足利
足利市
名古屋市
技術的水準の高い、航空宇宙、半導体などの精密機械完成品製造を担う
株式会社石井機械製作所
「オーケストラ工場」で奏でる世界品質の技術力、老舗の伝統と精神
経営理念
モノづくりを通して、お客様に満足と感動を!
モノ作りで、明るく 元氣に 楽しく!!
<石井のモノづくり>
部品が一つの製品になり、従業員の満足と、
お客様にも満足を超えた「感動」を与えられるような
『オーケストラファクトリー』を目指す
代表者メッセージ
お客様に満足を、そして感動を
弊社は1888年に創業し、私は5代目です。
精密機械完成品メーカーとして、自動車関連、半導体関連、航空宇宙関連や医療機器関連装置設備など、様々な分野に対応しています。 新しい製品にも常にチャレンジしており、充実した設備と高い技術力で、あらゆる課題を解決します。
また、先代の社長は「明るく元気にイキイキと」仕事に取り組む姿勢を大切にしており、今なお私たちのモットーになっています。
私の代ではそれに加えて、 「+(プラス)楽しく」を掲げており、社員同士がファミリーのように、素直で楽しく仕事をするための環境作りをしています。一体感のある会社となることで、より良い製品づくりに繋げていきたい所存です。
代表取締役社長 石井 大洋
私たちのこだわり
創業130年以上の伝統と最新技術が織り成すモノづくり企業
1888年、私の曽祖父が弊社を創業しました。
創業以来本社を構える栃木県足利市は、古くから「織物のまち」として知られています。
足利では奈良時代から織物が生産され、18世紀末以降は多数の織屋・買継商が出現し、織物業で繁栄しました。そのような地域環境の影響があり、弊社の事業は織物機械の木製部品の製造からスタートし、木製の手織り機である高機(たかばた)制作に参入、その後はジャカード織機の製造を目指すようになります。
ジャカード織機とは、フランスの発明家によって開発された自動織機のことで、当時は輸入品しかありませんでした。当然、図面などの製造への手掛かりは何もありませんでしたが、曽祖父は自社で製品化を試みます。血のにじむような思いで努力を重ねながらもなかなかうまくいかず、心身ともに弱る中で群馬県館林市の尾曳稲荷神社に二十一日参りを行いました。すると体調も回復し、国内初のジャガード織機を完成させることができたという逸話が残っています。そして、ジャカード織機の製造・販売事業を展開することができました。
この体験に感動した創業者は、自宅工場と足利城跡である両崖山頂へ社殿を霊奉祀しており、先祖代々、大切にお守りしています。
その後は、時代の流れに合わせながら産業機器製造メーカーとして成長していき、やがて精密加工部品事業に参入します。1963年、法人化し有限会社石井機械製作所と改称しました。
1970年には足利市内の御厨工業団地に事務所と工場を移転します。同時に株式会社へと改組し、それ以降は事業領域をコツコツと拡大してきました。
2011年に私が代表となってからは、さらに航空宇宙関連設備や自動車、半導体関連、CTスキャン装置等の医療機器など、厳しい品質管理と高度な技術が必要な大型機械部品の製造に注力しています。
現在は年間売上100億円を目標に掲げており、創業150年を間近に控えながらも、挑戦を恐れずに歩み続けています。
幼いころから目指していた後継者
私は創業家で生まれ、幼少期は会社に遊びに行くことも多くあり、家業のことを身近に感じていました。父からは「会社を継ぐように」と教育されて育ち、自然と後継者としての覚悟が出来たように思います。小学校の卒業文集では「社長を継いでビルを建てる」と書いたほどでした。
その後も思いは変わらず、大学を卒業すると、将来に備えて取引先の会社で3年間ほど修行します。
その会社を退職後、数か月ほど南米を中心に1人旅をしました。ブラジルで暮らす叔父を訪ねた後、ブラジル、アルゼンチン、ペルー、パラグアイなど南米各国を周りました。ポルトガル語やスペイン語を満足に話せないにもかかわらず、身振り手振りで現地の人と仲良くなり、友人を増やしながら旅をしたのは貴重な経験でした。失敗を恐れずチャレンジする精神もこの時に育まれたのかもしれません。
