下呂
下呂市
鮮魚卸の目利きと職人の技が光る飛騨の寿司、和食、活魚小売店
株式会社シーフード・マルイ
鮮魚の流通網と立地を活かした多角化で皆をまんまる笑顔に
経営理念
お客様第一を常に心がけ、「より安く、より安全・安心なものをより早く」お届けする為、お客様の声を大切にする。
地域に無くてはならない企業を目指し、自信と誇りを持って社会に貢献する。
[お客様第一主義]×[従業員第一主義]
お客様と共に「感動・幸せ・成長」づくり
お客様が幸せになれば、自分達も幸せな心になれる
代表者メッセージ
私たち「株式会社シーフード・マルイ」は、「マルイ水産株式会社」という名古屋市中央卸売市場内の100年を超える会社の子会社としてスタートし、1992年6月に現在の下呂市に本拠地を構えて独立しました。まもなく創業32周年を迎えます。
「マルイ水産株式会社」の社名の由来は「みんながまるく行くように」「どんな事があってもまるく行くように」という願いが込められています。私たちもその想いを引き継ぎ、「シーフード・マルイ」の社名には「まんまる笑顔で幸せ」という思いを込めています。
- お客様が「まんまるの笑顔」になりますように
- 自分、またはその家族が「まんまるの笑顔」になりますように
- 私達が仕事を通じて、世界中の皆様に「まんまるの笑顔」を送れますように
この想いを胸に、食を通じて、お客様の「まんまる笑顔で幸せ」に貢献できる企業になれるよう弊社の仲間と共に努力して行きたいと思います。
代表取締役 遠藤 学
私たちのこだわり
マルイ水産の子会社化と7社合資により株式会社シーフード・マルイが創業
弊社の鮮魚卸売業としてのルーツは、名古屋市中央卸売市場のマルイ水産株式会社です。飛騨は山岳地帯であり、1997年に安房トンネルが開通する以前は、陸路や流通経路が未整備であったことから、鮮魚が仕入れづらい環境でした。そこで、下呂温泉街の旅館やホテルからの「もっと新鮮な魚を仕入たい」という強い要望を受け、100年を超える老舗企業であった名古屋のマルイ水産株式会社の子会社として1987年から営業を開始後、1992年6月にマルイ水産や下呂温泉街のホテルなど7社の出資によって、株式会社シーフード・マルイが設立されました。創業者7人のうち、合同会社カネマス食品の齋藤社長が非常勤の社長として就任し、事業をスタートすることとなりました。
独立後、観光関連業がバブル崩壊により苦境に立たされる
私は地元である下呂市に生まれ、学校を卒業した後は工場での仕事をしていました。その後、マルイ水産が下呂に出店するタイミングで一人目の社員として入社し、店長代理としての仕事を任されるようになっていきました。私自身は店舗運営や経営の経験はありませんでしたが、私の両親が会計事務所を開いていたので、財務などの数字や事務仕事は割と抵抗なく受け入れることができたのかもしれません。マルイ水産の社長や、会計事務所の先生にもご指導いただきながら、卸業としての姿勢を身につけていきました。
その後、1992年に株式会社シーフード・マルイとして独立し、私は常務に昇進することとなりました。会社の独立から10年ほどの間は、引き続き旅館やホテルなどへの卸売だけを行っていましたが、ちょうどバブルが弾けた時期だったこともあり、旅行客が減少し魚の卸先であった旅館やホテルも大変な苦境に立たされていました。卸先の仕入量も激減し、苦しい状況から抜け出せず、独立から10年が経った頃には弊社の経営状況は債務超過となっていました。
債務超過の状況を脱するべく、2001年に新事業として回転寿司店をオープンすることにしました。当時のメンバーは、非常勤の社長と専務と常務の私、社員2人の計5人でした。卸売は中間業者であるため、エンドユーザーであるお客様の顔が見えず、直接アプローチをしにくい立場です。回転寿司であれば、魚の目利きや仕入といった卸業の経験を活かし、自力でエンドユーザーへの働きかけができると考え、当時専務であった倉地と二人で回転寿司のリサーチを進めていきました。
