高山
高山市
引継ぎ実績あり
飛騨高山に本社を構える地元唯一の電設資材卸売会社
高山電材株式会社
誠実な経営で地域社会と電気業界の共栄を願う「和親一致」の精神
経営理念
経営方針
- 企業は常に社会から喜ばれる存在であらねばならない
- 会社の永遠を希うため、適正な利益の確保が必要であり、利益は税金と云う型で、国と社会に貢献することが義務である
- 会社は、社員と経営者と株主の生活を維持向上するために、継続的に発展しなければならない
- 報酬はお得意様、仕入先様より頂くものと考え、常に感謝の念を持つこと
- 目的を達成するために、社員は和親一致し、力闘向上の精神が必要である
代表者メッセージ
1947年に創業し、岐阜県高山市に本社を置く電設資材卸売業です。
「快適生活、快適環境、快適作業」をモットーとして、照明、空調をはじめ、家庭用から業務用、公共施設用の電設資材、設備機器を幅広く取り扱っております。
弊社は、戦後の電気設備や電化製品のニーズの高まりとともに、成長を続けてまいりました。
創業時から引き継がれてきた誠実な経営と、積み重ねてきた信頼関係や人とのつながりが弊社の大きな強みとなっています。
激動の時代を迎え、自社と業界、地域の共栄のために、グループ連携によるワンストップサービスとより広いエリアでの顧客満足を進めていきます。
弊社が生まれた地元、岐阜、飛騨の地を、次の世代のために守り育んでいきます。
代表取締役社長 杉山 和宏
私たちのこだわり
戦後の電気設備のニーズを受け成長
弊社は、戦後間もない1947年に私の祖父が創業しました。祖父は戦地からの帰還後に、出身地の岐阜市に戻ろうと思っていましたが、岐阜市は終戦間際の空襲で市街地の約7割を焼失するなどの大きな被害を受けていたため、母方の実家を頼って高山市で暮らすことになりました。
そして高山市で就職し働き始めたところ、年齢が近い職場の仲間2人と意気投合し、3人で新たに電気製品の販売、設置施工の会社を立ち上げることにしたそうです。電気設備の仕事を選んだのは、従軍中に得た知識や経験を活かせそうだったからだと聞いています。
国内では戦後の復旧が進み、一般家庭でも電化製品が使われるようになっていきましたが、高山エリアは山深い地域のためどこに行くにしても時間がかかり、電化製品や資材が手に入りづらい環境でした。祖父らは、仕入れのために岐阜市や名古屋、遠くは大阪まで行き、製品の販売から取付工事まで手がけていたそうです。
2度の分社により業務効率化と専門性の改善を図る
創業から数年後、松下電工、松下電器産業(現:パナソニック株式会社)と代理店契約を結び、電設資材の卸売と並行して家電製品の卸売を開始しました。松下電器が全国に販売網を展開したタイミングとうまく合致したことで、事業は順調に成長していきました。10年ほど経ったころ、各部門の専門性を高めながら業務を効率化するために、販売部門と工事部門を別会社として分割することとなりました。祖父と創業時の仲間の2人は家電製品、電設資材の卸売会社、もう1人の仲間は電気工事の会社を率いていくことになりました。1969年には、より事業の成長を促すため、電設資材卸売と、家電製品卸売とで再び会社を分割し、業務効率化を目指すこととなりました。このときに分割されたで電設資材卸売の会社が現在の「高山電材株式会社」となり、引き続き祖父が経営を指揮することとなりました。
祖父の早逝後、祖母と母がつないだバトンを受け取り社長に就任
その後も事業は堅調に推移していましたが、1982年には祖父が62歳の若さで急逝してしまいました。そこで家電製品販売会社は創業メンバーのもう1人が代表となり、娘婿である私の父はそちらを担うこととなりました。また、電材会社は主婦だった祖母が急遽社長に就任することになりました。祖母には電気設備や経営の知識はありませんでしたが、景気の良さとベテランの社員に支えられ経営を続けることができました。祖母が年をとってからは、母がその後を継ぎ、会社の維持に努めました。
祖父が亡くなったのは、私が10歳のときでした。自宅は会社の近隣にあり、私は祖父母や両親が経営者として働く姿を見ながら育ったことで、ごく自然に会社を継ぐことを意識するようになりました。大学進学後は、修行としてメーカーや系列会社で働きながら、家業承継のための経験を積んできました。