経営的な知識や感覚は家業に従事しながらいくらでも学べる機会がありますが、人に関することや内部的なことなど組織作りという面においては、多角的に物事を考えたり、自分が生きてきた中で経験したことのない価値観に触れることが大切だと思っていました。創業家だからこそいざ家業に入った時、部分的にしか物事が見られなかったり、従来と全く異なる発想や技術の導入についてひらめくことすらできなくなってしまうのではと懸念していたのかもしれません。それらの予防として、数か月ではありますが時間確保の出来る入社前に旅に出ました。
帰国後は一般社員として弊社に入社し、まずはモノづくりの現場で働きました。その後は生産管理や営業など各部署を回り、弊社の業務を一通り経験した上で役員に昇格します。そして、さらに数年の準備期間を経て、2011年、弊社の5代目となる代表取締役社長に就任しました。
「断らない姿勢」で技術を伸ばすも低迷期を経験
創業以来130年以上、弊社で脈々と受け継がれてきたものの一つに、「仕事を断らない姿勢」があります。
お客様の多様なニーズに応えることこそが我々の仕事だと考え、どんなに困難な注文でも断らず挑み続けました。モノづくり企業ではありますが、ある意味サービス業としての精神が弊社の根底にはあるのだと思います。創業当時、お客様のご要望に一つ一つお答えしていくことは、製造マニュアルに沿った工程の元進めていくことが出来ず、ゼロからの作業になり生産効率としては悪いです。しかし、この積み重ねが社員の能力を引き上げ、技術力の向上に繋がり、企業成長できたのだと思います。
着実に実績を重ねてきたことで、設計から精密加工、組み立てまで一貫して対応できるワンストップ体制が確立され、地域のお客様から「石井機械さんに頼めば何とかなる」「駆け込み寺的存在」と、大きな信頼を得ることができました。先代や先々代の頃から自動車の機械設備に関する設計や製造を事業の屋台骨とし、経営状態も安定していました。
ただ、時代の流れもありこれまでのやり方では立ち行かなくなってしまいました。下請け色が強い会社だったため外部環境に左右されやすく、自分たちの構想しているような経営とは次第に大きな歪ができてしまったのです。
航空宇宙関連事業への参入で大きく飛躍
私は27歳に一般社員として弊社に入社し、先代の父から約5年間の伴走期間を設けて2011年に事業承継を行いました。社長に就任してからは、いわゆる「町工場」からの脱却を目指し、自社の強みを活かした事業の多角化に注力しました。その中でも特に影響が大きかったものといえるのが、航空宇宙事業への参入です。
航空機産業は厳格な安全基準を満たす必要があるため、品質管理が厳しい上に求められる技術的水準も高く、進出できる企業は限られています。弊社で航空宇宙事業の仕事を受注することができれば、高度な要望に対応できる設備、技術力の高さを証明し、ゆくゆくは新たな仕事の受注にも繋がるのではないかと考えたのです。
2008年に航空宇宙・防衛産業に特化した品質マネジメントシステムであるJISQ9100の認証を取得するなど、少しずつ環境を整え始めました。
参入を表明した当初は、社員全員から「できるわけがない」と猛反発を受けました。高度な加工技術が必要であることを不安視していたのだと思います。しかし、私は「私たちならできる、一緒にやってみよう!」と、社員に叱咤激励を続けました。
最終的に弊社の航空宇宙事業が形になったのは、充実した設備や技術力の高さに加えて、営業社員の並々ならぬ努力があったからです。新分野に挑戦するということは取引先様を新たに創っていかなくてはなりません。「町工場」だった弊社には、当時営業社員もおらず、私と数名で営業を担当しました。現在の大手航空機部品メーカーとの取引関係も、当初は相手にされず2分で電話を切られてしまったほどでした。しかし、何度も通い続け、数年がかりで受注をいただけるようになりました。
