
下呂
下呂市
名古屋市
引継ぎ実績あり
「誠実さ」を礎に地域のインフラを支える飛騨の建設会社
金子工業株式会社
DX化やウェルビーイングなど先進的な仕組みを積極的に導入
経営理念
MISSION
縁JOY!
BUILDING&CONNECTING
縁を築き、社会によろこびを繋ぐ
VISION
金子縁陣
金子のエンジンを日本の動力に変える
VALUE
K Kind 思いやりと誠実さを大切にする。
A action 自ら動き、周囲を巻き込む原動力となる。
N needs 変化に柔軟に対応し、ニーズを超える。
E expert 専門知識と革新的な技術で、信頼を築く。
K keyperson 一人ひとりが会社の顔としての自覚を持つ。
O oneteam チーム一丸となって、困難に挑み続ける。
代表者メッセージ

1935年の創業以来、戦後復興から今日の地域社会の発展に至るまで、創業者をはじめとする先人たちが貫いてきたものは「誠実さ」という一本の太い柱です。その上に、今日の私たちが立っているという事実を、今、改めて身をもって感じております。
私たちが事業を営む社会は、大きな転換期を迎えています。頻発する自然災害、少子高齢化という構造的な課題、そして大きく変化する人々の価値観など、このような時代だからこそ建設業の役割は、単にインフラを「造る」だけには留まりません。地域に暮らす人々の安全を守り、建物の価値を長く維持し、そして未来を担う働き手を育てていくこと。これら全てが、今の私たちに課せられた使命であると確信しております。
先代たちが築き上げた礎の上に、私は未来への新しい種を蒔いていきたいと考えています。数年前から積極的に導入してきたドローンや3次元データ、AIといったテクノロジーは、そのための力強い武器です。これらを駆使し、お客様への提供価値を最大化することはもちろん、社員一人ひとりがその能力を最大限に発揮し、誇りとやりがいを持って働ける環境を創出することです。それこそが、会社を未来永劫存続させる原動力になると信じています。
社長就任にあたり、私が心に誓ったのは、この歴史ある金子工業という大切な場所を、社員とその家族、お客様、そして地域の皆様と共に、未来へとつないでいくということでです。
創業者が何よりも大切にしたものは、「誠実さ」と「人のつながり」です。この変わらない価値を深く胸に刻み、先人から受け取ったバトンを、より良い形で次の世代へと渡していく。その決意を、「つなげるを造る」という新しいミッションに込めました。
私たちはこれからも、課題解決型のまちづくり企業として、皆様の期待を超える価値を提供し、持続可能な社会の実現に貢献してまいります。今後とも変わらぬご支援とご鞭撻を賜りますよう、心よりお願い申し上げます。
代表取締役社長 金子 健一郎

私たちのこだわり
90年にわたり飛騨地域のインフラを守り続ける建設会社
弊社は、私の祖父が親戚の建設会社での勤務を経て、のれん分けという形で独立し、1935年に「土木建築請負業・金子組」として創業しました。
しかし、独立直後に日本は戦争の時代を迎え、大きな困難に直面してしまいます。祖父も徴兵され、除隊後も軍需工事や戦時建設団に従事するなど、戦時下の影響が色濃い日々を過ごしました。
第二次世界大戦の終戦後も物資不足やインフレといった苦労が続く中、1947年に会社を法人化しました。そして、1949年には社名を「金子工業株式会社」に改め、住宅や学校、道路、橋梁などのインフラ復旧工事など、戦後復興を支えるための建設事業に尽力しました。そうした激動の時代を支えたのが、祖父の「常に誠実さを持って対応する」という仕事への姿勢でした。その信念は、祖父が著した『徳は力なり』という書籍にも表れており、「誠実に信頼を積み重ねる経験こそが困難を乗り越える力になる」という考えが貫かれています。その信念を体現するように、弊社は戦後の復興事業として住宅やインフラの復旧、そして上野平の開拓事業に尽力しました。こうした地域への大きな貢献が、今日の弊社の礎を築くこととなったのです。
やがて高度経済成長期に入ると、「住みよい環境づくりに奉仕する」をモットーに、国道41号線工事や乗鞍インターチェンジ建設など、飛騨地方と都市部を結ぶインフラ整備に注力しました。機械化を進めながら、地域の発展と共に社会に不可欠な存在へと成長を遂げました。