入社にあたっては、私が母の会社である高山電材に入り、3歳下の弟は父の会社に入社することにしました。兄弟で特に揉めることなく役割を分担できたのは、何としてでも会社を存続させるという共通認識があったからかもしれません。そして私は2000年に高山電材に入社し、9年間母と伴走したのちに社長に就任しました。
周囲を山に囲まれた箱庭的なエリアで長年積み重ねてきた信頼が強み
現在、社長を務める私は、創業の系譜としては4代目、高山電材の社長としては3代目となります。祖母や母は経営の維持に努めていましたが、バブル崩壊やデフレ市場などの影響を受け業績は低迷していました。私は、入社当初から立て直しに追われ「しまった、こんなに大変なのか」と少し後悔したこともあります。苦労はしましたが、長い時間をかけて築き上げられたお客様との信頼関係に助けられ、何とかここまで続けることができました。
弊社の所在地である高山市は、東京都とほぼ同じ面積の中にわずか8万人が暮らす山岳地域です。周囲は広大な山に囲まれ、県庁のある岐阜市や、隣接する県外の富山市や松本市まで車で2時間はかかるような環境です。そうした箱庭のような環境も手伝って、人や企業同士の親密な関係性の上に地域社会が形成されているため、何よりも地域の信頼を損なわない、誠実な商売が大切になります。
高山市を中核とする岐阜県北部、飛騨地域においては、同業他社の拠点は他にもありますが、本社を構えているのは弊社のみです。創業以来、75年以上にわたり地域密着で営業を続けてきたことで、先々代から付き合いがある取引先も少なくありません。創業時から引き継がれてきた誠実な経営と、積み重ねてきた信頼関係や人とのつながりが弊社の大きな強みとなっています。
普段の会話と祖父の経営方針により自社の風土を育てる
弊社の社員数は現在44名です。社員とのコミュニケーションを重視し、本社事務所ではワンフロアに全社員の席を設け、全体を見渡すことができるようにしています。
社長室や技術系の部署は、以前は別の階にありましたが、社員と目線を一緒にしたいという私自身の思いから、社長就任時にレイアウトを変更しました。これにより、お客様の来店頻度の増減や、社員の雰囲気、どの部署が忙しいかなどが把握しやすくなり、また、違う部署の社員同士でも声をかけ合えるなど、コミュニケーションや連携がとりやすくなったと思います。
社内のコミュニケーションを重視する一方で、無駄な会議はできる限り行わないようにしています。無理に会議を開いても生産性は上がらないという私の考えからです。普段の会話で交流し、会議では建設的な話題を話してすぐ終わらせようと考えています。
また、全体会議は年2回開催し、弊社の経営方針を全員で読み合わせることで、社内の意思統一を図っています。経営方針には「和親一致」「力闘向上」など、旧松下電器の影響が色濃く残る文言が入っていますが、「当たり前のことに堅実に取り組む」という考え方には共感しています。
この経営方針は、私の入社前は社長室に掲げてあるだけで、読み合わせなど行っていないようでしたが、経営の骨子として改めて前面に押し出し、迷った時に回帰できるよう定めることで、環境変化にぶれない心を社員の中に育てたいと考えています。
10年後を見据えた社内高齢化への対応が喫緊の課題
今後クリアしたい課題としては、社内の高齢化が挙げられます。現時点では、信頼できるベテランの力により非常にスムーズに仕事が回っていますが、20代30代の若手が少ないため、5年後、10年後にはこれまで引き継がれてきたノウハウや信頼が失われてしまいかねません。
ハローワーク等で求人を出してもなかなか人が集まらないため、地元の人脈を活用してなんとか人を集めているところです。
近年は、採用を進めるうちに、業界未経験の新入社員にゼロから勉強してもらう機会も増えました。社員の育成において、電設資材、住宅設備に関する技術や知識は、資格取得やメーカーの研修で学ぶことで身に付けることができますが、お客様との付き合い方や現場対応などの、実感や経験にもとづく知見はマニュアル化が困難であり、引き継ぎが非常に難しいと感じています。今のところ、新入社員には、優秀な先輩社員に横で見てもらいながら、現場で経験を積んでもらい、手厚くサポートしてもらう形で育成を続けています。