最初の受注から航空宇宙事業が軌道に乗るまでは数年かかりましたが、参入をきっかけに、半導体関連設備や自動車関連設備、医療機器などの分野でも、より高度な仕事が増え弊社の業績も急成長していきました。
人工衛星「はやぶさ2」など大きなプロジェクトへの参画も増えてきており、130年以上にわたって培った技術力を、一気に飛躍させることができたと思います。思い切って新分野に挑戦することで元々培ってきた弊社の技術力をよりワンランクもツーランクも向上することが出来、結果として全事業においてステージチェンジを実現できました。
業績も右肩上がりで伸びていき、年間売上高も2019年の20億円から、現在約70億円となり「町工場」から脱却できたのではないかと実感しております。
社員のハーモニーを重視する「オーケストラ工場」
ビジネスモデルのステージチェンジを図る際、私を含め経営層や幹部だけの事象にしてしまうと、弊社が一番大切にしている社員を置いてけぼりにしてしまいます。事業領域だけではなく、内部組織についても大きく改革を行いました。先代の父はどちらかといえば「背中で語る」タイプで、リーダーとして推進力が強く、例えるならば蒸気機関車のような人でした。時代的にも当時の弊社の規模的にも、そのやり方で成功した部分は大きかったと思います。
しかし、会社のさらなる成長を見据えるならば、これからの時代は先頭車両が引っ張る蒸気機関車ではなく、各車両が動力を持っている電車のイメージで会社組織を構築していく必要があると思っていました。今振り返ると入社前の一人旅や入社した際に製造や営業など徹底的に現場業務に従事したことで、人や組織作りの大切さを日頃から考えるようになっていたのだと思います。
組織作りの取り組みの1つが「オーケストラ工場」です。能力による上下関係で編成された環境で個人のスキルアップは期待できるかもしれませんが、弊社だからこその連携力やチーム力は育ちません。能力値の高いソロの集団でモノづくりという名の音楽を各々に奏でるのではなく、プロ同士がお互いの音に耳を傾けながらモノづくりを協働で奏でる集団の方が、互いの相乗効果で個人の能力を高めることができ、また最高の製品づくりに向けて進むべき道に迷うことなく社員全員で進んでいくことが出来ます。
基本的には業務で扱う機械装置の大きさと楽器の大きさが比例しており、大型機械部門はコントラバス、汎用機器部門はバイオリンなどすべての部門が楽器名です。ちなみに、私はコンダクター、指揮者という位置づけです。
不協和音があってはいいモノづくりはできません。この「オーケストラ工場」での組織作りを導入してから、部門間の横のつながりもより強いものとなったように思います。
安心して働ける環境づくり
航空宇宙事業への参入をきっかけに、社員数は3年間で80名から100名に増えました。短期間で多くの社員を採用したこともあり、社員の教育・育成という部分については課題があります。
モノづくりの会社であるため、安全教育や技術研修はこれまでも重視していましたが、社員数の増加に伴い、階層別、課題別研修も実施しています。
今後も永続的に「オーケストラ工場」の中で社員からずっとこの音楽を奏でていたいと思ってもらうには、10年、20年後を見据えた計画的な研修制度を整えることが必要であると感じています。それと同時に、社員一人ひとりのキャリアマップやキャリアプランへのサポートを行い、社員が安心して働ける環境を整えることに注力していきます。
短期間で社員は増えましたが、離職率はとても低いです。これは多くがリファラル採用だったこともあり、入社後のミスマッチが少なかったことが理由だと思います。
社員が友人や家族を紹介してくれるのは、働く環境に満足し、自信をもってくれているという評価だと思うので、とてもありがたく感じています。
社員が幸せになるために
経営者として組織を大きく成長させることは重要事項ですが、それ以上に私が大切にしていることは「社員が幸せになること」です。
そのための取り組みの1つとして、弊社では昔ながらの作業着から「着る楽しみ」が生まれるようなユニフォームへと刷新しました。伸縮性のあるデニムのつなぎやポロシャツといったスタイリッシュなデザインです。