その後、倉地専務が既存の卸業を担当し、私が回転寿司の新事業を任されることとなりました。飲食業は、高校生の時にレストランでアルバイトをした程度であり、自分が接客業に就くとは思ってもいなかったので知識も経験知もほとんどなく試行錯誤の連続でした。また、弊社の卸先であるお客様には寿司屋や飲食店も多く、弊社が競合となることで取引先がなくなってしまうかもしれないという不安もありました。しかし、会社を守るためには新事業を成功させる他に道はなく、誰よりも一番長く働いてきたこの会社を守りたい、今後も大事にしていきたいという気持ちが背中を押しました。
回転寿司の新事業立ち上げのため、資金調達とノウハウの習得に奔走
運転資金の借入の際には、債務超過の状態が続いていたことから、どこの銀行に行っても首を縦には振ってもらえませんでした。そこで、当時下呂農協(現・飛騨農協)の理事を務めていた私の父や齋藤社長の計らいもあり理事長に直接融資のお願いをさせていただきました。私の熱意が伝わり、何とか資金を融資していただくことができました。
また私自身は寿司を握ったことがなかったので、技術を得るべく名古屋市中央卸売市場で働く友人に相談をしました。仲間からは、鮮魚販売・回転寿司店の繁盛店を紹介してもらい、握りの技術だけではなく店舗経営に関することなど、さまざまなノウハウを教えていただきました。さらに、店舗オープン時にはそのお店からスタッフを派遣していただくなどのご厚意もあり、本当に多くの方や友人に助けられました。
並行して、職人や社員スタッフのリクルート活動にも力を入れました。魚介類専門の卸売業は男性中心の職業でしたが、回転寿司やレストランなどの飲食業は、女性スタッフの力が必要となります。女性に働いてもらうための環境や採用基準がわからず苦労するなど、新事業の立ち上げは、会社を1社設立できるほどの労力がかかることを、身をもって学びました。
開店約1年で黒字化を果たし、テイクアウトでコロナ禍を乗り切る
2001年には1号店である『活き魚回転寿司 魚鮮 下呂店』をオープンすることができました。『魚鮮』のオープン初日には、下呂温泉街の旅館オーナーや料理長からも率直なご意見をいただきたいと考え、招待しました。卸業から飲食業へと拡大した弊社を良く思わない方がいるかもしれないという不安がありましたが、オープン当日は、店からあふれるほどのお祝いのお花やお酒をいただき、プロである料理長からも「これならおいしいし、いいんじゃない」とのお墨付きをいただきました。関連業者の方や、一般のお客様がおいしそうにお寿司を食べている姿を目にしたときは、とても感慨深いものがありました。
新事業の成果が表れたのは、回転寿司店のオープンから1年後の、2002年の決算期でした。卸売業は、仕入による買掛金や商品販売による売掛金が発生しやすく、取引先の経営状態の影響により回収が大幅に遅れることもあります。速やかに現金回収できる飲食分野により、経営の安定化を図ることができました。また卸売業と飲食業のセグメントとともに銀行も分けたことで、当時低迷していた卸売事業の影響を受けずに黒字転換をすることができました。
その後も、2号店である『魚鮮』三福寺店、3号店としては和食ダイニング『まるい家』をオープンし、活きのいい魚料理や寿司を提供する店舗を展開していきました。コロナ禍では、旅館、ホテルのお客様が減少し、卸売業の売上は減少、宴会が減少した和食『まるい家』の売上は厳しい状態となりましたが、回転寿司の2店舗ではコロナ以前からテイクアウトに力を入れていたため、低迷の難を逃れました。また、海のない岐阜ではお祝い事のごちそうとして寿司が定着していたため、お客様が離れずに済んだのだろうと思っています。
日本海と太平洋の中間の立地を活かした卸業と流通の優位性
飛騨地域に拠点を置く弊社としては、下呂温泉街のホテルや旅館、飲食店に支えられ、バックボーンが強いという点が長所だと考えています。加えて、卸売業により新鮮な魚介類が手に入り、自社で目利きができるという強みがあります。さらに近年は陸路や流通ルートが整備されたことで、山岳地帯の飛騨でも、太平洋と日本海の新鮮な魚をすぐに手に入れることができるようになりました。飛騨は太平洋と日本海のちょうど中央に位置する立地であり、卸業としては日本海でしかとれない魚介類を太平洋側の市場に卸し、太平洋の魚を日本海側の市場に流通させることもできるという最大の優位性があり、他県の競合には負けないだろうと考えています。
