしました。父は福島県のお寺の次男として生まれ、長男が寺を継いだことを契機に東京で金属加工業を営んでいた親戚を頼って上京しています。その当時、日本は高度経済成長期の真っ只中で、20歳を過ぎた父は葛飾区堀切に工場を建てて独立しました。当初は親戚の会社の下請け仕事がメインだったものの、他の会社からの仕事も請け負うようになり、事業は順調に成長していきます。
そのうち従業員も1人、2人と増え、機械が大型化してきたため、1967年4月に同じ葛飾区内西亀有に工場を移転しました。その後、西亀有、埼玉県八潮市と移転を繰り返し、現在の茨城県小美玉市に落ち着きます。小美玉市に移転してきた当時は、常磐道とそれに続く首都高速道路の工事が進められており、福島出身の父にとって、ふるさと・福島へと続く常磐道が通る小美玉市に親近感や縁を感じたのかもしれません。
家業をすぐには継がずに同業種に就職
二代目の私は、葛飾区に工場があった頃に生まれました。家と会社が一体化したような小さな工場で、毎日、大人たちが一生懸命になって仕事しているところを目にしながら子供時代を過ごしました。当時の葛飾区は、小さな町工場を“家業”に持つ家庭が多かったので、特別な思い出というよりは「当たり前」の光景として記憶に残っています。
私には姉が1人いますが、当時は長男が家業を継ぐことが当たり前とされる時代だったので、親は私に家業を継がせたいと思っていたようです。ただ、当の私は家業を継ぐのではなく、違う世界を見てみたいと考えていました。実際に高校卒業後、私はコンピューターや情報技術を学ぶ専門学校に進みました。家業に繋がらないことを学ぶ専門学校に進んだのは、心の奥底にある「いつかは家業を継がなければならない」という義務感のような気持ちにあらがいたかったからなのだと思います。ちなみに高校3年生の時に工場は茨城に移転しましたが、私と姉は埼玉県八潮市に残り、姉は就職、私は新宿の専門学校に2年間通いました。そして専門学校の卒業を控えたタイミングで私は茨城の実家に戻ります。ただし、家業を継ぐためではなく、東京の猛烈な通勤ラッシュを避け、実家から通える範囲で就職をしたいというのが戻った理由でした。
4年間の修行期間を経て家業を継ぐことを決意
茨城での就職先は家業と同業の金属加工会社でした。そこで4年間お世話になる中で、家業と同じ仕事に接し、スキルを学んでいくうちに、家業を継ぐ覚悟が生まれてきました。そして25歳の時に退職し、家業である弊社に入社しました。
私が入社した頃、工場は今よりも小さい建屋で、社員7、8名と家族経営が少し大きくなった程度でした。しばらくして私は専務となり、38歳になった時に父から社長業を引継ぎました。とはいえ、父からの引継ぎの申し出は突然で、正直戸惑うこともありましたが、いつかは社長の交代が必要で、それは可能な限り早い方がいいと思い、そのタイミングで決断しました。
リーマンショックを契機に会社が成長
私が社長に就任して数年後の2008年に、リーマンショックが起こりました。日本でも株価が大暴落し、不況の風が吹き荒れました。この未曾有の大不況が弊社にとっては一大転換期となり、事業拡大のきっかけとなったのです。
当時、不況に喘ぐ多くの企業は、優秀な技術者や職人を大量に解雇しました。一方、弊社では、解雇された人たちを積極的にお声がけして、その技術を遺憾なく発揮してもらえる環境を整えました。
その時の私の頭の中にあったのは「従業員全員とその家族全員の生活を守らなくていけない」という責任感でした。一度採用したなら、そこに責任が生じるのは当たり前ですが、どうしたら気持ちよく力を発揮してもらえるかと常に考えていた日々でした。その結果が会社のステップアップです。弊社に働きに来てくれる人たちの能力は高く、それを結集できたことが、リーマンショックを乗り越え、さらなる成長のきっかけにできた理由だと思っています。
私がこのような考えになったのは父や母が従業員を大切にする姿を見ていたからだと思います。その光景を小さい頃から見ていた私には自然と同じ考えが宿っていたのかもしれません。
安定経営を目的に営業部門を立ち上げる