会社のロゴマークも世界的なアーティストである澁谷忠臣氏に依頼し、新たなデザインに一新してもらいました。「かっこよさ」にこだわった一連の取り組みが、社内外からのブランディング向上に繋がればと思っています。
また、最も重視していることが社員への利益還元です。ビジネスモデルのステージチェンジに成功した際、まず優先的に行ったことはベースアップです。福利厚生に関しても社員やその家族を取り巻く環境変化に対応した内容なのかどうか日々疑問を持つよう心掛け、いつでもブラッシュアップできるよう意識しています。
全額会社負担で海外社員旅行も実施しました。ただ中には家庭の事情で海外に行けない社員もいるため、国内旅行と海外旅行両方実施し、選択出来るようにしています。飛行機に乗れば「君たちが作った部品が使われているんだよ」という話もできるので、社員にとっては自分の仕事が社会にどのように貢献しているかを実感する機会にもなっています。また、より高品質な安全なモノを創る使命感を改めて感じるきっかけにもなり、社員旅行を通じてコミュニケーションだけでなく、社員一人一人が自身の仕事と社会の繋がりのようなものを体感しています。
2022年からは、宇都宮ブレックスとスポンサー契約しました。ゴールアームに表示されるロゴマークが会場やYouTubeに写る度に、スポーツ応援での社会貢献も実感しています。
少し変わった取り組みとしては、弊社の事務所にはセラピー犬がいることです。130年以上の歴史の中でここ数年は劇的な成長を遂げ、社員にも相当なストレスやプレッシャーがあるのでは、と気がかりでした。ふと社員の癒やしになればと事務所に私の飼い犬を連れてきたことがきっかけです。
機械や工場はどうしても無機質になってしまいますが、犬のぬくもりが社員のストレス緩和にもつながったのか、職場の雰囲気を和らげてくれています。今では息抜きがてら社員が交代しながら散歩に連れていってくれています。
事業領域を拡大し、深化する
弊社はあと十数年すれば創業から150年を迎えます。
社員からより信頼され地域から愛される企業であり続けるには、事業領域において質・量ともに向上していかなければなりません。
現時点で、設計や電機など強化したい事業分野がいくつかあります。M&Aも成長戦略として積極的に考えています。また、現在大型クレーンを備えた新工場は、災害対策も視野に入れたエリアに建設中です。
地域を牽引できるような企業を目指しつつ、地域になくてはならない経営資源を引受け、地域産業活性化や地域の雇用に対して貢献できる企業づくりを行っていきます。
創業130年以上の伝統と最新技術が織り成すモノづくり企業
1888年、私の曽祖父が弊社を創業しました。
創業以来本社を構える栃木県足利市は、古くから「織物のまち」として知られています。
足利では奈良時代から織物が生産され、18世紀末以降は多数の織屋・買継商が出現し、織物業で繁栄しました。そのような地域環境の影響があり、弊社の事業は織物機械の木製部品の製造からスタートし、木製の手織り機である高機(たかばた)制作に参入、その後はジャカード織機の製造を目指すようになります。
ジャカード織機とは、フランスの発明家によって開発された自動織機のことで、当時は輸入品しかありませんでした。当然、図面などの製造への手掛かりは何もありませんでしたが、曽祖父は自社で製品化を試みます。血のにじむような思いで努力を重ねながらもなかなかうまくいかず、心身ともに弱る中で群馬県館林市の尾曳稲荷神社に二十一日参りを行いました。すると体調も回復し、国内初のジャガード織機を完成させることができたという逸話が残っています。そして、ジャカード織機の製造・販売事業を展開することができました。
この体験に感動した創業者は、自宅工場と足利城跡である両崖山頂へ社殿を霊奉祀しており、先祖代々、大切にお守りしています。
その後は、時代の流れに合わせながら産業機器製造メーカーとして成長していき、やがて精密加工部品事業に参入します。1963年、法人化し有限会社石井機械製作所と改称しました。