また飲食業としては、日本回転寿司協会に加入していることもあり、全国に同業の仲間や知り合いが数多くいることも強みです。この同業とのネットワークを活かした勉強会や、社内コンテストの開催により、寿司職人としての技術の研鑽や意識向上、交流を図っています。日本回転寿司協会が開催する『全日本回転寿司MVP選手権』においては、海なし県ながら、過去8大会のうち2度優勝することができました。
全社員が経営計画発表会に集中できるよう店舗を休みに
現在、弊社の社員はパート社員を含めて90名います。卸売事業のみを行い、バブル崩壊などの影響によって経営が苦しかった創業初期と比較すると、10倍以上の人数となりました。この90名の全社員に経営理念や毎年の目標を理解してもらうために、年2回の経営計画発表会を行っています。経営計画発表会では、私自身の思いや会社としての方針、社内のルール、共有事項などを全員に話しています。各店長の発表なども交えながら、会社全体がワンチームとして取り組んでいくための相互理解の場として参加してもらっています。
経営計画発表の日は、全ての店舗を休みにしています。全社員が集中して会社や仕事仲間について考える時間を設けることで、社内の意識を高めたいと考えています。加えて、経営理念などをまとめた経営計画書の冊子を毎年作成し更新して、従業員に配布をしています。毎朝の朝礼で内容の一部を読み繋ぎ、働く場所が違っていても、理念や方針を共有できるようにしています。
社員が互いを大切にし合うワンチームのあたたかい職場
経営理念においては「従業員第一主義」を掲げています。お客様を大切にすることを大前提としつつ、社員の満足度の向上にコミットすることで、より充実した、心からのサービス提供ができると考えています。
弊社には女性の従業員も多くいて、子育て中の方もいます。そのため、働く時間帯をある程度自由に調整し、休みを取りやすくするなどの配慮も欠かさずに行ってきました。現場の状況によって対応できる範囲は異なりますが、働く人が幸せでなければ、お客様を幸せにすることは難しいとの考えから、なるべく社員一人ひとりの生活に合わせるようにしています。
また、弊社で学生アルバイトとして働き、そのまま就職したスタッフも多くいます。社員が優しく、協調性がある社風だからだと考えています。入社1年目から丁寧に教えて目をかけ、先輩社員がチームの一員になっていけるように自発的にサポートをする体制が実を結んでいるのかもしれません。社員一人ひとりがフォローし合う仲間意識をもち、自然と助け合える環境となっているため、どこか家族のような雰囲気が生まれています。
弊社では外国人実習生も働いていますが、ベトナムやミャンマーなどの暖かい国の出身の方にとって、飛騨地方の寒さは大変厳しく辛いものです。社員が外国人実習生のために、自主的に毛布や洋服を持ち寄る姿もみられ、困っている人がいたらフォローし合う「ワンチーム」の組織が社員によって築かれているのを実感しています。
鮮魚卸のプロとして食品製造業、岐阜・東海エリアへの展開を検討
私たちは、新鮮でおいしい魚をお客様に届けるプロフェッショナルとして、今後も鮮魚を主軸とした事業展開を進めたいと考えています。時代の流れに合わせて既存事業をスケールアップさせつつ、チャンスがあれば食品製造業での新規事業を始めたいと思っています。現在までのビジネスモデルは、飛騨の立地やご縁を活かした事業であり、他地域に展開できる仕組みが出来上がり次第、岐阜県の他地域や東海エリアに進出したいと考えています。スピード感を付けるためには、社内の1部門を分社化し、従業員を経営者として抜擢するといった人事も必要な手段と捉えています。
岐阜県は、日本海・太平洋の鮮魚や情報が手に入る中継地点です。今後も立地や流通の強みを活かしつつ、地産地消を意識し、地元の農業を支えるお手伝いもしたいと思っています。弊社の店舗では、年間約12万俵しか生産されない希少な『飛騨コシヒカリ』を使用しています。また、市場では高値で取引される、飛騨の新鮮な高冷地野菜を使っていることも弊社の特徴です。地元の食材を弊社の職人や社員の手によっておいしく提供することで、リピーターの創出と、飛騨の活性化に少しでも貢献できたらと思っています。