地域密着と事業拡大の両立を目指す
本社のある高山市は、江戸時代の建物や景観がほぼそのまま残る「古い町並み」や雄大な自然が評価され、年間400万人を超える観光客が訪れています。近年では外国人観光客、いわゆるインバウンド需要も高まっており、それを見越した大型ホテルの建設も続いています。
しかし、大手企業による建設工事では、施工業者も、現場で使う資材も、大手傘下の取引先が請け負うため、地元の中小企業の直接的な仕事にはなかなかつながりません。人や資源の限られたこの高山エリアで、弊社のような中小企業が生き残っていくためには、大手に立ち向かうよりも、大手や地域の他社との共存の道を模索し、自社も変化していく必要があると思い至りました。
他地域の業者が建設の電設工事に携わっても、施設のメンテナンスやトラブル時の修理対応は、すぐに駆けつけられる地元業者の方が有利です。そういった他地域の業者の手の届かない部分をサポートしていくことで、これまで付き合いのなかった地域の会社や大手との接点や信頼を得ていきたいと考えています。
他県や他地域からの大手企業ともつながりを作りつつ、長年にわたり信頼を積み重ねてきた地域での仕事を両立させることで会社をさらに発展させ、地域の雇用と経済を守っていくことが今後の目標となっています。
あまり表には出ない地味な業種ではありますが、便利で豊かな生活を支える裏方として地域で必要とされ、これまで会社を続けることができました。
しかし、この電設業界も同業やお客様の高齢化が進み、弊社と取引がある工事業者の中にも、後継者不在でいずれは事業を畳む予定だという会社や、収益が見込めず都市部に移転してしまう会社が増えています。弊社では、地域貢献の一端として、電設業界の人材の受け皿となり、地域と業界に貢献したいと考えているところです。
グループ会社との連携強化によるワンストップサービスを構想
弊社のグループ会社には「株式会社ディックナレッジテクノ」という会社があります。元は弊社の「通信特機部」という部署の一部門でしたが、コンピュータの普及に伴い1987年に分社化しました。完全子会社として私が社長を兼務しています。
ディックナレッジテクノは、コンピュータ分野に特化しており、企業向けのPC、FAX複合機などの各種OA機器、ソフトウエアやネットワークの販売、設置・施工、保守を主な事業としております。公共や企業向けにおいては電気と通信が一体となって発注されることも多く、高山電材と連携して取り組んでいます。
近年は、ワンストップサービスの需要が高まっていることから、ディックナレッジテクノとうまくシナジーが発揮できるよう連携体制を構築していきたいと考えています。
祖父の故郷への思いを実績と信頼により実現したい
高山エリアのような狭い地域で事業領域を広げることは、サプライチェーン上ではお客様だった会社と敵対することになってしまいます。お客様からの信頼を失うことは、自社の歴史を失うことでもあります。
そのため、地元での電設資材卸売業を堅実に続けつつ、岐阜県の南エリアに商圏を広げ、新たな市場の開拓を目指しています。現在は郡上市に加え、各務原市にも営業拠点を構えています。各務原市には大手メーカーの工場があり、マーケットの大きな愛知県に近いため、経営上のリスク分散にも適していると考えました。
各務原に拠点を設けたのは、弊社のお客様である工事業者様の動向に合わせた結果でもあります。地元に仕事が薄くなった場合に、岐阜県南部や愛知県の仕事を請け負うことが増えているからです。現在のお客様をより広域でサポートできる体制を築いていきたいと考えています。また、祖父の生前の願いを叶えてあげたいという意味合いもあります。祖父は、戦後やむなく離れた故郷の岐阜市に少しでも近づきたい思いがあったようで、岐阜市近くに拠点をつくっては撤退するを何度か繰り返していました。祖父が残してくれた会社を大きくしながら、祖父の思いを実現し、拠点を置く地域で実績を残していくことで、信頼を得ていきたいと思っています。弊社が拠点を置く地域で「後継者がいない」とお困りの会社と手をとり合い、一緒に挑戦していくことで、サプライチェーンの企業と人を守りつつ、自社を強化していきたいと思っています。