1970年には足利市内の御厨工業団地に事務所と工場を移転します。同時に株式会社へと改組し、それ以降は事業領域をコツコツと拡大してきました。
2011年に私が代表となってからは、さらに航空宇宙関連設備や自動車、半導体関連、CTスキャン装置等の医療機器など、厳しい品質管理と高度な技術が必要な大型機械部品の製造に注力しています。
現在は年間売上100億円を目標に掲げており、創業150年を間近に控えながらも、挑戦を恐れずに歩み続けています。
幼いころから目指していた後継者
私は創業家で生まれ、幼少期は会社に遊びに行くことも多くあり、家業のことを身近に感じていました。父からは「会社を継ぐように」と教育されて育ち、自然と後継者としての覚悟が出来たように思います。小学校の卒業文集では「社長を継いでビルを建てる」と書いたほどでした。
その後も思いは変わらず、大学を卒業すると、将来に備えて取引先の会社で3年間ほど修行します。
その会社を退職後、数か月ほど南米を中心に1人旅をしました。ブラジルで暮らす叔父を訪ねた後、ブラジル、アルゼンチン、ペルー、パラグアイなど南米各国を周りました。ポルトガル語やスペイン語を満足に話せないにもかかわらず、身振り手振りで現地の人と仲良くなり、友人を増やしながら旅をしたのは貴重な経験でした。失敗を恐れずチャレンジする精神もこの時に育まれたのかもしれません。
経営的な知識や感覚は家業に従事しながらいくらでも学べる機会がありますが、人に関することや内部的なことなど組織作りという面においては、多角的に物事を考えたり、自分が生きてきた中で経験したことのない価値観に触れることが大切だと思っていました。創業家だからこそいざ家業に入った時、部分的にしか物事が見られなかったり、従来と全く異なる発想や技術の導入についてひらめくことすらできなくなってしまうのではと懸念していたのかもしれません。それらの予防として、数か月ではありますが時間確保の出来る入社前に旅に出ました。
帰国後は一般社員として弊社に入社し、まずはモノづくりの現場で働きました。その後は生産管理や営業など各部署を回り、弊社の業務を一通り経験した上で役員に昇格します。そして、さらに数年の準備期間を経て、2011年、弊社の5代目となる代表取締役社長に就任しました。
「断らない姿勢」で技術を伸ばすも低迷期を経験
創業以来130年以上、弊社で脈々と受け継がれてきたものの一つに、「仕事を断らない姿勢」があります。
お客様の多様なニーズに応えることこそが我々の仕事だと考え、どんなに困難な注文でも断らず挑み続けました。モノづくり企業ではありますが、ある意味サービス業としての精神が弊社の根底にはあるのだと思います。創業当時、お客様のご要望に一つ一つお答えしていくことは、製造マニュアルに沿った工程の元進めていくことが出来ず、ゼロからの作業になり生産効率としては悪いです。しかし、この積み重ねが社員の能力を引き上げ、技術力の向上に繋がり、企業成長できたのだと思います。
着実に実績を重ねてきたことで、設計から精密加工、組み立てまで一貫して対応できるワンストップ体制が確立され、地域のお客様から「石井機械さんに頼めば何とかなる」「駆け込み寺的存在」と、大きな信頼を得ることができました。先代や先々代の頃から自動車の機械設備に関する設計や製造を事業の屋台骨とし、経営状態も安定していました。
ただ、時代の流れもありこれまでのやり方では立ち行かなくなってしまいました。下請け色が強い会社だったため外部環境に左右されやすく、自分たちの構想しているような経営とは次第に大きな歪ができてしまったのです。
航空宇宙関連事業への参入で大きく飛躍
私は27歳に一般社員として弊社に入社し、先代の父から約5年間の伴走期間を設けて2011年に事業承継を行いました。社長に就任してからは、いわゆる「町工場」からの脱却を目指し、自社の強みを活かした事業の多角化に注力しました。その中でも特に影響が大きかったものといえるのが、航空宇宙事業への参入です。