現在、弊社の事業は、土木・建築・不動産という3つの柱で成り立っています。これは、建設業界特有の景気の波に柔軟に対応し、リスクを分散させるための事業戦略です。この戦略により、公共事業だけに依存しない体制を確立し、現在では民間工事が売上の6〜7割を占めるようになりました。
また、私たちは技術革新においても常に未来を見据えています。業界全体の生産性向上という課題に対し、同業他社に先駆けてBIM/CIMといったDX技術を積極的に導入しています。常に変化を恐れず、自ら新しいスタンダードを創り出すための挑戦を続けています。
銀行員を経て家業への入社を決意
父が弊社の名古屋支店に勤務していた関係で、私は名古屋市で生まれました。3歳ごろに飛騨へ移り住み中学生まで過ごし、名古屋市内の高校へ進学しました。
そして、滋賀大学で経済学を学んだことから、卒業後は地方銀行で5年間勤務しました。当初は家業を継ぐことを具体的に考えていませんでしたが、その意識は銀行員時代の経験を通じて大きく変化していきました。数多くの経営者の方々に寄り添い、伴走する中で、仕事に強いやりがいを感じるようになったのです。しかし同時に、お客様である企業の成長を最後まで見届けられない銀行員という立場に、もどかしさを覚えるようにもなりました。この経験こそが、私の考えを変える大きな転機となりました。
「もっと深く経営に携わりたい」という思いが募っていった時に父から声がかかり、弊社への入社を決意しました。今振り返ると、銀行員として財務や経営を学んだこの5年間は、家業を継ぐ上でかけがえのない修行期間になったと感じます。
内部改革を推進し、父から社長を引き継ぐ
銀行を退職後、すぐ弊社に入社せず約9ヶ月間にわたって世界30カ国以上を巡る旅に出ました。この経験は私の人生の大きなターニングポイントになったと思います。それまでの私は、何か行動を起こす前に先の心配をして二の足を踏むところがありましたが、この旅で得た最大の収穫は、「失敗を恐れず、まずは挑戦する」という、何事にも前向きに取り組む姿勢でした。この変化は現在の仕事にも活かされていて、地域の活動やお客様からの難しいご要望にも、基本的には「断らない」姿勢で臨み続けた結果、感謝のお言葉や新たなご縁をいただくことも多々あります。
2012年に入社してすぐ直面したのは、多額の負債やバブル期の過剰投資から発生した負の資産など多くの課題でした。この状況を立て直すには、まず私自身が事業の根幹を理解する必要があると考え、まず最初の1年間は土木の現場で実務を学びました。懸命に仕事に向き合う社員たちの姿から、経営の原点は現場にあると身をもって実感した、かけがえのない時間でした。現場での学びを経て、本格的な内部改革に着手しました。まずは喫緊の課題であった財務体質の改善です。金融機関で培った財務や経営の知識を活かし、資産整理や負債の削減を進めました。それと並行して、旧来の組織や人事評価制度を見直し、社員がより働きやすい環境づくりにも注力していきました。
そのような社内改革を進めた結果、社内の状況は私が入社した当時から大きく改善され、確かな成長軌道に乗りました。そして、父が70歳、私が40歳という節目を迎えた2020年、父から社長を引き継ぎました。
スムーズな承継が実現できたのは、数年にわたる入念な準備期間に加え、父の誠実で懸命な仕事ぶりから多くを学べたこと、そして何より、会社自身が力強く成長していたおかげだと、深く感謝しています。社長に就任してからも、この組織改革は最重要テーマとして継続的に取り組んでいます。
誠実さと信頼が最大の強み
私たちの最大の強みは、創業以来受け継がれる「誠実さ」と、それによって長年お客様と築き上げてきた揺るぎない「信頼」です。この土台の上に、私たちは公共事業だけに依存しない「安定した事業戦略」、業界に先駆けた「DX技術という先進性」、そして何よりも「人財を大切にする組織文化」という強みを掛け合わせています。これこそが私たちの経営の根幹であり、具現化するのが「土木」「建築」「不動産」という3つの事業です。