戦後の電気設備のニーズを受け成長
弊社は、戦後間もない1947年に私の祖父が創業しました。祖父は戦地からの帰還後に、出身地の岐阜市に戻ろうと思っていましたが、岐阜市は終戦間際の空襲で市街地の約7割を焼失するなどの大きな被害を受けていたため、母方の実家を頼って高山市で暮らすことになりました。
そして高山市で就職し働き始めたところ、年齢が近い職場の仲間2人と意気投合し、3人で新たに電気製品の販売、設置施工の会社を立ち上げることにしたそうです。電気設備の仕事を選んだのは、従軍中に得た知識や経験を活かせそうだったからだと聞いています。
国内では戦後の復旧が進み、一般家庭でも電化製品が使われるようになっていきましたが、高山エリアは山深い地域のためどこに行くにしても時間がかかり、電化製品や資材が手に入りづらい環境でした。祖父らは、仕入れのために岐阜市や名古屋、遠くは大阪まで行き、製品の販売から取付工事まで手がけていたそうです。
2度の分社により業務効率化と専門性の改善を図る
創業から数年後、松下電工、松下電器産業(現:パナソニック株式会社)と代理店契約を結び、電設資材の卸売と並行して家電製品の卸売を開始しました。松下電器が全国に販売網を展開したタイミングとうまく合致したことで、事業は順調に成長していきました。10年ほど経ったころ、各部門の専門性を高めながら業務を効率化するために、販売部門と工事部門を別会社として分割することとなりました。祖父と創業時の仲間の2人は家電製品、電設資材の卸売会社、もう1人の仲間は電気工事の会社を率いていくことになりました。1969年には、より事業の成長を促すため、電設資材卸売と、家電製品卸売とで再び会社を分割し、業務効率化を目指すこととなりました。このときに分割されたで電設資材卸売の会社が現在の「高山電材株式会社」となり、引き続き祖父が経営を指揮することとなりました。
祖父の早逝後、祖母と母がつないだバトンを受け取り社長に就任
その後も事業は堅調に推移していましたが、1982年には祖父が62歳の若さで急逝してしまいました。そこで家電製品販売会社は創業メンバーのもう1人が代表となり、娘婿である私の父はそちらを担うこととなりました。また、電材会社は主婦だった祖母が急遽社長に就任することになりました。祖母には電気設備や経営の知識はありませんでしたが、景気の良さとベテランの社員に支えられ経営を続けることができました。祖母が年をとってからは、母がその後を継ぎ、会社の維持に努めました。
祖父が亡くなったのは、私が10歳のときでした。自宅は会社の近隣にあり、私は祖父母や両親が経営者として働く姿を見ながら育ったことで、ごく自然に会社を継ぐことを意識するようになりました。大学進学後は、修行としてメーカーや系列会社で働きながら、家業承継のための経験を積んできました。
入社にあたっては、私が母の会社である高山電材に入り、3歳下の弟は父の会社に入社することにしました。兄弟で特に揉めることなく役割を分担できたのは、何としてでも会社を存続させるという共通認識があったからかもしれません。そして私は2000年に高山電材に入社し、9年間母と伴走したのちに社長に就任しました。
周囲を山に囲まれた箱庭的なエリアで長年積み重ねてきた信頼が強み
現在、社長を務める私は、創業の系譜としては4代目、高山電材の社長としては3代目となります。祖母や母は経営の維持に努めていましたが、バブル崩壊やデフレ市場などの影響を受け業績は低迷していました。私は、入社当初から立て直しに追われ「しまった、こんなに大変なのか」と少し後悔したこともあります。苦労はしましたが、長い時間をかけて築き上げられたお客様との信頼関係に助けられ、何とかここまで続けることができました。
弊社の所在地である高山市は、東京都とほぼ同じ面積の中にわずか8万人が暮らす山岳地域です。周囲は広大な山に囲まれ、県庁のある岐阜市や、隣接する県外の富山市や松本市まで車で2時間はかかるような環境です。そうした箱庭のような環境も手伝って、人や企業同士の親密な関係性の上に地域社会が形成されているため、何よりも地域の信頼を損なわない、誠実な商売が大切になります。