航空機産業は厳格な安全基準を満たす必要があるため、品質管理が厳しい上に求められる技術的水準も高く、進出できる企業は限られています。弊社で航空宇宙事業の仕事を受注することができれば、高度な要望に対応できる設備、技術力の高さを証明し、ゆくゆくは新たな仕事の受注にも繋がるのではないかと考えたのです。
2008年に航空宇宙・防衛産業に特化した品質マネジメントシステムであるJISQ9100の認証を取得するなど、少しずつ環境を整え始めました。
参入を表明した当初は、社員全員から「できるわけがない」と猛反発を受けました。高度な加工技術が必要であることを不安視していたのだと思います。しかし、私は「私たちならできる、一緒にやってみよう!」と、社員に叱咤激励を続けました。
最終的に弊社の航空宇宙事業が形になったのは、充実した設備や技術力の高さに加えて、営業社員の並々ならぬ努力があったからです。新分野に挑戦するということは取引先様を新たに創っていかなくてはなりません。「町工場」だった弊社には、当時営業社員もおらず、私と数名で営業を担当しました。現在の大手航空機部品メーカーとの取引関係も、当初は相手にされず2分で電話を切られてしまったほどでした。しかし、何度も通い続け、数年がかりで受注をいただけるようになりました。
最初の受注から航空宇宙事業が軌道に乗るまでは数年かかりましたが、参入をきっかけに、半導体関連設備や自動車関連設備、医療機器などの分野でも、より高度な仕事が増え弊社の業績も急成長していきました。
人工衛星「はやぶさ2」など大きなプロジェクトへの参画も増えてきており、130年以上にわたって培った技術力を、一気に飛躍させることができたと思います。思い切って新分野に挑戦することで元々培ってきた弊社の技術力をよりワンランクもツーランクも向上することが出来、結果として全事業においてステージチェンジを実現できました。
業績も右肩上がりで伸びていき、年間売上高も2019年の20億円から、現在約70億円となり「町工場」から脱却できたのではないかと実感しております。
社員のハーモニーを重視する「オーケストラ工場」
ビジネスモデルのステージチェンジを図る際、私を含め経営層や幹部だけの事象にしてしまうと、弊社が一番大切にしている社員を置いてけぼりにしてしまいます。事業領域だけではなく、内部組織についても大きく改革を行いました。先代の父はどちらかといえば「背中で語る」タイプで、リーダーとして推進力が強く、例えるならば蒸気機関車のような人でした。時代的にも当時の弊社の規模的にも、そのやり方で成功した部分は大きかったと思います。
しかし、会社のさらなる成長を見据えるならば、これからの時代は先頭車両が引っ張る蒸気機関車ではなく、各車両が動力を持っている電車のイメージで会社組織を構築していく必要があると思っていました。今振り返ると入社前の一人旅や入社した際に製造や営業など徹底的に現場業務に従事したことで、人や組織作りの大切さを日頃から考えるようになっていたのだと思います。
組織作りの取り組みの1つが「オーケストラ工場」です。能力による上下関係で編成された環境で個人のスキルアップは期待できるかもしれませんが、弊社だからこその連携力やチーム力は育ちません。能力値の高いソロの集団でモノづくりという名の音楽を各々に奏でるのではなく、プロ同士がお互いの音に耳を傾けながらモノづくりを協働で奏でる集団の方が、互いの相乗効果で個人の能力を高めることができ、また最高の製品づくりに向けて進むべき道に迷うことなく社員全員で進んでいくことが出来ます。
基本的には業務で扱う機械装置の大きさと楽器の大きさが比例しており、大型機械部門はコントラバス、汎用機器部門はバイオリンなどすべての部門が楽器名です。ちなみに、私はコンダクター、指揮者という位置づけです。
不協和音があってはいいモノづくりはできません。この「オーケストラ工場」での組織作りを導入してから、部門間の横のつながりもより強いものとなったように思います。
安心して働ける環境づくり
航空宇宙事業への参入をきっかけに、社員数は3年間で80名から100名に増えました。短期間で多くの社員を採用したこともあり、社員の教育・育成という部分については課題があります。