土木事業においては、地域のインフラの守り手として、人々の安全な暮らしを未来へつなぐ重要な役割を担っています。その象徴が、高山支店が10年以上にわたり担当する国道41号線の維持・修繕業務です。15名の専属チームが24時間体制で、パトロールから緊急対応、冬場の除雪作業まで、地域の生活に欠かせない道を昼夜問わず守り続けています。
建築事業では、戦後復興期から地域の発展と共に歩んできた長い歴史と実績があります。現在は高山市のような観光地でのホテル・旅館建設をはじめとする大規模建築を主力とし、経験豊富な技術者による高い施工管理能力が評価されています。こうした最前線の現場は、若手社員が実践的なスキルを磨き、次世代を担う貴重な機会にもなっています。
そして不動産事業は、建設業の枠を超え、地域に新たな価値と賑わいを創造するための挑戦です。その象徴が、下呂温泉街の空きビルを再生させたプロジェクトです。これは、地元企業や地域住民の声に耳を傾け、その想いを形にしたもので、既に地域の新たな人気スポットとして賑わいを見せています。この取り組みは、「地方にも面白い会社がある」という、私たちから地域社会への力強いメッセージであると考えています。このプロジェクトの成功を第一歩として、これからも不動産事業を通じて地域の未来づくりに貢献していきます。
働きやすい環境が、多くの若手人財に選ばれるように
私が社長に就任して以来、組織作りにおいて特に力を入れているのがリブランディングです。その背景には、建設業界が直面する採用難という課題がありました。時代の変化に対応し、次代を担う若い世代の方々からも「ここで働きたい」と選ばれる魅力的な企業へと生まれ変わる必要性を強く感じていたのです。
しかし、それ以上に大きな原動力となったのが、私自身の経験です。私が入社した当時の会社は厳しい状況にありました。だからこそ、「社員が心から誇りを持って、安心して働ける会社にしたい」という思いが、全ての改革の原点となっています。
その第一歩として、経営理念を刷新し、新たにミッション・ビジョン・バリューを策定することから始めました。社員一人ひとりに「自分事」として捉えてもらうため、トップダウンではなく、社員参加型の会議を重ねて私たちの未来を示す言葉を共に作り上げました。
また、こうした改革は決して急進的に行ったわけではありません。私より長く会社に貢献してくれているベテラン社員も多く在籍していますので、彼らの意見にも真摯に耳を傾けながら、時間をかけて段階的に進めてきました。その結果、大きな反発もなく、変化を自然な形で受け入れてもらうことができました。
この丁寧なプロセスを経て育まれたのが、風通しが良く、活発なコミュニケーションを特徴とする現在の社風です。この社風は人財の成長を後押しする土壌となり、具体的な教育・育成制度にも反映されています。新入社員には先輩社員がOJTを通じて丁寧に指導し、若手社員を大規模な建築工事に積極的に参加させてスキルアップを促すなど、誰もが成長できる環境を整えています。
また、社員の幸福度を可視化する「ウェルビーイングサーベイ」を毎月実施し、その結果を基にした待遇改善を続けた結果、年間休日121日を確保するなど、地域トップクラスの働きやすい職場環境が実現できています。
こうした環境づくりが実を結び、若手人財の確保に注力してきた採用活動も大きな成果を上げられるようになりました。現在では20代・30代の社員が多数在籍し、社員の平均年齢も若返ってきています。
地域と共に未来を創るM&A
私たちにとってM&Aは、単なる事業規模の拡大手段ではなく、地域と共に未来を創るための重要な戦略と位置づけています。弊社の事業とのシナジー効果、そして何よりも「地域にとって必要不可欠な存在であるか」という点を重視し、一つひとつの「ご縁」を大切に、互いに信頼し合える企業様とのパートナーシップを築いていきたいと考えています。
この考えを具現化したのが、2024年7月に行った、長年の協力会社である有限会社飛驒クレーン工業の完全子会社化です。飛驒クレーン工業は、弊社にとって共に歩んできたパートナーであり、飛騨地域の解体工事においてトップクラスの実績を持つ企業でした。しかし、後継者不在により廃業の可能性があったのです。下呂地域において安全かつ確実な解体作業を担う上で欠かせないこの会社がなくなることは、弊社だけでなく地域にとって大きな損失であると判断し、事業を承継する決断をしました。