高山市を中核とする岐阜県北部、飛騨地域においては、同業他社の拠点は他にもありますが、本社を構えているのは弊社のみです。創業以来、75年以上にわたり地域密着で営業を続けてきたことで、先々代から付き合いがある取引先も少なくありません。創業時から引き継がれてきた誠実な経営と、積み重ねてきた信頼関係や人とのつながりが弊社の大きな強みとなっています。
普段の会話と祖父の経営方針により自社の風土を育てる
弊社の社員数は現在44名です。社員とのコミュニケーションを重視し、本社事務所ではワンフロアに全社員の席を設け、全体を見渡すことができるようにしています。
社長室や技術系の部署は、以前は別の階にありましたが、社員と目線を一緒にしたいという私自身の思いから、社長就任時にレイアウトを変更しました。これにより、お客様の来店頻度の増減や、社員の雰囲気、どの部署が忙しいかなどが把握しやすくなり、また、違う部署の社員同士でも声をかけ合えるなど、コミュニケーションや連携がとりやすくなったと思います。
社内のコミュニケーションを重視する一方で、無駄な会議はできる限り行わないようにしています。無理に会議を開いても生産性は上がらないという私の考えからです。普段の会話で交流し、会議では建設的な話題を話してすぐ終わらせようと考えています。
また、全体会議は年2回開催し、弊社の経営方針を全員で読み合わせることで、社内の意思統一を図っています。経営方針には「和親一致」「力闘向上」など、旧松下電器の影響が色濃く残る文言が入っていますが、「当たり前のことに堅実に取り組む」という考え方には共感しています。
この経営方針は、私の入社前は社長室に掲げてあるだけで、読み合わせなど行っていないようでしたが、経営の骨子として改めて前面に押し出し、迷った時に回帰できるよう定めることで、環境変化にぶれない心を社員の中に育てたいと考えています。
10年後を見据えた社内高齢化への対応が喫緊の課題
今後クリアしたい課題としては、社内の高齢化が挙げられます。現時点では、信頼できるベテランの力により非常にスムーズに仕事が回っていますが、20代30代の若手が少ないため、5年後、10年後にはこれまで引き継がれてきたノウハウや信頼が失われてしまいかねません。
ハローワーク等で求人を出してもなかなか人が集まらないため、地元の人脈を活用してなんとか人を集めているところです。
近年は、採用を進めるうちに、業界未経験の新入社員にゼロから勉強してもらう機会も増えました。社員の育成において、電設資材、住宅設備に関する技術や知識は、資格取得やメーカーの研修で学ぶことで身に付けることができますが、お客様との付き合い方や現場対応などの、実感や経験にもとづく知見はマニュアル化が困難であり、引き継ぎが非常に難しいと感じています。今のところ、新入社員には、優秀な先輩社員に横で見てもらいながら、現場で経験を積んでもらい、手厚くサポートしてもらう形で育成を続けています。
地域密着と事業拡大の両立を目指す
本社のある高山市は、江戸時代の建物や景観がほぼそのまま残る「古い町並み」や雄大な自然が評価され、年間400万人を超える観光客が訪れています。近年では外国人観光客、いわゆるインバウンド需要も高まっており、それを見越した大型ホテルの建設も続いています。
しかし、大手企業による建設工事では、施工業者も、現場で使う資材も、大手傘下の取引先が請け負うため、地元の中小企業の直接的な仕事にはなかなかつながりません。人や資源の限られたこの高山エリアで、弊社のような中小企業が生き残っていくためには、大手に立ち向かうよりも、大手や地域の他社との共存の道を模索し、自社も変化していく必要があると思い至りました。
他地域の業者が建設の電設工事に携わっても、施設のメンテナンスやトラブル時の修理対応は、すぐに駆けつけられる地元業者の方が有利です。そういった他地域の業者の手の届かない部分をサポートしていくことで、これまで付き合いのなかった地域の会社や大手との接点や信頼を得ていきたいと考えています。