父は創業当時、2社の大口取引先の下請けという形で事業展開をしていましたが、そのうちの1社がある時、不渡りとなりました。私が幼稚園くらいの頃です。数十社の中の1社ならまだ影響は少なかったかもしれませんが、わずか2社の中の1社ということで、弊社の経営は大打撃を受け、倒産寸前の状況まで追い込まれました。結果的にいろいろな支援をいただき、倒産だけは免れることができましたが、その教訓から父はいろいろな業界、会社とお付き合いをするようになりました。
私に代替わりしてからは、営業部門を立ち上げました。約10年前のことで、会社の規模がさらに大きくなったため、取引先を拡大していくためのより強い営業力が必要になったことがその理由です。その時を契機に作り手として腕を磨くだけなく、営業としてお客様にしっかり届けることも重要だということで、製造と営業の双方に力に入れていく方針に切り替えました。
弊社のような中小企業では、社長や専務など経営者が営業を兼ねているのが実情ですが、それではできることも限られてきますので、弊社では営業職を2名配置しています。いわゆる受注目的の営業活動だけでなく、東京ビッグサイトなどで実施される展示会に出展するなどして、積極的に認知度アップに繋がる広報活動と新規顧客の開拓を行っています。
弊社には自社ブランド、オリジナルの商品はありません。オリジナルがないのであれば、どんなオーダーにも応える技術力、対応力でブランディングを図っていきたいと思っています。お客様のご注文あってこそ成り立つ業界ですが、そこから一歩進んで、「こんなことができます」「この技術を使えばこんなことができます」ということを今以上に積極的に発信していくことが営業部門の今後の課題になってくると思います。
社員に新しい技術に触れさせることが次の仕事を呼び込む
営業部門の充実と並行して、現場ではできるだけ最新の設備を導入し、社員に最先端の技術に触れてもらいたいと考えています。機械というのは、基本的に何十年も使えるものではありますが、常に新しい機械に更新され、技術もアップデートされていきます。社員たちには、そうした技術の最前線に身を置いて欲しいと常々考えています。それが社員の育成にも繋がると思いますし、やはり最新の設備を揃えて、最先端の技術に触れ、商品として提供していくことが、新しい仕事を呼ぶと考えています。
会社の規模は小さくても福利厚生は大企業並みに
弊社が特に力を入れているのは福利厚生です。「会社の規模は小さくても、福利厚生は大企業並みにする」をモットーに取り組んでいます。例えば、社員には1年に1回、健康診断ではなく人間ドックを受けてもらっており、希望者には脳ドックや大腸検査も受けてもらっています。もちろん費用は全て会社の負担です。
ボーナスは業績により年3回支給し、最近では物価高騰手当も出しています。「社員が豊かにならないと、会社も伸びていかない」という考えがあるからです。また、弊社は従業員に助けられてここまで来られたと思っているので、経営者としてその気持ちは絶対に忘れてはいけないと肝に銘じています。
社員全員の家庭に1個ずつクリスマスケーキを配るのも毎年の恒例行事です。幹事の社員がサンタクロースとトナカイの格好をして、事前にカタログから選んでもらったケーキを会社で配っていますが、社員のお子さんが「お父さん、お母さん、楽しそうな会社で働いてるなぁ」と思ってもらえたら、こんなに嬉しいことはありません。 社員本人にも「この会社に就職してよかった」「居心地がいい」と思ってもらえたならば私が考える経営の「成功」です。会社の規模は小さくても、社員をしっかりと大切にできる会社であり続けたいと思いっています。
求められるのは個の力とチームワーク。特に後輩を育てる力が大事
弊社の特徴であり、強みといえるのが、現場社員のジョブローテーションです。現場で使うすべての機械の加工プログラムから、操作まで、全社員ができるようになっています。一般的な工場では、機械の操作は全員ができたとしても、加工プログラムまでは出来ないことが大半で、さらに機械によっては操作自体ができないということも珍しくありません。弊社では入社した時から、全員が加工プログラムまでできるように教育しており、現場の仕事を1から10まで一通り出来る人材が社員の数だけいるので、大きな強みとなっています。そしてもう1つ大切にしているのが、チームワークです。個の力も大事ですが、やはりチームワークが育める人材になってほしいと考えています。中でも後輩を育てる力、もっといえば、自分自身の優れた技術を後輩に伝えられるような人材に育っていってほしいと思っています。