円満な形で進められたこの承継において、私たちは特に統合後の人事制度の整備に注力しました。弊社の制度を基準に福利厚生などを整えることで、飛驒クレーン工業の社員の皆様には、雇用の安定はもちろん、より良い労働環境を提供でき、後継者不在という不安が解消されたことでご家族にも安心していただけたと思います。
また弊社にとっても、社内で育成してきた幹部社員を飛驒クレーン工業の社長として兼任させることで、次世代の経営人財に新たな活躍の場を提供する貴重な機会となりました。現在も、安全大会や全体会議などを通じてグループとしての連携を深めており、両社にとって有益なスタートを切ることができたと確信しています。
今後も私たちは、地域に必要とされながらも後継者不在といった課題を抱える企業があれば、事業承継という形で積極的に連携し、地域の産業と雇用の維持に貢献していきたいと考えています。
創業100周年に向けて
創業100周年を10年後に控える今、私たちは確かな成長の実感と共に、次なるステージを見据えています。2024年度決算では過去最高の業績を記録し、この勢いを未来へと繋げるため、私たちは「年間売上高100億円」という目標を掲げました。しかし、これは単なる数字の追求ではありません。私たちが100億円という規模にこだわる最大の理由は、地方に本社を置く企業であっても、次代を担う若い人財が「この会社で働きたい」と心から思えるような、夢と魅力のある存在になるためです。創業100周年という節目より前にこの目標を達成し、「100年と100億円」という確かな実績を、地域と共に創造したいと考えています。
この目標達成の原動力は、DXによる生産性革命やM&Aによる地域貢献といった新たな挑戦ですが、その全ての根幹にあるのは、社員一人ひとりの成長です。「こうしたらもっと良くなる」と主体的に考え行動する社員たちの力が、会社の未来を創る好循環を生み出すと確信しています。
これからも、「金子のエンジンを日本の動力に変える」というビジョンと、「つなげるを造る」という使命の実現に向け、社員一丸となって挑戦を続けます。

90年にわたり飛騨地域のインフラを守り続ける建設会社
弊社は、私の祖父が親戚の建設会社での勤務を経て、のれん分けという形で独立し、1935年に「土木建築請負業・金子組」として創業しました。
しかし、独立直後に日本は戦争の時代を迎え、大きな困難に直面してしまいます。祖父も徴兵され、除隊後も軍需工事や戦時建設団に従事するなど、戦時下の影響が色濃い日々を過ごしました。
第二次世界大戦の終戦後も物資不足やインフレといった苦労が続く中、1947年に会社を法人化しました。そして、1949年には社名を「金子工業株式会社」に改め、住宅や学校、道路、橋梁などのインフラ復旧工事など、戦後復興を支えるための建設事業に尽力しました。そうした激動の時代を支えたのが、祖父の「常に誠実さを持って対応する」という仕事への姿勢でした。その信念は、祖父が著した『徳は力なり』という書籍にも表れており、「誠実に信頼を積み重ねる経験こそが困難を乗り越える力になる」という考えが貫かれています。その信念を体現するように、弊社は戦後の復興事業として住宅やインフラの復旧、そして上野平の開拓事業に尽力しました。こうした地域への大きな貢献が、今日の弊社の礎を築くこととなったのです。
やがて高度経済成長期に入ると、「住みよい環境づくりに奉仕する」をモットーに、国道41号線工事や乗鞍インターチェンジ建設など、飛騨地方と都市部を結ぶインフラ整備に注力しました。機械化を進めながら、地域の発展と共に社会に不可欠な存在へと成長を遂げました。
現在、弊社の事業は、土木・建築・不動産という3つの柱で成り立っています。これは、建設業界特有の景気の波に柔軟に対応し、リスクを分散させるための事業戦略です。この戦略により、公共事業だけに依存しない体制を確立し、現在では民間工事が売上の6〜7割を占めるようになりました。