岐阜県には、下呂温泉、飛騨高山を始めとした観光地が数多くあります。私どもにとっては観光ビジネスが大事な収入源であり、岐阜県に来ていただいた観光客の方に心をこめて歓迎し、また来たいと思っていただくことが、経済循環の上でも大事だと考えています。観光ビジネスは、日本においての基幹産業でもあるので、地元ならではの強みを活かして観光業にも寄与していきたいと考えています。
マルイ水産の子会社化と7社合資により株式会社シーフード・マルイが創業
弊社の鮮魚卸売業としてのルーツは、名古屋市中央卸売市場のマルイ水産株式会社です。飛騨は山岳地帯であり、1997年に安房トンネルが開通する以前は、陸路や流通経路が未整備であったことから、鮮魚が仕入れづらい環境でした。そこで、下呂温泉街の旅館やホテルからの「もっと新鮮な魚を仕入たい」という強い要望を受け、100年を超える老舗企業であった名古屋のマルイ水産株式会社の子会社として1987年から営業を開始後、1992年6月にマルイ水産や下呂温泉街のホテルなど7社の出資によって、株式会社シーフード・マルイが設立されました。創業者7人のうち、合同会社カネマス食品の齋藤社長が非常勤の社長として就任し、事業をスタートすることとなりました。
独立後、観光関連業がバブル崩壊により苦境に立たされる
私は地元である下呂市に生まれ、学校を卒業した後は工場での仕事をしていました。その後、マルイ水産が下呂に出店するタイミングで一人目の社員として入社し、店長代理としての仕事を任されるようになっていきました。私自身は店舗運営や経営の経験はありませんでしたが、私の両親が会計事務所を開いていたので、財務などの数字や事務仕事は割と抵抗なく受け入れることができたのかもしれません。マルイ水産の社長や、会計事務所の先生にもご指導いただきながら、卸業としての姿勢を身につけていきました。
その後、1992年に株式会社シーフード・マルイとして独立し、私は常務に昇進することとなりました。会社の独立から10年ほどの間は、引き続き旅館やホテルなどへの卸売だけを行っていましたが、ちょうどバブルが弾けた時期だったこともあり、旅行客が減少し魚の卸先であった旅館やホテルも大変な苦境に立たされていました。卸先の仕入量も激減し、苦しい状況から抜け出せず、独立から10年が経った頃には弊社の経営状況は債務超過となっていました。
債務超過の状況を脱するべく、2001年に新事業として回転寿司店をオープンすることにしました。当時のメンバーは、非常勤の社長と専務と常務の私、社員2人の計5人でした。卸売は中間業者であるため、エンドユーザーであるお客様の顔が見えず、直接アプローチをしにくい立場です。回転寿司であれば、魚の目利きや仕入といった卸業の経験を活かし、自力でエンドユーザーへの働きかけができると考え、当時専務であった倉地と二人で回転寿司のリサーチを進めていきました。
その後、倉地専務が既存の卸業を担当し、私が回転寿司の新事業を任されることとなりました。飲食業は、高校生の時にレストランでアルバイトをした程度であり、自分が接客業に就くとは思ってもいなかったので知識も経験知もほとんどなく試行錯誤の連続でした。また、弊社の卸先であるお客様には寿司屋や飲食店も多く、弊社が競合となることで取引先がなくなってしまうかもしれないという不安もありました。しかし、会社を守るためには新事業を成功させる他に道はなく、誰よりも一番長く働いてきたこの会社を守りたい、今後も大事にしていきたいという気持ちが背中を押しました。
回転寿司の新事業立ち上げのため、資金調達とノウハウの習得に奔走
運転資金の借入の際には、債務超過の状態が続いていたことから、どこの銀行に行っても首を縦には振ってもらえませんでした。そこで、当時下呂農協(現・飛騨農協)の理事を務めていた私の父や齋藤社長の計らいもあり理事長に直接融資のお願いをさせていただきました。私の熱意が伝わり、何とか資金を融資していただくことができました。
また私自身は寿司を握ったことがなかったので、技術を得るべく名古屋市中央卸売市場で働く友人に相談をしました。仲間からは、鮮魚販売・回転寿司店の繁盛店を紹介してもらい、握りの技術だけではなく店舗経営に関することなど、さまざまなノウハウを教えていただきました。さらに、店舗オープン時にはそのお店からスタッフを派遣していただくなどのご厚意もあり、本当に多くの方や友人に助けられました。