障がい者と共に働き、彼らと一緒に時を過ごせるようにする
今後、考えているのは事業を通じた地域貢献になります。現在の社員は全員、地元採用で、地域の雇用創出を担っているという見方もできますが、まだまだできることはもっとたくさんあると考えています。
社員のお子さんが、職場見学で来社した時には、お子さんからのインタビューに答えたり、一緒に工場の中を見学したりしています。その際、お子さんにはお父さんやお母さんの担っているお仕事一つ一つが社会にどう貢献しているかを伝えるようにしています。今後は地元の小学生や中学生の工場見学の受け入れも積極的に行っていきたいと考えています。
過去にはろう学校の生徒と先生が、職場体験をさせてもらいたいとお見えになった事があります。常々私もそういう社会貢献をしたいと思っていたので、喜んでお呼びしました。 知的障害や体の障害のある方が、弊社でいろいろ経験され、それが人生にプラスになってくれたらいいなと思っています。過去には一週間の職場体験を社員のサポートの元、実施したこともあります。将来的なビジョンとしては、障がい者の方が社員として働ける会社にもしていきたいと考えています。もちろん茨城の最低賃金以上の給料を保障し、きちんとボーナスもお支払いし、さらに福利厚生も他の社員と変わらずに雇用したいと思っています。そういう人たちと仕事を通じて一緒の時間を過ごせることは、とても素晴らしいことだと思っているからです。
「出来ますか?」の投げかけに「イエス」と必ず応えたい
東京進出も現在検討中の経営課題です。ただし、「工場は茨城」という部分にはこだわっていきたいと思っています。進出するのはあくまでも「営業拠点」と考えています。やはり東京はマーケットが茨城よりもずっと大きいので、もっと大きく展開していきたいと思っています。それから取引の件数をもっともっと増やしていくことも必要だと考えています。一件、一件の売上は高くなくて構わないので、取引の件数を増やしていきたいです。
「特定のお客様への依存体質をなくす」ことや「リスク分散」という意味合いもありますが、それ以上に、いろいろなお客様をお相手にしていくことこそが、成長の最短ルートだと考えているからです。お相手となる業界ごとに求められるものが違ってきますし、知識や意識を高めていかねばならなくなります。そして最終的には取引先からの「これできますか?」という投げかけに「ノー」ではなく「イエス」と答えられる会社にしていきたいと考えています。 「これは早川金属に任せておけば大丈夫だ」「早川金属に相談しよう」といった声が全国的に広がって欲しいと考えています。
後継者不在の同業者の「技術」を受け継ぎます
M&Aについては、同じ業種からの要望には応えていきたいと考えています。私の周りでも、後継者不在のために廃業したというケースを見聞きします。豊富な経験と高い技術を持っていた人が別の職を探さなければならなくなるのは、すごくもったいないと思います。それが今の時代だと言えばそれまでですが、弊社としてできることはしていきたいという思いがあります。後継者がいなくて、廃業を検討されているものづくりを行う会社があれば、弊社はすぐにでも手を挙げます。
会社概要
社名 | 有限会社早川金属工業 |
創立年 | 1964年 |
代表者名 | 代表取締役社長 早川順也 |
資本金 | 300万円 |
本社住所 |
319-0123 茨城県小美玉市羽鳥1898-36 |
事業内容 | NC旋盤 金属精密加工(空調機器部品・弱電部品・ガス機器部品・自動車部品・医療機器部品・産業機品関係など) |
URL |
https://www.hayakawakinzoku.com/
|
会社沿革
1964年 | 東京都葛飾区堀切に工場設立 |
1967年 | 東京都葛飾区西亀有に工場移転 |
1979年 | 埼玉県八潮市に工場移転 |
1989年 | 茨城県小美玉市に工場移転 |
1994年 | 工場増設 |
2003年 | 第二工場増設 |
有限会社早川金属工業の経営資源引継ぎ募集情報
公開日:2023/02/13
※本記事の内容および所属名称は2023年2月現在のものです。現在の情報とは異なる場合があります。