また、私たちは技術革新においても常に未来を見据えています。業界全体の生産性向上という課題に対し、同業他社に先駆けてBIM/CIMといったDX技術を積極的に導入しています。常に変化を恐れず、自ら新しいスタンダードを創り出すための挑戦を続けています。
銀行員を経て家業への入社を決意
父が弊社の名古屋支店に勤務していた関係で、私は名古屋市で生まれました。3歳ごろに飛騨へ移り住み中学生まで過ごし、名古屋市内の高校へ進学しました。
そして、滋賀大学で経済学を学んだことから、卒業後は地方銀行で5年間勤務しました。当初は家業を継ぐことを具体的に考えていませんでしたが、その意識は銀行員時代の経験を通じて大きく変化していきました。数多くの経営者の方々に寄り添い、伴走する中で、仕事に強いやりがいを感じるようになったのです。しかし同時に、お客様である企業の成長を最後まで見届けられない銀行員という立場に、もどかしさを覚えるようにもなりました。この経験こそが、私の考えを変える大きな転機となりました。
「もっと深く経営に携わりたい」という思いが募っていった時に父から声がかかり、弊社への入社を決意しました。今振り返ると、銀行員として財務や経営を学んだこの5年間は、家業を継ぐ上でかけがえのない修行期間になったと感じます。
内部改革を推進し、父から社長を引き継ぐ
銀行を退職後、すぐ弊社に入社せず約9ヶ月間にわたって世界30カ国以上を巡る旅に出ました。この経験は私の人生の大きなターニングポイントになったと思います。それまでの私は、何か行動を起こす前に先の心配をして二の足を踏むところがありましたが、この旅で得た最大の収穫は、「失敗を恐れず、まずは挑戦する」という、何事にも前向きに取り組む姿勢でした。この変化は現在の仕事にも活かされていて、地域の活動やお客様からの難しいご要望にも、基本的には「断らない」姿勢で臨み続けた結果、感謝のお言葉や新たなご縁をいただくことも多々あります。
2012年に入社してすぐ直面したのは、多額の負債やバブル期の過剰投資から発生した負の資産など多くの課題でした。この状況を立て直すには、まず私自身が事業の根幹を理解する必要があると考え、まず最初の1年間は土木の現場で実務を学びました。懸命に仕事に向き合う社員たちの姿から、経営の原点は現場にあると身をもって実感した、かけがえのない時間でした。現場での学びを経て、本格的な内部改革に着手しました。まずは喫緊の課題であった財務体質の改善です。金融機関で培った財務や経営の知識を活かし、資産整理や負債の削減を進めました。それと並行して、旧来の組織や人事評価制度を見直し、社員がより働きやすい環境づくりにも注力していきました。
そのような社内改革を進めた結果、社内の状況は私が入社した当時から大きく改善され、確かな成長軌道に乗りました。そして、父が70歳、私が40歳という節目を迎えた2020年、父から社長を引き継ぎました。
スムーズな承継が実現できたのは、数年にわたる入念な準備期間に加え、父の誠実で懸命な仕事ぶりから多くを学べたこと、そして何より、会社自身が力強く成長していたおかげだと、深く感謝しています。社長に就任してからも、この組織改革は最重要テーマとして継続的に取り組んでいます。
誠実さと信頼が最大の強み
私たちの最大の強みは、創業以来受け継がれる「誠実さ」と、それによって長年お客様と築き上げてきた揺るぎない「信頼」です。この土台の上に、私たちは公共事業だけに依存しない「安定した事業戦略」、業界に先駆けた「DX技術という先進性」、そして何よりも「人財を大切にする組織文化」という強みを掛け合わせています。これこそが私たちの経営の根幹であり、具現化するのが「土木」「建築」「不動産」という3つの事業です。
土木事業においては、地域のインフラの守り手として、人々の安全な暮らしを未来へつなぐ重要な役割を担っています。その象徴が、高山支店が10年以上にわたり担当する国道41号線の維持・修繕業務です。15名の専属チームが24時間体制で、パトロールから緊急対応、冬場の除雪作業まで、地域の生活に欠かせない道を昼夜問わず守り続けています。