並行して、職人や社員スタッフのリクルート活動にも力を入れました。魚介類専門の卸売業は男性中心の職業でしたが、回転寿司やレストランなどの飲食業は、女性スタッフの力が必要となります。女性に働いてもらうための環境や採用基準がわからず苦労するなど、新事業の立ち上げは、会社を1社設立できるほどの労力がかかることを、身をもって学びました。
開店約1年で黒字化を果たし、テイクアウトでコロナ禍を乗り切る
2001年には1号店である『活き魚回転寿司 魚鮮 下呂店』をオープンすることができました。『魚鮮』のオープン初日には、下呂温泉街の旅館オーナーや料理長からも率直なご意見をいただきたいと考え、招待しました。卸業から飲食業へと拡大した弊社を良く思わない方がいるかもしれないという不安がありましたが、オープン当日は、店からあふれるほどのお祝いのお花やお酒をいただき、プロである料理長からも「これならおいしいし、いいんじゃない」とのお墨付きをいただきました。関連業者の方や、一般のお客様がおいしそうにお寿司を食べている姿を目にしたときは、とても感慨深いものがありました。
新事業の成果が表れたのは、回転寿司店のオープンから1年後の、2002年の決算期でした。卸売業は、仕入による買掛金や商品販売による売掛金が発生しやすく、取引先の経営状態の影響により回収が大幅に遅れることもあります。速やかに現金回収できる飲食分野により、経営の安定化を図ることができました。また卸売業と飲食業のセグメントとともに銀行も分けたことで、当時低迷していた卸売事業の影響を受けずに黒字転換をすることができました。
その後も、2号店である『魚鮮』三福寺店、3号店としては和食ダイニング『まるい家』をオープンし、活きのいい魚料理や寿司を提供する店舗を展開していきました。コロナ禍では、旅館、ホテルのお客様が減少し、卸売業の売上は減少、宴会が減少した和食『まるい家』の売上は厳しい状態となりましたが、回転寿司の2店舗ではコロナ以前からテイクアウトに力を入れていたため、低迷の難を逃れました。また、海のない岐阜ではお祝い事のごちそうとして寿司が定着していたため、お客様が離れずに済んだのだろうと思っています。
日本海と太平洋の中間の立地を活かした卸業と流通の優位性
飛騨地域に拠点を置く弊社としては、下呂温泉街のホテルや旅館、飲食店に支えられ、バックボーンが強いという点が長所だと考えています。加えて、卸売業により新鮮な魚介類が手に入り、自社で目利きができるという強みがあります。さらに近年は陸路や流通ルートが整備されたことで、山岳地帯の飛騨でも、太平洋と日本海の新鮮な魚をすぐに手に入れることができるようになりました。飛騨は太平洋と日本海のちょうど中央に位置する立地であり、卸業としては日本海でしかとれない魚介類を太平洋側の市場に卸し、太平洋の魚を日本海側の市場に流通させることもできるという最大の優位性があり、他県の競合には負けないだろうと考えています。
また飲食業としては、日本回転寿司協会に加入していることもあり、全国に同業の仲間や知り合いが数多くいることも強みです。この同業とのネットワークを活かした勉強会や、社内コンテストの開催により、寿司職人としての技術の研鑽や意識向上、交流を図っています。日本回転寿司協会が開催する『全日本回転寿司MVP選手権』においては、海なし県ながら、過去8大会のうち2度優勝することができました。
全社員が経営計画発表会に集中できるよう店舗を休みに
現在、弊社の社員はパート社員を含めて90名います。卸売事業のみを行い、バブル崩壊などの影響によって経営が苦しかった創業初期と比較すると、10倍以上の人数となりました。この90名の全社員に経営理念や毎年の目標を理解してもらうために、年2回の経営計画発表会を行っています。経営計画発表会では、私自身の思いや会社としての方針、社内のルール、共有事項などを全員に話しています。各店長の発表なども交えながら、会社全体がワンチームとして取り組んでいくための相互理解の場として参加してもらっています。
経営計画発表の日は、全ての店舗を休みにしています。全社員が集中して会社や仕事仲間について考える時間を設けることで、社内の意識を高めたいと考えています。加えて、経営理念などをまとめた経営計画書の冊子を毎年作成し更新して、従業員に配布をしています。毎朝の朝礼で内容の一部を読み繋ぎ、働く場所が違っていても、理念や方針を共有できるようにしています。