モノづくりの会社であるため、安全教育や技術研修はこれまでも重視していましたが、社員数の増加に伴い、階層別、課題別研修も実施しています。
今後も永続的に「オーケストラ工場」の中で社員からずっとこの音楽を奏でていたいと思ってもらうには、10年、20年後を見据えた計画的な研修制度を整えることが必要であると感じています。それと同時に、社員一人ひとりのキャリアマップやキャリアプランへのサポートを行い、社員が安心して働ける環境を整えることに注力していきます。
短期間で社員は増えましたが、離職率はとても低いです。これは多くがリファラル採用だったこともあり、入社後のミスマッチが少なかったことが理由だと思います。
社員が友人や家族を紹介してくれるのは、働く環境に満足し、自信をもってくれているという評価だと思うので、とてもありがたく感じています。
社員が幸せになるために
経営者として組織を大きく成長させることは重要事項ですが、それ以上に私が大切にしていることは「社員が幸せになること」です。
そのための取り組みの1つとして、弊社では昔ながらの作業着から「着る楽しみ」が生まれるようなユニフォームへと刷新しました。伸縮性のあるデニムのつなぎやポロシャツといったスタイリッシュなデザインです。
会社のロゴマークも世界的なアーティストである澁谷忠臣氏に依頼し、新たなデザインに一新してもらいました。「かっこよさ」にこだわった一連の取り組みが、社内外からのブランディング向上に繋がればと思っています。
また、最も重視していることが社員への利益還元です。ビジネスモデルのステージチェンジに成功した際、まず優先的に行ったことはベースアップです。福利厚生に関しても社員やその家族を取り巻く環境変化に対応した内容なのかどうか日々疑問を持つよう心掛け、いつでもブラッシュアップできるよう意識しています。
全額会社負担で海外社員旅行も実施しました。ただ中には家庭の事情で海外に行けない社員もいるため、国内旅行と海外旅行両方実施し、選択出来るようにしています。飛行機に乗れば「君たちが作った部品が使われているんだよ」という話もできるので、社員にとっては自分の仕事が社会にどのように貢献しているかを実感する機会にもなっています。また、より高品質な安全なモノを創る使命感を改めて感じるきっかけにもなり、社員旅行を通じてコミュニケーションだけでなく、社員一人一人が自身の仕事と社会の繋がりのようなものを体感しています。
2022年からは、宇都宮ブレックスとスポンサー契約しました。ゴールアームに表示されるロゴマークが会場やYouTubeに写る度に、スポーツ応援での社会貢献も実感しています。
少し変わった取り組みとしては、弊社の事務所にはセラピー犬がいることです。130年以上の歴史の中でここ数年は劇的な成長を遂げ、社員にも相当なストレスやプレッシャーがあるのでは、と気がかりでした。ふと社員の癒やしになればと事務所に私の飼い犬を連れてきたことがきっかけです。
機械や工場はどうしても無機質になってしまいますが、犬のぬくもりが社員のストレス緩和にもつながったのか、職場の雰囲気を和らげてくれています。今では息抜きがてら社員が交代しながら散歩に連れていってくれています。
事業領域を拡大し、深化する
弊社はあと十数年すれば創業から150年を迎えます。
社員からより信頼され地域から愛される企業であり続けるには、事業領域において質・量ともに向上していかなければなりません。
現時点で、設計や電機など強化したい事業分野がいくつかあります。M&Aも成長戦略として積極的に考えています。また、現在大型クレーンを備えた新工場は、災害対策も視野に入れたエリアに建設中です。
地域を牽引できるような企業を目指しつつ、地域になくてはならない経営資源を引受け、地域産業活性化や地域の雇用に対して貢献できる企業づくりを行っていきます。
会社概要
社名 | 株式会社石井機械製作所 |
創立年 | 1888年 |
代表者名 | 代表取締役社長 石井 大洋 |