建築事業では、戦後復興期から地域の発展と共に歩んできた長い歴史と実績があります。現在は高山市のような観光地でのホテル・旅館建設をはじめとする大規模建築を主力とし、経験豊富な技術者による高い施工管理能力が評価されています。こうした最前線の現場は、若手社員が実践的なスキルを磨き、次世代を担う貴重な機会にもなっています。
そして不動産事業は、建設業の枠を超え、地域に新たな価値と賑わいを創造するための挑戦です。その象徴が、下呂温泉街の空きビルを再生させたプロジェクトです。これは、地元企業や地域住民の声に耳を傾け、その想いを形にしたもので、既に地域の新たな人気スポットとして賑わいを見せています。この取り組みは、「地方にも面白い会社がある」という、私たちから地域社会への力強いメッセージであると考えています。このプロジェクトの成功を第一歩として、これからも不動産事業を通じて地域の未来づくりに貢献していきます。
働きやすい環境が、多くの若手人財に選ばれるように
私が社長に就任して以来、組織作りにおいて特に力を入れているのがリブランディングです。その背景には、建設業界が直面する採用難という課題がありました。時代の変化に対応し、次代を担う若い世代の方々からも「ここで働きたい」と選ばれる魅力的な企業へと生まれ変わる必要性を強く感じていたのです。
しかし、それ以上に大きな原動力となったのが、私自身の経験です。私が入社した当時の会社は厳しい状況にありました。だからこそ、「社員が心から誇りを持って、安心して働ける会社にしたい」という思いが、全ての改革の原点となっています。
その第一歩として、経営理念を刷新し、新たにミッション・ビジョン・バリューを策定することから始めました。社員一人ひとりに「自分事」として捉えてもらうため、トップダウンではなく、社員参加型の会議を重ねて私たちの未来を示す言葉を共に作り上げました。
また、こうした改革は決して急進的に行ったわけではありません。私より長く会社に貢献してくれているベテラン社員も多く在籍していますので、彼らの意見にも真摯に耳を傾けながら、時間をかけて段階的に進めてきました。その結果、大きな反発もなく、変化を自然な形で受け入れてもらうことができました。
この丁寧なプロセスを経て育まれたのが、風通しが良く、活発なコミュニケーションを特徴とする現在の社風です。この社風は人財の成長を後押しする土壌となり、具体的な教育・育成制度にも反映されています。新入社員には先輩社員がOJTを通じて丁寧に指導し、若手社員を大規模な建築工事に積極的に参加させてスキルアップを促すなど、誰もが成長できる環境を整えています。
また、社員の幸福度を可視化する「ウェルビーイングサーベイ」を毎月実施し、その結果を基にした待遇改善を続けた結果、年間休日121日を確保するなど、地域トップクラスの働きやすい職場環境が実現できています。
こうした環境づくりが実を結び、若手人財の確保に注力してきた採用活動も大きな成果を上げられるようになりました。現在では20代・30代の社員が多数在籍し、社員の平均年齢も若返ってきています。
地域と共に未来を創るM&A
私たちにとってM&Aは、単なる事業規模の拡大手段ではなく、地域と共に未来を創るための重要な戦略と位置づけています。弊社の事業とのシナジー効果、そして何よりも「地域にとって必要不可欠な存在であるか」という点を重視し、一つひとつの「ご縁」を大切に、互いに信頼し合える企業様とのパートナーシップを築いていきたいと考えています。
この考えを具現化したのが、2024年7月に行った、長年の協力会社である有限会社飛驒クレーン工業の完全子会社化です。飛驒クレーン工業は、弊社にとって共に歩んできたパートナーであり、飛騨地域の解体工事においてトップクラスの実績を持つ企業でした。しかし、後継者不在により廃業の可能性があったのです。下呂地域において安全かつ確実な解体作業を担う上で欠かせないこの会社がなくなることは、弊社だけでなく地域にとって大きな損失であると判断し、事業を承継する決断をしました。
円満な形で進められたこの承継において、私たちは特に統合後の人事制度の整備に注力しました。弊社の制度を基準に福利厚生などを整えることで、飛驒クレーン工業の社員の皆様には、雇用の安定はもちろん、より良い労働環境を提供でき、後継者不在という不安が解消されたことでご家族にも安心していただけたと思います。