社員が互いを大切にし合うワンチームのあたたかい職場
経営理念においては「従業員第一主義」を掲げています。お客様を大切にすることを大前提としつつ、社員の満足度の向上にコミットすることで、より充実した、心からのサービス提供ができると考えています。
弊社には女性の従業員も多くいて、子育て中の方もいます。そのため、働く時間帯をある程度自由に調整し、休みを取りやすくするなどの配慮も欠かさずに行ってきました。現場の状況によって対応できる範囲は異なりますが、働く人が幸せでなければ、お客様を幸せにすることは難しいとの考えから、なるべく社員一人ひとりの生活に合わせるようにしています。
また、弊社で学生アルバイトとして働き、そのまま就職したスタッフも多くいます。社員が優しく、協調性がある社風だからだと考えています。入社1年目から丁寧に教えて目をかけ、先輩社員がチームの一員になっていけるように自発的にサポートをする体制が実を結んでいるのかもしれません。社員一人ひとりがフォローし合う仲間意識をもち、自然と助け合える環境となっているため、どこか家族のような雰囲気が生まれています。
弊社では外国人実習生も働いていますが、ベトナムやミャンマーなどの暖かい国の出身の方にとって、飛騨地方の寒さは大変厳しく辛いものです。社員が外国人実習生のために、自主的に毛布や洋服を持ち寄る姿もみられ、困っている人がいたらフォローし合う「ワンチーム」の組織が社員によって築かれているのを実感しています。
鮮魚卸のプロとして食品製造業、岐阜・東海エリアへの展開を検討
私たちは、新鮮でおいしい魚をお客様に届けるプロフェッショナルとして、今後も鮮魚を主軸とした事業展開を進めたいと考えています。時代の流れに合わせて既存事業をスケールアップさせつつ、チャンスがあれば食品製造業での新規事業を始めたいと思っています。現在までのビジネスモデルは、飛騨の立地やご縁を活かした事業であり、他地域に展開できる仕組みが出来上がり次第、岐阜県の他地域や東海エリアに進出したいと考えています。スピード感を付けるためには、社内の1部門を分社化し、従業員を経営者として抜擢するといった人事も必要な手段と捉えています。
岐阜県は、日本海・太平洋の鮮魚や情報が手に入る中継地点です。今後も立地や流通の強みを活かしつつ、地産地消を意識し、地元の農業を支えるお手伝いもしたいと思っています。弊社の店舗では、年間約12万俵しか生産されない希少な『飛騨コシヒカリ』を使用しています。また、市場では高値で取引される、飛騨の新鮮な高冷地野菜を使っていることも弊社の特徴です。地元の食材を弊社の職人や社員の手によっておいしく提供することで、リピーターの創出と、飛騨の活性化に少しでも貢献できたらと思っています。
岐阜県には、下呂温泉、飛騨高山を始めとした観光地が数多くあります。私どもにとっては観光ビジネスが大事な収入源であり、岐阜県に来ていただいた観光客の方に心をこめて歓迎し、また来たいと思っていただくことが、経済循環の上でも大事だと考えています。観光ビジネスは、日本においての基幹産業でもあるので、地元ならではの強みを活かして観光業にも寄与していきたいと考えています。
会社概要
社名 | 株式会社シーフード・マルイ |
創立年 | 1992年 |
代表者名 | 代表取締役 遠藤 学 |
資本金 | 5000万円 |
本社住所 |
509-2203 岐阜県下呂市小川64-10 |
事業内容 | 生鮮食材卸、小売販売事業、飲食店事業 |
URL |
https://seafood-marui.co.jp/
|
会社沿革
1988年 | 名古屋市中央卸売市場内 鮮魚仲卸 マルイ水産株式会社の子会社として下呂市にて創業 |
1992年 | 株式会社を設立して独立する |
2001年 | 1号店『活き魚回転寿司 魚鮮 下呂店』オープン |
2004年 | 2号店『活き魚回転寿司 魚鮮 高山三福寺店』オープン |
2009年 | 3 号店『まるい家 飛騨高山本店』オープン |
2015年 | 鮮魚卸売に隣接して『おさかな市場』オープン |
公開日:2024/02/21 (2024/02/25修正)
※本記事の内容および所属名称は2024年2月現在のものです。現在の情報とは異なる場合があります。