資本金 | 2000万円 |
事業エリア | 本社・工場 |
組立工場
326-0332 栃木県足利市福富新町726-25 |
|
M Factory
326-0332 栃木県足利市福富新町2243-26 |
|
M Factory 2
326-0332 栃木県足利市福富新町2243-29 |
|
名古屋営業所
460-0002 愛知県名古屋市中区丸の内1-14-24 ライオンズビル第2丸の内 702号 |
|
ISHII VIETNAM CO.,LTD
2/3A Nguyễn Thị Minh Khai, Phường Đa Kao, Quận 1, TP. Hồ Chí Minh, Việt Nam. |
|
本社住所 |
326-0332 栃木県足利市福富新町726 |
事業内容 | 自動車関連設備 航空宇宙関連設備 半導体関連設備 産業機械 各種省力化装置 各種精密部品 専用治具 の設計・加工・組立までの一貫製造 |
URL |
http://www.iks-web.co.jp/
|
会社沿革
1888年 | 足利市昌平町にて織物機械の木製部品の製作を始める。 |
1897年 | 織物機械ジャガード機の製作、販売を開始。 |
1930年 | 織物関連機械ドビー機の製作、販売を開始。 |
1956年 | 精密加工部品に転向。 |
1963年 | 法人組織に改組。有限会社石井機械製作所と改称。 資本金200万円。治工具、精密部品専用製作に転ずる。 |
1968年 | 資本金400万円に増資。足利市鉄工団地協同組合に加入。 |
1970年 | 足利市福富町御厨工業団地内に3,100平方メートルの土地取得。 918平方メートルの工場及び事務所建設完成、全面移転。 資本金800万円に増資するとともに株式会社に改組。 |
1972年 | 設計課部門を設け、省力化装置・専用機・治工具の製作に着手、油圧設計機械・部品製作に専念。 |
1975年 | 資本金を1,200万円に増資。 |
1977年 | 製缶加工部門を設け、材料・製缶・機械加工・組立までの一貫生産体制にする。 |
1980年 | 組立工場(550平方メートル)、材料倉庫(100平方メートル)を増築、資本金を2,000万円に増資。 |
1982年 | 製缶工場(400平方メートル)を増築、隣接地1,000平方メートルに倉庫・駐車場を設置。 |
1983年 | エンヂニアリング・設計部門として(株)和光技研を資本金500万円にて設立。 |
1988年 | 太田市東新町548に太田工場(組立専用)を新設。 敷地2,520平方メートルに組立専用工場及び事務所1,105平方メートルを建設。 |
1989年 | 足利市福富新町(木工団地内)に福富工場用地として土地3,300平方メートルを取得、一部使用開始。 |
1990年 | 足利市大前町にて小型機械部品製造を開始。 |
1992年 | 本社工場の隣接地に1,100平方メートルを取得、小型機械部品の製造専門工場とする。 |
1993年 | 大前工場を本社工場へ統合。 |
1997年 | 太田組立工場を本社隣接地へ3,300平方メートル取得し、全面移転。現在に至る。 |
2002年 | ISO9001認証取得。 |
2008年 | JISQ9100 航空宇宙品質マネジメントシステム 認証取得。 |
2018年 | 新工場M FACTORY、敷地2,600平方メートル床面積1,700平方メートルを建設。 |
2022年 | 新工場M FACTORY2、敷地2,100平方メートル床面積1,200平方メートルを建設。 |
2022年 | 10月 ベトナム ホーチミンにISHII VIETNAM Co.,Ltd 設立(2023年5月開所) |
2024年 | 10月 新工場 K FACTORY 着工(2025年6月竣工予定) 敷地 11,600平方メートル 床面積3,500平方メートルを建設中。 |
公開日:2025/01/30
※本記事の内容および所属名称は2025年1月現在のものです。現在の情報とは異なる場合があります。