また弊社にとっても、社内で育成してきた幹部社員を飛驒クレーン工業の社長として兼任させることで、次世代の経営人財に新たな活躍の場を提供する貴重な機会となりました。現在も、安全大会や全体会議などを通じてグループとしての連携を深めており、両社にとって有益なスタートを切ることができたと確信しています。
今後も私たちは、地域に必要とされながらも後継者不在といった課題を抱える企業があれば、事業承継という形で積極的に連携し、地域の産業と雇用の維持に貢献していきたいと考えています。
創業100周年に向けて
創業100周年を10年後に控える今、私たちは確かな成長の実感と共に、次なるステージを見据えています。2024年度決算では過去最高の業績を記録し、この勢いを未来へと繋げるため、私たちは「年間売上高100億円」という目標を掲げました。しかし、これは単なる数字の追求ではありません。私たちが100億円という規模にこだわる最大の理由は、地方に本社を置く企業であっても、次代を担う若い人財が「この会社で働きたい」と心から思えるような、夢と魅力のある存在になるためです。創業100周年という節目より前にこの目標を達成し、「100年と100億円」という確かな実績を、地域と共に創造したいと考えています。
この目標達成の原動力は、DXによる生産性革命やM&Aによる地域貢献といった新たな挑戦ですが、その全ての根幹にあるのは、社員一人ひとりの成長です。「こうしたらもっと良くなる」と主体的に考え行動する社員たちの力が、会社の未来を創る好循環を生み出すと確信しています。
これからも、「金子のエンジンを日本の動力に変える」というビジョンと、「つなげるを造る」という使命の実現に向け、社員一丸となって挑戦を続けます。

会社概要
社名 | 金子工業株式会社 |
創立年 | 1935年 |
代表者名 | 代表取締役社長 金子 健一郎 |
資本金 | 10000万円 |
事業エリア |
岐阜支店
500-8383 岐阜県岐阜市江添3-7-26 |
高山支店
506-0009 岐阜県高山市花岡町3-84-8 |
|
名古屋支店
460-0002 愛知県名古屋市中区丸の内3-7-9チサンマンション11F |
|
東濃営業所
508-0351 岐阜県中津川市付知町字巾垣戸2129-1 |
|
小坂事業所
509-3105 岐阜県下呂市小坂町坂下507-1 |
|
本社住所 |
509-2598 岐阜県下呂市萩原町萩原1500 |
事業内容 | 総合建設業、一級建築士事務所、宅地建物取引業、砕石・アスファルト合材製造販売、産業廃棄物収集運搬・中間処理他 |
URL |
https://www.kaneko-kougyo.co.jp/index.html
|


会社沿革
1935年 | 創業 |
1947年 | 金子興業株式会社を設立・事務所を萩原町上呂に開設 |
1949年 | 商号を金子工業株式会社と改称 |
1953年 | 本社事務所を萩原町萩原に移転 |
1963年 | 小坂事業所を開設 |
1969年 | 株式会社金子コンクリートを設立 |
1973年 | 高山支店を開設 名古屋支店を開設 |
1978年 | 岐阜支店を開設 |
1982年 | 飛騨高山国際観光開発株式会社(飛騨高山カントリークラブ)を設立 |
1987年 | 飛騨アスコンをJVで設立 |
1995年 | 有限会社ライフを設立 |
2000年 | ISO9000Sを認証取得 |
2006年 | 東濃営業所を開設 |
2012年 | 高成建設株式会社を設立 |
2017年 | 株式会社飛騨高山カントリークラブを設立(飛騨高山国際観光開発株式会社事業継続) |
2020年 | 金子健一郎が代表取締役社長に就任 |
2022年 | ISO14000を認証取得 |
2024年 | 有限会社飛騨クレーン工業をM&Aにてグループ化 |
2025年 | 飛騨アスコンを大林道路から出資分を取得し、自社運営化 |
公開日:2025/09/08 (2025/09/12修正)
※本記事の内容および所属名称は2025年9月現在のものです。現在の情報とは異なる場合があります。