他県や他地域からの大手企業ともつながりを作りつつ、長年にわたり信頼を積み重ねてきた地域での仕事を両立させることで会社をさらに発展させ、地域の雇用と経済を守っていくことが今後の目標となっています。
あまり表には出ない地味な業種ではありますが、便利で豊かな生活を支える裏方として地域で必要とされ、これまで会社を続けることができました。
しかし、この電設業界も同業やお客様の高齢化が進み、弊社と取引がある工事業者の中にも、後継者不在でいずれは事業を畳む予定だという会社や、収益が見込めず都市部に移転してしまう会社が増えています。弊社では、地域貢献の一端として、電設業界の人材の受け皿となり、地域と業界に貢献したいと考えているところです。
グループ会社との連携強化によるワンストップサービスを構想
弊社のグループ会社には「株式会社ディックナレッジテクノ」という会社があります。元は弊社の「通信特機部」という部署の一部門でしたが、コンピュータの普及に伴い1987年に分社化しました。完全子会社として私が社長を兼務しています。
ディックナレッジテクノは、コンピュータ分野に特化しており、企業向けのPC、FAX複合機などの各種OA機器、ソフトウエアやネットワークの販売、設置・施工、保守を主な事業としております。公共や企業向けにおいては電気と通信が一体となって発注されることも多く、高山電材と連携して取り組んでいます。
近年は、ワンストップサービスの需要が高まっていることから、ディックナレッジテクノとうまくシナジーが発揮できるよう連携体制を構築していきたいと考えています。
祖父の故郷への思いを実績と信頼により実現したい
高山エリアのような狭い地域で事業領域を広げることは、サプライチェーン上ではお客様だった会社と敵対することになってしまいます。お客様からの信頼を失うことは、自社の歴史を失うことでもあります。
そのため、地元での電設資材卸売業を堅実に続けつつ、岐阜県の南エリアに商圏を広げ、新たな市場の開拓を目指しています。現在は郡上市に加え、各務原市にも営業拠点を構えています。各務原市には大手メーカーの工場があり、マーケットの大きな愛知県に近いため、経営上のリスク分散にも適していると考えました。
各務原に拠点を設けたのは、弊社のお客様である工事業者様の動向に合わせた結果でもあります。地元に仕事が薄くなった場合に、岐阜県南部や愛知県の仕事を請け負うことが増えているからです。現在のお客様をより広域でサポートできる体制を築いていきたいと考えています。また、祖父の生前の願いを叶えてあげたいという意味合いもあります。祖父は、戦後やむなく離れた故郷の岐阜市に少しでも近づきたい思いがあったようで、岐阜市近くに拠点をつくっては撤退するを何度か繰り返していました。祖父が残してくれた会社を大きくしながら、祖父の思いを実現し、拠点を置く地域で実績を残していくことで、信頼を得ていきたいと思っています。弊社が拠点を置く地域で「後継者がいない」とお困りの会社と手をとり合い、一緒に挑戦していくことで、サプライチェーンの企業と人を守りつつ、自社を強化していきたいと思っています。
会社概要
社名 | 高山電材株式会社 |
創立年 | 1947年 |
代表者名 | 代表取締役社長 杉山 和宏 |
資本金 | 1000万円 |
事業エリア |
金山営業所
509-1622 岐阜県下呂市金山町金山2769-1 |
郡上営業所
501-5123 岐阜県郡上市白鳥町中津屋8 |
|
各務原営業所
509-0144 岐阜県各務原市鵜沼大伊木町2丁目44 |
|
本社住所 |
506-0001 岐阜県高山市冬頭町131-4 |
事業内容 | 電設資材卸売業 |
URL |
https://www.takayamadenzai.co.jp/
|
会社沿革
1947年 | 創業 |
1969年 | 高山電材株式会社 設立 |
1979年 | 金山営業所 開設 |
1987年 | 有限会社ディック(現・株式会社ディックナレッジテクノ)設立 |
1996年 | 郡上営業所 開設 |
2010年 | 各務原営業所 開設 |
高山電材株式会社の経営資源引継ぎ募集情報
関連リンク
公開日:2024/08/28
※本記事の内容および所属名称は2024年8月現在のものです。現在の情報とは異なる場合があります。